過去に書いたもの(3)

 微細な感覚/主流秩序・生き方/DV・虐待/労働関係/ナショナリズム・日本軍慰安婦/ メディア関係/ロシアのウクライナ侵攻について

微細な感覚

 

『あなたになら言える秘密のこと』
 

映画評
すばらしい、最高に大好きな映画だった。
 僕の好みにぴったり。
 イザベル・コイシェ監督
『あなたになら言える秘密のこと』
 The Secret Life of Words
2005年、スペイン映画

『死ぬまでにしたい10のこと』の監督

『死ぬまでにしたい10のこと』も、たんなるお涙頂戴ではなく、死ぬ前に素直に自分を見つめるところに、世間の常識などふっとばすパワーがあった。その意味でいい映画だった。
でも、『あなたになら言える秘密のこと』は『死ぬまでにしたい10のこと』よりずっと、深かった。

ストーリーは書かない。(書いてはいけない映画だから。以下は、断片的なメモ)

宣伝もそこに配慮したためか、とてもわかりにくくて、だからお客さんもとても少なかった。
でも僕の中では、この数年のなかでベスト3に入る最高傑作だった。
この映画の良さ、わからないのだろうか。それは、スピリチュアルなものということにとても深く関わる。
やさしい。海の上の石油掘削所という、孤独な場所。
そこに集まっている人々。
人が語ると言うこと。語らないと言うこと。

精神を病むというようなこと。
やむことと、普通の間。
工場労働。
マジメに休まずに働くハンナに対して、労働組合が「困る。ちゃんと休ませろ」と会社にいう。だから会社は、彼女に休むように言う。

この意味が日本人の多くにはわからない。
組合とは、仲間のためのもの。誰かがまじめすぎるとその他の、時には休む労働者には困るのだ。
そう、組合とは、集団的に労働をコントロールして、一番勤勉なものを基準にさせないような、職場の住み心地をよくするもの。

そんなシーンから始まって、僕は引き込まれた。

多くの映画でボクは、途中で、その必然性のなさに少ししらける。だがこの映画では、ボクの感性にあうので、しらけない。ことごとく、そうであってほしいような距離感なのだ。

主人公の性格。
周りの人の接し方。
距離のとり方。
孤独を抱えた人々。後悔。

どれもがいい。
近づき方。
マーティンのような人がいてうれしい。
という、言葉。

人間のすばらしさ。
人間の愚かさ。
悲しさを抱えた希望。簡単じゃないと言うこと。簡単じゃないと言うことが大事だということ。

過去の証言をするということ。つながり。引き継ぐと言うこと。証言のテープを観るということ。
かんたんにわからない。引き受けられない。
ひとりであるという選択。誰にも触れないという選択。

近づく勇気。
受け入れる勇気。
その人が本物かを見分ける目。
人間関係を考える人に。
傾聴、スピリチュアルケアを考えるひとに。
恋愛を考える人に。
つながりの希望と絶望、絶望と絶望を語りたい人に。

ほんとうに超オススメ。
すぐに見に行かないと終わっちゃうよー。

おいしい、ということは、鈍感なことかもしれない。
ハンナは、鳥とコメとリンゴ以外を、美味しいと感じたのだろうか。
そもそも、リンゴや鳥も美味しかったのだろうか。

カウンセラーのインゲが重要だ。
実話に基づいている。
パンフレットに「どんなひとの心にも、ハンナの抱えるようや闇がある」と書いてあったが、それは違うだろう。
これを闇を照らす愛の話だと? それは違うだろう。

単なる過去、事件とみてはいけない。
私たちの戦争・暴力へのスタンスが問われている。
痛みを「よくある話」「題材」にしない。
痛みを「わからない」にしない。
痛み。 それがすべてだ。

愛というなまぬるい話ではない。
★   ★★★★★★★★★★★★★★★
イザベル・コイシェ監督
『あなたになら言える秘密のこと』
 The Secret Life of Words
2005年、スペイン映画 
 
この映画について、思ったことを書きます。 
話の筋についても言及するから、観ていない人は、観てから読んでください。 
 
繊細なハンナ。傷ついているから壊れそうな中で、ギリギリ生きているハンナ。何も考えず、補聴器のスイッチを切って、単純肉体労働をこなし、毎日をやり過ごしている。 
休暇を取るように言われても、行くのはさびしい海が見える町。でもそこでも過去の記憶が襲ってくる。時間を潰さなくては。 
 
不安な気持ちからか、潔癖症的になって、毎日新しい石鹸(アーモンド石鹸)で洗わないと気がすまなくなっているハンナ。その石鹸も角をそろえて並べておかなくては落ち着かない。 
ハンナは、質素な、鳥とコメとリンゴしか、食べない。それが好きというより、それしかのどを通らない。あるいは、それ以外の食事の快楽を禁じてきたのか。だがからだはもう、他のものを受け付けなくなっている。でも油田掘削所では、食べなくてはならない。無理に口に入れるハンナ。味はしなかったろう。 
 
大怪我をしたジョゼフは、角膜が傷ついたため、2週間の手術までは目が見えない。その看護にきた元ナースのハンナは、とても無口だ。 
 
ジョゼフは一見、饒舌と言うか、皮肉屋でずかずかと入ってくるようだ。でも違う。 
彼は敏感に感じ取っていた。ハンナには何か隠していることがあると。彼が聞いても答えない。その声のトーン。 
 
好きな食べ物が、鳥とライスとリンゴだけと聞いて、そこに異様なものを感じる。ジョゼフ。 
 
名前を聞いても教えてくれないハンナのことを、ジョゼフは「コーラ」と呼ぶ。その理由を聞かれて、彼は君は何も語らないのに?と聞き返す。 
ハンナは、自分がデフ(聴覚障害者)だという。はじめて自分のことを少し語る。 
二人が近づく。 
 
次。コーラの話。15歳の少年とナースの話。ジョゼフは読書好きだった。 
この話は、ハンナが、ジョゼフが繊細であることを確信する話だ。 
だからこの後、ハンナは時々この話に言及する。 二人は近づく。沈黙の海に言葉が少し増えていく。 
 
ジョゼフはヒミツを話す。泳げないのだと。だがそれは単なる笑い話じゃない。父親がキレて、泳げないジョゼフを湖に突き落とした話だった。二人は近づく。 
 
ハンナは、残された携帯電話の留守録音から、ジョゼフを愛していると言う女性のことを知る。 
ジョゼフは、親友の妻に、「ポルトガル文」を渡して恋に陥ってしまった過去を持つ。親友にそのことを話してしまい、親友は自殺する。してはならないことがある。 
悔いや罪の意識を抱えた人間。ジョゼフに手を伸ばすハンナ。 
辛い過去をどう背負えばいいのか?と問うジョゼフ。 
辛いことがあっても前にすすむしかない、でも中には挫折する人もいると、答えるハンナ。 
何度も携帯への録音を聞き返すハンナ。 
 
患者は、知らないナースにからだを拭かれるのがイヤなのではないかと、繊細にビビるハンナ。でも患者は、ナースを求めているのだと知るハンナ。 
 
やさしいコックのサイモン。ハンナに恋心。二人でブランコを媚びながら名前を呼び合う。はにかみやなりのコミュニケーション。いいシーンだ。 
 

寡黙なハンナは、食事もあまり一緒にとらない。ある晩、皆で食事しているとき、サイモンの料理をけなすスコットとリアムに対し、ハンナは最高においしいと言う。ハンナが話した! 
 
ハンナは、ひとりと静寂が好きだ。シャイで人付き合いが苦手な海洋学者、マーティンも一人でいる。マーティンと話して、彼が環境汚染を止めたいとおもっていることを知る。周りの人があなたの警告を聞かなかったらどうするのという問いに、マーティンはそれでも計測を続けていくと。ハンナは、言う。「あなたがうらやましい。こんな人がまだいるなんて。幸運を」 
いいシーンだ。 
 
 
海の真っ只中に孤独にそびえる油田掘削所。世間から隔絶されて、男ばかりで、揺れて、雨、海風が吹き付けるじめじめして、植物も元気がなくなる場所。 
そこに集まっているひと。みんな孤独。戻る場所がない、ひとりが好きな人。陸地に上がるとイライラする。だからまた、地球の果ての油田掘削所に移ろうかと考える。 
自殺も事故と報告する。真実を報告して何になる。人生とはそういうものだ。 
そんなひとたちは、ハンナに踏み込まない。 
 
ジョゼフが陸地の病院に運ばれることが決まった。移動の前日、ハンナは自分のヒミツを話す。友人の話をする。運命が変わった瞬間の話を。苦悩。生き残ったという悔いと恥。ただ死ぬことだけが希望であった絶望。傷跡を触らせるハンナ。嘆き痛み悲しむジョセフ。「その友だちの名は?」と問われて、ハンナは「ハンナ」と答える。 
 
翌日、移動されたジョゼフに、ハンナはついていかない。消えるハンナ。工場勤務と言う日常に戻るハンナ。 
変化は、弁当のメニューにグラタンが加わったこと。 
 
ジョゼフは手術も無事終わり、目も見えるようになって退院する。 
どうするか考える。時間が必要。 
ジョゼフは、ハンナのカウンセラーのインゲを尋ねる。ハンナが残した手紙からだ。 
ハンナはインゲに時々電話をかける。何も話さないが、インゲはそれがハンナからの沈黙の言葉だとわかっている。 
 
ジョゼフは躊躇している。どうしたものかと。インゲはもっと警戒している。彼女にはボクが、ボクには彼女が必要だと言うジョゼフ。どうしようもない絶望と苦悩にあるハンナに、この男が何かできるとは思えない。まだ恐怖が足りないと言うのか。彼女がひとりになる必要があると考えないのかと。 
 
インゲは、多くの“ハンナ”のような犠牲者、拷問被害者の声を記録する仕事もしている。なぜならば、多くの人は忘れるから。何もなかったことにされる。だから生存者のみが、語ることができる。そこにはどれだけの血がながれ、憎しみが込められているか。そして自分が生き残ったことを一生、恥じながら生きているのだと。それを、あなたはハンナの許可なしに観ることができるのかと、問いかけるインゲ。 
テープを見ずに返すジョゼフ。 
その対応を見て、インゲは、ジョセフにハンナのことを教える。 
 
ハンナの工場に行くジョゼフ。声をかけるジョゼフ。 
彼女は拒否をする。当然。距離はとる。これでおわりか。離れかける。その扉をこじ開けたのは「石鹸を一つもらったよ」という言葉。 
このまま終わるのかと思っていた彼女は、そこで立ち止まる。振り返る。決定的な瞬間だ。 
 
あとはジョセフが心を示せばいい。 
ハンナが問う。いつか、ある日、私は泣いて涙の海で溺死するほどになるかもしれないと。 
泳げないジョセフは言う。泳ぎを練習すると。 
受け入れるハンナ。 
 
子どもも2人授かり、一見穏やかな生活の中にいるハンナ。でもジョゼフが新聞を買いに出た日曜の朝のひと時、彼女は、得体の知れない感覚に襲われる。薄れてはいるが、その傷は、もちろん消えない。でも淡々と生きていくだけ。 
 
★★★★★★★ 
そんな映画だ。 
傷を抱えて生きていくという、絶望と希望が、適切に描かれている。傷を抱えたものだから、繊細に沈黙の声を聞き取れる。その人が、傷の音を聞き分けられる人かどうか、見分ける目。 
そうした二人が、近づく勇気と受け入れる勇気を示す、すばらしい映画。 
それはけっして、愛のハッピーエンドの映画ではないと思う。
だからパンフレットに「どんなひとの心にも、ハンナの抱えるようや闇がある」「闇を照らす愛の話だ」と書いてあったことには、大きな違和感があった。寝ぼけた日本の普通の人が、「どんな人にも闇がある」等とほざくのは、ハンナの苦悩の経験への侮蔑だ。日本の愚かな人の傲慢さだ。
 
また、このような二人が近づくということは、奇蹟のようなことだ。なぜなら、もう感情を殺し、よろいをかぶり、膜をはって生きている人に、通常、外部の声は届かない。深海に光が届かないように。だからジョゼフがインゲのところにいって、その距離感を探り、背景を知り、インゲと交流し、インゲの信頼を得るという段階は、二人が再開する上で不可欠のものだった。 
だがパンフには、「はやくあいに行けばいい」というような、お気楽な恋愛モノ的なとらえ方をいう人もいて、これもおマヌケな気がした。 
 
好き嫌いといえば、それまでだ。 
だが、ボクは、この映画の静けさや距離感や弱いユーモアやおどおどしたコミュニケーションが、とても好ましく思われる。シングル単位とか、スピリチュアルとかいうときの、前提の感覚だ。 
フランス映画「ぼくを葬る」と似た、個人が悲しみの膜をはっている感じが、好きだ。 
 
そして、戦争、民族主義、内戦、レイプといった暴力のことをおもう。それらはこの映画の恋愛を語る背景や材料ではない。恋愛の映画ではなく、暴力と傷の話なのだから。 
 
だから沈黙は大事だ。知りもしないのに、相手に合わせて話をしつつ、高みから平穏な心持を説くような「尼僧」のようであってはならない。 
 
★   ★★★★★★★★★★★★★★★★ *******************

レベッカ・ブラウン『体の贈り物』 

 
大江健三郎さんは「異化という小説の手法」を「よく知っている、見慣れている対象を、その新奇な様相を洗い出すように表現し、めずらしいものとして受容させるというもの」と説明しています。〔『朝日新聞』「定義集」より〕
 
ウィキペディアでは、「異化(いか)は、日常とは異なる表現を与え、非日常にいったん意識を落とし込むことによって、却って日常のリアリティを生々しく喚起させることを目的とした行為、作用。芸術文学哲学心理学などで使われ、一定の効果が認められるが、多用すると今度は非日常が日常となってしまうために、効果がなくなる」と書いています。

『大辞泉』には、「異化効果」の説明として、
「ブレヒトの演劇論用語。日常見慣れたものを未知の異様なものに見せる効果。ドラマの中の出来事を観客が距離をもって批判的に見られるようにするための方法の意に用いた。」と書いてあります。

あるコラム(Djinn(ジン)さんの『水底のオアシス』)では、「異化とは評論家などの間で使われる言葉で、「慣れ親しんだものから乖離しようとする動き」のこと。分かりやすくいえば、わざと人と違う表現をして印象づけようとすることである。」と書いています。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

少しずつ違いがありますが、大事なことは、普通よく見られているものを、どのように深く新しく、すごく表現するかということでしょう。それがすばらしいものであるならば、そのような表現をした人の観察力や表現力、感受力、感性がすばらしいということになります。

スピリチュアルという感じは、日常とかこの世界にあるのに、見えない人には見えないものを、見える人には見えているからこそ、それをつかまえ、表現したものです。

レベッカ・ブラウン『体の贈り物』(マガジンハウス)は、介護における日常というか、要介護者と介護者の間に流れている何かを掬い取って表現しています。
それを異化というのがいいのか、僕にはわかりませんが、あまりにうまく的確に表現するので、僕にとっては、これこそ異化だなと思いました。

したがって最後に引用した「ブログ・水底のオアシス」に書いてあるような、「わざと人と違う表現をして印象づけようとする」というのとは、ちょっとちがいますね。

もっとすごい表現です。

レベッカ・ブラウン『体の贈り物』を読んでいます。

波乱万丈とかすごい設定のはらはらドキドキの物語というのではなく、平易な言葉での、すごーーく地味な、静かな、抑え目の、謙虚な、それでいて的確な、〈たましい〉の表現の作品です。

そして僕の感性の100倍くらいの繊細な感性を持った人が書いたものだろうなと思える作品です。

静かな、静謐な、しーんとした、主人公の「私」がいろいろな思いを感じていること、その情景がぐっと浮かび上がってくる。

で、読んでいると心にきれいな水が流れて、目詰まりさせていたり表面を覆ってくすませていた埃(ほこり)や泥が洗い流されます。

泣けます。

テクニックというより、レベッカ・ブラウンさん自身がステキな人なんじゃないかなって思います。
これを書いた人だということで僕はレベッカ・ブラウンさんを好きになります。
これを読んで好きだという人の感性をぼくは信じます。

そんな本です。
僕のコラムをまあまあいいなとおもって読むような人には向いているんじゃないかな。

訳者あとがきにも書いてあるように、この本は、筋を要約してそのよさ、おもしろさを伝えるような類の本ではない。
読んでもらわないと、この文章のよさは伝わらない。
読んでもらっても、ある種の人たち以外には、このすばらしさは伝わらない。

この本が好きになる人は、たとえば、『セックスと嘘とビデオテープ』の主人公のおどおどさや痛さに少し共感するような人。『海の仙人』などのイトヤマさんの作品をいいなあと思うような人。吉田秋生『海街diary』で泣くような人。かな。

すごい作品を書く人なので、彼女には強烈なファンがいるということです。
僕も、そのひとりになりました。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
レベッカ・ブラウン『体の贈り物』は、介護を必要とする人と、私〔ヘルパー〕との関わりの話だ。

