過去に書いたもの(1)

すこし総論的 +拙著関係

DVと虐待/美の秩序/スピリチュアル・シングル宣言/生き方・主流秩序を前にしてたたずむ/シングル単位論/ジェンダー概念について/宗教関係/目に見えにくいものを大事にする/ラブピースクラブ連載



 

DVと虐待


「DVと虐待」対策・改善提言2020

  | 「DVと虐待」対策・改善提言2020 ――― 野田市小4女児虐待殺人事件を契機にした、DV加害者更生教育の経験からの「DVと虐待」への提言レポート 

伊田広行著、Kindle, 電子書籍&POD版(ペーパーバック) 2020年3月発行

【入手方法】アマゾン内の書籍ページ https://www.amazon.co.jp/gp/product/B0863TM91C 
アマゾンのHPで「伊田広行」で検索していただくと購入できます。 
●内容紹介 
本書は「DVと虐待」を一体のものとしてとらえ、DV加害者プログラムの知見を虐待対策に入れ込むべきことを提起した書である。社会全体でようやく加害者対応の重要性が認識され始め、2020年においてDV加害者プログラムについても進展が見え始めている中、虐待対応の改善にもそれを反映したものが必要となっている。
千葉県野田市・心愛(みあ)さん虐待死事件は「DVと虐待」が絡み合っているにもかかわらず、DV側面に対する意識が低すぎたために起きてしまった事件であった。「DVと虐待が絡んでいるケース」に関する失敗事例から学んで、DV加害者プログラムの視点までいれた提起をした意欲作。 
同じような犠牲者を生みださないために、特にDV視点の導入、面前DV対策、DV対策自体の消極性の克服、加害者プログラム的なものを児童虐待対応にも導入すべきという点を中心に、現段階の「検証と対策」で欠けている点、あるべき意識・制度のポイントを提起した。虐待関係だけでなくDV関係の対策改善にも言及している。なお、目黒・結愛ちゃん事件も同様の問題を抱えているので、かなり詳しく「資料」の項で言及している。また補論で「DVと面会交流」に問題に関した論考も載せている。 

●目次 
第1章 野田市事件の流れ
第2章 野田市虐待死事件で明らかになった問題点・不足点と改善点
3-1関係者の無責任な醜態の数々と今後求められること/3-2 DVを理解していない母親バッシング問題

第3章 提言:加害者への長期更生プログラムの必要性 ――― 一時保護の解除の後のかかわり:加害者更生プログラムの経験から―――

第4章 まとめ――必要な改善策の再確認及び提言
  4-1 虐待対策の見直し/
4-2 虐待に対するシステムの再構築/
4-3 つねにDVの観点も入れて対処で  きるような意識の向上/
4-4 児童虐待に関する組織・システムを変える――児相、市の子育て部門、警察、学校/
4-5 関連の改革――情報共有、施設改革/
4-6 責任ある対応――かならず調査する仕組み、結果責任をとらせる処分/
4-7 DV対応の欠点の改善 

資料 虐待事例、関連犯罪事件(●2018年、東京都目黒区・船戸結愛(ゆあ)ちゃん虐待死事件など) 
付録資料 ――野田市事件の検証報告、2019年法改正関連情報、現状の施策体系や いま進み始めている改革、児童虐待関係の変化などの情報 

補論1 DVと面会交流――面会交流で子どもを殺した伊丹事件に関連させて 
補論2 「受動喫煙」概念から考える「DVと虐待」――「間接虐待」と「受動的虐待加害」 

*********************** 

「虐待支援の人もDV理解を深めて一体のものとし応してほしい」 

肩書 DV加害者プログラムNOVO 伊田広行 

2000年
 

元SEAN理事の伊田広行です。DV分野で活動している私は、NOVOという加害者プログラムをしている中で、虐待もしている父親にむけて「DVと虐待をなくす教育」をしているので、その関係で、「DVと虐待」についての本を書きました。その内容の一部紹介という形で、このテーマについて思うところを書きますね。 

野田市の心愛さんや目黒区の結愛ちゃん等の虐待死事件が続き世間でも関心が高まり、法律も一部改正されましたが、対策はいまだ中途半端です。DVと虐待が絡み合っているにもかかわらず、DV側面に対する意識が低すぎたことが大きな一要因となって起きてしまった事件でした。それに対して「認識や対応に甘さがあった」「ミスが重なった」「研修や制度の周知・徹底が不十分」「人手不足」などが指摘され、対策は「研修の充実」などふわっとしたことが言われていて、大事なことが欠けているので、今後も同様の事件が続くと思います。 

では何がいるのか。私は一つは、DVと虐待をおこなっている加害者に対する更生プログラムの受講を強制する制度だと思います。また2つ目としてすべきことをしなかった関係者への処罰制度の導入です。3つ目は、警察と児相と市町村の子育て担当課の関係の見直しと連携の総合的変革です。4つ目は虐待やDVの定義を広げ、予防教育をし、軽い段階から支援していく仕組みにすることです。5つ目は通報後やアフターフォローにおいて必ず被害者に会って調査する仕組み作りです。 

メディアや判決などで被虐待児を助けられたのは母親だけであったのに父親の虐待に加担したとして母親が非難されるバッシングがありましたが、その母親がDV被害者であるということを正しく理解するならば、行政などが早い段階でDV被害者と子供を保護すれば母親は加担者にならずにすんだのです。支援者が母親に、DV環境に子どもがいること自体が心理的虐待だということを伝え、DVと虐待に関する適切な教育をし、自分のDV被害や子どもの虐待被害にどう対処すればいいかを一緒に考える、脱出の道があるというように思えるようにして支援するというようなことがあればよかったのです。母親は、虐待に加担した加害者であると同時に、夫からのDV被害、虐待に加担させられた被害者でもあり(受動的な虐待加害者)、さらに行政(児相、市町村、教育委員会、学校、警察等)の支援体制から見捨てられた被害者の面があったといえるのです。つまり心愛さんの母親よりも責任あるのは児相など公務員の側でした。しかし現状ほとんどその結果責任は問われず、母親だけが裁判で有罪化されています。野田市事件では経験不足な児相や市役所職員や学校関係者などが「威圧・操りがうまいモンスターペアレント的な親」を怖がり言いなりになった面がありました。DVも虐待もしている親に対して児相などが指導するカードを十分持っていないのです。だからすべきことをしなかった者への処罰制度の確立とともに、早い段階から子育て・虐待・DVがないかどうか見ていく仕組みにしていくようなことやモンペ親への対処の研修、加害者更生プログラムの受講義務化が必要で、その一部が上記の5点なのです。その他、この「虐待とDV」問題を解決するには様々な改革が不可欠です。拙著では、心愛さんの事件を詳しく振り返りその問題点を指摘し、今後の虐待対応の改善に関する大胆な提言を書きました。厳しいことを書いた部分もありますが、虐待やDVをなくしていきたい、被害者を支援していきたいという思いゆえです。 

 

参照:伊田広行著『「DVと虐待」対策・改善提言2020―――野田市小4女児虐待殺人事件を契機にした、DV加害者更生教育の経験からの「DVと虐待」への提言レポート』(2020年3月発行、オンデマンド書籍&電子書籍) 

 

美の秩序からジェンダー問題を考える

 

髙井由起子編著編著『身近に考える人権――人権とわたしたち』(ミネルヴァ、2022年)という本が出ました。
その中で4章「女性の人権――ジェンダーにかかわる人権」と
11章「さまざまなハラスメント」
を伊田が書きました。
2つの章の最初の部分を紹介させていただきます。
 
4章「女性の人権――ジェンダーにかかわる人権」
【この章の概要】
 読者のみなさんは、「女性の人権」というと、どういうことと思うだろうか。多くは「男性が家事育児をしないとか、女性の政治家や社長が少ないとか、DVやセクハラ被害や性暴力被害があるといった問題」などと思うのではないだろうか。さらには「なんでも性差別だというような、女性フェミニストが男性批判する話」と思う人もいるのではないか。だがそれは「女性の人権」をめぐって考えるべきことのほんの一部に過ぎない。しかもそのイメージが古い。本章では、今まで述べられてきたことと類似の「想定内」のものではなく、できるだけ身近で新しい角度からこのジェンダーにかかわる人権問題を紹介したい。 
女性とは何か。それを言うのは実は簡単ではない。LGBTQなど多様な性のあり方があり、男女二分法を前提とはできないからである。だが一方で、今の社会には男/女の二分法に基づく区別や差別やバイアス(偏見/偏り)が多くあるので、本章では「女性を切り口として、性(ジェンダー)にかかわる様々な人権」を考えていくこととする。
とはいっても多岐にわたる問題を全部論じることはできないので、まずジェンダーにかかわる人権問題のひとつである「美の秩序」にまつわる問題から考えてみたい。そのうえで、ジェンダーにかかわる諸問題の広さを概観したいと思う。
 
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11章さまざまなハラスメント」
【この章の概要】
「ハラスメント」というと「セクハラ」「パワハラ」が有名で、なんとなく感じは分かるが、細かいことをうるさく言うなあと感じている人もいるのではないか。また「人権」というような事とは別で、もう少し軽い感じと思っている人が多いのではないかと思われる。
そこで本章では、ハラスメントとは何か、どうしてこういうことを言うようになってきたのか、軽いことなのか、人権とどういう関係にあるのか、ハラスメント概念を理解するときに注意すべきことなどを整理する。また、ハラスメントの状況に自分個人は何ができるのかも考えていただきたいので、「3つの道」「間接介入」というものを提示して、普通の自分にもできることを具体的に知るという学びを提示する。これを通じて、建前や一般論にとどまりがちな「人権の学び」を実践的に「使える」ものとしたい。
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高井由起子編著『身近に考える人権――人権とわたしたち』
はじめに
「人権」という言葉を聞いてどのようなことを思い浮かべるか――。本来は身近な問題、テーマであるはずだが、「大変な人たちの問題」「重たい」といった、なんとなくそばに置きたくない思いや、小中高等学校などでは「深刻なことを考える時間」といったイメージがあるかもしれない。しかし、このような「距離を置く」考え方こそ、私たちの身近にある人権問題をより一層、深刻なものにしているといえる。本書では、「人権」をわかりやすく、身近な問題として考察できるよう、身近なテーマを事例も交えて解説する。
 
 
 


 

スピリチュアル・シングル宣言 

――生き方と社会運動の新しい原理を求めて 
 
伊田広行著 明石書店、2003年 

☆ ☆ ☆ 
 
はじめに 
私なりの、「生き方の奥底のライン」というものが、みえてきた。何を見ても、どれを読んでも、そこだよなあというもの。私が好きな人や素晴らしいとおもえる人にはあるのに、でも、それが明確に指摘も意識もされていなようなもの。それが見えていない人がまだまだ多いように思う。このことを明確に他者に伝え、他の人と語り合い、自らそれを実現する生き方を探り、次の世代に伝えていく必要があるように思う。自分にとって、生き方や社会運動(人権)への関わり方を見直す指針となるようなもの。私が1回だけの、かけがえのない自分の人生を、悔いなく生ききるとは、どういう生き方なのか。それを、私はこの本で〈スピリチュアル・シングル主義〉(略して〈スピ・シン主義〉)と名づけ、その概念を鍛え上げようと試みた。 
宗教でも、ニューエージ(精神世界論)でも、オカルトでもない。むしろそれらを批判する。しかし、それらに近接せざるをえない領域の思考。合理主義者の僕が、経験を積み重ね、考え続けて、そこを扱わざるをえないと思い至った領域。「個人」と「全体性へのつながり」の問題を考え、僕が突き当たったのは、〈たましい〉というとても微妙な概念だった。そして、ちゃんとまともにどっしりと自由に生きたい、つまり、スピリチュアルに生きたいのだと私はわかった。短い人生だから、口先でなく、行動で自分が今これからすべきことをはっきりとさせたかった。はっきりとしたからには、私は、前に一歩進む。言葉で伝えきるのはとても難しい。でも挑戦してみた。私は、変わりつつある。この本を契機に、いっそう私の後半の人生は、色合いを変えていくだろう。 
 
こういうテーマは、ともすれば、「宗教系」とか「ちょっといい話」とか「教訓の本」として読む前から色眼鏡で軽く扱われがちだということは自覚している。ヌルクてユルクていいかげんなことを調子に乗って雑に語るのをやめたい。大人が子どもによくやるように、きれいごとを自己陶酔的に語って、できもしないことを、分かったように説教たれるのをやめたい。誰をも具体的に変えないような、誰の生活も1ミリたりとも変えないような、現状肯定的な一般論・精神論だけで終わることをやめたい。それがどこまでできるか。「シングル単位論」という形で、これまで提起してきた私の考えがどこまで深化したか。「新しい人権論、社会運動論」として何を新しく提起できたか。 
 
軽く読み流す本ではないと思う。かなりいろいろ考えての、密度の濃い問題提起だと思うから。自分で言うのもなんだが。 こういうことをちゃんと語るものがあまりに少なかったから。思想・社会運動・教育上のこれまでのあり方に根本的な疑問と不満を提起するものだから。自分を見つめ、過去を大胆に乗り越える、私にとっての、大きな「進展・転換」宣言だから。 
私自身の過去の否定ではない。むしろ過去から続く自分の内面に深く降り始めたが故の、大きな質的発展だと思っている。私の中では、「シングル単位論」で追求していたものは、必然的にここに至るものだった。今まで以上に賛否両論になるだろう(まあ、もちろん読まれる範囲でのことだが)。 
いや、「〈スピリチュアリティ〉なんて、舌かみそうなことはわからんわ」とか「あっちの世界に行くんか」という反応ももうかなりいただいている。だが、私には、とても避けられないし、「あっち」の世界の話では断じてない。とっくに、わかっている人にはそれとなく分かっていたんだろうけど、凡人である私が、人生経験を少し積み重ねてようやく見えてきたものをぜひとも言葉で伝えたい。いや、まずは、自分で、自分に対してはっきりさせたい。教員とか講演とか社会運動をしてきた私には、もう少しちゃんと考え、その過程と結果を伝える責任がある。 
言葉では届ききれないことは分かりつつも、私なりに言葉で近づく努力をしてみた。それによって私が「近づけた」としたら、私と同じようになんとなく感じていたのに言葉にならなくて近づけなかった“あなた”にも少しは伝わりやすいのじゃないかな。そうして、また、あなたと、繋がれる。読んでみてください。 
 