このセンス。
このように生きたいと思う。
存在しないものの存在感を感じるように。
たとえば 「あの人」とのことを隅々に抱えて、生きていくように。

同時に、でも、離れていないということの大切さも思う。
目の前のこの介護している人との関わり。汗やにおいや痛みでしかめる顔。

家族とか好きな友人というのではない。
数年の付き合い。あるいは、今日からの付き合い。

だが、身体性を介しての、そこに介助を必要とするというひとが目の前にいるという関係性。それは、ずっと離れていて、ただ想っていることとは違う。そこに、心がぐんぐん動くような、静かな時間がある。

身近な人で、必死に関わってくる人を大事にしたいとおもう。

僕はここに生きている。ここにしか生きられない。同時に、過去にも未来にも、あそこにもいけない。

「あなた」は、今、この同時瞬間、この地球上、この宇宙に生きている。
遭えなくても、よしとしよう。

目の前の「人」とかかわろう。

レベッカ・ブラウン、おすすめです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

読まないとわからないだろうけれど、自分のためのメモ。(引用や感想メモ)

「汗の贈り物」

私は掃除をはじめた。いつもならキッチンからやるのだが、キッチンに足を踏み入れて、キッチンテーブルを見たとたん、駄目だ、と思った。回り右して、少しの間廊下に立って息をとめていた。しばらくして、息を吐き出した。
・   ・・・
キッチンテーブルにあったのはこんなものだった。彼の一番お気に入りのコーヒーマグ2つ(自分用のと、かってバリーのだったもの)。一方のマグに、挽いた豆がたっぷり入ったメリタが載せてありいつでもいれられるようになっている。デザート皿が2つ、その上にシナモンロール2つ。〈ホステス〉で買ってきた、焼き皿の真ん中にあった柔らかくて粘りっ気のあるやつ。
私はリックが店に行く姿を想った。道を歩いていくのにどれぐらい時間がかかるか、一番いいやつを買うのにどれぐらい早くに行かねばならないか。私をびっくりさせてやろうと計画を練っている彼の姿を、私は思い浮かべた。自分にできないことをやろうとしている彼の姿を。
・   ・・
彼が私たちふたりのためにしつらえた食卓に、私は座った。両肘をテーブルに載せて、手を組んだ。目を閉じて、頭を垂れ、おでこを両手で包んだ。リックはどんなふうに考えるだろうと考えてみた。バリーの姿も想像してみた。
しばらくして、私は目を開けた。彼は希望を込めてこの食卓をしつらえたのだ。彼が私のために用意してくれた食べ物を私は手にとり、食べた。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「動きの贈り物」

ホスピスに彼女が来たとき、もう仕事ではないから、どうして来るんだと聞く。
そうするとあなたが好きだからという。
かるく、ふうんっていう。
でも帰り際、エドは、抱きしめて別れの挨拶のとき、「また来てくれる?」って聞いた。
「また来たい」と彼女は言う。「オーケー」とエドはいった。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
そういうところが泣ける。この本は何度も泣ける。
「また来るわ」ではなく、「来たい」という。

淡々と最低のことを飾らず書くが、最低必要なことが書いてあってすごい。神経が隅々にまで行き届いている。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「飢えの贈り物」では、食べたいのに食べると吐いてしまう人の話。
その人の意志を尊重する。だからみなかったり、聞こえなかったりという態度をする。彼女のいうとおりにする。彼女が呼ぶまでは何もしないし行かない。でも心はちゃんと深く深く向けている。
悲しみが伝わってくる。


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主流秩序・生き方

 
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2006年10月31日ブログ

 だれに責任があるか――「必修漏れ」問題 生徒は被害者でなく、インチキ加担者であるといっていくべき 

 
私は最近、教育に関する小論をまとめた。(「“エリートでない者”に必要な教育――貧困問題への教育からの回答」岩川直樹・斎藤貴男・伊田広行編著『貧困と学力』明石書店2007年1月出版予定)
 
 そこでは、従来の教育体系を根本的に変えるべきだとの提言を行った。英数国理社に偏った教育、ましてや受験に偏った教育などもってのほかで、もっと生活の中で起こる諸問題を題材に総合的に、いまの競争社会に対し、能力主義ではないカタチでサバイバルする力を持たせるエンパワメント教育、身体性やスピリチュアリティを重視した教育にすべきだろうという話である。スピリチュアリティとは、もちろん、私の独特の使い方のものであって、いかがわしい「あの世」のことの話ではない。つながりの覚醒のことである。
 
 その立場からすると、現在問題になっている「必修漏れ」問題(必修科目の授業時間に、数学や化学など大学受験で出題される科目を教えていて、しかし書類には受講したことにするという公文書偽造問題)は、まさに教育にたずさわる者たちにスピリチュアルな感性が欠如していることの典型的証左である。

「必修漏れ」問題の責任はどこにあるか。まず、教員にある。校長だけの問題ではない。教師も履修について知っていなくてはいけないし、教育者として、人間としてエンパワメントされるためにバランスよく基礎的な知識や見識・能力をもつような教育をすべきは当然だ。
受験ということで、偏った教育をしていることは完全に間違った教育であり、今の優勝劣敗の風潮に敗北し、また加担している。そのような教員には責任がある。先ず、関わった校長、教員(わかっていたのに改善を主張しなかった教員には全員責任がある)を注意程度ではなく厳罰に処すべきだ。

  次に、しばしば「生徒には罪はない」「115万人の全生徒が被害者だ」「未履修だった生徒の救済策が必要(=まともに授業を今から受けさせるのはかわいそうだから何らかの授業を受けなくてもいいような手段を考える)」等といっているが、もってのほかの暴論である。完全に生徒自身に責任がある。
制度が変更されたことも知っているべきだし、受験に偏ったようになっているのをおかしいと思わないほうがおかしい。ましてやまともに受講していないのに、少し話を聞いたとかレポートを出しただけで単位をもらえているとか、まったく受けていないのに受けたことになっているというのは、その成績証明書が偽造・ニセモノであるというべきで、それを提出した学校はもちろんであるが、その主体たる生徒も責任を問われる。公文書偽造に加担している。偽ものの履歴書を出しているようなものだ。インチキをしているのだ。しらなかったではすまされない。家庭科や世界史など必修科目を受けていないことは自分がよく知っているはずだ。

そうした「考える主体・責任を問えるほどの大人」になっていないというのは今のある種の「現状」であろうが、それ自体を問題にし、変えていくためにも、今回のことは、生徒にも責任があるといっていくべきだろう。テレビなどで散見されるのは、「受験に関係ない授業などうっとうしい」「補修を受けるのは面倒くさい。迷惑だ」といった程度の意見だが、そういう意見を言う愚かな生徒たちを作った大人が悪いが、だからこそ、そういう愚かなことをいったときに間髪いれず、問題提起し、それでいいのか、何のために学んでいるのか、学ぶとは何か、と問いかけていくのが大人であり、教育であろう。
ところが、親や教師といったものたちがまったく愚かな程度になっていることが多いため、今回のことを恥じたり反省するどころか、生徒の受験に差しさわりのないように寛容な対処にすべきなどとほざいている。「補習をやれということになったら生徒らが怒ると思う」などと述べている学校もあった。

そうした意見しか持ち合わせていない大人が多いということを、スピリチュアル度が低い社会状況と私は言っている。あまりにも見えていない。あまりにも愚か過ぎて、こんなだから、戦争はなくならないのだ、小泉元首相や石原都知事、安倍総理が人気あるのだと思ってしまう。子どもたちに何を伝えようとしているのか。

それは保守政治家が言うような「規範」といったものではもちろんない。批判的に考えていく力であり、不正に個人として反対していく力であり、目の前の小さな利益に囚われない、自分の生きる中心軸を構築する教育だ。

話を戻せば、したがって、責任は、教師、生徒に加え、見てみぬふりをしてきた(不正・問題を不正・問題とも感じなかった)教育委員会、親、文科省、受験課目数を減らして受験生集めに走る大学、すべてに責任がある。一校だけでなく、多くの学校でこうしたことがあったということは、これは、日本の空気全体が、今の新自由主義的な風潮の中で、競争に勝つことだけが大切なこと、目に見えるものだけ(受験で合格)しか大切ではない、と思い、自立と責任を求めない、無責任な、非スピリチュアルな状況になっていることを示している。

大事なことは、絶対に関わった教師たち(教師、校長、教育委員会、文科省職員)を厳罰に処することである。また生徒には責任があるのだから、授業をちゃんと受けるべき(受けさせるべき)である。大学は、偽りの調査書(内申書)で推薦入学が決まっている場合など、提出された調査書をうのみにすべきでなく、偽造があれば入学を取り消しにすべきである。そして今こそ、生徒に受験などというものを絶対化する愚かさを本気で言う大人がたくさん出てくることだ。そしてそれに反発する生徒たちに、語り続けることだろう。

当面、受験に差しさわりがあろうとも厳格にちゃんと授業をすべきで、小手先の手続きで済ます(レポート提出で済ませる、「減単」制度を活用、4単位の必修科目について同じ教科の2単位科目への振り替え・拡大解釈の容認)、放課後とか冬休みや3月ごろの集中授業にして休んでも見てみぬふり、皆に単位を与えるなどとすれば、間違ったメッセージを生徒に与えるであろう
つまり、「形式さえ整えればいい、みんなで赤信号をわたれば怖くない、受験こそが一番大事なのだ、生徒は悪くない、大学受験に合格させたい親ごころでしたことだから、皆が悪くない、だから皆が処分されない」、というメッセージだ。

当然、「大学入試の実情に合わせて必修のありかたを見直す」というのは、あるべき改革の真逆である。変えるべきは入試のほうである。3科目以下の受験など禁止にすべきであろう。

履修漏れのまま卒業した人についても調査し、履修できるような手立てを考えることも必要だろう。
笑止千万なのは、今回のことも皆、完全週5日制など「ゆとり教育」が悪いのだというような論法。バカである。受験を前提に、受験に時間がほしい、だから授業数が減ったので仕方なくやったというようなのは、まさに現状追随の枠でしか考えられない、愚かな塾・予備校の「先生」の論理ではないのか。受験体制・受験信仰自体を問いなおさずして話をするから、その程度の話になる。そのようなときに出てくる、「現実」といった言葉の軽さ。あるいは無批判性。

そこを問い直すような教育こそ、「勝ち組」をめざさせる教育に対抗するものだろう。

これに関連して、やはりというべきか、家庭科など主要5科目以外の軽視も出てきた。つまり、「重要なもの=受験課目」というような価値観だからこそ、その対極に、「男が家庭科するなんて」「体育、音楽、美術などは重要じゃない」というものがある。(末尾に参考資料として添付)。「体育祭を、体育の授業に読み替えていた」というのもあるという。ジェンダーフリーどころか、家庭科必修の意味など少しもわからない教師たち。少数の受験課目だけしか勉強しない子どもたち。ゆがんだ、無知な子どもたちをつくってきたのは、学校であった

以下資料

「必修」の家庭科、リポートのみ 東京の私立巣鴨高校
朝日 2006年10月30日17時00分

  東京都豊島区の進学校、私立巣鴨高校で、必修科目である家庭科の授業時間を、国語、数学、英語などに回していたことが分かった。代わりに夏休みに家庭科の教科書に沿ったリポートなどを提出させて単位として認めていた。とくに保護者から抗議はなく、学校側は「逆に、補習をやれということになったら生徒らが怒ると思う」と説明している。

  同校は中高一貫の男子校。生徒は高校で840人いる。94年に家庭科が必修となったときから授業は行わず、1年の夏休みの課題で単位取得を認めてきた。都にも家庭科は履修していると報告していたという。
  堀内不二夫副校長は「限られた時間のなかで大学受験のために力をつける必要があった。(報道されているケースとは違い)全くなにもやっていないというわけではない」と話す。

  一方、文部科学省教育課程課は「まだ把握していないが、授業の時間が別の科目の指導に使われているのであれば、未履修にあたり、適切ではない」と話している。


灘高、3年全員が履修漏れ
 
(2006年10月31日14時38分 読売新聞)
 
  神戸市の名門私立・灘高校でも、3年生全員の約220人に履修漏れがあったことが31日、わかった。同日午後、兵庫県教育課に報告する。
 
  同高によると、2003年度から、理系クラスの一部生徒が2科目必修の地理歴史で1科目しか履修していなかった。また、家庭科では、同科の教員免許を持たない物理や化学の教諭が教えるなどしており、県教委によると、こうしたケースも履修したことにならないという。
 
  一方、これまで該当校がないとされていた神奈川県でも、私立3校で必修逃れが判明。鹿児島県でも新たに私立4校が判明し、必修逃れの高校は熊本県を除く46都道府県で、計460校となった。(読売新聞社調べ) 
 

DV・虐待

 

DVはちゃぶ台をひっくり返せば住む程度の問題と思っているひとがいる 

2007年05月27 日
07年5月19日付「読売新聞」の「編集手帳」というコラムにおいて、元暴力団員の男による立てこもり事件は、もともと「ちゃぶだいをひっくり返せば気が済む」程度の家族内のいざこざに過ぎないのに、それに巻き込まれて優秀な警官が死んだのは理不尽だという意見が述べられた。
 
 だが、元暴力団員の男はDV加害者で、接近禁止命令も出ていたというではないか。DVは犯罪であり、人権侵害であり、しばしばいのちを危険にさらす深刻な問題である。
 
 読売のコラム記者は、DVの深刻さがまったくわかっていないということを露呈している。このような記者がいて、それを載せる報道機関があることが、暴力を容認する社会を象徴している。
 
 DVを「ちゃぶだいをひっくり返せば気が済む」問題ととらえるような「男の感覚」が、「女性」のいのちを大事にしていないのだ。
 
 コラム記者は、優秀な「男性」警官の死を悲しむ「感性」をもってはいるが、DVに長年さらされ、接近禁止命令が出ても追いかけられ、銃を持って脅し続けられるという環境にいる「妻や子どもたち」の人権(恐怖・不安感)を感じ取る感性を持っていない。
 
 つまり事実上、「女」のいのちより「男」のいのちを重視している。DV男にこの妻が殺されても悲しまないが、警官が殺されると悲しむのである。
 
 これはまさにジェンダー・バイアスであり、DV容認社会の一側面である。今の社会の秩序上位者(力を持っているもの)のいのちを重視し、秩序の下位者(弱者、女、子ども)のいのちを軽視するという、DV的な感覚を、まさに、この記者は、犯人(DV加害者)と共有している。 
 
(アウェアの「デートDV防止プログラム ファシリテーター養成講座」をうけている夜のメモ:07年5月26日記)
 
 ○──────────────────
 
 以下、当該記事 
 
 「読売新聞」 07年5月19日付 編集手帳
 
  ギリシャ神話には、運命をつかさどる3人の女神がいる。クロトが糸巻き棒から運命の糸をつむぎ、ラケシスが長さを測り、アトロポスが鋏(はさみ)で糸を断つ
 ◆糸の長さが生命の時間という。女神といえども測り誤ることはあるだろう。日々の紙面を顧みれば新聞の社会面とは、女神に宛(あ)てた異議申し立ての記録であるのかも知れない。どうにも納得できません、と。
 ◆愛知県長久手町で起きた元暴力団員の男による立てこもり事件で、県警特殊急襲部隊の林一歩(かずほ)巡査部長(23)が拳銃で撃たれて死亡した。男は自宅で元妻と復縁話をしていて激高し、その場にいた子供2人に発砲の末、籠城(ろうじょう)したという
 
 ◆怒りの種が何であれ、家族同士である。卓袱台(ちゃぶだい)をひっくり返せば気が済む程度のことだろう。こんな馬鹿(ばか)者の手にかかり、先々いかようにも花が咲いただろう人生が終わる。危険と日夜隣り合う仕事とはいえ、気の毒でならない。
 
 ◆警察官になって6年目、警察学校での成績はトップであったといい、同僚からは「いっぽ君」と呼ばれて親しまれていた。昨年7月に生まれた長女がいる。娘の1歳の誕生日も祝うことができない◆警察の救出態勢や装備が適切であったか、これから詳細な検証がなされるだろう。いまはただ、あまりにも短く断ち切られた生命の糸にこうべを垂れるばかりである。
 (2007年5月19日1時52分 読売新聞)
 
 

労働関係

 
『京都新聞』「私論公論」欄 0208年4月25日 

「実態改善へ、企業は理念の尊重を――施行された「パート改正法」」 

 
それのもとになった少し長い原稿です。
 
非正規雇用、パート法についてのまとめとして利用していただければ幸いです。
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「改正パート法」の評価と課題――小泉・安倍政権の置き土産
イダヒロユキ(08年4月)

●パートの現状と法改正
2007年総務省労働力調査によると、狭義のパート(就業時間が週三十五時間未満の雇用者)だけでも1346万人で、雇用者総数の約四分の一を占め、約7割は女性である。パート以外も含めた非正規雇用は全労働者の3人に1人にまで増加している。女性の雇用者全体に占める非正規雇用の割合は、5割を超えて増え続けている。その意味では、パート問題は、ジェンダー不平等、間接差別の問題でもある。

そのような状況の中、改正パート法(「短時間労働者の雇用管理の改善等に関する法律」の改正版)が08年4月1日から施行された。結論から言うと、同改正法は、非正規雇用の劣悪な現状をほとんど変えず、むしろ格差を固定化するまったく不十分なものであるが、一部に待遇改善に資する性質もあるものである。労働者の立場からは、これを利用しつつ、早急に真に待遇を抜本改善していくための法改正を獲得することが必要といえる。

●改正パート法の問題点
改正パート法の問題点としては、
► 週35時間以上働いている「パート」は103万人もいるというのに、そうした「フルタイムパート」を適用除外しているという問題、
► 差別禁止の対象が「①正規職と職務(仕事や責任)が同じ、②人材活用の仕組み・運用(転勤の有無や範囲等)がすべての勤続期間にわたって正規職と同じ、③期限の定めのない雇用契約(反復更新により無期と同じとみなされる者を含む)、の3点を満たしているパート」と非常に狭く限定されているため、ほとんどのパートが今回の改正では均等待遇を保障されないという問題(適合するのはパートの1~5%とも言われている)、
► とくにパートの約8割が有期雇用といわれる中、有期雇用パートを対象から排除することは、多くの非正規雇用の劣悪状況改善に貢献しないばかりか、改正パート法の対象にならないよう、今まで無期雇用であったパートまでもが有期雇用にされてしまったり、反復更新されていた労働者が雇止めされたりするようになる問題、
► 均衡を考慮する「賃金」に通勤手当、退職金、などが含まれておらず狭いこと(職務関連のものに限定)、
► 教育訓練や福利厚生でもパート労働者を区分して、均等待遇をしないことを正当化していること(慶弔休暇・見舞金が均衡対象除外)、
► 非常に増えている公務部門のパート(地方自治体や国が直接雇用する非常勤・臨時職員等)を同法の対象外としているという問題、
► 罰則・禁止がほとんどなく、実効性の薄い「努力義務」が多いこと、
► 正社員転換の推進において、正規職登用の際の優先採用の義務がないこと、
などが指摘できる。

審議会の議論でも指摘されたことだが、差別禁止の対象者の判断について、第一義的には事業主となっていること、また差別かどうかの最終判断は裁判によることとなっており、しかも事業主側には勤務内容や実態を証明する義務の規定も設けられていないので、労働者がすべて証明せねばならず、きわめて差別を企業に是正させる効力の低い法律となっている。坂本福子弁護士がいうように、わずかな賃金で家事の合間に働いているパートは、使用者と紛争が生じても、公的機関に案件を持ち込んで争う余裕などない。パートが裁判に訴えるというのはとてもハードルが高いのだ。そこを認識しない行政は、実質上、企業の側に立っている。

●有期雇用問題
1993年のパート法成立の際、「雇い入れ通知書」の雛形に雇用契約期間を書かせる欄を設け、パートに有期雇用が広がってしまったという経緯があったが、今回の改正でもこの点にメスを入れず、身分の不安定性に関する規定(たとえば簡単な解雇・雇止めを禁ずるような規定)を何もいれず、むしろ均等待遇の要件に無期雇用条件を入れたため、かえって不安定な有期雇用を拡大させるようなものとなった。仕事内容や責任が同じでも、異動がなく有期契約になっている大多数のパートの待遇改善は「努力義務」にとどめられ、待遇改善につながる保証はない。現状では、多くの女性が家族責任を担っているがゆえに、正社員のような転勤ありの長時間労働を担えずパートを選択しているので、そのような多数のパートには、転勤を要件とする改正パート法は対応しないことになる。
反復更新も無期とみなすということであるが、「反復して更新されることによって期間の定めのない労働契約と同視することが社会通念上相当と認められる期間の定めのある労働契約」について、審議会では、「上記に該当するかどうかの判断は、(企業ではなく)第三者的に判断する、(契約の更新回数等で)一律に線引きはできないので、行政解釈は示すことになるが、最終的には裁判で確定することとなる」などといっている。何年働けば無期雇用とみなすのか、明確な客観的基準・目安が示されていないのである。つまり、反復更新があろうとも、直ちに無期とみなすのではなく、最終的には裁判でということであるから、結局、多くの有期雇用は無期とはみなされないということになろう。
有期雇用については、労働条件分科会で扱うとされながら、使用者側の理解が得られないことを理由に有期雇用労働者の均等待遇についてはほとんど議論されていない。有期雇用とパート問題は絡まっているのであり、パート法で対処すべきである。

●「フルタイム/擬似パート」問題
またパートの定義を短時間に限定して、パート法の対象者からフルタイムパートを除外した点であるが、フルタイムと同じ程度の時間働く「擬似パート」(正社員と労働時間が同じか少し短いだけ)、「フルタイムパート」(正社員と労働時間が同じか長い)を正規フルタイム労働者とする保証があればいいのであるが、実はそれが他の法律で何も言及されていないのだから、事実上、放置である。パート法で「フルタイム/擬似パート」を扱わないということは、実際の効果としては、パート差別を温存する法制となっているということである。パート指針では「正社員と労働時間がほとんど同じで、同じ就業の実態のパート」を正社員としてふさわしい処遇をすることを努力義務としているが、疑似パート・フルタイムパートは正社員としなくてはならないと、法律に明記すべきである。

●改正パート法の評価
経営者側は、契約期間、仕事の内容・責任、配転などで少しでも同一とはいえない理由を挙げればよいということになっているので、たとえば、パートには鍵の管理を任さないとか、参加する会議を制限するなどさえあれば、あとはまったく同じように働いていても、簡単に、差別を正当化できるのである。そもそも、改正均等法2007年4月では、「間接差別」が導入され、募集・採用・昇進にあたって転居をともなう転勤を要件とすることは、性における間接差別として禁止された。この観点から言えば、残業、配転、転勤の有無等でパート法の均等待遇にするかどうかを分けていくこと自体がジェンダーバイアスのかかった判断であり、問題(間接的な性差別)であるといえる。

全体として、差別的取り扱い禁止対象者の要件範囲、有期労働契約問題、適用対象除外となっているフルタイムパートと公務パート問題、など、国会論戦で野党から強く指摘された諸問題点がことごとく先送りされた法律となっている。ほとんど対象者がいない「正社員並みパート」という新しいパート像(実態としてどれぐらいいるかの調査もしていない)を作り上げて、そこだけ救済するという、虚構的な法律である。
つまり、今回の改正パート法によって、低賃金不安定雇用がなくなるとか、格差と貧困の拡大が阻止され均等待遇に近づくというよりも、パートの中に分断が持ち込まれ、ほとんどの劣悪なパートの現状は改善されず、当面の間、格差(現状)が固定化される危険性が高いものといえる。職務、人材活用の仕組み、雇用期間、労働時間などを「理由」にパート差別を逆に合理化してしまうという側面さえ持っているものである。

●改善されない実態
実際、長年、名古屋銀行でのパート均等待遇に取り組んできたAさんに対して、今まで正行員より労働時間が1日15分短いだけであった労働時間を、15分延ばして正行員と同時間にした「嘱託」になるよう求めてきたという事例がある。この「嘱託」への転換試験を希望しないパートには「短時間パート」として従来通りの劣悪な待遇を甘受しろとしつつ、その「嘱託」になれば労働時間は正社員と同じ「1806時間」であるが、年収水準は「200~270万円」程度になる。これは、改正パート法の差別禁止対象からはずすための策動に過ぎず、改正パート法の悪用の事例といえよう。
また改正パート法対象ではない公務パートであるが、東京都の婦人相談員の設置要綱が2007年末に突然変更され、これまで「定年年齢(65歳)の範囲内で雇用期間を更新することができる」という継続雇用の規定であったものが、2008年度からは「雇用期間を4回までに限り更新する」(5年間だけの雇用期間)というものに改悪された。事実上の無期雇用から有期雇用・雇止めへの転換である(公務部門ではこのように解雇の正当化のために任用期限付きの雇用が広がっている)。パート法が無期雇用を均等待遇の対象とすることで、実際には、このように差別の正当化のための有期雇用が増やされている。

(注:公務パート(非正規・非常勤)は、公務員法によって、有期雇用の反復更新による事実上の無期雇用化という民間の職場の判例が波及しないようになっているという問題もある。)

●改正法ができるまでの過程
このようなひどいものになったのは、この法改正が、小泉・安倍政権の下、2006年度の労働政策審議会雇用均等分科会でのひどい審議を通じて準備され、その後の国会での野党の指摘を無視しての、与党のみの賛成、修正なしの採決強行)によって成立したためである。本来は実態把握等を行なったうえで時間をかけて審議を行なうのが本筋であるのに、はじめに結論(経営側が容認できる妥協的なもの=与党案のままの採決)ありきのあわただしい審議でことは進められたのである。(後掲の労働政策審議会及び国会審議の資料参照)。
その意味で、本改正法は、小泉・安倍政権の新自由主義路線を根本的に転換するような視点を持って作成されたものでなく、逆に新自由主義路線と矛盾しない程度の「改正」でお茶を濁したものであるといえる。

そもそもパート法は1993年に成立したが、あまりに不十分なため施行後三年たった時点での見直しが附帯決議で規定されていた。それをうけて当時の労働省(婦人局)は、学識経験者により構成される「パートタイム労働調査研究会」を九六年に発足させ議論をしていったのであるが、その報告書は、「パートは正社員ほど拘束度が高くないので均等待遇はできない」、「日本と欧米では職務概念・賃金制度が違う」、「正規従業員に影響を与えるのですぐには導入できない」、などを理由に、同一価値労働同一賃金原則(通常の表現としては「均等待遇原則」)を適用することを避け、パートの現状を追認するようなものでしかなかった。結局、労使の主張の隔たりが大きく、経営側が均等待遇の実質化を強く拒み続けたため、3年後の見直しどころか、15年間もその改正が先送りされてしまったのである(途中で一部指針改定:2003年10月)。
今回も経営側の抵抗が強く、政府と厚生労働省官僚がそれに追随したため、「パートタイム労働調査研究会」の限界を依然としてひきずったような、非常に妥協的で、小さな改善にとどまる改正に終わったのである。議論の過程において、経営側に対しては、「対象者を絞り込み、企業負担はさほど増えない」という言い方で説得して改正を受諾させたことからわかるように、企業が要請してきた「企業の実情に応じた処遇」を優先した色合いが強く、大事な改善点はほとんど先送りし、企業の実際の労務への影響は小さく、多くのパートの現状を変えないシロモノになっているといえよう。



●改正パート法の積極面
だが、それにもかかわらず、長い議論のなかで積み重ねられた「働きに見合った公正な待遇」「通常の労働者との均衡のとれた待遇の確保」という理念から導き出されたいくつかの改善点が、今回の「改正」によってもたらされた。議論のなかで、非常に大事な部分において、経営側の主張が通って、均等待遇対象が狭くされたが、それとひきかえに、いくつかの点では改善点が得られたのである。

たとえば、昇給、退職手当、賞与の有無などの労働条件を記した文書の交付等による明示を義務化し、違反の場合は過料(10万円)を課したこと、労働者から求めがあったときは待遇の決定に当たって考慮した事項を説明せねばならないとしたこと、働き・貢献に見合った公正な待遇の決定ルールの整備という大枠、とくに「正規職と同視すべきパート労働者」に限定されているものの、退職金等含む賃金、教育訓練、福利厚生のすべてにおいて、その待遇差別が禁止とされたこと、また「職務や人材活用の仕組みや雇用期間」の3点が正規職と全部そろわなくとも、その近さに準じて、一定の均衡の考慮が努力義務とされたこと、正規職への転換制度の導入や正規職募集の情報をパートに流すなど正規職への転換を推進するための措置を義務化したこと、苦情を労使で自主的に解決するような努力を義務化したこと、都道府県労働局長による助言・指導・勧告、紛争調整委員会による調停の対象とするといった行政型ADR(裁判外紛争処理の手続き)を整備するとしたことなどがある。
また、パート法指針では、フルタイムパートも「法の趣旨が考慮されるべきであることに留意すること」や、今回の法改正を理由に就業規則を変更し、正社員の労働条件を逆に引き下げるようなことがないように、「労働条件を合理的な理由なく一方的に不利益に変更することは法的に許されない」などの文言が明記された。パート法で規定されていない退職手当や通勤手当、医療、教養、文化、体育、レクリエーション等の福利厚生施設の利用などについても均衡を考慮することとされた。

●実際の改善影響
不十分点はあるものの、これらは以前より前進した側面と言える。これらを利用して、均等待遇に近づけていくことが一定できるものといえよう。とくに厚生労働省が改正パート法の概要として流布させている、パートの種類別にどこまで均衡の取れた待遇をしなくてはならないかという表は、均等待遇しなくてもよい範囲を示したものという消極的側面も持っているが、上記3点が正規職と同じパートにもこの法律の均衡の取れた処遇という精神が及ぶものだということを示して、今後力を発揮していくものとなろう。

実際、一部の企業も、この改正パート法の精神を受けて、変化し始めているようにみえる。たとえば、優れた人材の確保、ノウハウの継承という側面もあるが、パートの正社員化やパートと正社員の時間給を統一していくような動きが、ユニクロ、ロフト、シダックス、高島屋、三井住友銀行、トヨタ自動車、吉野家、モロゾフ、イオン、りそなホールディングスなどでみられる(例:「ロフト」は08年3月、パート従業員の雇用期間を無期限とし、正社員との賃金格差をなくす大幅な処遇改善導入。約2400人)。また毎月勤労統計調査(08年2月)で明らかになったことであるが、フルタイムで働く「一般労働者」が、前年同月より2・4%増(人数では七十万人)と1992年6月以来、十五年八カ月ぶりの高い伸び率となっており、これもパート法の趣旨と合致する側面がある。

●労働者が、改正法をどのように使えるか
パート労働者が、具体的にこの改正法をどのように使えるかを考えてみると、次のような言い方をすることができるといえる。
「パートの賃金は、職務の内容や経験をふまえて正社員との均衡を考慮しなさいとされているんですよ。だから私たちパートの時給が一律 850円というのはおかしいですよ。かなり責任もあるし、経験も踏まえて、もっと時給を上げていくべきだと思いますけど」
「私たちパートの仕事は、正社員と仕事内容も人事異動も同じようになっているので、賃金も正社員と同じ賃金表で決めないといけないんですよ」
「うちは、正社員とパートの仕事が同じなんで、教育訓練も同じにしないといけないんですよ」
「私たちパートもしっかり働いているので、正社員が使っている食堂、休憩室、更衣室を使えるようにしてください。パート法では、そのようにかいていますよ」
「パート法に書いてあるように、昇給、退職金、ボーナスなどの労働条件を書いた文書をください」
「私は、やっている仕事の割にはパートの賃金が安すぎるように思うのですけど、正社員の方との賃金の差がこれほどになっている理由を説明してくださいますか」
「私はここでパートをもう5年やっていますが、正社員になりたいと思っています。転換制度をはやく作ってください」
「私はここでパートをもう5年やっていますが、正社員になりたいと思っています。来年度の正社員募集には、私も応募したいと思いますのでよろしく」
こうした問いに会社側は誠実に答えなくてはならないとされている。努力義務ということで微妙な点はあるが、法の精神を使って、積極的に交渉に使っていけばいいだろう。

●企業に求められる、法の理念尊重
法律は十分ではないが、パートタイム労働法の対象とならないフルタイムで働く「擬似パート」に対しても、職務や人材活用の仕組みや雇用期間」の3点が正規と同じでないパートに対しても、この法律の趣旨を踏まえた積極的な雇用管理を行うことが企業側に求められている。雇用する側は、正社員との処遇の違いについて疑問が出されたとき、十分合理的に説明できるような体制にしなくてはならない。企業側にはコストアップとなる面があるが、今まで改善が大幅に遅れてきて過剰に搾取してきたのだから、今後負担増を受け入れて当然である。「多様化する人材活用」と「非正社員の基幹労働力化」という状況の中で、企業の側もいつまでも古い「正社員と非正社員という二元的な差別管理」にしがみつくのでなく、パート労働者に意欲的に仕事に取り組んでもらい定着してもらうためにも、積極的に、新しい公平感のある雇用制度を構築するのは当然である。

●求められるパート法改正
それとともに、早急に、本稿の最初に挙げた問題点を克服した、すべてのパートの均等待遇につながる、真に実効性のあるパート法への改正が望まれる。
具体的な改正案をすべてここに列挙することは避けるが、一部特徴的な点を指摘しておこう。たとえば、法律の名称は、民主党が提唱する「短時間労働者と通常の労働者との均等な待遇の確保等に関する法律」というような均等待遇をめざすということがわかる、差別禁止法的なすっきりとしたものに変更することが必要である。
また、今回の改正パート法とは逆に、配転、転勤、職務の変更の有無・程度によって不合理な処遇差別をしないような法律にしていかねばならない。同一価値労働同一賃金について、ここで一からの議論はしないが、パート法の「通常の労働者と同一の短時間労働者」の「同一」には、同等・類似・同価値を含めるべきである。小さな違いによって同一でないというほうに重点を置くではなく、逆に、小さな違いを超えて大ぐくりで「同一労働」とみなしていくことが重要である。そのためにも、同一価値労働同一賃金・ジェンダー平等を保障していくための公正な「職務評価」のあり方にも踏み込んでいくことが必要であろう。
パートの定義も、フルタイムに比べて短いもの(週三〇時間未満、またはフルタイムの四分の三未満)とし、それ以上のものはすべて「パート」と呼んではならない、「パート」扱いしてはならないこととすること(つまりいわゆる「フルタイム/疑似パート」は正規フルタイム労働者扱いとすること)も必要である。
公務部門の非常勤・パート職員についても、パート法の対象とすると同時に、非常勤職員の経験加算制度などの格差是正策を積み重ね、基本的に無期雇用を原則とすべきである。地方公務員法も改正し、労基法やパート法と同じ水準で均等待遇を進めていく必要がある。
パートの正社員への転換措置義務規定(改正後の法第12条)は、例示された3つの措置ではまったく不十分であるので、、正社員採用におけるパートの優先雇用を義務づけるべきである。
「努力義務」ではなく、差別禁止を中心にし、企業名公表を含めて、罰則を強化すべきである。