なお、本書は、分量の関係上、〈スピ・シン主義〉としていいたいことのアウトラインを描いたに過ぎない。その他いっそうの展開については、参照文献なり、今後出版する予定の続稿などをみていただきたいと思う。とくに〈スピ・シン主義〉の応用論としての社会運動のあり方、個人の〈スピ・シン主義〉的生き方については、参考文献に挙げた拙稿をぜひともあわせ読んでいただきたい。 
 
 
目次 
はじめに 
1章 なぜ今、〈スピリチュアリティ〉か 
1-1 日本の社会状況――恐るべき「想像力や共感の欠如」「殺伐とした空気」 
1-2 良心派・民主運動側の限界 
2章〈スピリチュアリティ〉とは何か 
2-1 表層世界と「混沌の闇世界」 
 2-2 〈たましい〉〈スピリチュアリティ〉とは何か 
3章 〈スピリチュアル・シングル主義〉という主張 
 3-1 〈スピリチュアル・シングル主義〉の最初の定義 
3-2 自己の拡張としての〈スピ・シン主義〉――新しい水準の<人 
権>概念の創設へ 
3-3 〈スピ・シン主義〉のもう少し突っ込んだ説明――俗なる価値の尊重、 
即興性、アート 
4章〈スピ・シン主義〉の展開――新しい人権論としての〈スピ・シン主義〉 
4-1 多様性、エンパワメント、〈スピリチュアリティ〉を組み込んだ、新しい人権論 
4-2 人間の成熟と〈孤独〉 
5章 なにをいいたいのか――まとめにかえて 

おわりに 
文献 
スピシン的なおすすめ作品ガイド 
 
★★★ 

伊田広行著『スピリチュアル・シングル宣言』明石書店、2003年 

 
「悟りを開く」と称して、瞑想やワークショップ内に逃げ込むんじゃなくて、高い意識への覚醒を現実の生活に落とし込むことが大切と訴える、まったく新しい人権論(生き方と社会運動論) 
人権、平和、セクシュアリティ、環境問題、国際・地域開発、南北問題……の様々な課題を考え、そこから新しい関係、新しい生き方を作り上げていくときに、出発点となる論考である。 
 
 
こういう人に読んでほしい、とおもって書きました。 
 
生き方に悩んでいる人。NPO活動、ボランティアをしようか迷っている人、離婚を考えている人。会社を辞めようと思っている人。悩みを抱えている人。社会運動に関わっているが、そのこと自体やそのあり方にかすかな迷いをもっている人。 
人権論の新しい水準。 
従来の人権論に足りなさを感じている人。どのような意味で人権を語り、どのような意味で多様性、エンパワメントを語るのか。 
いかに生きるか。何のために生きるか。 
ちゃんとした生き方をしたい人。 
カウンセリング、ワークショップ、トランスパーソナル、心理学、生と死の教育、ホリスティック教育、ホスピス、スピリチュアル・ケアなどに関心ある人にお勧め。 
ジェンダー論、男女共同参画社会論を深く展開するためには、ここを通らずしては説得的になれないと考えた。 
 
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 
『ACT』 247号(05年9月26日付)インタビュー記事

 〈スピリチュアル・シングル主義〉って何? 

 
質問1 イダさんは「シングル単位」というものの重要性を説かれてきましたが、なぜ「シングル」が大切なのでしょうか。
 
 イダ:
 男女平等ということについては誰でもが賛成しますが、ひとりひとりが深くジェンダーの囚われから自由になるためには、どうしても家族単位の思考と制度を批判し、それに対抗する新しい政策と思考の体系が必要なのです。これは論理的帰結です。
 しかし、日本の左翼、人権派、時にはフェミニストでさえ、そこまで思考を突き詰めていない場合が多かったので、そこを明確にして政策体系を具体的にシングル単位に改革するべきだと主張したのです。それがシングル単位論です。院生としての論文をのぞいて、一般の人に読めるものとして明確に世に発表したのは、1991年の「カップル単位からシングル単位へ」という『情況』(2巻10号)に書いたものですね。当初はほとんど理解されませんでしたが、徐々に賛同する人が増えてきました。
 
  男女2分法を所与のものとして、そうした異性が欠けたところを補い合って結合する、つまり結婚することでようやく人間として当然の基本形をなせるのだというのが家族(カップル)単位です。わかりやすくいえば、結婚するのが普通、幸せ、そのなかには性別役割分業があるとし、二人は一心同体、夫が家族のために金を稼いで妻子を養い、妻は家事育児介護をするというものです。「二人のうち、どちらかが・・をする」という発想です。
 
  しかしこれだと、結婚内でジェンダーが再生産されます。女性個人、男性個人が自分で家事をする、自分で稼ぐ、自分で自己決定する、自分のワークライフバランスをよくする、という自由と責任がなくなります。結婚内で干渉や支配や依存や嫉妬が起こりやすくなります。結婚していない人(同性愛など性的少数者の人、独身者、離婚した人、働き続けたい女性など)が、標準外ということで、さまざまな不利益をこうむります。男性は妻子を養うということで高賃金になり、そのかわり長時間労働、女性の賃金は低くなり、採用や昇進や配置で差別されることになります。
 
  男女2分法が絶対ではないなら、男と女が結合して性分業するのが当然・自然ということ自体が無根拠になります。そうするとそれを標準としてそれ以外の生き方を差別するシステム全体が見直される必要があります。そういうジェンダーの基本を踏まえた必然的帰結がシングル単位論です。私のいう「シングル」とは、独身ということではなく、ジェンダーの囚われ(家族単位思考)から自由になろうとする人です。詳しく語る余裕はありませんが、シングル単位の具体的政策を採用していくと、上に述べた家族単位の諸問題がことごとく解決されます。そのかわり、税金をたくさん負担するとか、各人が自己決定する責任を持って生きていくという大変さがあります。
 
  つまり、ジェンダーの囚われから離れるためには、ひとりひとりが自分の頭で考えていき自分で決定していくという自立した人間になることが必要なのです。そういう主体を私は「シングル」と呼び、そうした人を社会の基本単位とすることで、多様な生き方を平等に尊重しあおうと提案しているのです。
 
質問2
 おっしゃること、すごくよくわかります。私もそう生きたいと思っています。
 でも、「シングル」単位の生き方って、芯が強くなければできないのでは? 弱い個々人が「シングル」的な生き方をするためには、何が阻害要因になっていて、それをどう取っ払っていったら、いいのでしょうか?
 
 イダ:
 この問いはよく出されるのですが、でも考えてみたら、自由に生きる、芯が強い人間になりたいですよね。そう思いませんか? 問題は、それは誰でもがなれるのか、能力や個性の問題でどうしようもないのかということでしょう。
 
 私は、実は、個人の自立、自己決定ということを障害者運動から学びました。重度障害者であっても地域で一人で生きていく、そのために、ボランティアも行政制度も生活保護も使う、というような運動です。障害者であっても、過剰に健常者に気を使うことなく、家族の犠牲もなく、好きなときにスーパーに行き、酒を飲み、テレビを見て、ロックコンサートにも旅行にもいけるようにということです。何をいいたいかというと、それは高みを目指した大変な運動だけれども、もっとも「力を奪われて“弱者”と見られている障害者」でさえ、それは獲得できるし、またその自由は保障されるべきだということです。
 
 ということは、どんな人も、エンパワメントされる必要があるということですし、それは可能だということです。能力や個性の問題ではありません。エリートの自由の話ではなく、非エリートの人たちが、非エリートのまま自分をスキになれるように自由に生きる道を見つけようという提案です。エリートの生き方をバカにできるような、自分なりの物語を私はもてるとおもいます。私がスピリチュアリティという自分の〈たましい〉を大事にしようというのはそういう視点からです。
 
 私たちは現状に問題があると思うから運動し社会や自分の生き方を変えていこうと思うのでしょう?その目指す人間像が高みを目指したものであるのは当然ですよね。そして、それは、自分でよく考え、学び、実例を見て、チャレンジし、仲間に出会い、徐々に自分をエンパワメントしていくことで可能なのです。人は弱くありません。弱いと思わされているだけです。失敗や苦しみや喪失から学んで、強くなっていける存在です。
 
  阻害要因があるとすれば、そうした新しい情報・学問・思想に触れず、考えもせず、自分を高みに持っていくということをあきらめているという環境そのものです。だからこそ、もっとこの思想や情報を広め、それを支えあうネットワーク、仲間がいればいいのです。もう一つの阻害要因は、自分を変えようとしないという姿勢そのものでしょう。世界とのつながりを遮断し、思考停止し、いいわけとして「変えられない」「そんなのは理想だ」と嘆くだけの人は、どうしようもありません。周りは、その人がそれでも立ち上がる時期を待つしかありません。そしてそのときがきたら援助すればいいのだと思います。
 
 
 質問3
 とくに政治との関係で、具体的に、どんな政策が必要になってきますか?
 また、今回、イダさんは辻元清美さんを応援されて、見事当選されましたが、辻元さんたち市民派の議員には、何を期待されていますか?
 
 イダ:
 これを語るには、『シングル単位の社会論』で書いたような事をたくさんいう必要があります。一つだけ政治との関係で言うなら、「新自由主義」「大きな政府」「小さな政府」「社民主義」「福祉国家」「グローバリズム」「グローバリゼーション」など、すべてそれなりの議論や定義がある言葉に対して、日本のメディアや政治家、評論家はほとんど何も勉強しないで勝手に自分のイメージで使っているという問題があります。この問題が、今度の選挙での郵政民営化の議論に反映し、小泉路線の新自由主義に、民主党がなんら抵抗できなかったことの遠因です。
 
 これらの概念は、大きな政治体制の選択に関わるときの鍵概念なので、それを明確にしたうえで、北欧型の新社民主義的な福祉国家路線を日本は選ぶべきだと思います。私が市民派に期待するのは、民主党では新社民主義を体現できないと考えるからで、辻元さんを中心に北欧型新社民主義路線こそが、日本の改革の展望だといってほしいからです。
 
 私のシングル単位論は、この路線の鍵なので、左翼・環境・市民派の人はもっとフェミを学んでよといいたいですね。関連図書として、スティーガー著『グローバリゼーション』(岩波書店)や広井良典『脱「ア」入欧』(NTT出版)、宮本太郎[1999]『福祉国家という戦略――スウェーデンモデルの政治経済学』(法律文化社)をおすすめします。
 
 
 質問4
 最後に、「シングル」単位論まではよくわかるのですが、なかなか分かりにくいのは「スピリチュアル・シングル」。どういうことでしょう?
 
 イダ:答え
 今、世の中の議論や雰囲気は、自分が損するか得するか、あいつが悪い、人など信じられない、助け合いなどする気になれないというものです。そうした中で、増税はいやだ、イラク戦争やアフガンのことはもう考えたくない、ということです。
 
 それに対して私たちが、社会をよくしたいというのは、もっと連帯の気持ちを増やしそれを実行する、制度化するということですよね。自分が幸せになることと、他者、次世代、外国の人、マイノリティの人、動植物、地球環境などが幸せになること、苦しみが減ることは対立することではなく、むしろつながっていることです。具体的には、もっと税金を負担したり、ボランティアやNPO活動や社会運動に関わって当然なのです。
 
 でも日本ではそれが今とてもわかりにくくなっている。社会運動が、労働組合に代表されるような、何かしら利権、ダサいもの、エゴ、改革抵抗勢力のように見られている。ボランティアが偽善や暇人の活動のように見られている。だからこそ、私は、いや社会運動やNPO活動というのは、自分と他者や未来とのつながりを取り戻そうとするとてもステキで、かっこいいものなんだよと伝えたいと思っているわけです。そこのところを浮き彫りにするために、スピリチュアルという言葉を使います。
 
 あなたにとって自分の〈たましい〉ってどんなものですか? 死ぬときに悔いなく生きてきたと思えるためには? 自分が本当に望んでいることは? そういうことを各人が深く問い、自分に恥じることなく、自尊心を持って生きていく。そのことを突き詰めずには、今、社会運動は新しい質に転換していかないと思います。そのとき、スピリチュアリティというのはとても大事な概念なのです。
 
  もうひとつ、共同体主義との区別の問題があります。スピリチュアリティは一言で言うと、自分が他者とつながっている存在だという想像力のことですが、そのとき、共同体とか連帯、公共だけを言うと、個というものがそこに埋没される危険があり、全体主義・国家主義・右翼保守主義・天皇主義・宗教依存との区別が曖昧になります。
 だからこそ、私は、常に、自立して自分の頭で考える個(シングル)を基本としつつ、その個が新しいスピリチュアルというべき倫理でつながるというバランスを追求しているのです。それは、従来の愛国心、家族愛、恋愛、宗教心、愛社精神とは違うつながり方です。新しい恋愛/家族/人間関係や新しい社会運動への参加動機の創造という点で、シングル単位とスピリチュアリティという2つの概念の理解はとても重要になっていくと思っているわけです。詳しくはぜひ私の『スピリチュアル・シングル宣言』(明石書店)や私のHPをみてください。〈スピ・シン主義〉によってこそ,新しい反戦・非暴力の論理も展開できると思って書いています。
 
蛇足の質問
 お名前を「イダヒロユキ」さんに変えられたのは
 何か意味が……?
 