●パート法を超えた、労働法制全体の改革へ
また、パートに代表される非正規雇用、「生活保護以下で働いている」という「働く貧困層(ワーキングプア)」、格差の拡大と貧困化などを解決していくという点からは、パート法だけでなく、より全体的な労働法制の改正が求められる。パートタイム労働者の社会保険(厚生年金、健康保険)の適用問題やパートタイム労働以外の非正規労働に関する問題を扱わねばならない。具体的には、派遣労働の自由化(規制緩和)を見直して、派遣労働を原則禁止とすること(特定専門職の緊急対応のみとする)、有期雇用も原則禁止とすること(仕事の特性から合理性あるものに限定)、最低賃金が異常とも言えるほど低すぎるので、1200円以上に大幅に引き上げること、ILO175号パート条約と111号差別待遇条約を批准すること、男女雇用機会均等法での「間接差別の禁止」を3事例のみに限定することをやめ、あらゆる間接差別を禁止としていくこと、労働契約法による労働条件引き下げなどを禁止すること、生活保護水準以下で暮らしている人が多く、その捕捉率が低い中、生活保護の水準自体を切り下げようとしていることをやめさせ、むしろセーフティネットとして生活保護制度をもっと活用しやすくことなどが必要である。

厚生労働省は08年度から、契約社員や期間工ら有期雇用の労働者を正社員として採用した中小企業に対する奨励金制度(1人を正社員にすると35万円を支給など)を設けたが、そのような間接的な方法だけでなく、堂々と法律によって有期雇用問題の解決を図るべきである。

●パート問題の根本解決:家族単位システムの見直しへ
なお、パート問題を真に解決していくためには、パート労働をたんなる「劣悪労働条件の問題」とみず、ジェンダー視点を基礎に家族を単位とするシステム自体の見直しと結び付けていくことが必要である。詳しく説明する余裕はここではないが、パート労働は、家族単位発想のもとで、女性の二重負担(家事役割と就労役割)を実際的になしとげる表現形式であった。妻にすべてを任せる男の働き方を基準とした能力主義(年功制)が一方にあり、パートはそれを前提として、比較されない「別種の雇用者」として、女性は養ってもらえばいいという思想に基づく雇用形態(主婦パート=家計補助的就労)、主に女性が家事役割と両立できるようにつくられた雇用形態であり、差別が差別とさえ認識されえないように設計されているものであった。
(注:例えば京都市女性協会裁判において、管理者側は、相談業務をしている嘱託職員の月給が14万2千円と低いことの正当化の理由として、「嘱託職員の仕事は主婦パート=家計補助的就労であり、それに見合った仕事と給料である」と述べている)
「補助的パート」から「稼ぎ手パート」「基幹的パート」に変化している(だからパートの均等待遇にしろという根拠)ともいわれているが、誰が補助的で誰が稼ぎ手かを誰が判断するのか。補助的、つまり妻だから安くていいとしていいのか。そのような補助的な妻だから安くいていいといい家族単位的な考え方自体が、硬直的なステレオタイプ思考であり、かつ、女性差別でないのか。昔から補助的でなく世帯主であったパート労働者はいた。つまり、その人の家庭での状態がどうあろうと、結婚しているかどうか、その人の階層がどうあろうと、やっている仕事が同じなら平等賃金にすべきなのである。

したがって、性分業するカップルを標準(当然と考えて見直さない)としていては、パート問題の解決はありえない。「男性の働きすぎ、過労死」問題と「雇用の不安定化」と「女性の二重負担(仕事と家庭)問題」の総合的解決として、パート問題に向き合うことが必要なのである。「『男性が世帯主となって妻子を養う』『女性は男性に養ってもらう』という考え方、それに基づく家族賃金、年功賃金、男性の働き方、社会保険」などの全般を見直し、男性か女性か、年齢が何歳か、独身か既婚か離婚か、夫の収入がどれくらいか、子どもがいるかいないか、雇用形態がどのようなものであるかに関係なく、どのような状況にあろうと、誰もが平等公平で、1人前の賃金を得られるように、個人を単位とした仕組み、個人を単位としたワーク・ライフ・バランスあるスタイルにしていく必要があるのである。
「103万円の壁」など社会保険・税制・配偶者手当などのあり方についてもこの観点で個人単位のものにしていかねばならない。社会保険(年金、健康保険)については基本的に、短時間労働者も個人として全員加入にするようにすべきである。過渡期は、複数の職場で就労する場合の労働時間を合算することで、社会保険加入要件を緩和することも必要であろう。

●短時間正社員制度が広がることこそが一番大事
「個人を単位としたワーク・ライフ・バランスあるスタイルの追求」の具体化がまさにパート法の改正なのであるが、ここで一つの具体的イメージを提起しておきたい。それは、男女が仕事や家庭責任を公平に分かち合い、長時間労働をしなくてすむように、短時間正社員制度、短時間公務員制度(たんに労働時間が短いだけの正規労働者の道)を導入し、フルタイムとパートタイムの行き来が可能になるような職場にすることである。
そもそも、「長時間労働する男性正社員の働き方を比較対象にして、パートはそれほどでないから、十分な賃金を与えない」ということがおかしい。正社員の長時間労働自体を問い直す文脈で、パート問題はとらえられる必要がある。つまり、1日5時間労働とか、週休3日、週32時間労働など、多様な短時間労働のありかたをつくり、時間給がそこそこあるので、短時間労働でも十分暮らしていけるような社会である。こうした短時間だが正社員的に身分や労働条件が良好な人が増えること、つまりワーク・ライフ・バランスのとれた多様な人が職場に多数いることこそが、真の「パート問題の解決」なのである。
換言すれば、パート法が真に均等待遇をもたらすものに改正されるならば、それは、長時間労働に苦しむ正社員が、適切な労働時間で働けるような環境になり、男女が仕事や家庭責任を公平に分かち合いワーク・ライフ・バランスのとれた生活を送れるようになるのである。その意味で、パート問題は、正社員に無関係なのではなく、密接に関係した問題だといえる。

なお、非正規労働者のセーフィティネットの構築、及び個人単位型の社会民主主義的なシステム構築の観点から、パートの年金や健康保険加入促進は積極的にめざすべき(貧困層には補助的援助策を提供)であるが、これは負担増になるとして労働運動側からも声が大きくならず頓挫を繰り返している。パートの賃上げとセットで個人単位の社会保障システムにしていくという構想を持つことが政労使いずれにおいても必要である。

●労働組合運動に求められるスタンス
今、全国各地で非正規労働者たちによる待遇改善要求の運動が勃発している。尼崎市の公務パート5人による1ヶ月のストライキ闘争、「ガソリンスタンド・ユニオン」の結成とスト闘争、時給制契約社員やパートら非正規職員の待遇改善を求めて郵政ユニオン42人による、郵政民営化後、初の1時間の時限ストライキ(郵政職場でのストは75年以来33年ぶり)、など小さな組合による抵抗運動が起っている。プレカリアートと呼ばれるものたち(若者たち主体のインディペンデント系ユニオン)によるメーデーがこの2~3年活発化している(自由と生存のメーデー、その他)。一人でも入れるユニオンの運動が、若い世代にも広がりつつあり、独自の展開を見せている。偽装請負批判や日雇い派遣搾取告発なども行われている。粘り強く、均等待遇要求の運動も継続している。日本マクドナルド・ユニオンなど、残業代が払われない「名ばかり管理職」に対して、残業代を支払うことを求める運動も広がっている。広がる貧困に対し、労働運動の枠を超えて、反貧困のネットワークが拡大しつつある。

主流労働組合側も、そうした反貧困の動きや、ジェンダー平等を含むシステム改革の観点を踏まえて、労働のあり方全般の問題として非正規雇用問題に取り組まねばならないのだが、近年、ようやく、その兆しが見えはじめている。たとえば連合は、非正規労働者に支援、連帯する「非正規労働センター」を、全国106カ所に設け、雇用、労働条件の相談など総合的なサポートや組織化に取り組みはじめている。個人で加入できる地域ユニオンや、外国人労働者の相談窓口も増やそうとしている。
08年春闘では、連合が取り組んだパートの時給賃上げ額は平均18円、正社員への登用制度が160組合、通勤手当の支払いが97組合、慶弔休暇の付与が74組合で新たに認められることになった。一定の前進だが、あまりにも歩みの幅が小さすぎる。スローガンだけや、わずか時給十数円程度の賃上げでお茶を濁すのではなく、本気で長時間労働の規制、短時間正社員への移行、非正規労働者の待遇改善、最低賃金の大幅引き上げなどをしていかないと、正規の非正規への置き換え、格差と貧困の拡大はとまらない。パート差別は人権侵害であり、不当な差別、女性差別である。差別を許さないという法律が必要なのである。

参考
シングル単位観点からの労働論(非正規雇用差別批判)については、10年前に出版した拙著『21世紀労働論』(青木書店)に書いたとおりで、今でもその主張の意義は変化していない。関心ある方は見ていただきたい。

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資料:労働政策審議会雇用均等分科会の審議の様子(「均等待遇アクション21」の資料から作成・文責は筆者)


○基本的に、労働側から反対意見があっても、質疑の時間が限られており、一応意見表明して終り、スケジュールありきというようなことがたくさんある。質疑を少しだけして、平行なまま、答申段階で強引にまとめるというパターン。同意を得ていないということで、労働側の意見はほとんど反映されない。公益委員が、「組合に不満あるように経営側にも不満ある。納得するまで議論をということか!」と議論の打ち切りに持っていこうとするようなこともある。

○(労働政策審議会雇用均等分科会2006年9月19日)
短時間担当課長が、「正社員と労働時間が同じあるいは長いパートは当分科会では扱わない。呼称でパートを把握することはあるかもしれないが、パート法は(呼称ではなく)短時間でやる。呼称がパートで労働時間がフルタイムの場合はフルタイムの問題としてやっていく。」といってフルタイムパートを対象から排除し、一方で、フルタイムの「パート」の均等待遇には手をつけない。改正均等法の指針案の議論で、労働側の意見に対して、合理的理由の挙証責任が事業主にあるというのは違うと批判がなされる。

○(06年9月29日) 改正均等法の省令案・指針案について、雇用管理区分の削除、間接差別を3項目に限らないようにという意見が出るが、否定される。

○    (2006年10月10日) 均等法の省令案・指針案について文言の一部修正と間接差別の定義が均等研報告のものに修正というだけであとは「おおむね妥当」と答申されてしまう。議論と508者からのパブコメ意見は反映されず。パート労働対策については、公益側作成の論点整理(案)が出され、議論がはじまる。

○    (2006年11月2日) 使用者委員の意見が「中小の場合、現場でOJT含めやっている、法令遵守当たり前、これ以上、今回の改正に盛り込む必要ない。「パート労働法のあらまし」を改めて読んだが、充分満たしている、これ以上必要ない。箸の上げ下げまで法律で言う必要ない。」「企業がそれぞれのやり方でやっている。こうやれというのは、混乱する。」といってパート法を改定して均等待遇しようという動きに真っ向から抵抗。

着替え室・食堂などの福利厚生を正社員と同じようにパートについても保障しようという議論に対して、使用者側は、「教育訓練を受けたくないという人がいるのとおなじように、まわりの人と同じというのは感情的な部分が含まれてくるので一律法律でではない。ウェートをおくと面倒くさいから正社員の方もやめてしまえとなる。」といって否定。
事務局側が、フルタイムパートをパート法では対称とせず、それは労基法、最賃法、労働条件分科会等で扱うといって、逃げる。
「パートの正社員への転換」について、使用者側は「社員を募集する時は時間的制約がある。ルール化されるとものすごい負担になる。」「中小の場合、本人に能力・意欲があれば、既に登用しているはず(制約なければ)、しかし(法制化されれば)登用ができない、NOの時、理解してもらうために手間がかかる。」と反対。

○(2006年11月10日)
使用者側委員が以下のような今までの議論を白紙に戻すような暴言を連発した。
「使用者の意見のところに「労使双方の合意で決める基本給について均衡を図ることの検討はあり得る」となっているが、全く趣旨が違う。主張していないので削除を。格差当然と考えている。」
「通勤手当くらいは。基本給は訂正してほしい、ぜったい格差の均衡処遇取り上げるべきではない。」

○(2006年11月29日)
経営側委員が、「問題となっているものが非常に大きくなっている。許されない状況に至っているとまで言えるのか?」「今法の見直し必要か疑問。必要というなら何をもって言えるのか。マスコミ、永田町中心の考え方はコンセンサス得られていないと思う、賛成しかねる。」と足引っ張り。
また「均衡ある待遇の確保」について、経営側が「差別的取扱い禁止」は強い表現で、絶対反対」といい、「教育訓練・福利厚生」についても、労働側が均等にしていこうとするときに、経営側は「ずっと働いていただける方なのか、コストかけてもよいのか。職務同じの1点で定期入社の通常の労働者と別の時期に入社のパートを同じというのは(賛成できない)」などと抵抗。

○(2006年12月8日)
労働側、使用者側、双方が不満を持ちつつ、中間的な案が「今後のパートタイム労働対策について」の答申としてまとめられた。妥協的な改正案に対してさえ、使用者側が「危機感の共有ありえない。指針の改定からわずか3年、浸透状況について検証なされているか疑念がある。法制化必要なのか?パートを多く雇用している方から反発の声があった。本当に法的整備が必要なのか、企業は様々考慮して行っている。企業の現場で運用できないものを法制化、納得できない。」「中小企業の立場から反対である。実態にあった法でないと生かされない。差別禁止あいまいである。無用なトラブルが発生する。「転換」についてなぜ義務化するのか?採用の時点で正社員とパートは違った目的で採用している。」「法そのものの成文化に、絶対反対。待遇の差、格差はあって当然。企業の裁量権だ。いくら努力義務といっても義務化する問題ではない。」「パートの処遇は実態にそくして、将来にわたる活用の仕方も考慮し、貢献度を個別に評価するもので法的規制はなじまない。」「もし、行うのであれば、企業が混乱をきたさないよう、充分な周知、充分な配慮、充分な浸透の仕組みをしてもらわないと納得できない」などと抵抗。

国会審議について
2007年4月3日(火)に衆議院本会議で両案の趣旨説明と質疑、同日の衆議院厚生労働委員会で両案の提案理由説明が行われ、4月4日から数回衆議院厚生労働委員会で審議、その後、短い質疑で打ち切り、4月18日の委員会で、野党が反対(非賛成)の中、自民・公明だけで採決。4月19日衆議院本会議に上程され、採決。その後、参議院に送付され、参院厚生労働委員会で数回の審議で採決のあと、2007年5月25日参議院で採決。つまり、議論するも、結局は、政府・自民党は修正せず、採決強行。

(改正パートタイム労働法を受けて、改正された省令・指針が2007年10月1日付で公布・告示。通達も同日付で各都道府県労働局雇用均等室宛通知される。)
★★★★★★★

厚生労働委員会で、柳澤大臣、大谷局長等の答弁はひどいものであった。
たとえば、「3要件を満たした差別禁止の対象者はいるのか」の質問に、柳澤大臣は「事務当局が事業主に聞いたところでは、問合せが多かった。昨日、日本経団連の参考人も影響極めて大きく、相談が寄せられていると言っていた。こういうことからも存在は明らか」というような、実態を把握していないままの法案であることが明らかになった。
また「すべてのパートに均衡ある待遇をというのがメインで、究極な形の部分が差別禁止」というような、究極部分だけ差別禁止するという答弁や、「事業主が判断し、説明し、それでも納得できず労働局に行った場合、労働局が主体になって行い、そこでも納得できず裁判になった場合は、立証責任は労働者側」などといった、ひどい性質のものであるとの答弁であった。

佐藤博樹参考人(労政審雇用均等分科会公益委員)は、これが公益委員かというほど、お馬鹿な発言をした。
「最近、差別的取り扱い禁止の範囲について狭いという議論があるわけでありますけれども、これについての私の意見は、大事なことは、均等の範囲が少ないということではなくて、その基準が望ましいものであるかないかということが大事だと思います。その基準が望ましいものであれば、適切であれば、その対象者が少ないということは望ましい、差別が少ないということであります。」(4月10日発言)
この程度の人物によって審議されたのかと思うと嘆かわしい。

安倍首相も「労働の規制改革は必要な改革だった。転換制度は、希望・努力が実現される仕組みだが企業によって様々なので実情に応じて行う。 民主党案の「パートの優先的雇用を」という主張は硬直的で、新入社員の雇用を制限するものになってしまうので適当でない」といった趣旨で、野党の改正要求を拒否した。


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関連メモ

●   有期雇用の原則禁止
仕事の特性から合理性あるものに限定すべき。そもそも、EC(欧州委員会)の有期労働指令(1999/70/EC)が、有期を理由に期間の定めのない労働契約との差別を禁止しているように、無期・有期で差別を設けることに合理性はない。
 
●派遣法の改正
派遣の原則禁止、特定専門職の緊急対応のみとすること
派遣法 1985年の成立からマチガイ 13業種ポジティブリスト・・しかしザル法
1996年改正 26業種ポジティブリストへ規制緩和
1999年改正 ネガティブリスト化(原則自由化)へ
2003年改正 製造業務、医療業務のうち社会福祉施設の業務の解禁
派遣期間を1年から3年へ (26業務は期間制限撤廃) 紹介予定派遣解禁
2008年4月~ 法改正をあきらめて、日雇い派遣の規制を強める「指針と省令」

●均等法
改正男女雇用機会均等法 07年4月~ まったく不十分

今後
男女雇用機会均等法に間接差別禁止と雇用区分差別禁止を入れる
「雇用の分野における性別に関する間接差別」を以下のようなものに変えていく
「外見上は性中立的な基準などであって、他の性の構成員と比較して一方の性の構成員に相当程度の不利益を与え、しかもその基準などが職務と関連性がないなど合理性・正当性が認められないものをいう」

間接差別:3項目だけでなく、少なくとも男女雇用均等研究会報告にある7例を全部盛り込むこと。具体的事例をもっと増やしていき、さらには、特定例だけでなく、もっとオープンなものにしていくこと。
①募集・採用に当たっての一定の身長・体重・体力要件
②総合職の募集・採用に当たっての全国転勤要件
③募集・採用に当たっての一定の学歴・学部要件
④昇進に当たっての転勤経験要件
⑤福利厚生の適用や家族手当等の支給に当たっての住民票上の世帯主要件
⑥処遇の決定に当たり正社員を有利に扱うこと
⑦福利厚生の適用や家族手当等の支給に当たってパートタイム労働者を除外すること


●   最低賃金(最賃)
「働く労働者が人間らしく暮らしていける最低レベルの賃金」という定義にしたうえで、最低賃金の大幅引き上げを行うこと(全国一律にすること)
(緊急的に先ずは、1年で100円引きあげ、最賃1000円水準をめざし、その後、近いうちに、1500円程度にしていく)・・・時給だけでなく、月給で「貧困」にならないような水準も最賃で規定していくこと(例;16万円程度)・・・(仕事が十分にない日雇い労働者、パートにとっては、月給水準が大事)
最低賃金を「支払い能力論」でなく「貧困ライン対応」にすること(最低食えればいいので
はなく、平均賃金の半分程度の貧困ラインを基準に、普通の人間関係や暮らしができる文化的な水準の生活を保障すべき)
審議を公開せよ

***
現在、最賃は687円 (東京739円、沖縄618円の間)
4ランク制で、地域ごとに格差あり
生活保護を下回る最賃の改正を課題とした法改正・・・上昇幅は、それまで数円だったものが07年は平均14円アップ (ただし最低と最高の格差は拡大)

水準:1日8時間、22日働いても、生活保護より低い水準(1980年代初頭から逆転)。セーフティーネットとしてまったく不十分
日本は、平均所得の32%でしかない (外国での平均所得に対する最賃の比率:平均所得の半分前後が多い:オーストラリア 58%、フランス54%、イギリス44%、カナダ41%、アメリカ31%)
最賃額: イギリスやフランスは、時給1000円以上
週40時間労働での月給:日本116800円、イギリス213900円、ベルギー203600円、フランス196400円、オランダ201100円、アメリカ105500円
(2008年国民春闘白書より)
原因:支払能力論で抑制が続いているため。および最賃審議会が公開されず、ひどい意見がまかり通っているため。

(1928年ILO26号最賃条約では、支払能力論ではなく、「適当な生活標準」を考慮すべしとした。 日本では、今でも、生活費、同種の労働者の賃金と並んで、支払能力も考慮して決められている。)

最賃闘争の意義(ユニオンネットワーク・京都での学習会資料より)
①低賃金労働者の賃金引上げ
②ユニオンの賃金闘争の成果アップによる組織的定着
③政府に対する政治闘争:ワーキングプアの生存権闘争との結合
④ナショナルミニマム(最低生活保障)の中核としての最賃:これが上がらないと全体が低くなる

年収200万円以下が1022万人、300万以下が1740万人(全労働者の38.8%)

参考: 07年3月13日 最低賃金法改正
改正最賃法は地域別最低賃金について、「生活保護との整合性」も考慮するよう決定基準を明確化すること・・政府の位置づけ
最低賃金法改正案について     http://www.mhlw.go.jp/houdou/2007/03/h0313-3.html
・ひどいことに、政府は、最賃を引き上げるのでなく、生活保護を切り下げることで両者の均衡を図ろうとしてい 
る。07年12月の切り下げ案は、反対運動の圧力を受けて撤回されたが、08年3月医療交通費支給は撤廃。 
 
●   労働契約法 
07年11月成立 ・・労働契約・就業規則を「合理的」であれば変更できるとされた 
使用者にとっての解釈であって、極めて危険 
個人の戦い、コミュニティ・ユニオンなどの活動妨害 

 

ナショナリズム、日本軍「慰安婦」問題

 日本軍「慰安婦」問題関連

拙著 『戦争に近づく時代の生き方について』 の中の「慰安婦」関連の目次 紹介
 

第1章 従軍慰安婦問題への向かい方に本性が出る... 160 

●従軍慰安婦問題... 160 

●NHK番組改ざん問題の背後にあるもの―――スピリチュアリティはどこに立ち現れるのか... 170 

●NHK ETV 「女性国際戦犯法廷」番組の改ざん裁判で原告側が勝利... 175 

●映画『“記憶”と生きる』... 177 

●慰安婦問題を正面から扱った映画『鬼郷』(クィヒャン)... 184 

●映画 『沈黙』 いまこそ見るべき映画... 189 

●慰安婦「日韓合意」問題:韓国で検証、日本の倒錯... 195 

●慰安婦「日韓合意」 日本政府の対応もひどいが「朝日社説」もひどい... 207 

●少女像・慰安婦像を嫌がる理由がわからない... 212 

●維新・松井/橋下:慰安婦問題でも極右的な主張... 214 

NHK・クローズアップ現代+「“少女像”問題」のひどさを確認する... 218 

●学者のスタンスはどうあるべきか... 244 

●徴用工問題でも日本側はおかしな報道ばかり... 256 

●韓国で進む「歴史歪曲禁止法」の評価... 262 

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安倍首相のごまかしとは

2007年04月29日ブログ

まず、日本軍「慰安婦」問題。 
  この間、安倍首相がいくつかの場所で、 
 「河野談話を継承する」、「人間として心から同情する。首相として大変申し訳なく思っている」、「彼女たちが慰安婦として存在しなければならなかった状況につき、我々は責任がある」といったような趣旨のことを述べています。 
 これは、認識を変えたのでしょうか。
 
 そうではなく、批判を和らげ、事態の鎮静化を図ろうとして、述べてもなんら問題のない範囲で口先で言っているだけで、結局、ひどい立場は変えていないと思われます。 
 以下の福岡の人々の「要請文」には大事なことが書いてあります。日本のメディアはどうしてこういう視点をもてずに、「首相は謝罪している」というような報道をするのでしょうか。
 勉強不足及び、実際の元「慰安婦」の声を聴かず、〈たましい〉で物事を見ていないからでしょう。 
 以下、簡単にポイントを書いておきます。 
 
 1)まず、安倍首相およびその仲間、および内閣は、日本軍の強制性を否定してきましたが、その認識は未だ撤回していません。 
2)「おわび」の相手は当事者の被害女性であるはずなのに、会おうともしないし、謝罪もしない。
 
 3)国会で被害者を招いて公聴会を開くべきなのに、それを拒否している。詳しい再調査もすべきだろう。そうすれば、日本軍の関与、強制性の問題もはっきりする。 
 4)被害女性の皆さんは高齢化しており残された時間は多くない。すでに多くの方がなくなっている。国として正式に謝罪し、経済的にも保証すべきなのに、それを拒否している。
 
 5)個人補償はしないという、ひどい判決が出たが、政府は政治的判断をすべきなのに、それをしない。 
 6)「恒久平和調査局設置法案」と「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」を成立させるべきなのに、それをしない。 
 
 7)中学校の歴史教科書から「慰安婦」記述を削除してきたことを反省し、記述を復活させるべきなのに、それをしない。 
 
こうしたひどい状況を温存しながら、口先で「謝罪や同情」を言っているだけ。なんら公式に文書で残るような形をとっていない。「同情」などということばも、この場合、生ぬるく、無責任で、主体的な責任を引き受けない、第3者的な発言で適切でないと思います。 
 
 ps. 拉致問題が人権問題で重要というなら、『蓋山西とその姉妹たち』を国会議員は全員見て、いま生きている被害女性差別という、現代の人権問題にも熱心になるべきでしょう。
 拉致問題には、ある勢力から潤沢な資金が流れている。なぜか? 

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  要請文  内 閣総理大臣 安倍晋三様 
 
 私たちは福岡で、日本軍「慰安婦」被害者の証言を聞き、裁判を支援し、日本軍「慰安婦」 問題の法的な解決を願って活動しているものです。 
  内外に山積みする重要問題のなかで、とりわけ昨今、アメリカの下院で提出された日本軍 「慰安婦」問題に対する決議案に関し、政府責任者としての対応が世界の注目を 浴びています。
  安倍首相がアメリカのメディアに対し「日本の首相として大変申し訳ないと思っている」と 語ったと報道されました。それならば、「おわび」の相手は当事者の被害女性で あるはずです。是非とも国会に被害者を招き、公聴会を開き、直接謝罪していた だきたい。それが、こじれた問題解決の画期的前進となりますし、名誉ある首相 として評価され、歴史にその名を残すことでしょう。
 
  1991年に韓国の被害者たちと支援者たちによって政治問題化して以降、政 府調査を経て 日本政府としての責任のとり方が議論されてきました。この政府調査は、政府調 査「従軍慰安婦」関係資料集成全五巻(女性のためのアジア平和国民基金編 )  として刊行されています。
しかし、情けないことに近年その議論を振り出しに戻 す発言が政府関係者からなされ、今も責任ある地位の政治家が暴言を繰り返して います。
  被害女性は高齢化し、次々と訃報が届いています。私たちは勇気をもって名乗り出た被害女 性が全員お亡くなりになった後では、謝罪も和解も実現が困難になると憂慮して います。
 
 以下要請します。
① 今しかありません!
  安倍首相、あなたには高齢となられた生存被害者に是非とも会っていただきたい。そして直 接声を聞いてください。解決不能に見える問題が劇的に進展することでしょう。
 
 ② そして、下記の法律の審議入り、成立に向けてリーダーシップをとってください。
  衆議院に上程されているアジア・太平洋戦争中に日本が与えた被害の実態について、きちんと 国が調査する機関を法律で設置することを求める「恒久平和調査局設置法案」 (国立国会図書館法改正案)と参議院に出されている「戦時性的強制被害者問題 の解決の促進に関する法律案」の審議を集中し、成立させてください。
 
 ③ 河野官房長官談話を踏襲すると明言されているわけですから、これまで中学校の歴史教科書 から「慰安婦」記述を削除する運動を行ってきたことを反省し、謝罪してくださ い。そして、「歴史教育を通じて長く記憶にとどめる」ためにも「教科書に、事 実を誠実に記載するよう」強く求めます。
 
  戦争を遂行するために女性の性が利用され、女性の人権が侵害されることが二度とないように 日本政府は決意し実行することを、世界に向けて発信してください。
  2007年4月23日
 
 早よつくろう!「慰安婦」問題解決法・ネットふくおか 
 日本軍「慰安婦」問題と取り組む九州キリスト者の会
  戦後責任を問う・関釜裁判を支援する会
  旧日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時企画・福岡実行委員会
 
  連絡先:(略)

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「慰安婦」問題で、外務副報道官がひどい対応 

2007年03月17 日

2007年3月9日の外国人プレス記者会見で、外務副報道官 谷口智彦氏は以下のような発言をしたそうです。
 
 このひとにはスピリチュアルな感覚がない。自分の「仕事」振りへの恥の意識がない。愚かなことだ。
 
 
 外務省HPの「外国人プレス記者会見記録」、谷口外務副報道官の会見記録
 http://www.mofa.go.jp/announce/press/2007/3/0309.htmlの中の III.Questions concerning the comfort women issue
の発言
 
長文なので、部分だけ引用します。(衣斐なおみ氏仮訳)
 
谷口氏;・・・現内閣は、あくまでも1993年の河野談話を 踏襲していること。さらに、従軍慰安婦の方々のあまりにも過酷な体験は、我々、子を持つ者として、決して我が子に体験させたくはないと思っています。しかし、戦時のことです。戦争にはありとあらゆる人間的な悲劇が付きものです。それこそが、当時、村山富市総理の強力な指導の下、内閣の総意として日本の責任を認めるとしたいわゆる河野談話を、当時の官房長官であった 河野洋平氏が表明したわけです。その結果、政府主導による基金が創設され、民間からも 多額の寄付が寄せられました。また、以降、小泉総理時代までは、被害者の方たちに一人一人、 個別に宛ててですね、総理大臣が署名入りの手紙を送っています。そこまでやっているということで、十分ご理解頂けると思います。
 
〈伊田コメント〉
まず、悲惨なことを戦争一般の問題にしているのがおかしい。また「基金」は、多くの「慰安婦」当事者の反対にもかかわらず、政府・国家の責任を避けるために、民間の募金というカタチを取ったもので、まったくひどい対応だった。全然充分な対応ではないのに、ちゃんと対応したかのような嘘を言っている。
 
★★
 
Q; 「慰安所」という施設は、どのような性質のものだったのでしょうか。
 
谷口氏; その点につきましても、私は、逐一、事細かにご説明申し上げる立場にございません。
 
〈伊田コメント〉
答えを避けている。大事な点で何もいえないからごまかしている。
 
★★
 
谷口氏;・・・ご質問にお答えしますと、「強制性」とおっしゃるこの案件の状況につきましては、様々な区分と定義付けが可能であるということです。最も極端な例としましては、仰るように、日本政府が民政であろうと軍当局であろうとですね、民家に押し入って若い女性を誘拐し、力づくで慰安所へ連行するというケースです。が、このような極端な事例は存在しておりません。河野談話の公表に先だっては、日本政府によって国内外を問わず徹底的な調査が行われておりますが、そういった事例はいっさい報告されておりません。 この調査によって、逆に、そういった極端な事例は無かったことが証明されたわけです。
そこで、仰るとおり、少なくとも一つだけそのような事例が存在するのではないかということですが、当時の軍当局に既に明らかになっており、当事者である将校は既に罰せられている訳です。つまり、そういった極端な事例は、当時の軍当局においても違法な行為であり、罰則に値すると広く考えられていたことがお解りになると思います。
 
〈伊田コメント〉
「強制性」あることを極端な事例に限定して、それを否定するというレトリックを使って逃げている。先ずここが嘘である。また「極端な事例」は存在していないと断言している。
だが実際は、徹底した調査などなされていない。後で明らかになるが、日本軍性奴隷となった人々へのちゃんとした聞き取り調査をやっていない。そしてそのことを知らないまま(あるいは隠したまま)、谷口氏は、ここで断言している。つまり調査のことを知りもせず(調査をせず、事実を直視せず)、日本政府、および昔の日本軍の立場を擁護するために、強弁だけしている。
 
★★
 
Q;元従軍慰安婦と名乗り出た人たちの中の、あるオーストラリア人女性は、――たとえどのような形で慰安所に辿り着いたにしろ、就職活動であったとしてもです、――そこでは、誰もが力づくで兵士たちとのセックスを強要されたと証言しています。 押えつけられて、あるいは銃を突きつけられたり、日本刀やナイフで脅されて、つまり、強姦されたというような証言をしています。強姦は、まさに強制的行為ではありませんか。 そのようなことがあったのでしょうか?
 
(この質問には明確に答えなかった。そこで再度次のように聞かれた)
 
Q 先の質問のような強姦の事例は、「狭義の意味での強制性」に該当しますか?
 