 イダ:
 ないです 
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シングル単位の後ろにある〈たましい〉の感覚

 
 
僕はシングル単位論を1990年初頭から主張してきた。それは日本の共同体主義的伝統と家族主義に対抗するものとして、自分としては、奥深い議論で、これは重要かつ有効という直感があった。その発想の背景には、現状秩序を変えようとせずに、その中でぬくぬくと甘い汁を吸っている人への嫌悪感と、僕の強烈な失恋体験があった。
 
 具体的には、僕は大好きで一生いっしょにいると思っていた人にフラれた体験でかなりダメージを受け、愛とかパートナー関係というものを根源的に考えるようになった。恋人がいないという状況を「つらい」と思うことの裏には、「恋人(家族)がいてこそ完全な幸せなのだ」というイメージがあることに気づいて、そこからそうした「カップル・家族」を単位と考える意識と制度のおかしさに気づいていった。もてない人や離婚者はどうしたらいいのか。形式的に家族という形があればいいというのか。そうして年功賃金制度や結婚制度になんの躊躇もなく乗っかっていることへの反省がないのは、少し鈍感じゃないのと思うようになっていった。
 
 おりしも性的少数者からの提起も90年代に入って顕著になり、理論的にも男女二分法の無根拠性が明らかになる中で、男女二分法を前提にして成り立つ「家族=単位」ということの批判は僕の中ではゆるぎないものとなっていった。家族を単位とみている限り、女性差別・少数派差別はなくならないし、問題ともされないことは明らかだった。
 
 だが、家族単位そのものの問題を捉え、それに論理的に対抗するシングル単位、すなわち「男」でもない「女」でもない多様な人(個)を出発点(単位)にしていこうという主張を深く理解する人は日本ではフェミニストのなかでさえなかなか増えなかった。なぜなのか。僕は最初は相手の理解能力の低さ、保守性などに原因を求めていた。
 
 だがそれだけではなかった。シングル単位に対してはある種、共通した批判の論調があった。そうしたものをみる中で、僕は自分が無意識に前提としているものに気づくようになっていった。シングル単位を嫌悪し、家族単位に固執する人は、「単位」という意味を考える前に家族的なつながりへの渇望をもっていた。たとえば、子どもが自分の顔をみるだけで大喜びしてくれるといったような「無条件の愛」への渇望である。シングル単位論はそれを否定しているように感じる人が多かった。
 
 だが、もちろんそれは誤読である。僕の著作を注意深くみてもらうと分かると思うのだが、僕のシングル単位という主張の底流には、人間のつながりへの信頼感のようなものがあった。つまり僕はすでに親しい人たちからその種のものをたくさん得てきたのだと自覚するようになっていった。エンパワメントの中核の自己肯定感である。これがあるから、所有的関係、抑圧や支配や充足従属的関係ではない「シングル」のイメージを自信をもって言えたのだ。その出発点としての「シングル」があらゆる〈国境〉を超えて繋がるときのエネルギーには名前がなかったからいろいろな言い方をしてきたが、徐々に僕の中でそれは〈たましい〉という概念を使うのがいいなと思うようになっていった。
 
 最近は、この点を理論的にも少し整理して、多様性、エンパワメント、シングル単位というような人権論の鍵概念の中核に、そうした〈たましい〉への覚醒を位置付けることを試みている。名づけて〈スピリチュアル・シングル主義〉である。
 
 ☆ ☆ ☆ 

新しい人権論の試みとしては『スピリチュアル・シングル宣言』明石書店。
ジェンダーバッシングに対抗するためにおじさんにもジェンダーフリーがわかるように書いたのが『シングル化する日本』洋泉社新書です。 

 

 『スピリチュアル・シングル宣言』~生き方と社会運動の新しい原理を求めて~ 

 明石書店 2520円2,003年4月
 伊田広行著
 
  社会・政治制度としての「シングル単位論」を先導する社会政策、労働経済、フェミニズム論の先鋭が「スピリチュアリティ=他者とつながっているきれいな部分」について、論じている。
  従来型の「正しい社会運動」に感じる「どこか違うゾ」という感触、かたや「癒しブーム」の背景にある高密度過労社会と社会性の欠落した殺伐さ。そのまた一方で頭をもたげている「スピリチュアル精神」を強調する「伝統」への回帰運動。そうした中にあって、著者は、「ちゃんと、まともな、どっしりとした<たましい>のこもった社会変革運動」を提唱する。すなわち本書のポイントは、「シングル単位」だけでも「スピリチュアル」だけでもないその両者を総合したもの(スピリチュアル・シングル主義)の展開にあるのである。
 
  著者も危惧するように、「教訓の本」と読まれてしまう危険性もある。言葉で近づくのが、とっても難しいテーマである。しかし、今の時代、「運動」と知性、身体、感性、<たましい>を総合的に考える、こうした果敢で刺激的な試みが、必要なのだとつくづく思う。
  「シングル単位論」がまだの方、この際整理したい方には、わかりやすく解説した新書版の近著『シングル化する日本』(洋泉社 756円 2003年4月)との併読をお勧めする。 
 
 
 著者インタビュー 

 『スピリチュアル・シングル宣言』『シングル化する日本』の著者 伊田広行さんに聞く

 
 Q:「シングル単位論」のような現実の変革運動と「スピリチュアリティ論」がセットになってこそ意味が出てくるという主張を総合的に展開した本ですよね。「運動のやり方」といった本はあっても、「変革運動」と「精神的、身体的なもの」を総合的にとらえようという本は、あまりないと思うのですが、反応は?
 
 伊田:いくつか、共感の電話やメイルをいただいています。まだ出たばかりですから、これから理論的な部分も含めて、共感や批判が届くでしょう。なんとなく皆が求めている方向を言葉にできたと思うので、硬直した「確信犯」的な人たちはともかくとして、運動していて何か悩んでいる人たちとは新しい水準でつながっていけると思っています。
 
 Q:〈スピ・シン主義〉でいくと、従来の「運動の姿」のようなものが随分変わると思うのですが。
 
 伊田:従来型の運動が必要な局面もありますから、それ自体を否定はしません。その上で、自分としては、静かな、心をこめた、じっくり交流する運動スタイルをとりたいと考えています。従来型の運動でも、言葉の使い方とか相手との向き合い方とかで、随分違ってきます。
 
 Q:運動をしていると、競合的になったり、傷つけあったり、威圧したりがどうしても出てきます。そういう雰囲気が「運動」から人々を遠ざけている理由の一つだと思うのですが。スピリチュアルなスタイルでいきたいと考えた時、どのようにトレーニングしたらいいのでしょう。
 
 伊田:良質なワークショップ型の学びや運動実践・活動実践に参加し、対等に語り合うことではないでしょうか。瞑想するとか、思いを作品にするとかの形で一人で自分を見つめる静かな時間も必要です。
 
 Q:伊田さんが〈スピ・シン主義〉にいきついたきっかけのようなものは?
 
 伊田:積み重ねの結果なのです。私の<たましい>が、いい人、いい文章の<たましい>を感受して積み重なっていったのです。病気だとか恋人と別れたとか、歳をとったとかという「弱さ」との出会いも作用しているかな
 
 Q:読み進むうちに、自分の中にも「自分の内面としっかり向き合いたい」と熱望する部分があることを発見しました。ありがとうございました。
 
 (聞き手:森屋裕子)
 
 
 


 
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 生き方:主流秩序を前にしてたたずむ


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 専門家だから偉いのだ? 

ーーー専門家だから、高いお金をもらうのは当然なのだ、というけれど

 
専門家とかプロというひとが、「仕事にはちゃんと金をもらいます」という。「私は高いですよ」という。そういうのをときどき見聞きして、そうなのかなと思う。
 カウンセラーが、私は知り合いにはカウンセリングしませんという。それはそうなのだろう。カウンセリングには一定の距離がいるからだ。それが教科書的答えだ。
 
 しかし、という思いもある。
 カウンセラーが、「私のカウンセリングは高いですよ」という。「知り合いには仕事はしないという」
 それはほんとうにそれだけで、そうなのか。
 
 友人、身近な人の話を聞く、傾聴するというのはどうなのか。
 そこに、私の専門性への過信はないか。「私は特別」という思いはないか。
 
 あちこちで、専門家の傲慢さを感じる。
 私の1時間は高いのだ。私が講演をすれば1時間2万円なのだ。30万円なのだ。私が1時間かけて執筆すれば○○万円なのだ。
 そういう傲慢さが透けて見えるようなことがある。
 
 有能な人は、秘書や部下を持つ。事務所を持つ。効果的に仕事をこなす。分業である。私は偉い先生なのだ。だから雑務は他の人にやってもらう。私の1時間は高いのだ。雑務をしているほど暇ではない。私の頭脳は特別の価値を産むのだ。
 私はテレビに出ている有名人である。私はタレントである。私はアーティストである。私は、大学の教授である。私はカウンセラーである。私は建築家である。私は国会議員である。私は社長である。だから、私は、普通の人、主婦、ただのサラリーマンとは違うのだ。

 私は有名なのだ。私は他の人とは違うのだ。
 だから私の時給は高いのだ。私はプロだから。
 
 ボランティアというのはどうなのだろう。パートの人が1時間800円で働いている。そのことはどうなるのか。
 専門家は、ボランティアをするのか。専門家らしいボランティアをするのか。専門家が、ただの無名の、ボランティアをするのは無駄なのか。忙しい有名人だから、ボランティアをする暇がないのか。仕事を通じて社会に貢献しているから、わざわざボランティアなどしなくてもいいのか。
 私を誰だと思っている。私はあの、有名な、○○だぞ。知らないの?
 
 正社員の多くは自分の時給を自覚しない。そして管理の観点で、「派遣なら1200円、パートなら800円でいいだろう」と考える。「人件費コストの観点」からだ。
自分と他者を切断する。政府の審議会に出るような人は、自分はお金持ちだが、そのことは棚に上げて、雇用の流動化・弾力化を語る。
 1食に500円かける人がいる。5千円の人もいる。5万円の人もいる。
 飲みにいって1回、3000円ぐらい簡単に払う人は多い。デートで1回、5000円ぐらい使う人は多い。
だが、社会運動に1年間分3000円カンパする人は少ない。
 
 年収500万円で足りないといっている人はいる。公務員の平均年収は600万円を超している。
 年収800万円を超えている男性はかなりいる。
 一方、女性は年収300万以下が約7割だ。非正規は女性の過半数となっているが、非正規労働者のほとんどは年収200万円以下だ。
 
 1時間、講演か何かをして何万円も何十万円もお金をもらうことに、後ろめたさはないのか。
 
 専門家だから、はい、発言を聞いてください。皆さん、ありがたがって聞いてください。聞きなさい!
 普通の人の質問や意見は、短めに。私は忙しいんで。どうせ素人が言うことは知れてますから。
 最後に私がいいことを言います。密度の濃い、すばらしいコメントをします。

 司会者さんが、私に特別の発言枠をくれるのは当然。くれないなら、憮然としますね。

 最後に皆さんに拍手してもらいましょう。だって私は特別忙しくて1時間が高い人だから。わざわざこんな所に来てあげているのだよ。

 はい、本も出してますよ、テレビにも出てますよ。ネットやメディアに出てますよ。

 腰の低いフリして、内心ではこんなことと思ってますよー。皆にほめられ、尊敬される、私はすばらしい有名な人。
 だからお金はたくさんもらえて当然よ。
 私は人生の成功者!
 
 ★ ★ ★ ★ ★
 
 私にもカンペキなコタエはない。自分もお金をもらっている。
 「仕事だ」というのは簡単だ。「私は専門家だから」と言うのは簡単だ。
 
 典型的な表現は、「慈善事業じゃないんだから」である。もっとも創造性のない言葉だと思う。
 あ、もうひとつ、もっとも創造性のない言葉があった。「お金はあってもじゃまにならない」というヤツ。
 
相田みつをさんは、仏教的なものをわかりやすく伝えるという形で、多くの人にポジティブなものを実際に伝える仕事をしている人だと思う。プラス面はあると思う。だが、彼も次のように書いていた。
「かねが人生のすべてではないが/あれば便利/ないと不便です/便利のほうがいいなあ」(『にんげんだもの』より)
 
相田さんに対する私のスタンスは、わかりやすくて誰もが受け入れる、毒のない、浅い言葉を書く人だということです。いいこともいっています。すこしスピリチュアルだと思います。しかし浅い。
 
私は、スピリチュアリティというのは、現実との格闘、特に力をうばわれている側から学ぶようなところに、その運動に実践的に関わるところに、もっとも現れ出てくるものだと思う。それが私の『〈スピリチュアル・シングル〉宣言』で言いたかったことだ。
本田哲郎神父のような実践にホンモノの匂いを感じる。
 
相田さんに限らず、ほとんどの宗教、精神世界系のような、「制度変革、権力との戦いの提起を避けて、心の持ち方を変えることですます」ような言葉は、実際どういう作用があるのか。誰が喜んでそれを受け入れているかで、大体、その正体がわかる。
中立を気取るメディアや評論家も。
 
 
話を戻すが、だから「かねが人生のすべてではないが/あれば便利/ないと不便です/便利のほうがいいなあ」などというのは、文脈抜きになら目くじらたてるほどのことでもない「庶民のホンネ」だ。「そうよねぇー、ほっとするねー」だ。
 
だが、私たちはこのひどくてすばらしい社会に生きている。新自由主義の下でのカネ万能で、非連帯の、能力主義の、競争格差社会に生きている。文脈抜きにはその言葉はありえない。
 
今、何と戦うか、何を大事にするかで、その人の“程度”がわかる。
「カネ」「シゴト」「プロ」等という言葉をどの程度深く使えるかで、その人の“程度”がわかる。
自分の1時間は高いのだと思うような人にろくなやつはいない。
(自戒をこめて)  


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辻元清美さん応援 

 
 05年5月20日

 私が辻元さんを応援するワケ

   今度、辻元清美再生プロジェクトの共同代表をさせていただくことになりました、イダヒロユキといいます。はじめまして。で、よろしく。
 
 私が辻元さんを応援するわけ? エーとなんだろ? 当然なような気がします。今のおろかな政治家がばっこ跋扈する国会にあって、真に対抗的なパワーをもっている人だからだし、僕自身が、少しはまともに生きようとしているので、まあしんどいところでがんばっている彼女を「見殺し」にはできないなあ、無関心ではいられないなあと思ったからだし・・・。まあ、近所だという偶然もあるし。
 
 
 で、突然ですが、元吉本興業ののりやすひろみつ軌保博光(てんつくマン)の「107+1 ~天国はつくるもの~」という映画観ました。彼の本も読みました。アフガニスタンの絶望的な状況の中から伝わってきたのは、「あきらめたらあかんのは、俺やったやん」ということでした。観てない人にはようわからんわなあ。ごめん。
 
 でも彼が繰り返し伝えようとするものには、普遍的なものがあるように思えるのです。それは、「感動無き続く人生に興味なし」とか「痛いとかつらいといったマイナスのことに対しては、そこに意識を集中するのでなく、楽しいことのエネルギーで突破する」ということでもあるのだけれど、もう一歩突っ込んで見れば、枠をつくり動かしていくアイデアこそ勝負のしどころだということです。
 