谷口氏;その質問にはお答することはできかねます。私が、当時生きていた訳でないですし、実際の所どこまでが強姦で、どこからが売春であるについて、十分な知識もないのものですから。
今も、苦しんでおられる方がある。元慰安婦の方たちが、今なお、苦痛を抱えておられ、悪夢のような過去の出来事に悩まされ続けていることは良く存じ上げています。
だからこそ、日本政府としましても、この問題を平和的に解決する方向で努力をしております。
 
〈伊田コメント〉
まず、「当時生きていないから答えられない」とはなんという不誠実な答えか。
また「実際の所どこまでが強姦で、どこからが売春であるについて、十分な知識もないのものですから。」というのもひどい。十分な知識もないのに、先に見たように、強制性はないなどと答えていたのだ。「どこから強姦で、どこからが売春か」、などという抽象論を述べているのではない。このような発言が当事者を傷つけたり侮辱するものであるということさえわかっていない発言だ。無責任きわまる。血のない官僚的な発言だ。
あまりにひどいので、記者がちゃんと畳み掛けている。ここが日本のジャーナリストと大きく違う。日本のジャーナリストは論理力=追求力がない。偏差値的に頭が悪いということではない。問題意識と視点がないから、いい加減な答えを見逃さずに追い詰めるということができないのだ。
 
★★★
 
Q;慰安所で日本兵に繰り返し強姦されたと、断言している元慰安婦は少なくないという共通認識があると思うのですが。日本政府は、その証言を証拠として取り上げることはしていない、ということでよろしいですか?
谷口氏; 仰る内容が具体的に、どの事例を表すのかが解りませんので、ご質問にお答えするのは控えさせて頂きます。
〈伊田コメント〉
不都合なので逃げている。
だが記者はあきらめずに追求を続ける。
 
Q; ジャン・ラフ・オハーンさんの証言によると、ジャワ島の捕虜収容所の抑留されていたが、慰安所へ連れて行かれて後、何ヶ月にも渡って、日に4,5回強姦されたということです。確か2年間、この状態が続いたという話でした。 彼女の言うことは、信じる必要がないとお考えですか?
谷口氏; その人を信じられるかどうかは解りません。
その前に、もっと時間を掛けて、彼女の記録や証言を調査する必要がありますから。
〈伊田コメント〉
「その人を信じられるかどうかは解りません。」とは
ほんとうにひどい答えだ。血も涙もない。うそつきよわばりしている。このような対応自体が、安倍首相と同じく、ああ、結局日本軍「慰安婦」問題をわからず、なかったことにしようとしているのだなと伝えている。
 
★★★
 
Q;つまり、この問題については歴史家や研究者に任せるということですね・・・
 
谷口氏;過去に起こった出来事を再現するのは、非常に難しい作業です。たとえば江戸時代はどんな時代だったかというテーマも、論争の的です。・・略・・ そんな具合ですから、歴史家にとっても、やはり、過ぎ去った時代を振り返って、再現したり、事の真相を明らかにすることは、非常に困難な訳です。専門外ですから、私どものような政府関係者が、一閣僚としてですね、過去の歴史において起こったことを正確に語るなどというのは、全くお門違いです。
 
〈伊田コメント〉
じゃあしゃべるな。一体、今まで、何をもって「強制性のある慰安所はなかった」と言い切ってきたのか。おろかすぎる。
 
★★★
 
Q; 慰安婦問題は、日本の立場を悪くすることために、政治的な意図を持って取り上げられているとお考えですか?
谷口氏; そういった人々が存在すること、特にアメリカにおいてはそういう方たちが確かに存在すると思います。 自らの寄って立つ主張に沿って、原因をほじくり返して不平等を是正したいと考える人たちですね。 そういう人たちが、一概に政治的意図を持っていると批判することはできません。支援活動に勤しむ人は、常に存在し得ると、単に申し上げているだけです。
 
〈伊田コメント〉
政治的な意図を持ってこの問題を取り上げているとしかみていない。「慰安婦」とされた人の痛みに心をまったく寄せていない。政治的な謀略だとしか見ていないのだ。
 
★★★
 
Q;先述のオーストラリア人のラフ・オハーンさん以外にも、他の数カ国の女性たちが、 力づくで慰安所へ連行されたこと、そして、強姦されたことを主張しています。
あなたが仰っているのは、彼女たちが売春婦であって、偽証しているとということと理解しましたが、間違っていませんね?
谷口氏;あることについて、それは実際にはなかったことだと主張するのは、私ども人間にとって非常に難しいものです。 もしくは不可能と言えるかもしれません。たとえ一つの例を取り上げて、そのような事件は無かったと証明できたとしても、それで立場が正当化されるわけでもありません。
しかし、日本政府の調査に関して言わせて頂くなら、強制的な誘拐、強制的な強姦や民間人の家へ押し入って若い女性を拉致するなど、そういった言語道断な行為は見いだすことができませんでした。
 
〈伊田コメント〉
みごとに記者は論理的に追い詰めて質問を繰り出している。それに対し、谷口氏は上記と同じく、政府の調査をもちだすが、それは強弁だけになっている。徐々に、「売春婦だ、偽証している」とおもっていることを伝えてしまっている。
 
★★★
 
Q; 是非お答え頂きたいのですが、その調査では、元慰安婦と名乗り出た人たちに対する目撃者の証言は行われたのでしょうか?
谷口氏; 調査については、可能な限り、念入りに行われたと聞いています。 調査に当たった担当者も、ありとあらゆる情報を丁寧に捜査した結果、このような結果に到達したと確信しております。
 
〈伊田コメント〉
この質問は核心に触れている。これによって谷口氏が何も知らないということが浮き彫りになった。ただ、官僚的に「ちゃんと調査された」と聞いているという程度しかいえないことを浮き彫りにしている。「確信している」等というのは願望に過ぎない。記者はさらに駄目押しをしていく。
 
★★★
 
Q; 調査官たちは、直接、元慰安婦の女性たちから聞き取りをしたのですか?
谷口氏; その点に関しては、残念ながらお答えできません。存じておりません。そこまでの知識を持ち合わせておりませんので。
 
〈伊田コメント〉
ここにいたって、はっきりとした。一番大事なところを知りもせず、そして調査もしておらず、ただ、「政府は調査をやった、そして強制性はなかったと証明されている」と強弁していただけだと明らかになった。化けの皮が完全にはがれた。恥を知れというべきだろう。なんという無責任な態度だろう。これを悪い意味で、「官僚」というのだろう。
 
★★★
 
Q; 略・・・安部総理は、どうも文書化された証拠、書類に記載された証拠についてのみ語られたという印象を受けました。そこで、政府の立場としては、証人が実際に言葉で語る証言についても考慮されているのかどうか。 この点について答えください。
谷口氏; とてもよい指摘だと思います。 その点について、もっと詳しく知っているべきとは思いますが、残念ながら存じあげておりません
 
〈伊田コメント〉
知らんのか! あるいは、ちゃんと証言の調査をしていないことをだいたいは知っているが、そのことを言うとまずいので、知らないといっているだけか。両方だろう。
 
★★★
 
Q; 調べていただけますか?
谷口氏; 推量でお話することはできません。 しばらくお時間を頂ければ、後ほど調べてお答えいたします。
 
〈伊田コメント〉
多分、「調べた」後も官僚的に曖昧な答えで逃げるだろう。つまり、今後、ちゃんと当事者からの聞き取り調査を実行していくというようにはならないで、過去十分な調査をしたと強弁するだけで逃げようとするだろう。つまり、政治的に逃げようというのだ。本気で軍性奴隷問題の解決、責任を取る、謝罪するというようなことをする気がまったくないのだ。
 
 
安倍首相もひどいが、その下での官僚たちもひどい。
 
そういう人たちが言うのだ。「十分対応している」「もう十分謝っている」と。
お笑いである。
DVしている男が、「もう充分謝っているじゃないか。男のオレがこんなに謝ってるんだぞ」というのと同じだ。 
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 12年8月ブログ

橋下市長、慰安婦問題証拠ないと、右翼化、あきらかに

 

橋下市長には思想がない、特に右翼でもないという人がいます。

しかし、彼のこれまでの行動全体を見れば、新自由主義的であり、右翼的な面があるのは明らかです。

国旗国歌の矯正で、全国で初めて処分までする条例を多数で押し通したことは、まさに右翼が長年願ってきたことです。

歴史教科書をつくる会系の、近現代史を教えようというのも右翼的です。

松井知事は、この間積極的に安倍元首相という自民党の中でも極右系で有名な人と連携を模索し、合流を持ちかけています。

石原東京都知事ももちろん右翼系で、そことも橋下・維新は仲良しです。

フェミニズムをきらい、ドーンセンターとか、クレオとかを攻撃したのは最初から一貫しています。

今もピース大阪、リバティ大阪という「人権系」を潰そうとしています。

労働組合を目のかたきにするのも右翼の特徴です。

橋下・維新のしてきたことは、全体として右翼の言ってきたこととほとんど重なっています。

 

そんな中、橋下市長が「従軍慰安婦」と言う、右翼が最も攻撃したいところについて、まさに右翼的な立場で発言しました。

橋本市長は、8月21日、韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領の竹島上陸について「従軍慰安婦という日韓の課題が根っこにある」と指摘した上で、「慰安婦が軍に暴行、脅迫を受けて連れてこられた証拠はない」と述べ、強制連行はなかったとの認識を示しました。

 

こんな妄言を言っているのに、彼が右翼的しそうを持っていないと言えるでしょうか。内面は多様で、思想も単純なモノだけではないですが、表に出ているところで判断するしかないのです。少し矛盾したことを言ったから、右翼でないというのは、では右翼って何?ということになります。

右翼だって、いろいろです。

しかし、従軍慰安婦の強制連行がなかったなどというのは、まさに右翼的な妄言です。

少しでも調べれば、従軍慰安婦もんだでのたくさんの本が出ています。日本のWAM 博物館もあるし、韓国にもあるし、生きた証人がいます。映画もあります。

 

しかし、多くの人は、自信満々に無茶を言う右翼が出てくると、そこまで言うんならなんとも言えないむつかしい問題で自分はどちらとも言い切れないと思ってしまい思考停止し、徐々に、ファミ側がいっていることが偏っているかのように思っていきます。

例えば南京大虐殺もなかったという人が出ているとか、ナチスの強制収容所・ガス室はなかったというのと同じです。

 

 橋下市長はメディア受けするように、「証拠があったというのであれば韓国の皆さんに出してもらいたい」といいますが、では、ダンボール箱にいっぱいになるような資料・証拠を送っても見ること読むこともせずに、反対意見もあるというだけでしょう。本当に証拠を知りたいという中立的なスタンスなどでは全くないのです。だってたくさんの資料や証拠はあるのですから。

すでに多くの資料があるのに、今の時点で証拠を出せというのは、典型的に政治的な発言です。しかも彼は、「連行の証拠ない」といいきっているのです。決めつけた立場なのです。
 
  また、彼は、尖閣諸島の問題にも言及し、「領土問題はしっかり国民の認識に落とし込む教育をしないといけない。近現代史教育を充実させる必要がある」とものべました。

これは、東京の靖国神社付属の遊就館(ゆうしゅうかん)のような視点での歴史を教えろという意味で、これはまさに極右的歴史観を教えろと言っているのです。

 

口元チェックをした橋下の友人の校長がバランスよく両方の歴史を教えろと言っているのと軌を一にしています。第2次大戦は聖戦であった、侵略ではなく解放だったという戦争肯定の歴史観も教えろ、というスタンスです。そのなかで、領土問題でもナショナリズム的に、思想教育しろと言っているのです。

日本の領土だ、防衛力を高めろ、外国に甘い顔をするな、戦えというスタンスです。

 

そこには、非暴力とか、スローとかピースな感覚はありません。

こんな市長に対して、メディアはまだ彼を改革者と持ち上げて報道しています。政局の話にしてどことどこがひっつくかという話にして、橋下維新への的確な批判はほとんどありません。

『朝日新聞』的なスタンスは典型で、自分では橋下に少しは対抗しているつもりなのです。で、記者は本当に、自分たちは中立で、少しリベラルとか思っていて、そして橋下にほんろうされています。

しかし実は全く思想的に見抜けておらず、今の主流秩序に加担していること、その中で橋下にも親和的になっていることが自覚できていません。

この集団のなだれ心理(どんな雪崩の中にいるか自覚していない)こそ、気づかなくてはなりませんが、多くの人にはわかっていません。メディア人もインテリも同じですね。

これについては、後日、『朝日新聞』のデスクに文章の批判として少し詳しく書きたいと思っています。(今は多忙・・。)

 

「橋下市長、慰安婦強制連行「証拠示して」」『日本経済新聞』
 http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2104Z_R20C12A8CC1000/

「<橋下市長>慰安婦連行「軍が暴行・脅迫の証拠ない」」『毎日新聞』
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120821-00000116-mai-soci

「橋下市長「慰安婦の強制連行、確証ない」」『朝日新聞』
http://digital.asahi.com/articles/OSK201208210123.html

「「慰安婦、強制連行の証拠ない」 橋下大阪市長が言及」『産経新聞』
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120821/osk12082117010007-n1.htm

「橋下大阪市長「慰安婦、強制連行の証拠ない」」『中央日報』
http://topics.jp.msn.com/world/korea/article.aspx?articleid=1307012

「脅迫、連行の証拠ない=従軍慰安婦問題で―橋下大阪市長」時事通信
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/jiji-21X191/1.htm

「橋下市長「慰安婦連行証拠ない」」共同通信
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/kyodo-2012082101001567/1.htm

「橋下市長、慰安婦強制連行「証拠出して」」『日刊スポーツ』

http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp3-20120822-1004413.html

【関連記事】
「慰安婦問題、誤解広げたのは宮沢内閣の河野談話」『読売新聞』

http://news.nifty.com/cs/domestic/governmentdetail/yomiuri-20120821-01135/1.
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「慰安婦問題の市民団体「政治的」、優遇除外 大阪・吹田」『朝日新聞』
http://digital.asahi.com/articles/OSK201207300174.html?ref=reca

「橋下市長ら近現代史学ぶ施設検討 つくる会系からも助言」『朝日新聞』
http://www.asahi.com/national/update/0511/OSK201205100200.html

「大阪歴史学会の「近現代史博物館構想に関する申し入れ」」大阪歴史学会
http://www.historia-osaka.on.arena.ne.jp/appeal.html

「橋下市長の近現代史施設構想 大阪城近く建設案」『読売新聞』
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120822-OYO1T00255.htm?from=top
 
 
 

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メディア関係

 

「あるある大事典」問題とは何か。

070429
 「あるある大事典」の捏造問題が議論されている。
 もちろん、捏造、非科学的ないい加減な番組作りはだめ。
 また、それを口実に、政府のメディア介入権限を強化しようとする自民党。これもダメ。
 テレビ界でも、製作コスト削減のために下請けにしわ寄せする構造。
 視聴率競争で、大げさな演出。
 この4つはよくいわれる。
 だが、以下のことはあまり言われない。言っている人はいると思うが。
 
 まずそもそもテレビ界の雰囲気。その軽薄さ。集団的なおかしさ(馴れ合いがはっきり出ている。仲間たちが出ている。)。それが、いい加減な番組作りに反映している。相手の話を聞かず、いい加減に口だけ動かす輩ばかりが出てくる。
 楽しければいい、などといっていたフジテレビ。
 北朝鮮批判を過剰に取り上げる、独裁国家的な情報操作。それの一端を担いでいるとも思っていないメディア関係者。
 一部、 仕方なく意識的に出ている人を除いて、いま、テレビに出るというのは、とても恥ずかしいことになっている。
 
 どの局もどの新聞社も、そのニュースが非常によく似ているのはなぜか。重大なことが何かを判断して、それをニュースにするのではなく、その日の出来事を同じように各局流している。興味本位。すぐに忘れていく、ただの情報の娯楽的消費。記者クラブの問題。それと同じことが、首相や石原東京都知事に、まともな質問・追及ができない記者たちの姿勢に出ている。
 
 天皇制度批判のタブー。
 
 テレビ番組というと、細木数子、占い番組、UFO,血液型、霊視、心霊写真、心霊スポット・・・などなど、いい加減な非科学的なインチキ“情報”が流されている。
 
 ダイエット・整形番組なども扇情的に作られている。関連会社が危機感を煽って、商売しているのだ。
 かわいいくてバカな女が男から好まれる、とメッセージする、女ジェンダーの再生産。男たちのセクハラ的言動。
 
 大量のCMのなかには、ジェンダー再生産のものも多い。ドラマもバラエティも、ひどいものが多い。
 
 こうしたことは、「あるある」よりも害は大きい。政治に無関心で、メディアの言うとおりに操作され、非科学的な思考の人間を養成するからだ。
 
 報道と娯楽の境目がなくなったことが問題なのではない。娯楽番組自体の質やひどさが問題なのだ。そしてそのことは、報道番組を作るときにも貫いている。
 
 いま、まともなひとはたくさんいるが、そうした人たちテレビには出ない。
 
 このことをテレビ界の人はわかっているのか、どう考えているのかということだ。
 
 テレビに出ることが勝利と思っている人がいるが、まったくマチガイだ。
 
 田原総一郎氏は、『朝日新聞』で、いまのテレビ界では社交仲間が出ているとの批判に対し、「いささかでも馴れ合いが感じられれば、たちまち視聴者から見放されてしまうはずである」と述べている。
 笑うしかない。
 まったく見えていない愚かな人だ。
 
 
 
 
 いいテレビ番組もある。ドキュメント的なものにはいいものが多い。だが、テレビ全体では、ひどいものが多い。
 NHKはいい番組も作っているが、幹部がひどく、政治に腰が引けて、女性国際戦犯法廷番組改ざん問題では嘘と捏造の犯罪を犯している。自民党にべったりのテレビ界。
 
 分断化され、地域や職場から切断されたものが、テレビとインターネットというチューブを通じて画一的に洗脳されている。
 「あるある」はその末端の一現象に過ぎない。 
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細木数子氏を使い続けるテレビ

細木数子氏がテレビに出続けている。
 
 まあ、次の総理がいかにも怪しい宗教系団体といろいろつながっているというぐらいだから、それに比べれば小さい問題かもしれない。
 
 彼女は、たたりを利用してお墓商売で大もうけした問題で裁判が起こされたこともあり、そのことが、柿田睦夫『霊・因縁・たたり―― これでもあなたは信じるか』(講座・超常現象を科学する④:かもがわ出版、1995年)にくわしく載っている。
 
 高い個人鑑定、特別講演会や「勉強会」で先祖供養、六占星術、因縁、自分の成功話、墓相、五輪塔を勧める話、右翼思想家で元夫の安岡正篤の教え(陽明学)の話などをして、墓が悪いから墓を建てかえろなどといって、多くのものから金を巻き上げる手法。「地獄に堕ちる」と脅す手法。
 
 墓石販売会社(久保田家石材商店)、宗教法人「大国教会」との癒着。暴力団関係との深いつながり。右翼思想家・安岡正篤との、安岡85歳での怪しい結婚。
 弟の久慶氏は、町会議員恐喝で有罪歴あり。その他数々の訴訟を起こされており、何度も国政選挙に立候補、落選。 
 
 細木氏自身が、当たりもしない、いい加減な占星術・占い話。ホリエモンが大成功するといい、巨人が優勝するというような占い。次の総理は武部幹事長と発言。「花粉症の患者は心が悪い」等という決めつけ。
 2005年衆議院選挙では、自民党候補の個人演説会に出て、「自民党に入れるんだよ。入れなかったら、交通事故に遭うわよ」と発言。
 芸能界では滝沢秀明、朝青龍、魔裟斗等をお気に入りとして優遇。 
 
 こんないかがわしい人が、テレビに出て、むちゃくちゃな説教話をしている。単純な「先祖を敬え」とか、ジェンダーに乗っ取った古臭い性道徳の押し付けのオンパレード。女は料理ができなくっちゃあ。男を立て、節約しなくちゃっあ。それを感心したり神妙な顔で聞いている芸能人たち。
 バカか。カネのためならゴマすりも平気か。加担責任が問われる。高視聴率と暴力団の力を背景とした暴挙を許容し続ける一部メディア。
 
 ファシズムは、多くの日本国民の内面でもすでに始まっている。
 細木や小泉や石原や安部の言う極右的なこと、民族差別的なことは放置され、他方、天皇批判などはタブー視され、自己規制しまくる。
 
 スピリチュアリティという領域は、本当にいい加減なものと重なりやすい。だから占いだの霊感だの、インチキ商法で利用される。宗教や精神世界系の話にも功罪・玉石混交はある。靖国はその典型だ。
 
 ホンモノかどうかの境目のひとつは、金儲けに利用しているかどうかだ。
 
 細木氏は、間違いなく、ただの金儲けの低俗な人である。
 
 それを使い続け、売り続け、買い続け、ありがたがって消費し続ける人々はもうすでに壊れている。
 
 そんな中、『週刊現代』で5月から8月まで溝口敦氏による「細木数子 魔女の履歴書」が連載された。
 
 連載中止のさまざまな圧力がかけられたが、溝口氏は書き続けた。
 彼はその連載の最後にこう書き記した。
 
 「細木は時代の持つ低俗性の象徴である」
 
 そうしたものに対抗する、真のスピリチュアリティの確立が求められている。

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ロシアのウクライナ侵攻に関して

ロシアのウクライナ侵攻に絡めての考えを、ブログに書いているが、その一つをここに載せておく。

ロシアのウクライナ侵攻についてはブログでコメントしている。[13]
命を守るために逃げろ! ロシア・プーチンによるウクライナへの戦争について - ソウルヨガ (hatenablog.com)
ウクライナのナショナリストに騙されるな 踊らされるな 命を捨てさせられるな [14]
いつからあなたは軍の司令部になったのか [15]
ロシアのウクライナ侵攻について  追記 [30]


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2022年5月6日ブログ

小泉悠氏の意見を批判する

編集
小泉悠氏の意見を批判する
2022年5月5日
前回は高橋氏を批判したが、よく似た論理の小泉氏を今回は取り上げる。小泉悠氏(以下、敬称略)はテレビや新聞によくでている人物であり、ネットでも以下のようなことを語っている。
小泉悠「ウクライナ戦争、終結のジレンマ」 https://youtu.be/Cn4c7X2w7Eg
小泉悠×池内恵×千々和泰明「戦争の終わらせ方」 #国際政治ch 119
https://www.youtube.com/watch?v=Nl8D8gsJ3nA

この種の意見が幅をきかせていると思うので、批判しておきたい。
私は彼の感覚、意見、考え方に反対だ。自分の意見だけが正しいという姿勢はおかしいと思うが、小泉は視野(思考の枠)が狭くなって自分の正しさに閉じこもっている。「ジレンマ」という言葉でごまかしている。そのことに自覚がない。自分と異なる意見を見くびっている、その意味で無知である。
以下、いかに視野が狭くなっているかを指摘しておきたい。

小泉だけでなく、ロシア侵攻問題での意見の違いで、相手を馬鹿にするような風潮が一層激化している。それ自体が問題と思う。
****
小泉らの主張は単純で同じ視点で1つの主張を繰り返している。
それは「ウクライナは軍事的に、徹底抗戦し、一定勝たないと、ひどいことになる!ほかに選択肢はない。」という主旨である。
その主張だと、チキンレース状態になって戦争が拡大していくこと(大規模戦争、第3次世界大戦、核戦争)については、ジレンマといって、思考停止しているだけである。主観的な希望的観測でそうはならないだろうと思い込んで「徹底抗戦しかない」と主張している。

以下、それを、まず確認しておく。
小泉および千々和泰明等の主張
停戦はテーブルの上でおこなわれるのでなく、戦場の力関係で決まる。だからウクライナが抵抗し、一定の勝利を収めないと、まともな停戦にならない。闘って交渉条件を有利にしないと、停戦にならない。戦うことが停戦には必須の条件。ウクライナが「支配されていいですよ」というなら外野の我々が言うことはないが、一定のまともな停戦になるには闘いが絶対に必要。占領された後、虐殺されているので、負けたら拷問、虐殺、レイプが行われる。領土が奪われ、祖国が亡くなる。その意味でウクライナはロシアに降伏できない。してはならない。ウクライナにしたら抗戦しかない。 米国も支援しているし、一方的に負けるとは限らない。核戦争になるかもしれないのはジレンマ。でもロシアとしてもNATOが参戦するのは困る(から、ムチャをしないだろう)。核を使っても、その後、ロシアは優勢でなくなるから(使わないだろう) 核を使っても戦争は終わらないで、ロシアが終わる(だから使わないだろう)政治的目的の達成にならない(だから核を使わないだろう)(だからウクライナの徹底抗戦はしてもいいだろう) 「戦争終結なら何でもいい」のでなく、どのような条件によってもたらされた終結かが大事だ。「平和の回復にとって重要なのは それがどのような条件によってもたらされた戦争終結であり、それによって交戦勢力同士が、お互いに何が得られ、何が失われるかということである。ここに戦争終結のジレンマを問う意味がある。」千々和泰明著「戦争は以下に集結したか」p275 ウクライナが屈服すれば戦争は終わるが、それは本当の解決ではない。すぐに終わらせたいのはやまやまだが、どういう形での終結かが、戦後の世界の政治、世界のあり方を決めるから、今、ウクライナが闘うことには意味がある。戦ってもらわないと困る。第二次世界大戦でも、ドイツが勝った後の世界をどうするのか、ということで、第二次大戦は、下手に集結させずにドイツと徹底的に戦った。今回、ロシアが勝ったら、たいへんなことになる。だから世界(日本や西側諸国など)は、とにかく戦争を終わらせるためにウクライナに降伏しろとは言うべきでなく、徹底抗戦させて、ロシアをやっつけないといけない。(戦後のよき世界のためにも、ロシアを勝たして、自由にさせてはいけない)小泉らの主張、終わり
注:「( )」の中は、明確には言わないが文脈上、それを言っているという内容

「小泉悠×池内恵×千々和泰明」の3人は、こうしたことを繰り返して言うだけ。
この程度の話で、「なるほどそうだ」と思う人がいるのが現実だ。
私とは大きく、「今まで何を考えて生きてきたか」が違うと感じる。
これは、私(伊田)から見れば、同意できない意見だ。どっちが正しいではなく、少なくともいえることは、意見の違いがあり、どちらかだけが正しいと言えるものではないということだと思う。私を含め、非暴力主義の側の意見を理解していないという意味で、視野が狭い意見をいっているが、エラそうに自分が一番わかっているというように論じ、「降伏すべき」「停戦すべき」というような傾向の意見を、よく知らないで、浅い意見と見下して批判している。
小泉らの思想、政治路線があることは私は当然、承知するし、それもあるということは分かる。リアリズムということで、多くの人がそれに囚われている。歴史はほとんどパワー・暴力武力・陰謀・買収で動いてきた。私の言葉でいうと、主流秩序に沿った思考の人が多いことは分かる。だがそれは、正しいということではないし、私もその意見に同意しないといけないということにもならない。伊田の考え方が間違っているといわれるものでもない。
小泉らの思想・路線は、「力で正義を実現させようという思想」であり、それがリアリズムだということで、そうでないものを「お花畑」「空論」とレッテルを張って馬鹿にするスタンスだ。
私は、それも一つの現実主義と認識するが、しかしそうでない道が見えているので、見えていない人のくちぶりには困ったものだと思う。ウクライナの政治家や軍人や一般庶民も、多くは、「戦争を経験して、非戦・非暴力のような思想と格闘して到達した」というのでなく、いまだ素朴に、武力には武力で、そしてナショナリズム的なものに引っ張られているなと思う。
小泉や高橋、それと類似のインテリやメディアたちの発想は、単純だなと思う。そこに悩みや迷いや複雑さがない。政治だけでなく、一人の命の重みの前で悩む姿勢、過去にいかに暴力と非暴力で悩んだのかの深みが感じられない。
言っているのは
「今回は、プーチンは、ウクライナを屈服させて支配するまで戦争を辞めないだろう、そういう場合、話し合いでは落としどころは見えないから、プーチンは話し合いに応じない、パワーで抑えないといけない、それしかない」
ということだけだ。
しかし、矛盾がある。もし「プーチンウクライナを屈服させて支配するまで戦争を辞めない」としたら、ロシアが勝つまでは終わらないということにもなる。それに対して、そういう「暴漢」「悪魔」を力で抑える以外に、そういうものから逃げるというのが現実的な選択肢としてある。小泉たちはそこの選択肢を考えず、チキンゲームに応じて相手を屈服させるしかないという。馬鹿相手に、こっちの強さを見せつけてやるというチキンゲームで勝とうとしているのだ。相手に勝てるのか。チキンゲームの結果はどうなるのか、ということを考えないといけない。以下そのあたりを、伝えていきたい。

小泉的な人たちは、リアリストだということで「リアルなパワーが必要」といっているだけ。単純な頭の持ち主の考え方である。そういうひとは、理想主義、ユートピア主義は空論で意味がないというし、そうとしか思えない。其れは視野が狭く、軍事的にしか世界を見ておらず、知性の欠如だと思う。
愚かである。それならば、戦国時代と同じである。
小泉の言うようにロシアが絶対にひかないなら、ゲーム理論が示すように、妥協したほうが自分の利益になる。だが小泉たちは、そんな事をしたら世界(の勢力関係)がひどくなるので、ならず者の横暴を許さないようにしないといけないという。だが、ロシアは屈服しないので、小泉たちの議論は矛盾にぶち当たる。ウクライナがロシアに戦争で勝利するのはなかなかむつかしいので、実は小泉の路線に展望はない。非合理的かつ主観的に、何とか、ロシアが戦争で不利になる中で停戦に応じてほしいと思っている。願望的には軍事的に勝ちたいと思っている。とにかく力でロシアを抑えるしかないという発想だ。つまり、結局は「パワー、それしかない」という昔ながらの暴力主義のままで、しかし、ロシアには勝てないし、プーチンは妥協しないので、小泉たちは展望を示せない。米国の武器でロシアに勝ちたいという方向ばかりに目を向けている。とにかく軍事的にしか考えない。
それなのに、何か真実を言っているような口ぶりで、結局、「抗戦しかない」と繰り返すだけだ。あとはウクライナの抵抗する人への共感の気持ちという精神主義での、「戦い・戦争の美化」だ。戦争映画を見て感動するあれだ【それは右翼も、左翼も、ヒトラーも好きなもの。戦意高揚はいつも為政者が考えるもの】。それがリアリズムだと言っているだけ。
この理屈だと、相手が絶対的な武力主義者だと、こっちも力で抑えるしかないということになり、戦争はエスカレートするしかない。核戦争の危機も出る。プーチンが絶対にひかないおかしな奴というのが小泉の主張の出発点だから、デッドエンドまでいくしかない。小泉のプーチン観だと、小泉に答えは出ない。
***
それに対し、いくら相手がプーチン(暴力主義・ひどい奴)であろうと、何とか「話し合い」をしていこうとするのが、交渉による政治なのではないか。
それでもうまくいかないかもしれない。しかし、交渉しかない。 そしてその中では、妥協、敗北、がある。 敗北しても、無限の戦争のエスカレートよりもマシということを選択肢に入れる必要があるのは当然である。ゼリンスキーの言うように「最後まで戦う」というのは、まさに日本が言っていた精神主義であり、命の軽視である。ゼリンスキーは「とにかく武器をくれ」と言っている。ウクライナの中で、どの路線で行くかの話し合いを重ねようとしていない。戦うみちしかないということを国民に押し付けている。
「逃げる、負ける」という選択肢を理解する人が少なすぎる。それは、世界中で積み重ねられてきた、非戦の努力、紛争解決の努力、和平プロセス、そして日本国憲法の精神が忘れられている。知らない無知。
それは「戦争はもうこりごりだ」というところから生み出された多くの経験値が、忘れられているということ。「国が亡くなる、郷土が奪われる、こんなひどいことをしたやつらが憎い、ゆるせない、死んでもいいから相手と戦いたい」などという、過去にあった感情の動員によるナショナリズム的な戦争の思想でとどまっている。