 これは、加藤哲夫さんや片岡勝さんにも通じる、ワークショップ的というか、問題解決を考え続ける生き方というスタイルです。それは古いスタイルとホントに一線を画します。
 
 辻元清美的なものは、そういうのととっても重なると思うからこそ、僕は近くにいて少しでも何かしたいなと思うわけです。
 彼女がこれまでの政治なるものと同じなら、そこに変化し続ける潜在力がないなら、僕はここまでコミットしないでしょう。彼女は変化し続け、探し続け、迷い続け、「こっち」側にい続ける人だと直感的に思うからこそ、僕なりの「信頼」ができるのです。
 
 さあ、こんなところが僕なりの「応援するわけ」です。でもこれは僕の物語。
 あなたにはあなたなりの「応援するわけ」があるはずですよね。彼女は、憧れのリーダーでも救世主でもヒロインでも教祖様でもないです。答えを教え導いてくれるのを待つ受身的な「大衆」は必要ないです。
 彼女にがんばってもらって、僕らは安全なこっちで観客してるってもんじゃないだろうってことです。自分で問題解決のアイデアを求め続ける人が、政治的には、辻元さんの応援もするという位置にいるのだと思います。 

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宮地さんはいいですよ   

 (05年9月20日) 


 人権を考えるというレベル
 
 宮地尚子さんの論文を読んだ。すごくぴったりきた。「男制の暴力とオルタナティブな親密性」(『情況』2005年6月号)だ。目配りが効いていた。過不足なく的確に大切なところに届くことができる人なのだと感じた。フェミへの無理解やバッシングがあるが、こうしたちゃんとした人に触れると、もう勝負は明らかなのだ。ちゃんと生きていけばいいだけだ。
 
  その尊敬すべき、いまイチオシの宮地さんの新しい本がでた。『トラウマの医療人類学』(みすず書房)。いい本だが、地味なのでなかなか知られないだろうと思っていると、『朝日新聞』のいい書評がでた。さすが鷲田清一さんだ。
 
 ぜひ読んでみてください。フェミ・バッシングする人、ぜひ読んでみてください。
 人権を考えるというようなことへの、真摯な姿勢が、こうした高いレベルで広がっていきますように。
 

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ある学生さんの意見への応答(2022年)


 

ある学生さんの、前の課題への答えに対して、面白い意見なので、伊田がいろいろコメントしました。 


学生の意見 

フェミニズムを男対女という理解は良くないのは理解しているつもりだが基本的には男性が独占している権利の再分配というニュアンスのものが多いと思うが、私は男性で長男としてならいまだに参政権は明治のままでもいいと思うのですが一般的な考えとして自らの権利を最大化し利益を得ようとするのが生存競争のレールなのではと思うのですが、その権利の再分配をするメリットを知りたいです。 

→ 伊田コメント
 まず、男性全体が女性よりも「権利」「(利権、特権)が多いという「よくある考え」をジェンダ―秩序ということで、批判的にいっているのですが、そこの理解がないと思います。ジェンダー秩序で上位の女性は、ジェンダー秩序で下位の男性よりも、貴方の言う「権利」が多いですよ。だから問題は、主流秩序の上位者がその「権利。利権」を減らして下位の者が権利を増やすのは、下位の者にとっては利益があります。連立方程式で多様な要素を考えれば、それによる「主流秩序のマイナスの改善というメリット」など「変革の利益」はあるわけです。 簡単に言えば、貴方の友達や恋人で、女性で、男女の権利の再配分が起これば、その友達は少し幸せになりますよね。あなたはそれを望まないの?という問いです。
あなたは単純に「ほかの人が少し幸せになるとか格差が小さくなるのは、自分は興味ない。自分の利益が減るか増えるかだけが関心事だ」と言っているのですか? 単純エゴイズムで良いと言っているのかな?それなら「連立方程式の(B)だけを重視してあとはどうでもいいという世界観」ということですね。世の中にはそういう人もいるけれど、貴方もそうなのですか?「社会を上から考える為政者のような視点」で「競争による全体の生産性が高まるのがいい」という考えなのですか? 

ということで、貴方の意見は「生存競争のレール(ルール)」にのって個人として主流秩序のある所で利益を得ている人は、主流秩序のみなおしに利益を感じないといっているだけですよね。競争のレールが大事ではないという考えもあるけれど、貴方はそれ(競争大事)を前提にして大事にしているのかな。 

それにたいして、この講義では、そこだけを焦点化する世界観自体が、主流秩序の枠でしか考えてないのですよ、と指摘して、枠を広げて考えてみませんかと提起しているのです。それが、あなたがとらわれている枠を超えて、新しい可能性を広げるからです。 

これをこの文章だけで理解してもらえるかわからないけれど、講義の第1回から積み重ねてきて、そのあたりを分かっていってもらえれば、書きぶりは変わるのでは? 「一般論」「普通」枠を広げたうえで、自分がどこに重点を置くかは自由ですけど。あなたの思考の前提が気になるなあ。 

 

 学生の意見

それがお金であれば日本は比較的富んでいる国ですがそこに住んでいる私たちは自らの生活水準を下げてまでアフリカなど貧困国と富の分配をしようとは思いません。せいぜいその罪悪感を消す募金ぐらいです。 


伊田→ なぜそう言い切れるかな? そう言い切るのが、思考の枠が広がってないよねと言っているわけです。まさに主流秩序とか、考えなくて、何も考えないままのときに「二項を対立」させて、自分の利益か、アフリカの人の利益か、といって、アフリカの人など関係ないしとしているわけで、世間ではよくある意見ですよね。もっと枠を広げて 本当に自分の利益って、それだけか?とか、2つの要素だけで対立しているのか?と考えてみようといっているのです。あなたは本当にアフリカの子供の貧困を減らしたいとは思わないのですか?。あなたにとって少しのお金が減ってそのお金がもしアフリカの誰かに行くとして、其れはそんなにいやですか。2つしか要素はなく、あなたにとって自分優先が自明(あたりまえ)ということではないとおもいます。人間はもう少し複雑だし優しい面もあると思います。 

 

学生の意見
その観点からすれば例えば先ほどの女性参政権が認められるのも男性にはあまりメリットがないような気がするのですがそこのメリットが何なのかを知りたいです。この場合男性にメリットがないものだと反発があるのは必至であると思います。私が思うメリットはフランス革命のようなものが起こらないようにするためぐらいです。 

伊田コメント→ 
上記したことと重なりますが、貴方の女性の知り合いが利益を得るのが、そんなに嫌ですか? 自分の利益という要素に対して、主流秩序の下位の者(男性やLGBT含む)の苦しさが減るとか、競争の圧力が減るとか、自分の生きる中心軸を考えられるとか、主流秩序で重視されない要素を大事にできるとか、自分の主流秩序加担性を減らせるとか、いろいろあるよねということをいっているのです。其れがメリットです。男性でも美の秩序に苦しんでいる人はいますがあなたは苦しんでないのでしょうか。 

それに対してあなたは、主流秩序のマイナスは、自分にはどうでもいいことで、自分の利益があればいいと言っているわけです。私は、「本当にあなたはそれだけなのかな?」と問いかけているのです。そこまで、人類全体の利益とか自分の利益を狭く捉えるのはなぜかな? 

 

学生の意見 

確かに美しくないと思う人が劣等感を感じることがあるのはもちろんだが、この美の秩序がない場合美のカオスが待っていてどんなに努力しようが美にはだどりつけないような答えのない苦しみがあるのではないだろうか?法律と同じように所属社会がこれが美、これが醜とルール決めしてくれていることで型にはまった生き方が可能であると思い、美のルールから 自らさがさなければならない社会に比べると個人個人の生産性も上がるのではないか?法律がある世界でも前科がある人は生きづらいなどという問題があるが だからといって法の秩序を消す理由にはならない。それと同じように美の秩序もそれにのっとっている大多数の人はファッション誌などの美の六法全書を持って型にはまって生きようとしているのではないだろうか?それがない社会よりも大多数は生きやすいのではないかと考える。 

伊田コメント
 まず主流秩序批判は、完全に秩序をなくすということではないです。法律はいります。今の主流秩序を見直しても別の主流秩序にかわります。カオスになるわけではないです。少し批判勢力が出ても主流秩序は強いですからご心配なく。しかし、前科ある者を過剰に差別するのは減らした方がいいですね。バランスです。 

またあなたには、今言ったように簡単にカオスにはならないということとともに、そもそもカオスがあるのがよくないとか、カオスが来るはずだという前提があるようですが、そうともいえないと伝えたいと思います。
不利益がある人には、そこが変わるなら少しのカオスはいいのでは? あなたは今の主流秩序に凄く利益を得て、現状が変わるのが嫌で、それをカオスととらえてしまうということかもしれません。「社会を上から考える為政者のような視点」でいうならわかりますが。 

そこにからみますが、美のルールがなくなって自分で探さないといけない社会のイメージが私とあなたでは違うようです。私は、今の美の秩序が緩む社会は好ましいと思うんだけど、貴方は、何かいやな感じがあって「生産性が下がる」というんですね。ここでもあなたのスタンスが生産性を考えるような「社会を上から考える為政者のような視点」になっています。あなたはどうして生産性などを考えるのかな。 

普通の人にとって社会全体の生産性などあまり大事ではないと思います。美の秩序がへっても生産性はあまりかわらないかもしれません。例えばサッカーや散歩や音楽を楽しんでも。すこし生産性が減っても、いいじゃないですか? しごと以外でスカッと楽しんで、短い時間で集中して働けば、生産性もそんなに低くならないと思いますし。(日本は先進国の中で長間労働で生産性が低い社会です)
あなたは社長さんで会社員に「さぼるな、もっと利益を上げろ」と言いたいのですか。違うでしょ。首相でも経済界の重鎮でもない人が生産性を考えるとは、今のネットでよくある考えに影響されている感じがします。私はもっと、普通の人はそうした社長・為政者の視点から離れたほうがいいという立場です。 

主流秩序があるほうが多くの人は生きやすいという意見は、主流秩序のメリットで指摘してたようにそういう面はあります。しかし、マイナスとを含め多様な要素を全部、天秤にかけてバランスで考えようといっているのです。
あなたが社会の安定とか生産性以外の要素で大事にしたいものを意識すると、意見が少し変わる気がします。主流秩序の価値観とは別に、あなたが自分の人生で大事にしたものは何ですか? 私はそれを“たましい”と呼んでいます。ブルーハーツが«情熱の薔薇»で「心のずっと奥の方」と呼んでいるやつです。 

学生の意見 

やせ過ぎの記事を見たが、上記と同じで、美の秩序がないカオスのほうが怖いと思い、太るかやせるか標準体型かという取り決めを考えないといけないが、標準体型や普通はその定義が難しくカオスを引き起こす可能性があり、やせ型は現在は医療技術で生命維持は可能であろうし太っているのを美としてみる国の動画も見たことがあるが、そちらのほうが非経済的で無駄な食べ物を食べているということで食品ロスであるし医者で はないのでこれは感覚の話であるが、やせよりも太っているほうが健康被害が大きそうに思える。ので確かにさせていて問題を発生している人がいるのは確かだが 、それはコラテラルダメージであろう。全員を幸福にできる社会は無理だし私は不幸な人も存在する社会のほうが生きやすい。 

伊田コメント→ 
上記ですでに述べた問題と同じですね。「全員を幸福にする社会」になるのは無理ですね。だから現状の主流秩序のままでいいというのはまた二択しかない思考になっています。不幸な人を減らすことは可能ですよ。貴方が何か一つすれば、其れだけでも世界は少し良くなります。一人を助ければそれは助けないないよりましな社会です。
痩せる価値感が強いと苦しむ人が増えるのに、どうしてあなたは為政者のような全体の視点で「食品ロスとか、健康とか経済」「カオス良くない」を言うのかな。其れが主流秩序に取り込まれた枠組み思考だと言っているのですが。 

そして「コラテラルダメージ」という言葉、どこで学ばれたのですか。ネットでも見られますが、「副次的な被害」「戦闘における民間人被害」「政治的にやむを得ない犠牲」というようなことで、結局、「全体のためには少しの犠牲はしかたない」という主流秩序の強者、為政者、多数派、権力者の言い訳によく使われる言葉です。 

あなたは何を大事にするから「その被害は仕方ない」と切り捨てるのですか。ここは大事なところで、貴方は被害を受ける側ではないのですか。私は、権力者の視点、鳥観図の鳥の視点でなく、犠牲になる側、地面にいる虫の側、庶民の側から、「全体のために私を犠牲にするな」と抵抗することが大事と思っています。功利主義自体も正しい絶対真理ではないです。 

コロナでも上から視点の人は、「過剰に怖がるな、一定の人が死ぬのは仕方ない、風邪でも人は死ぬ」、とよく言いました。自分が死ぬことは考えてないんですね。実際、日本では多くの高齢者が死にました。自分が死ぬ時、コロナを軽視したことを悔やむでしょう。自分の大事な人がコロナで死ぬ時、自分の過去の言葉を悔やむのではないですか。 

そういう視点で「コラテラルダメージ」という言葉も考えてみてください。一言でいうと、「コラテラルダメージ」という言葉で考えること自体が、主流秩序の思考だと言っているのです。 

もちろんこうした私の意見は、社会では少数で、反発も受けるでしょう。伊田が正しいという話ではないです。伊田が提起している主流秩序というのはそういうことを考える道具で、貴方は(学生の皆さんは)「コラテラルダメージ」という言葉をどういうポジションから言っているのかと問いかけているのです。それが「カツアゲ被害を見たときにどうする?」という問いです。自分の利益・安全・効率的生活だけを考えるなら、見知らぬ他人のカツアゲ被害など関わらないのがいいですよね。 

私は、貴方がすごく賢くてよく考える可能性がある人だなと思ったので、ちゃんと対応して書きました。対話を続けましょう。意見の違いはあってもいいのです。相手の言っていることを受け止めて、意見を交わしましょう。 

 

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 紹介:『シングル単位の社会論-ジェンダー・フリーな社会へ』


世界思想社、1998年

 
 21世紀のフェミニズムは?
 
  20世紀を振りかえると、フェミニズムが、近代化の中で生まれ、その各時代条件の中で、女性の解放を目指してきたものということが分かる。資本主義への形式的参加を求めるリベラルフェミニズムからはじまり、<平等>概念を武器にリブ、ラジカルフェミニズム、マルクス主義フェミニズムが進展し、その結果、<ジェンダー>概念を獲得して、近代自体を食い破る方向を持ち始めているのが世紀末の現在である。今後は広義の「ポストモダン」社会に向かって、近代二分法を乗り越える<シングル単位>社会要求へとその主張は進展していくであろう。だが、今の日本では、ジェンダー・フリーの意味をシングル単位として深く理解していないものがほとんどである。先進国中もっとも家族単位的性別秩序を強固に持ち、いまだ北欧型福祉国家路線の意味もほとんど理解できていない日本社会は、まず、家族単位という呪縛自体の自己認識からはじめる必要があろう。逆にいうと、人権擁護をめざす運動側は、どのような具体的政策を提起しうるのかという視点で、シングル単位概念を理解しなければならない。
 
 

 紹介:『シングル単位の恋愛・家族論-ジェンダー・フリーな関係へ』

世界思想社、2998年 
 

脱恋愛、脱家族へ

 
  巷にあふれている恋愛論も家族論もつまらない。古臭すぎる。いまや近代のジェンダー二分法システム(家族単位システム、異性愛結婚制度)による「性の制限」からの脱却につながるか否か、それを破壊する気があるか否か、そしてそのことの困難性を十分自覚しているか、過渡期の戦略を十分に意識しているか否かが、重大な「評価の分岐点」になっているにもかかわらず、そこを深く本質的に理解しないものばかりだからである。若いやつも新しぶってる学者も、こと恋愛や結婚となると超保守化する。みんな秩序好きなのね。
  本書は、離婚は子どもによくないとか、老後が寂しいとか、結婚するのも悪くないとか、愛しあい続けるのはいいことだ、浮気はよくないといった常識を、根源的に批判している。ぴちぴちと生きていくためには、家族や恋愛や性・セクシュアリティについてどんなふうに考えたらいいのかを、本気で考えた。ポスト「近代化」の現在にあっても、日本では「近代化」の終焉を意識したレベルでの議論と運動があまりにも少なすぎる。
 
 <お薦めします!(書評)>
 

 ★人々が自立した「シングル」として生きられる、
  少しでもマシな社会にするために。 

 ――伊田広行『シングル化する日本』

(洋泉社新書y、720円+税)
 
 日本ではこれまで、結婚して子供が2人いる「標準世帯」を想定して、さまざまな社会制度がつくられてきた。でも、もうそんな「標準」自体がすでに標準とは呼べなくなっている。このままの政策を続けていたら日本の経済、社会はますますひどいものになっていく。人々が自立した「シングル」として生きていく(生きていける)社会にするように政策を変えて、少しでもマシな状況を作っていこう。伊田さんは、この本でそんなメッセージを私たちに投げかけている。
 
  結婚や出産をしていなければまるで半人前扱いだった日本の社会でも、すでに大きな変化が起こっている。この本の前半は様々なデータを紹介しながら、その変化の実態を示している。未婚・生涯非婚率の上昇、離婚の増大、晩婚・晩産化と少子化。性役割意識の変化、専業主婦率の低下と女性の社会進出。男女が結婚して子を持ち、家族をひとつの単位として労働、家事、育児、介護などを行うことを前提とした「家族単位」の行政や企業の政策は、すでに現実に対応しえなくなっているのである。これまで日本の「小さな福祉」路線は、家族の無償労働と企業福祉、公共事業による需要拡大に代替されてきたが、もうそれではやっていけない。
 
  では、この現状にどう対応し、将来の社会政策を構築すべきか。本の後半ではこの点がわかりやすく説明されている。従来の「家族単位」システムにかわって、多様性を認める新しい発想のあり方には、大別して「新自由主義」と「社会民主主義」の二つの道がある。伊田さんは後者、それも「新しい社会民主主義的な道」を支持する。そのベースとなるのは、「シングル単位」の考え方である。「シングル」とは独身という意味ではなく、「近代的な役割や秩序にとらわれている限界を超えた『個』のあり方を実践する人間」「深く他者とつながっていける出発点としての個人」を意味している。
 
 「シングル単位社会」では、戸籍制度、税制度や社会保障制度もすべて個人単位に変えていく。労働面では同一価値労働同一賃金・時間給をベースとした個人単位賃金とし、雇用形態差別を禁止、みんなが短時間正社員になる。それは当然ワークシェアリング社会となり、みんなが収入を得る労働と家事活動、余暇や社会的活動の時間を作れるようになる。それはまた「脱成長・質・<スピリチュアリティ>」を志向する道である。弱者を大量に生み出す新自由主義的な社会との違いは、環境や人権などの観点から社会政策的規制を市場原理に組み込み、公正さのバランスを図る点にある。
 
 伊田さんの主張には強い共感を覚えるし、それが実現可能であることも理解できる。たとえば北欧のスウェーデンではそれに近い社会が実現されている。私が出会ったスウェーデン人のカップルはともに仕事を持ち、2人とも複数回の結婚経験者で、お互いの連れ子や養子を含めて10人近くが「家族」として暮らしていた。子供が病気になれば夫も妻も気軽に休みを取るし、夏は2ヶ月ぐらいは休む。日本と比べれば、ずっと多くの人が人間らしい暮らしをし、自分の生きたい生き方を選択できる社会が作られている。
 
 それにしても、日本社会をそのように変えていくのに必要な時間とエネルギーを思うと、ため息が出そうになる。乗り越えねばならない障害の一つは、税金や社会保険料の負担が大きくなること。「社会保障を中心とした公共投資を進めることで税への信頼を取り戻していけば、実現は可能」と伊田さんは言うが、抵抗は相当強いだろう。つまるところは人々の価値観の問題だと思う。自分の収入が減ってでも、より公平な社会を実現すべきと心底望んでいる人がどれだけいるだろうか。また、保守的な性別役割意識に固執している人も意外に多い。私自身、最近離婚したのだが、「無責任だ」とか「人間としての義務を果たしていない」と言う人もいて(離婚自体がそうなのか、子供を産まないことがそうなのか、私にはよく理解できないが)、うんざりした。
 
 私は、少なくとも、そういう保守的な価値観の人を再生産しないために、様々な機会を通じて新しい社会の理想像を話し合い、語りかけていきたいと思う。そう考えて、ことあるごとにこの本を読むことを(特に若い人たちに)薦めている。
 (立命館大学非常勤教員・櫻井純理)
 


ジェンダー概念について

 

 ジェンダー、ジェンダーフリーについて

 (2006年3月1日)
  イダヒロユキ
 ジェンダー、ジェンダーフリーについて簡単にまとめました。
 私のまったく個人的見解です。
 ア、イ、ウの3つの文章からなっています。
 
 詳しくは、拙著『続・はじめて学ぶジェンダー論』(大月書店、2006年3月末出版)
 および
 日本女性学会・ジェンダー研究会編『Q&A 男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシングの論点』(明石書店、2006年5月出版)
 をみていただけたらと思います。
 
 ☆ ☆ ☆ 

ア: ジェンダー概念の整理

 
 ジェンダーフリー・バッシングが横行しています。あまりにも低レベルの議論が多いので、再度ここで、「ジェンダー」にまつわる概念の整理をしておきたいと思います。
 私は、「ジェンダー」概念には、いくつか異なった意味があり、そのどれもを含んだ多層的な概念だと考えています。前著でも本書でも、そうした立場で書いています。
 
 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 
 
「ジェンダー」の意味の4つの水準
 
 1:単なる性別としてのジェンダー
 
 2:社会的性別・性質としてのジェンダー
 
 3:規範および参照枠組みとしてのジェンダー
 
 4:「性に関わる差別/被差別関係、権力関係・支配関係を示す概念」ということ、および「そうした性に関わる差別・支配関係を解消することを目指すもの」という意味でのジェンダー
 
 
 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 
 
1:単なる性別としてのジェンダー
 ひとつは、単純に「性別、性差」を示す意味です。浅い意味で、単純に「男女」というところを「ジェンダー」という場合がこれにあたります。単なる男女別統計のことをジェンダー統計といったり、「操縦者のジェンダーを問わないハイテク兵器」といったり、男女平等をジェンダー平等というときの浅い意味は、このレベルです。
 しかし、日本語で話す時に、こうした「単なる男女・性別」ということをいうために、わざわざ新しい単語としての「ジェンダー」を使う必要はないといえます。たとえば男女別名簿をいちいちジェンダー別名簿という必要はないでしょう。ですから、この「1」の意味でジェンダーといっても間違いではありませんが、あまりこの意味では使わないほうが、無用な混乱が減ると思います
 
 2:社会的性別・性質としてのジェンダー
 ジェンダーの2つめの意味は、「社会的・文化的に形成された性別・性差」「社会的文化的に構築された男や女の性質」というものです。生物学的な性(セックス)と区別した範囲での、文化として身についたその人の性に関する意識や行動のあり方という意味ともいえます。「自分は女である/男である。だから・・・と振舞う」といった性区分上の主観的自覚(性自認)、アイデンティティ、性役割意識、性的な言動などは、生物学的にのみ規定されるのでなく、出生後の社会・文化環境にも大きく影響を受けると考えられています。日々、主に既存の性のあり方をベースに呼びかけられたり、扱われたり、教えられたりする中で、人は社会的な性を内面化し自分のアイデンティティにしていくのです。それを示すために、生物学的性差(セックス)に対比してできた概念の、まず最初のレベルの定義が、この「2」のレベルの「ジェンダー」です。
 この、「単なる、社会的性別」という意味でのジェンダーの「2」の定義は、まだ権力・支配関係、差別や人権侵害とは切り離された、抽象的で、価値中立的なレベルでの概念です。人の性は、社会的に作られるという面をさしているだけです。多数派があるジェンダー・イメージを持っているがゆえにそれが圧力となっていくという「3」のレベルをまだ含んでいない段階の定義です。
 時代や文化によっても、個別家庭、年齢、職業、などにおいても、このレベルの「ジェンダー」は異なっているとみることができます。
 
 この「2」の定義において「性に関する意識や行動のあり方」の側面で理解して、「2つでだけではないジェンダー」「多様なジェンダーがある」「多様なジェンダーを認めよう」「望ましいジェンダーをつくっていこう」というような使い方をする場合もあります。つまり、男女の2種類だけでなく、トランスジェンダー、同性愛、自分の性アイデンティティが男女2分法に収まらない人(性自認が従来の分類枠内に入らない人)など、性のあり方をグラデュエーションとみるということも、この「2」のレベルでいうことができます。ですから性自認のことをジェンダー・アイデンティティというのです。ただ、この「2」のレベルでは、そうした性的マイノリティへの差別をなくしていこうという意味や男女2分法というジェンダー秩序への根源的疑義を感受するということまでは含んでいないとみることができます。
 「ジェンダー概念は、それ自体に、良い、悪いの価値観を含むものではなく、中立的な概念である」とする政府の見解(男女共同参画基本計画に関する専門調査会「社会的・文化的に形成された性別」(ジェンダー)の表現等についての整理:2005年10月31日)もこの「2」のレベルの定義を基本としているようです。
 
 3:規範および参照枠組みとしてのジェンダー
 ジェンダーの3つめの意味は、「男/女はこうであるべきだという規範」および「男女への社会的期待や処遇が差異化される参照・準拠枠組み」ということです。
 社会的につくられた「ジェンダー」というものは、多くの社会ではある一つ(ひとかたまり)の「女/男らしさ」が主流となっていき、それは必然的に、規範や参照枠組みとなっていきます。
 規範とは、「社会においてどうあるべき」といった価値判断のことです。「社会の多数派がもっている、男女の違いに関する知識、伝統的な性区分、性役割のイメージ」、いわゆる「女らしさ/男らしさ」としてのジェンダーであり、固定観念として捉えている男女の特性という意味でのジェンダーであり(固定観念だということは、そのことを少し批判的に見ているということを含意しています)、「女らしさ/男らしさ」にあわせて生きるべきだ、それが当然・自然だという規範力を持ったものとしてのジェンダーです。
  またいったん確立した多数派の持っている「女らしさ/男らしさ」によって、男女への社会的期待や処遇が差異化されるということがあります。そうした男女異なる処遇や期待をもたらす「参照・準拠枠組み」というものがジェンダーなのです。
 
 そのときのジェンダーの内容としては、男性の場合、「知性と行動力と支配」が、女性の場合、「美と従順とケア」が中心となっています。
 ここでの意味は、客観的に観察される、「男女の差異的処遇」や「差異ある期待」や「それに基づいて形成された差異ある『女らしさ』『男らしさ』」にたいし、「それでいいのだ、そうすべき」とする社会的な圧力があるという点に焦点を合わせた定義水準、また「疑わずに、暗黙の前提とする」力を持っている点に焦点を合わせた定義水準だといえます。
 
 その社会の多数派・主流秩序は、多くの人々に、多数派の性のあり方、考え方が正しい、当然だという圧力をかけており、多くの者はそれを内面化しています。規範から外れたものは、社会からも自分自身からもストレスを受け、性的マイノリティは例外扱いされてしまうわけです。そうした情況を浮き彫りにする概念としてのジェンダーが、「3」のレベルです。
 
 以上の「2」と「3」の定義には重なりあうところがあります。現実には、「2」のレベルで個人が社会から性のあり方を学んでいく、影響を受けていくことの前提に、一定の社会的な「規範や参照枠組み」があるからです。個人は社会から刷り込まれ、そうして形成されたものが多数派となってまた、他の人々に影響を与えていくといった相互作用の中でジェンダーというものは形成・存続・変化していくのです。
 
 4:性に関わる差別・権力関係の解消を目指す意味でのジェンダー
 ジェンダーの4つめの意味は、「性に関わる差別/被差別関係、権力関係・支配関係を示す概念」ということ、および「そうした性に関わる差別・支配関係を解消することを目指すもの」というものです。この「4」の意味の「ジェンダー」は、「1」「2」のレベルの「単なる男女の差異」ではなく、社会的性別の存在に気づくと同時に、それが変化するもの(変化してきているもの)であることを見抜き、上記の「3」の規範の面を批判的に受け止め、それが社会的差別につながっており、性別・性差の多くの部分において本質的に上下関係・優劣関係・支配/被支配関係を含んでいるとみて、またその結果排除的影響・差別的影響をもたらすとみて、それは変更していくことができるし、また変更していくべきであり、真の多様性を確立していくために、ジェンダーの囚われから自由になっていくべきだというニュアンスまで含んだ水準の定義です。
 「ジェンダー」を「性に関わる差別・支配関係」ととらえるだけだと、「ジェンダーの視点」の説明項で述べるように、「ジェンダーの視点」の意味するものが、「差別・支配関係の視点」となって、性差別をなくしていくという目標の側面が不明確になるので、ここにおいて、「ジェンダー概念には、性差別をなくすことの意味もある」としています。
 