だが、その結果はいつも悲惨である。ひとりの人間にとって人生は一回きりであり、愛する家族や知人を失ったり大けが・障害に至らせる戦争は、とにかくしないこと、減らすこと、早く止めることである。
暴漢にナイフや銃をちらつかせられて「金出せ」と言われたら金を出すのも生き残りの方法である。レイプされそうになったら、「命を懸けて貞操を守れ」ではなく、レイプされても生き延びる道もあるという選択肢を残すのは当然である。もちろんレイプなど許せない、ひどいことである。加害者は許せない、殺したいほど憎い。でも、現実的には、悪いのは加害者であり被害者は抵抗しない選択で生き延びてもいいのである。
そんな中で死刑制度も論じられ、徐々に死刑制度は廃止されてきている。個人の復讐・リンチも禁止されている。「目には目を」ではない、修復的司法の視点での刑法の改革も、囚人への教育的かかわりも進みつつある。
そんな時代にそういうことなどないかのように、リアリズムは、銃を持ってロシアと闘うことだという。武器は異常に発達し、戦争のレベルは高度化している。最新化され組織された軍隊に武力で勝つのは昔以上にむつかしくなっている。だから政治闘争も武力革命ではなく非暴力的な政治闘争が指向されている。
***
今の日本でも差別する人がいるし、ひどい政治が無数にあり、それに怒りがある。今、日本でも不当弾圧、不当逮捕などもある。だがそれが許せないからこちらも銃を持って反政府勢力となって戦うか、ゲリラをするかというと、それはしないという立場だ。昔と違って今はそういう戦いで社会を変える、革命するということが適さない時代と思う。つまり今でもひどいことをされる人はたくさんいるが、それでもだから爆弾やナイフを持って戦えとはならない。言葉によるいじめ、集団いじめが「ロシアの侵攻」よりも軽いと言える感性に私は反対である。もちろん、戦争、爆弾・爆撃で人を殺すなど絶対に許せない。しかし、命を奪わなくとも、殴ったり、皆に笑われたり、リンチされたり、無視されたり、誹謗中傷されるなどひどい人権侵害はある。性暴力、いじめ、DV,パワハラ、セクハラで許せないレベルのものがある。それを軽視することなどできない。加害者に対しては、デスノートに名前を書いて抹殺したいと思う人は多いだろう。拷問して苦しめたい、同じ苦しみを味わわせたい、と思う人は多いだろう。当然だ。
だが、しかし、でも、今の時代、そうした犯罪者や加害者、悪質なものに対して、殺すとかリンチするとか、武器で抹殺する、拷問するような戦い・報復という解決策を私たちはとらないはずだ。そうした加害者を死刑にも処さないというのが、私の、そして死刑反対派のスタンスだ。
そこには、深い、暴力への「忌避する感覚」がある。動物の「と殺」にさえ、今やアニマルライツとして、その命をとることを見直そうという人が増えている。
殺すことには痛みがあるのだ。人を殺すこと、動物を殺すことへの躊躇がないことへの違和感を持つかどうか。
戦争の経験は、そして、軍人・兵士は、徐々に殺人や死体に慣れていく。軍隊内の暴力や理不尽な命令やいじめにも慣れていく。軍隊とはそもそも、相手を倒す訓練をするのだ。銃だけでなく様ざまな武器の使い方を訓練する。標的を破壊する訓練。爆弾投下、ミサイル発射、ドローン攻撃。街を破壊し、人を殺す訓練…。
そういうことに違和感、忌避感、おぞましいとおもう感覚、怖い感覚、できない感覚、そういうことを大事にしたいとおもう人が、人権やフェミや非暴力や反戦争、死刑制度見直し、入管制度の改善を語っている。軍隊があるとしても、不当な目入れには従わないための「兵士の抗命権」の確立を求めている。
そこでいのち、人権を大事にするからこそ、暴力・軍事・攻撃を忌避するからこそ、人権抑圧にも、武力・暴力ではない形で対抗しようとしている。「新撰組」的有り様を気持ち良いとは思わない。
映画やドラマだから何とかヒーロー/ヒロインが相手をばったばったと殴り倒したり、銃を乱射したりするのを娯楽としてみているが、敏感な人はそういうものにも少しずつ違和感を感じている。そういう「目には目を」「武力にはより強い武力でやり返す」ではない物語を好むようになっていく人は多い。
過去は、それでも負ける闘いでも身を投じるしかない時代もあった。私はそれは素晴らしいとおもうし、美しいと思うし、その犠牲の上に今の社会があると思うので、闘いを引き継ぎたいと思う。
だが、2022年の現在、ひどいことに対して、こちらが銃や武器を持って戦うことは選ばない。加害者と同じような感性では、戦わない、戦いたくない。同じ世界に堕ちたくない。それがは暴力への従属であり敗北だ。軍人的世界観への堕落だ。私たちは、その「戦い方」に違いを見出すだろう。いま、暴力には、非暴力で戦おうとするのだ。たとえば、軍事力・武器を放棄し、無防備地域宣言をだすことで。兵役拒否をすることで。
昨日、テレビドラマ『悪女』で わかりやすく女性差別問題を扱っていた。1980年代のこのマンガが、今ほぼ同じ内容でドラマになっても古びないという、この40年の停滞。そこに怒りを感じるのは私だけではない。こうした差別・抑圧には腹の底から怒る人がいてもいい。私もその側だからフェミニストだ。
だがだからといって差別するやつを殴るかと言うとそういう戦い方を選ばないのが私たちのスタンスだ。
そうした基本に関わるのが、「外国から侵攻されたときどうするか」であり、「尖閣などの領土問題や台湾有事で、軍隊での戦争参加に賛成するかどうか」である。それは奴隷になるということではない。ロシアと戦わないと、レイプされ、虐殺され、シベリア送りだという単純な言い方で、あれかこれかを決めつけるのは、和平プロセスや交渉の丁寧なあり方(それによる結果の多様性)を無視した、議論の仕方だ。その発想だと、どんな戦い・争いも「勝つしかない、負けたら終わりだ」となる。そういう人は「勝った」ときに傲慢になるだろう。勝ったこと(武力を行使したこと)への反省が生まれにくいだろう。
どこまでも同じ単純な論理だけ。それを防衛省の下部機関の人間たちがテレビで広めまくっている。日本国憲法など全く無視して。
戦争の経験を忘れている日本になってしまった。
***
ミスチルの「タガタメ」(アルバム 『シフクノオト』2004年 所収)は言う。

この星を見てるのは
君と僕と あと何人いるかな
ある人は泣いてるだろう
ある人はキスでもしてるんだろう
子供らを被害者に 加害者にもせずに
この街で暮らすため まず何をすべきだろう?
でももしも被害者に 加害者になったとき
出来ることと言えば
涙を流し 瞼を腫らし
祈るほかにないのか?

タダタダダキアッテ (ただただ抱き合って)
カタタキダキアッテ (肩たたき抱き合って)
テヲトッテダキアッテ (手を取って抱き合って)

左の人 右の人
ふとした場所できっと繋がってるから
片一方を裁けないよな
僕らは連鎖する生き物だよ

この世界に潜む 怒りや悲しみに
あと何度出会うだろう それを許せるかな?
明日 もし晴れたら広い公園へ行こう
そしてブラブラ歩こう
手をつないで 犬も連れて
何も考えないで行こう

タタカッテ タタカッテ (戦って戦って)
タガタメ タタカッテ (誰がため 戦って)
タタカッテ ダレ カッタ (戦って 誰 勝った?)
タガタメダ タガタメダ(誰がためだ?誰がためだ?)
タガタメ タタカッタ (誰がため 戦った?)

子供らを被害者に 加害者にもせずに
この街で暮らすため まず何をすべきだろう?
でももしも被害者に 加害者になったとき
かろうじてできることは
相変らず 性懲りもなく
愛すること以外ない

タダタダ ダキアッテ (ただただ抱き合って)
カタタタキダキアッテ (肩たたき抱き合って)
テヲトッテダキアッテ (手を取って抱き合って)
タダタダタダ (ただただただ)
タダタダタダ (ただただただ)
タダ ダキアッテイコウ (ただ抱き合っていこう)

タタカッテ タタカッテ (戦って戦って)
タガタメ タタカッテ (誰がため 戦って)
タタカッテ ダレ カッタ (戦って 誰 勝った?)
タガタメダ タガタメダ(誰がためだ?誰がためだ?)
タガタメ タタカッタ (誰がため 戦った?)

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ミスチルの歌を含め、そこで格闘されている水準に立ちたいと思う。
こうしたことにかかわるので、非暴力主義のそうした点を考慮しないで、ユートピア主義、空論だと馬鹿にする人たちこそ、愚かだなと思う。
たとえばネット記事で見たが、伊藤千尋というジャーナリストは、「周囲の人が侵略者と戦っているときに逃げるのは、はっきり言って卑怯だ」「抵抗もせず手をあげて相手の言うなりになるのは「奴隷の平和」であり、「悪」を認めることです。人類の歴史を後退させることだ」という。上記と同類である。あまりに浅くて、言葉を失う。

またMLで岡林さんが、非暴力主義派を批判しているが、その内容も、口調も相手を見下す感じで、すこし暴力的だなと感じる。
岡林は、「丸腰で抵抗しろと言っているようでは日本の平和運動は誰も相手にされず壊滅していく」「国家権力を獲得することを目標にした政党の見解やその選挙政策では、徹底したリアリズムで妥協もした政策を示して支持を得なければならない」「どうやって具体的に現実的な国民合意にできるか」「観念的な非戦論では今の日本では選挙で多数派になれない」というように、とにかく国民の多数の支持を得ないといけないという考えにとらわれている。
それは政治や運動の一部の話であって、暴力にどう自分は向き合うのか、スタンスをとるのかという話のすべてではない。それなのに岡林は、政党の話や選挙の話こそが中心課題かのように決めつけている。「政治的に勝たないと実現しないでしょ」という発想だろう。
ある種の人が、政治的にどう影響力を持つか、選挙でどう勝つか、いかに多数派になって権力を握るかに関心があるのは分かる。でも、私が今、暴力にどう向かうかという話をするのはそれとは違う次元なのだということ。政治的に勝つのはむつかしいという現実というところから出発し、それでもどうするかが大事で、それが市民国民一人一人には大事なことだということが岡林には見えていないのだと思う。
だから言い方が、「違う分野の話をしているという謙虚さ」や優しい伝え方がなく、何でも自分の土俵でないとだめという切り捨て方になっている感じがある。
言い換えれば、選挙に勝つかどうかの話だけが大事と思うのはそれは一つの政治的なスタンスであって、生き方としても思想としても私とは異なるスタンスだ。私が言っているのは多数派になるための戦いのことではなく、自分の生き方のことなのだ。それは常に主流秩序にどう向かうかという問いがあるという感覚。

他の人に理解されなくてもいい、賛成されなくても、それはそれであって、自分の生き方が揺らぐ問題ではない。私はそうした生き方はしないし嫌いだということ。
このように言うと、「ああそうですか、それならご自由に」、と言って、自分たちはまた政治の話をするのだろうけれど、話はもう少し入り組んでいて、私は、政治にそのように期待したり中心化すること自体に問題があるんじゃないかと思っている。

そこを 伝えるために、分かりやすく言えば「私に政治的な答えはない。そのなかでどうするのか」ということ。
どうすれば選挙に勝ってこんなクソみたいな自民党政治を止められるのか、私にはわからない。現実的に考えて、難しいなと思う。自民党のやりかたのような、主流秩序にのって勝つ方法は分かるが、そうではないスタイルの勢力が勝つのはむつかしいと思う。だから「私たちが選挙で勝つ道がわからない」。それが私のスタンスなのだ。(それに対して、敗北主義だ、厭世的だ、そうではなくこうすれば展望が持てる、という、その展望について、話し合うならわかるが、それが、政治的に選挙で勝つ話だと、私は、展望を持てない。その背景には、主流秩序にかかわる深い問題があると思っているから。)
多くの人が自民党に投票したり主流秩序に流されており、安易にナショナリズムに流されたりし、自分はそうはなりたくないと思い、そういう人の生き方に嫌悪感を持つが、それをどう変えたらいいかは分からない。難しいと思う。(フィリピンの大統領選を見ても、トランプ支持と同じものをみる)

歴史的に人々は、絞首刑をショーのように喜んで見てきたが、そして戦争に勝ったと喜ぶようなところがあるが、そうした群衆の熱狂を私は嫌うが、群衆とはそういうものだろうと思う。これをどうしたらいいか、わからない。それはトランプや、プーチンや、安倍・菅・橋下(維新)、マルコスの息子を支持する人がいるという、その“どうしようもない感じの”大衆をどうしたらいいか、わからない。
そもそも、「戦争に勝った」と喜ぶことがおぞましいと思う。愛国心の多くを怪しいと思う。

企業では不正がしばしば起こっている。多くの人は長いものに巻かれて犯罪的行為にたいし見て見ぬふりをする。これをどうしたらいいか、わからない。内部告発の制度とかの話はできるが、あまりに多くの人が口をつぐんできたことに対して、ひとの多くはそういうものだと思ってしまう。情けなくて嫌になる。
核兵器を持ち、軍事力を持ち国際政治をパワーゲームで行う人たちがいるのは分かるがそれを現実的にどう止めるかは分からない。
野党を批判する人は多いが、私は、自分が政治家になっても、今の野党以上のことができるとは思えない。リベラル・野党のような理想に近い方の主張を通すのはむつかしいのだ。与党もダメだが野党もダメというような奴らこそ、自分はしていないのにと思う。自分が政治家になれば、今の時代、いかに、この「悲惨な状況」を変えるのがむつかしいかがわかるだろう。悪い政治ならいくらでもできるが。

つまり、主流秩序にそって生きている人がいるのはよくわかる。だがそれを止めるなんてことがどうしたらできるか、わからない。
(ちなみに、小泉さんたちに、「私が分かりたいこと」がわかっているとか実現能力があるとも思っていない。ほとんどの学者は語って仕事にして金儲けしているだけである。テレビに出ている、言い切れるような学者は主流秩序にべったりで見ぐるしく胡散臭いと思う。)

分かっているのは、教育とか、素晴らしい作品とか、個人的かかわりとか、良質な治療とか、社会運動などで少しは、変わる人がいるということ。でもそれは少数だろうなと思う。静かに一人一人が内省的に変わっていくようなことが大事と思うが、それは静かで、個別で、小数であって、大きな政治的な熱狂とはかけ離れていると思う。
そして、もうひとつ、わかっているのは、こちらも相手に対抗して武力やその他「様々な現実的な手段」で戦えば解決するというのではないということ。
このあたり、意見は分かれると思う。『グッド・ファイト』第3シーズンでは、トランプを再選させないために、汚い手使ってでも勝たねばならないという人たちが出てくる。相手がやっているんだから、コッチはいつまでも「きれいな手」でやっていては勝てないというスタンスだ。
そのように考える人が出てくるのは分かる。リアルに勝つには、基本、そっちだろう。だから実際に政治に携わっていると、米国民主党のようになるだろう。だが、私は、緑の党も、市民運動NPOも、少数意見の反体制の思想家もいてこそ、民主党などもましな政策を徐々に取り入れていくだろう、と思っていて、私は、そういう民主党の外側の役割で良いと思っている。
共和党に対して、民主党的とか、汚い手を使って現実的に勝っていく、というような、そういう現実主義もいるが、私は、そういうことに興味を持てず、自分は違うところで生きたいと思う。私は、自分の生き方としても、自分が周りに伝えたいこととしても、それとは違う道を選んでいる。そういう話だ。

長期的には矛盾が大きくなって変わっていくと思う。でも少なくとも当面の勝ち方はわからない。当面、「答え」がみえない中で、悩みながらそれでもやれることをしていくという生き方があると思う。それは身近なところで丁寧に、非暴力的に、生きていくことにつながる。
そういう世界観であるので、「これが正解でしょ」と言って、その「正解」に賛成しない人を見下すような言い方をする人が「暴力的」に見えて嫌いという話だ。
ロシアの侵攻の中で、銃を持って国を守るという徹底抗戦路線をとり、各国が軍事武器や経済的支援を続けて戦争が続く、犠牲者も増える中で、私は自分ならどうするかと考えているのである。私は、銃をとってロシアと戦わないだろう。みんなに逃げようと呼びかける。逃げることは卑怯なことではないというだろう。逃げたうえでの生きかたが問われていると思うというだろう。
この感覚が分かるかどうか。小泉や高橋らと、違う水準で生きているというのはそういうことだ。
「答えがあるかのような水準」で生きている人とは話が合わない。
若くて愚かだと、勇んでいろいろ言えるだろう。でも、年齢をとると、大きな話で何かできるというようには思えなくなる。若さのメリットもあるが、欠点もある。私は、自分の認識の変化に見合ったスタンスをとるということだ。

当面、政治的に「勝てない」としても、私は、投げやりや絶望になるのでなく、今ここから未来社会を先取りするようなことはできるし、自分の生き方も変えていけるというスタンスで生きている。社会全体のDVを全部なくすようなことはできないが、目の前の一つのDVカップルの状況を変えることを、当事者とともに考えて行くことはできる。
死刑にも戦争にも暴力にも反対で、できるだけのことを今ここからしたい。そのためにまず自分が加害者的な面を見直すこと。エラそうな支配的なことをしないようにしたいと思う。主流秩序の上位で幸せと感じるような生き方をやめようと思う。
だから銃はとらないという。「抗戦が当然だ、一択だ、ほかに道はない、勝つまで武器は置くな」等とは言えない。 そうではなく、「一緒に逃げよう」というだろう。
主流秩序の世界も変えられないし、戦争もとめられない。それでも自分の道で生きていく。とにかく戦争は嫌だ。後の世界地図(世界の政治状況)のことなど関係ないと思う人がいてもいい。庶民に、そんなことまで変える力はない。先ずはじぶんと身近なところだ。
それを政治学者や防衛省の宣伝マンや政治家たちが、見下す。だがそんなことは関係ない。自分の道は自分で決めていくだけだ。
抗戦するしかないと息巻いている人は、命をもてあそんでいると私は感じる。正しいかどうかではなく、感覚の問題だ。
死刑制度に反対、ということとつながる。だが「死刑制度」について迷ったり考えたりしないで躊躇なく、受け入れるような人、そこまで考えていない人とは、話が合わない。
私のような異物、主流秩序への抵抗物を、嫌がる人がいる。私は、私の自由を抑圧する人と戦うだろう。でも銃・暴力は使わない。
米国の中で銃規制に反対する人もいるが私は銃規制に賛成の立場である。
トランプ支持派で銃社会肯定の人が銃を持つことは、私には鬱陶しいが、だからといって自分もいつも銃を持って対抗するかというと、それはしない。
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ということで「どういう方針をとるかは国家の専権事項」なので他国が口出しすべきではない、などという発想自体を、私は批判しているのである。家族の中に個人の領域があるとみるのがシングル単位なので、国家(家族)を一つとみて、他国(家族以外のひと) が口を出すなというのはまさに古臭いという主張だ。私は、家族内の人権侵害に介入するように、他国の国家・社会にも、口を出す。人権侵害には口を出す。自決権だ、他国は口出すな、内政干渉だというのは、Dv加害者の思考感覚に過ぎない。自決権は、各個人にある。
誰もが、おかしなことには口を出していいのである。
犠牲者を数字でとらえるのでなく、一人から見ていくのである。為政者の視点をなぜあなたはもつのか。地面の虫の視点で生きたいと思う。
(5月9日に字の変換ミスなど修正のうえ、加筆)