 たとえば、DV加害者となった男性の多くは、「家庭では男性が優位であるべきだ。意見の違いに対処するためには時には暴力も有効な手段だ」とおもっています。自分が男性であるというアイデンティティのあり方(ジェンダー)に、支配的/暴力的なものが入っているのです。このように、この「4」の定義は、性役割における主従意識(ジェンダー)が、暴力を生み出す土壌になっているとみて、ジェンダー自体を変革していこうとする水準のものなのです。
 
  さらにこの「4」の意味でのジェンダー概念には、ジェンダー研究、クイア研究、性科学などの成果を受けて、男女2分法・異性愛中心主義の規範性及び抑圧性を批判的に見ていく視点が含まれています。その意味で、もっとも深い意味でのジェンダー概念理解といえます。
 生物学的に決定されていると見える「女らしさ」「男らしさ」、性役割意識、性的な言動も、決して「自然で唯一かつ不変的なもの」ではなく、したがって、「男/女らしく」といった規範や性役割分業も絶対普遍の必然性はなく、変革が可能であるとみる水準です。
 男性らしさの良いところ/悪いところは女性ももてるし、女性らしさのよいところ/悪いところは男性ももてる。良いところを両方が持てるようにし、悪いところは両方が待たないようにすることで、男女平等が達成されていく、その意味での「女/男らしさの解体」である(もはや、「強さ」という特性は、「男らしさ」ではないから)という意味がここにはあります。
 しかも、とりあえず分けてみた「セックスとジェンダー」の区分も、実は境界が曖昧であり、セックスといえどもその中にはインターセクシャルの人がいることに表れているように、男女2区分が絶対的に存在しているとはいえないこと、セックスの判定にもジェンダーが影響していること、トランスジェンダーや同性愛などへの理解が深まる中で、セックス、ジェンダー、セクシュアリティをトータルにとらえる必要があり、性に関わる意識やアイデンティティや言動の中には可変性や多層性があり、セックス(生物学的性差)やジェンダーだけを個別に取り出して固定的にみることには問題が多いことなどを踏まえた水準の概念です。
 また、さまざまな違いもさまざまな同質性もある多様な人間を、男性と女性というある特殊な線引きで二つのグループに分割(差異化)し、それぞれをジェンダー化し、規範性や優劣/支配関係を植えつけていく政治的な営みというものがあり、その全体を「ジェンダーの構造」と見る水準のとらえかたでもあります。それは、「2」のところで述べた、「人が日々、女や男というものにされていくという行為」という意味を深く理解するレベルです。ここでの「ジェンダー」とは、結果としてのその人の状態(性的アイデンティティ意識)という意味でなく、人を女と男という違ったものに分けていき、人々がそれを内面化していくということ、つまり社会が人をジェンダー化していくという、社会の差異化する行為自体(動的状態)をさしてもいるわけです。
 この場合、そうした政治的営み(差異化する政治)を見抜き、それに対抗的になっていくことまで「ジェンダーの視点」という概念には含まれます。
 
 
 
 
 

 イ: 政府の「ジェンダー・フリー」使用中止の指示について

 
 内閣府男女共同参画局(以下、政府と略す場合あり)は、「各都道府県・政令指定都市 男女共同参画担当課宛」で「『ジェンダー・フリー』について」という文書(2006年1月31日づけの「事務連絡」:以下「事務連絡」と略す)を送っています。そしてこれについて、関係部署、管内市(区)町村にも周知徹底するよう指示しています。(担当は、総務課の増岡、岡田氏ということです)
 
 その内容が問題です。
 まず「1」では、2005年12月に閣議決定された「男女共同参画基本計画(第2次)」に書いてあることが確認されています。
 その上で「2」で次の様に書いてあります。
 
 「『ジェンダー・フリー』については、この用語をめぐる誤解や混乱を解消するため、基本計画において、上記のとおり記述されたところであり、地方公共団体においても、このような趣旨を踏まえ、今後はこの用語は使用しないことが適切と考えます。」
 
 これは、政府見解が、「男女共同参画基本計画(第2次)」に書いてあったことから大きく逸脱し、使用中止/禁止へと移行したことを示しています。
 
 
 「男女共同参画基本計画(第2次)」(2006年12月)では、「ジェンダー」「『社会的性別』(ジェンダー)の視点」という概念の説明の上で、次の様にまとめています。
 
 「ジェンダー・フリー」という用語を使用して、性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと、また、家族やひな祭り等の伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる。例えば、児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育、男女同室着替え、男女同室宿泊、男女混合騎馬戦等の事例は極めて非常識である。また、公共の施設におけるトイレの男女別色表示を同色にすることは、男女共同参画の趣旨から導き出されるものではない。
 
 つまり「男女共同参画基本計画(第2次)」に書いてあったことは、「ジェンダー・フリー」の名の下での誤った使用について注意を促すものでした。つまり、「ジェンダー」はもとより、「ジェンダー・フリー」概念についても全面否定ではなく、その誤った使用を批判していただけでした。
 
 ところが、今回の「事務連絡」では、「地方公共団体においても、このような趣旨を踏まえ、今後はこの用語は使用しないことが適切」とまでいいきっています。ある「A」という用語の一部での間違った使用例があるからといって、「A」という用語の使用全体をやめるよう指導するというのは、論理が飛躍した対応であり、間違った対応です。政府見解の、説明なき「後退」です。そしてこれは「ジェンダーフリー」という学術用語、思想用語の使用を禁じ、それを用いるものを排除するということにつながる思想統制的で非民主主義的な対応です。「学問の自由」「思想・信条の自由」「表現の自由」に反しており、「異なる意見を認めない」という全体主義的な社会になっていく兆候を示している対応ともいえます。
 
 まともに男女平等を求めてきた多くの人たちは、「ジェンダーフリー」を上記のような意味で使用しておらず、男女共同参画社会を進めていくこととなんら矛盾しない積極的な意味で使用してきました。
 そのとき、そうした事実を無視して、バックラッシュ派の言い分(多くはデマゴギー)を、まるで事実かのように受け入れ、まず、「一部の間違った例」を書き、次に、そこから全面的に使用中止にするという、原則的姿勢も事実にもとづく科学的な姿勢もなく、なし崩し的に方針をバックラッシュ派が望む方向に変質させていったのです。
 
 政府は、こうした間違った対応を真摯に反省し、まず2006年1月31日づけの「事務連絡『ジェンダー・フリー』について」文書を撤回し、次に、「男女共同参画基本計画(第2次)」の「ジェンダー(の視点)」と「ジェンダー・フリー」に関する記述自体を学問的水準を踏まえて、より公平かつ正確なものに修正・変更していくべきです(後者については次の「ウ」を参照のこと)。
 
 
 

 ウ 「男女共同参画基本計画(第2次)」の記述の問題について

 
「男女共同参画基本計画(第2次)」(2005年12月)の中の「『社会的性別』(ジェンダー)の視点」という説明項(以下「第2次計画」と略す場合あり)は、バックラッシュ派の圧力の中で、内閣府男女共同参画局がなんとか「ジェンダー」という概念を残すために設けたものです。
 ベースは、「『社会的・文化的に形成された性別』(ジェンダー)の表現等についての整理」という「男女共同参画基本計画に関する専門調査会」の報告(2005年10月31日発表)です。
 
 国際的にも学問的にも「ジェンダー」概念を排するなど失笑モノですから、「ジェンダー」概念を擁護し存続させたことには一定程度、積極的に評価できる点があります。
 
 しかし、上記「第2次計画」は、バックラッシュ派に配慮しすぎたために、さまざまな限界性や問題性を持っているとおもいます。以下、「第2次計画」の説明文を(A)-(G)と分けて引用したあと、各部分について問題点を指摘します。
 
 (A)「人間には生まれついての生物学的性別(セックス/sex)がある。一方、社会通念や慣習の中には、社会によって作り上げられた『男性像』『女性像』があり、このような男性、女性の別を『社会的性別』(ジェンダー/gender)という。『社会的性別』は、それ自体に良い、悪いの価値を含むものではなく、国際的にも使われている。」
 
 まず、この(A)部分の中では、ジェンダーの説明をしており、それ自体は間違いではありませんが、実は、「ジェンダー」には、先に説明したように多様な意味があるにもかかわらず、ここでは、そのうちの一つだけ(定義「2」)を取り上げて、それのみであるかのように記述しています。そのため「ジェンダー」の他の意味を排除しているという点で誤っています。
 
 たとえば、私のジェンダー定義の「3」「男/女はこうであるべきだという規範」および「男女への社会的期待や処遇が差異化される参照・準拠枠組み」の意味の場合、「ジェンダー」は、社会の多数派が少数派に「こうあるべき」と押し付けるものであるため、そういう押し付けはやめるべきだといえるときがあります。女性は「おしとやかであるべき」ということで、活発な言動をとる女性を批判し、その個性の自由な発揮を抑制するような圧力をかけるものが「ジェンダー」なのです。また「4」「性に関わる差別/被差別関係、権力関係・支配関係を示す概念」の意味の場合、「男性が女性の上位であり、女性は男に従うべきだ」というような「ジェンダー」です。
 
 こうした「3」や「4」の場合、「ジェンダー」は不平等・非公正的であり、各人の個性の十分な発揮を抑制する人権抑圧的なものなので、その意味で「良くないもの」といえます。そのため、上記「第2次計画」の(A)の記述の「それ自体に良い、悪いの価値を含むものではなく」という記述は不適切といえます。この背景には、上記したように、ジェンダーの定義を「2」に限定し、他の意味を排除してしまったという問題があります。
 
 実は、「第2次計画」は「ジェンダー」の意味を狭く「2」に限定した上で、「ジェンダーの視点(社会的性別の視点)」という概念の説明に、「3」や「4」の意味を一部入れるという構成をとっています。それが以下の部分です。
 
 (B)「『社会的性別の視点』とは、『社会的性別』が性差別、性別による固定的役割分担、偏見等につながっている場合もあり、これらが社会的に作られたものであることを意識していこうとするものである。」
 
 (C)「このように『社会的性別の視点』でとらえられる対象には、性差別、性別による固定的役割分担及び偏見等、男女共同参画社会の形成を阻害すると考えられるものがある。」
 
 (D)「その一方で、対象の中には、男女共同参画社会の形成を阻害しないと考えられるものがあり、このようなものまで見直しを行おうとするものではない。社会制度・慣行の見直しを行う際には、社会的な合意を得ながら進める必要がある。」
 
 しかし、「ジェンダーの視点」の説明において、「ジェンダー」の中には「性差別、性別による固定的役割分担、偏見等」につながるものがあり、それは男女共同参画を阻害するので見直される(修正される)べきと考えるというなら、「ジェンダー」自体にそうした意味もあると明記するのが論理的帰結です。(そこを明記しないために(A)-(D)は曖昧な文章となっています)。
 (B)-(D)を踏まえてあえて読み込めば、「A」で述べていた「それ自体に良い、悪いの価値を含むものではない」という意味は、ジェンダーには、「良いものである場合と悪いものである場合の両方があるので一概に言えない」ということを指しているということでしょう。
 
 しかしそうなら、そのように正確に書くべきであり、そうだとしてもそれは結局「良い/悪いという価値」を含んでいるということになります。
 
 やはり、(A)で「ジェンダー」の意味を「2」に限定したことが間違いです。「ジェンダー」を「2」に限定してしまうことは、「3」「4」というジェンダー概念の真髄ともいえる大事な部分を骨抜きにする間違った定義です。
 
 
 次に、「第2次計画」は、以下の(E)-(G)と述べていますが、これは、上記の(D)と連動して、バックラッシュ派の言い分を大幅に取り入れたものとなっています。
 
 (E)「ジェンダー・フリー」という用語を使用して、性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと、また、家族やひな祭り等の伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる。
 
 (F)例えば、児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育、男女同室着替え、男女同室宿泊、男女混合騎馬戦等の事例は極めて非常識である。
 
 (G)また、公共の施設におけるトイレの男女別色表示を同色にすることは、男女共同参画の趣旨から導き出されるものではない。
 
 
 まず、「ジェンダー・フリー」についての定義がここには欠けています。本書「基本スタンス」で示したような「ジェンダーフリー」についての適切な理解をなんら示していないことが大問題です。それを省いて急に「適切でない例」から始めるという問題のある記述になっています。
 「Q33」で説明したように、適切に「ジェンダー・フリー」を理解するなら、(E)-(G)のかなりの部分は不要かつ不適切となります。以下、個別の点に即して述べていきます。
 
 (E)で「国民が求める男女共同参画社会」という表現を使っている点ですが、これはバックラッシュ派に擦り寄った表現だと思います。「国民」とは誰でしょう。「男女平等」や「男女共同参画社会」についての理解は多様であり、国民は一枚岩ではありません。バックラッシュ派が反対するものはダメということになると問題です。ここは少なくとも、「正しい男女共同参画社会の理解」とするべきでしょう。
 
 次に、(E)で「性差を否定」することが否定的に記述されていますが、「性差」という概念は含蓄のあるものです。
 「ジェンダー」の意味の中には、「性別による固定的役割分担」やジェンダー・バイアスといえる差別的な「性差」や、上下関係、権力関係につながる男女イメージという意味での「性差」、「差異化する政治」の結果として作られた「性差」もあるので、そのように理解した場合、否定すべき性差もあるといえます。
 
 つまり、全面的に「性差を否定」することを間違いだとすることはできないわけです。肯定すべき性差と否定すべき性差があるとき、「性差を否定」することが常に良くないことであるかのように記述するのは、不公平であり、正しくありません。ここでは、そうした「性差」観を前提に「ジェンダー・フリー」が男女の差異を全面的になくすひどいものであるかのようなイメージを振りまいており、その点でも乱暴かつ間違った記述です。
 
 同じように、(E)で「男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと」と書くことにも大きな問題があります。
 「男らしさ、女らしさ」をなくすことは、ときには積極的な意味があります(Q8も参照)。しかしそれはもちろん「人間の中性化」を意味しません。
 そうであるにもかかわらず、ここでは「男らしさ、女らしさをなくすこと」イコール「人間の中性化」と決め付け、それによって「ジェンダー・フリー」が間違ったものであるとのイメージを振りまくというレトリックをつかっています。したがってこの文章自体が適切なものではありません。
 
 ここの後半の「男女の区別をなくして人間の中性化を目指す」という部分も、「男女の区別をなくす」とは何を意味しているのか不明なまま、明らかに間違っている「人間の中性化」とイコールで結ぶことで、「男女の区別をなくすこと」、ひいては「ジェンダー・フリー」自体を批判しています。しかし「男女の区別をなくすこと」を「ジェンダー」と「ジェンダーフリー」を適切に理解した上で、「ジェンダーの囚われから離脱する」というような意味で使うなら、それは擁護すべきことであり、「人間の中性化」とイコールで結ぶのが間違いです。
 
 また、「男女の区別をなくすこと」を生物学的なオス・メスの区分も無視するような無茶な意味とするなら、そんなことは「ジェンダーフリー」とは関係ないので、やはりこの文章が不適切なものとなります。
 
 「家族やひな祭り等の伝統文化を否定すること」についても、「ジェンダーフリー」はそうしたことを必ずしも求めていません。
 しかし逆にあらゆる伝統を無条件に存続させるべきだともいえません(Q1参照)。「家族」についても常に無条件に肯定できるものではなく、すばらしいものであるときもあれば、抑圧の場になることもあります(Q12-19)。
 そうしたていねいな議論が必要なときに、このような短い文章で単純に言い切ってしまうことには大きな問題があります。「家族や伝統の否定」とは何を意味するのかを明記せず、「ジェンダー・フリー」概念がまるで「家族や伝統の否定」のイコールであるかのようなニュアンスを与えて、「ジェンダーフリー」自体を否定するというレトリックを使用するべきではありません。
 
 次に(F)の記述も、今の例と同じく、一面的に断定しているところに大きな問題があります。先ず「常識」というような曖昧なものを基準に評価することは、さきの「国民が求める」ということと同じく、論理的かつ公平な姿勢とはいえません。
 「常識」という名で行われてきたことの中には、差別や人権抑圧などもあるわけです。明確に人権侵害があるかないかといった客観的基準で判断すべきです。
 
 次に「児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育」というように言うならば、当然「発達段階を踏まえていない」し、「行き過ぎている」のだからよくないのは当然です。
 
 しかし、性教育自体にはすばらしい実践もあるにもかかわらず、バックラッシュ派は適切な教育実践にまで「行きすぎだ」「発達段階を踏まえていない」というレッテルを貼って攻撃しています。
 とするなら、何が「児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた」ものなのかをめぐってていねいな議論が必要というべきです(Q10,Q11参照)。
 
 そこに言及せず、まるで「ジェンダーフリー」教育はすべて「児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育」であるかのように書くのは偏向した書き方です。すべてとは述べていないというなら、「ジェンダーフリー」の考えに基づいた適切な性教育もあると記すべきでしょう。
 しかしそうしたことはここでは一切記述されておらず、「極めて非常識」な例だけを羅列しており、まるで「ジェンダーフリー」がダメなものであるかのような印象を持つ方向に誘導する書き方となっています。
 
 「男女同室着替え、男女同室宿泊」についても、基本的には、男女平等教育(ジェンダーフリー教育)の名のもとにそのようなことをしているわけではありません(Q2)。
 
 しかし年齢やその他の状況にもよります。幼稚園児、小学1,2年生ぐらいでは同室着替えに抵抗のない子もいるかもしれませんし、着替えといっても何かを軽く着るだけのようなものなら問題がない場合もあります。ここに事例としては載っていませんが、男女混合身体測定についても、「体操服や洋服を着たまま行う」ようなことも含めて男女混合を提起している場合もあるので、一概に事情を知らずに「非常識なこと」と決め付けることはできません。
 
 しかし、基本的には、人権侵害となるような、当事者が嫌がるような「男女同室着替え、男女同室宿泊、男女混合身体測定」をジェンダーフリー思想が求めるわけはないのです。
 そのようなほとんどありえない極端な事例をわざわざ持ち出して「ジェンダーフリー」概念批判を批判するのは、非常に政治的な意図を含んだ記述です。
 
 次に「男女混合騎馬戦」の事例も「極めて非常識」としていますが、これも乱暴すぎる記述です。
 というのは、「男女混合騎馬戦」は上記の性教育の場合と同じく、全面否定すべきものではないにもかかわらず、ここではまるでとてもひどいものであるかのように取り扱っています。
 木村涼子氏が紹介するように(注1)、男子のみで実施される戦闘的な騎馬戦種目がもたらすメッセージ――男性は戦闘的であるべき、女性は先頭には加われない――を見直そうとする試みとして、適切に行われる「男女混合騎馬戦」は、否定するべきものではありません。
 年齢や服装や組み方などさまざまな状況を総合的に見て、「男女混合騎馬戦」が適切であるかないかを判断すべきでしょう。
 女子生徒が嫌がるのに身体接触を強制するような類の「男女混合騎馬戦」であるなら、それは、当然セクシュアル・ハラスメントであり人権侵害です。
 
 しかし女性だけの騎馬(組)、男性だけの騎馬を作った上でそれらが混ざるような「男女混合騎馬戦」もあるでしょうし、中には男女が一緒になって組む騎馬でも、当事者がいやと思わない、楽しい場合もあるでしょう。そこは当事者の声も尊重し、全体を見て判断すべきところです。嫌がる子に強制すべきではもちろんありません。
 
 (注1)木村涼子「共学に内在する男女の非対称性を解消するために――たとえば男女混合騎馬戦」『くらしと教育をつなぐWe』2006年2/3月号
 
 
 最後に、(G)での「公共の施設におけるトイレの男女別色表示」ですが、これについても一面的に述べるのは適切ではありません。
 
 「同色だけが正しい/すべて同色に変更すべき」などとはいえませんが、従来の「男性は黒・青・ズボン、女性は赤・スカート」といった固定的なイメージを見直そうとする意図には積極的なものがあります。男女共同参画の趣旨から導き出されている場合があり、それ自体は否定されるものではありません。
 全体主義的強制(全部見直せ)が好ましくないということと、一部の自主的な見直しの試みとを混同すべきではありません。
 
 このようにみてくると、文脈や全体の状況をみずに、一面的に「好ましくない事例」を書き並べること自体が問題です。
 バックラッシュ派が言うことのかなりの部分は、現実とかけ離れているという指摘がすでになされているにもかかわらず(注2)、公的文書で「ジェンダー・フリー」の不適切な事例を書き並べて、バックラッシュ派の言い分をそのまま肯定しているかのような印象、及び「ジェンダーフリー」全体が間違ったものであるかのような印象を残す、不公平な記述スタイルが問題だといえます。
 
 
 以上より、「男女共同参画基本計画(第2次)」における「『社会的性別』(ジェンダー)の視点」という部分については、記述自体を学問的水準を踏まえて、より公平かつ正確なものに修正・変更していくべきです。
 
 
 (注2)木村涼子編著『ジェンダー・フリー・トラブル』(白澤社)、浅井春夫・他編『ジェンダーフリー・性教育バッシング:ここが知りたい50のQ&A』(大月書店)を参照のこと 

 

宗教関係

 

「大峰山プロジェクト」に関して:その6

  イダヒロユキ
 (2005年11月21日記)
 
 「性・宗教・メディア・倫理」というサイトで、「大峰山プロジェクト」への意見――「大峰山「炎上」について」――が書いてありました。バランスが取れている冷静で理性的な、まともなご意見でした。私(たち)のいたらなさを反省もしました。ありがとうございました。このサイトを見られている方もぜひ見ていただきたいと思います。
 
 「一定の信頼関係や友好関係ができてこそ」というのはとても大事な観点ですね。私は、過去の運動で、以下に述べるように「女人禁制」開放に理解がある人がいることも踏まえ、更なる対話の契機として今回のことを始めました。まともな方たちと信頼関係を作っていきたいと思います。
 当日の参加者の冷静な対応を見ていただければ、私たちが信頼関係を築きうる対象者であることが地元の人に少しは伝わったのではないかと思います。
 むしろ、新聞報道などで「強行登山」などという誤報に間接的に触れて、再び観念的に対立意識を持つことを懸念します。直接会うことが大事です。
 
 少し誤解あるいは、情報不足もあるかともいますので、記しておきます。
 先ず私の肩書きは今は「大阪経済大学教授」ではなく、「立命館大学非常勤講師」です。
 
 次に、地元住民の方に急にあのような質問をぶつけても理解されないだろうという点に関することですが、そうしたことも少し考慮して、送付した質問書にあわせて、「トランスジェンダー」「性同一性障害」「同性愛」など2ページにわたる用語の解説もつけておきました。もちろんそれだけで十分とは思いませんが、きわめてマジメにこれに対処していることが少しは伝わるものであったかと思います。
 
 次に、「一般の信徒へぶつけた」という点ですが、質問書は、3本山、5護持院の方々にお送りしました。一般の信徒へぶつけたのではありません。ただし、3本山、5護持院に送ることで、関係者のみなさんに見ていただくことを期待していました。
 
 次にこれは大事な点ですが、3本山(真言宗醍醐派総本山醍醐寺、本山修験宗本庁聖護院門跡、金峯山修験本宗総本山金峯山寺)は、1997年に基本的に「女人禁制」の撤廃を決した「声明文」までだしました。2000年の大祭をめどに、「女人禁制」を解くことも1997年には発表したのです。そこでは、「女性に開放することによって、従来の村落や地域社会に根ざした信仰から個の信仰にも対応し、家族や学校といった新たな形で共同体の信仰に発展させていく」とされています。当時開放論議が起こり新聞報道もなされ、もう一歩のところまで行きました。つまり、基本的に3本山は、「女人禁制」撤廃派なのです。ただ、一部地元勢力の強硬な反対にあって、それは、継続審議になっているのです。
 
 今回の質問書に対しても、一つのところからは明確に、信仰上の見地から「女人禁制」撤廃に賛成と考えておられる旨のお手紙をいただきました。
 ただし、地元信徒・5護持院(龍泉寺、櫻本坊、竹林院、東南院、喜蔵院)・役講社などの「大峰山寺の組織がまだそこまで踏み込んだ議論ができていない」ので、そこの判断を待ちたいという立場でした。
 
 これまで「女人禁制」廃止運動をしている人たちが聞き取り調査したところによると、関係者の中では、「修験道とは自然の中で自分を見つめなおし、謙虚になることを目的としており、女性信者の敬虔な行動を見るにつけ男女に関わらない」、「「女人禁制」開放は新しい時代の修験道のあり方を探る一つの表れだ。最近の研究によれば、役行者は決して女性を排除していない。当初、戒律として男女別々の修行であったものが、その後時代の影響を受けて、「女人禁制」を定着させたもの。今日、登拝者の減少、女性信者の活躍など『大峰山』の信仰を取り巻く情況は変化してきた。宗教としてこれから千年は耐えられるような修験の教えを確立するためにも、「女人禁制」についても真剣に検討したい」、「吉野は『女人禁制』に必ずしもこだわっていないし、開放という立場でまとまっている。「女人禁制」は教義にはない」などと述べています。(『「女人禁制」Q&A』Q31参照)
 
 つまり、基本的に、宗教的教義で「女人禁制」をしているのではないことは関係者の一部は認めているのです。開放派もいるのです。地元女性の中には、地元の閉鎖性、性抑圧性を語る人もいます。女性信者の中には、「開放されたら登りたい」という人もいます。
 
 しかし、一部強硬に「女人禁制」開放に反対する人たちもおり、「世界文化遺産登録にあたって『大峰山女人禁制』の開放を求める会」の運動のひろがりに対抗して、「女人結界門」の前に「女人禁制」擁護の看板を新たに設置するなどの対抗的動きもあるのです。
 
 これまで、「女人禁制」開放をめざす動きはたくさんあり、たとえば、1946年近畿登山協会が高女学生350名の登山を陳情するとか、同年、女性教師や生徒が登頂を試みるとか、女性新聞記者が登頂するとか、1949年女性宗教者15名が登頂する、1956年には、東京の「登山とスキー普及会」の女性登山者が登ろうとする、1999年女性10人が登頂する、などさまざまな試みがありました。(『「女人禁制」Q&A』Q29参照)
 
 以上のような事実も知っていただけたらと思います。『「女人禁制」Q&A』の冷静なスタンスが伝わることを願います。
 ☆ ☆ ☆
 なお、内田樹さんのブログ http://www.tatsuru.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1355
で、「大峰山炎上」ということで、内田さんの無知と偏見ゆえの見解が載せられていました。2チャンネルレベルです。悲しいことですが、だからこそ、フェミへの正しい理解が広まることを願います。
 
 内田氏は「私は予言する。性差別は確実に解消の方向に向かってゆくであろう。だが、フェミニズムは、その「必勝不敗の論法」とその「正義」ゆえに、マルクス主義と同じく必ず滅びるであろう。」と述べて、「正論正義づらするな」という程度の批判でフェミを切れると思い込むほどの無知で単純な人ですが、ぜひ私の『スピリチュアル・シングル宣言』(明石書店)を読んでいただきたいなとおもいます。 

★   ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 

05年11月16日  

 非宗教者による、宗教応援とそのための条件

  イダヒロユキ
 
 私は、合理主義者で非宗教者であるが、合理の限界を意識し、スピリチュアルな感覚に親しみを持ち、宗教のすばらしさを認める者である。非宗教者と宗教者の相互尊敬が必要と考える者である。私は、男女平等・ジェンダー論を専門とする学者であり、人権論を広く「スピリチュアリティ」というものとの関係で豊富に展開したいと考えている者である。そんな私が、「スピリチュアルに生きる人々」から学んだことをまとめた小文で、タイの修行僧、藤川チンナワンソ清弘さんを紹介した。それが縁で仏教、宗教について思うことを書かせていただくことになったので、今回は、「非宗教者による、宗教応援とそのための条件」について書いてみたい。何らかのご参考になれば幸いである。
 
 スピリチュアルケア
 
 私の目下の関心は、スピリチュアルケアにある。スピリチュアルケアとは、終末期にある患者の人生の問題をじっくり聞いて、悩みに付き合い、死の不安や恐怖を受け止め、希望を見出すような援助といわれている。だが、私は、人生の危機に際して深い質で関わる全般がスピリチュアルケアだと広義にとらえている。
 このスピリチュアルケアは、字句から明らかなように、スピリチュアリティに関わる。そこが「深さ」の意味だ。そして、もちろん、ここは宗教性と隣接する。
 
 私のスピリチュアリティの捉え方は、簡単に言うと、人間と世界を、「知性、身体、精神」だけでなく、「たましい」のレベルを含めてトータルに考える視点、「動植物、生態系、他国・他民族を含む世界、他者、過去、未来」などとのつながりで私を捉える視点、自分の心の奥底レベルで生きる意味を考える視点、近代合理主義の枠を超える視点、生の有限性/死(ときには宗教)を入れる視点などの総合のことである。そうした視点の「深さ」は、みえにくさ、きれいさ、高み、広さ、濃さ、身体、行動、表情などとしても表れる。
 
 そして、私が私の狭い個人的領域にとどまらずに、私をつながりにおいて拡張して捉えるがゆえに、スピリチュアリティは、社会的行動として出現する、と考える。社会をより善きものに変えるという責任から逃げることに居直ること(無関心)は、個人の内的成長と矛盾する、と考える。
 
 すばらしい宗教実践を行っている人たち
 
 このスピリチュアルケアを、宗教者の重要な実践の一つと捉えているひとたちがいる。日本ホスピス在宅ケア研究会の中のスピリチュアルケア部会に集まっている宗教者の方たち(大下大圓さん・他)がその一例だ(注1)。スピリチュアルケアを広義に捉えれば、従来の枠を超えて地域に打って出て社会活動・社会変革活動を行っている宗教者もスピリチュアルな活動を行っているとみることができる。
 
 (注1)
 大下大圓『癒し癒されるスピリチュアルケア』医学書院、窪寺俊之『スピリチュアルケア学序説』三輪書店、日本ホスピス・在宅ケア研究会・スピリチュアル部会編『スピリチュアルケア・テキスト』1号、2号、谷山洋三・伊藤高章・窪寺俊之『スピリチュアルケアを語る』関西学院大学出版会、などを参照のこと。
 
 
 上田紀行『がんばれ仏教!』(NHKブックス)で紹介されている仏教者の方たち、世界平和のために行動したティク・ナット・ハン(『仏の教え ビーイング・ピース』中公文庫)、地域で高齢者ケアシステムを作る高橋卓志(『家で死ぬという選択』企画室僧伽)、先に紹介した藤川清弘(『タイでオモロイ坊主になってもうた』現代書館)、釜が崎で活動している本田哲郎神父(『小さくされた者の側に立つ神』新世社)や入佐明美(『地下足袋の詩』東方出版)、その他、ダライ・ラマ、M・L・キング、ガンジー、解放の神学の神父たちなど世界中で非暴力的行動をとってきた人々は、そうした社会的なスピリチュアル活動(ケア)を実践している宗教者の例といえよう。
 
 すばらしい。私はそういう宗教者を尊敬する。まさに、その信仰を深められたがゆえに、それが行動となって表れた言行一致の人たちだと思う。こうした宗教者が増えることが希望である。そういう中で、学校教育においても適切な宗教教育がなされるであろうと思われる。
 
 宗教がまともであるための条件
 
 本稿では、紙幅がないので、次に、以上のことを踏まえたうえで、宗教がすばらしいものであるために、前提条件(宗教への苦言)を数点述べさせていただきたい。これは、私がまともな宗教者を尊敬し、非宗教者も含めた多くの人に宗教の積極性、スピリチュアルな観点の魅力が浸透してほしいと願うからこその言動である。
 
 「死後の世界論」を強制しない
 
 まず、スピリチュアルであることの必要条件として「死後の世界がある」ということをもちだすべきでない、「死後の世界がある」を万人に証明/説得しようとすべきではないという点である。
 
 一部宗教者には「死後の世界がある」と決め付けて押し付ける傾向が見られるが、それには無理がある。それは証明/説得できないものであり、「死後の世界」をあると考えても、ないと考えてもよく、どちらであろうと、「死」に適切に向き合えるし、スピリチュアルなケアはできるからである。
 
 自分の特定の考えに固執する人は、異なった考えを認める姿勢がない人であり、そのこと自体が「穏やかで受容的・共生的な生き方」=「ピース」を体現していない、といえる。ティク・ナット・ハンがいうように、まともな人は、今の自分の知識見解を不変、絶対的真理と思わず、自分の見解にとらわれないようにしている。自愛に満ちた対話によって、伝わるものは伝わるのであり、真理は観念的知識でなく人生において見出されるのだ。
 
 迷信・オカルト・カルト批判
 
 次に、迷信・オカルト・カルト批判の必要性の話。ここも簡単にしか書けないが、安易な「超常現象への無批判性、心霊写真、死んでも生き返る、生命軽視、死後の世界・輪廻観」などには批判的な教育が必要だと私は思う。これらについても見解の違いがあってもいいし、微妙な、深い議論の余地はあると思うが、まずは、基本的な科学的姿勢で、安易な迷信・オカルト的見方を批判することが、実はスピリチュアリティや宗教を積極的に語るために必要なのではないか、と問題提起したい。
 
 しばしば、宗教やオカルト領域では、科学的認識に関わることまで、科学の問題ではなく、信じるかどうかの問題だとすり替えることが行われている。「呪われた場所、心霊スポット、地縛霊、呪い、たたり、水子、占星術、こっくりさん、血液型占い、幽霊、霊視、超能力、予知現象(ノストラダムスの予言)、不思議体験、不可解な観測事実(UFOなど)、テレパシー、虫の知らせ、生まれかわり、前世・来世、幽体離脱」などに対しては、たとえば、安斎育郎『科学と非科学の間:超常現象の流行と科学の役割』(かもがわ出版)、柿田睦夫『霊・因縁・たたり:これでもあなたは信じるか』(かもがわ出版)などによって、不当に体験を一般化・絶対化しないこと、錯誤に惑わされないこと、思考を停止して不可知論に逃げないこと、専門家などといった肩書きに惑わされないことといった基本視点を押さえておくことが必要だと思う。
 
 それは、決して、まともな宗教を弱めはしない。いい加減な認識の背景には、現実生活での自分への不満や自分の力への断念を、非合理な力への信仰(依存)によって自己救済しようという逃避/ごまかしがある。科学的精神を養い、逃避ではないカタチでスピリチュアリティに向かってこそ、宗教もその真のすばらしさを体現できるであろうと思う。
 直面している問題の原因を科学的合理的に分析し、それを可決するための合理的な方法を検討し、自然や社会への主体的な働きかけを通じて問題を解決していくという姿勢と、なんら矛盾しない宗教であってほしいと願う。
 
 意識の持ち方(内面)だけを変えればいいというのは、社会矛盾とその変革から人々の目をそらさせる体制擁護の論であり、受苦・受忍の事実上の強制である。私の内面と外面はつながっている。私の内的成長と内的変容は、外的世界の変革と結びつくものでなくてはならない。
 
 過剰な献金(高額商品)、過剰な勧誘、人権抑圧的な処遇、勧誘や教化における洗脳、脱退の自由がないといった強制性/詐欺性などを特徴とするカルト(逸脱的教団、神秘主義の小集団)に対しても、批判が必要である。だが、何が「逸脱性、反社会性」なのか。既成宗教は、カルト性を持っていないといえるのか。そことの自己区別を通じて、まともな宗教やまともなスピリチュアリティ論は立ち上がるであろう。
 
 靖国問題と宗教
 
 そんな中で、今年も靖国参拝をめぐってさまざまな立場から意見が出された。ここでその議論に深入りはできないが、「戦没者の霊を慰める」「魂を鎮める」といった宗教的表現の下に安易に自国中心的/戦争肯定的な言動が行われていることに、私は苛立ちと悲しみを覚える。
 
 私は、敗戦国のみに戦争責任があるのではなく、戦勝国にも戦争をして人を殺したという加害者責任があると思っているが、そこから導き出されるのは、「日本は悪くなかった」ではなく、逆に、「二度と戦争という過ちは繰り返しません」といった非暴力の誓いではないだろうか。
 
 スピリチュアリティの観点からは、「日本のために戦った」かどうかなど問題ではない。人と人は国境を越えてつながっているからである。広島・長崎で原爆のために死んだ人も、日本軍が殺したアジアの人々も、米軍やソ連軍に殺された日本軍人や民間人も、みなが犠牲者である。そのうちの一部(基本は日本軍人)しかたてまつ奉らない靖国に、スピリチュアリティはあるのか。
 
 また同時に、日本人にも中国人にも米国人にも、軍人として敵国側の人間に対し、レイプ、略奪、暴行、殺人、虐殺、といったひどいことをした者が多数いたのは事実だろうし、それをとくに指揮した責任者がいた。その彼らをスピリチュアリティの名において、許すべきではない。その行為を憎み、その再発を防止することこそスピリチュアリティである。
 
 だが靖国は、戦争犯罪加害者・責任者を免罪し、今再び戦争のできる国へと願う人々によって祭り上げられている。そこに宗教の名に恥じない水準はあるのか(靖国・神道は宗教ではないという逃げは不可能である)。その意味で、靖国問題は、「純然たるわが日本国の国内問題」などではない。宗教が問われている。
 
 私は、宗教性、あるいはスピリチュアリティなどは、何処に立ち現れるかという話をしている。つながりであるそれは、つながりの実践においてである。たとえば靖国の問題にタブーをみて触れないところに、スピリチュアリティはあるのかと問うているのだ。
 
 スピリチュアルな関わり(ケア)とは、相手のスピリチュアリティを理解することが第一であり、その理解のプロセスそのものがケアである。自分の価値観を基準に相手を高みから審判するのでなく、相手の世界に入って、相手の物語の筋道、論理の運び方、声のトーン、表情などで、相手のスピリチュアリティを共感の中でつかんでいく。そして、そのプロセスの中で、また自分自身のスピリチュアリティに気づいていくという関わり。それを「寄り添い」というのだろう。靖国に「寄り添い」の姿勢はあるのか。
 
 スピリチュアリティあふれる宗教は、教団や教義・儀式の中に自動的に存在するのではない。人と人が、相互のスピリチュアリティに気づいていくような静かな交流ができること。あらゆる「国境/壁」を越えて、つながりに覚醒していくこと。そこに希望がある。あえて言えば、そこに「真の宗教」もあるのだと思う。
 
 宗教に無知な者が勝手を言わせてもらいました。私の考えていることが少しでも、思考(瞑想、内的成長)の契機になれば幸いです。
 
 プロフィール/文献
 立命館大学、高野山大学等非常勤講師(ジェンダー論、スピリチュアルケア論)。日本女性学会幹事。執筆・講演・学習会講師・ファシリテーターなども行う。男女平等・人権問題・社会政策・労働問題・家族/恋愛問題、平和問題、人生(生き方)論をジェンダーとシングル単位の視点から考察している。近年は、〈スピリチュアリティ〉を組み込んだ人権論/人生論の確立やスピリチュアルケア論の研究、自殺防止センターでの電話相談ボランティア、日本ホスピス在宅ケア研究会のスピリチュアル部会の活動、などに取り組んでいる。
 
 主な著書に、『初めて学ぶジェンダー論』(大月書店)、『スピリチュアル・シングル宣言』(明石書店)『シングル化する日本』(洋泉社新書)、『シングル単位の恋愛・家族論』(世界思想社)などがある。
 スピリチュアリティ関連では、
 『スピリチュアル・シングル宣言』明石書店の他に、
 「スピリチュアルケアをめぐる議論を見渡す」『大阪経大論集』54巻第5号 
「自殺防止活動とスピリチュアルケアについて」『大阪経大論集』54巻第6号
 「幸福な生き方、充実した生き方について」『大阪経大論集』55巻第2号 
「スピリチュアルに生きる人々①~⑧」『大阪経大論集』54巻第5号~55巻6号
 などがある。(経大論集原稿の一部は、伊田のHP および大阪経大のHPで閲覧可能 

 

目に見えにくいものを大事にする

 

 サリュ44号 巻頭インタビュー(05年)

  スピリチュアルなものが響きあう

 目に見えないものと出会っていくということ

 
 (リード)
 人のこころの奥深い面や、他人とつながっていく面を大切にしながら、個人として自立していこうというのが、「スピリチュアル・シングル主義」。集団の規律が守られた「わかりやすい関係」のなかに私を閉じ込めないで、創造的な生き方をしようと提唱されている伊田広行さんにお話を伺いました。
 
 (プロフィール)
 1958年生まれ。大阪経済大学教員(2005年3月に退職予定)。専門分野である社会政策・労働問題・家族/恋愛問題をジェンダーとシングル単位の視点から考察。近年は、教育学、社会学、文化人類学、心理学、宗教学を踏まえつつ、それらの総合科学としての、〈スピリチュアリティ〉を組み込んだ人権論・人生論の確立やスピリチュアルケア論に取り組む。主な著作は、『シングル化する日本』洋泉社新書、『スピリチュアル・シングル宣言』明石書店、『初めて学ぶジェンダー論』大月書店。第39回寺子屋トークのゲスト。
 
 
 大阪経済大学教員:伊田広行さん
 
 ○理性の外にあるものとの出会い
 
 もともと正義感が強く、人権にも関心があり勉強もしていたので、ぼくは女性差別をしない人だと思い込んでいました。それが26歳の時、6年間つきあっていた彼女に振られて、自分の男的/カップル単位的な思考がはじめて見えてきたんです。ノートに「一生あなたと別れません」と書いて署名してみたり、彼女は自分の分身、二人は一体だと思い込んでいて、非常に「スキのない人であること、いい人であること」を重視する、ある種「先生」的な人だったことが冷静にわかるようになりました。男として好かれるため、強く勝ち続け、しっかりしないといけないと思っていましたし、口で説得すれば、愛され、尊敬されると信じていました。
 この失恋は今でも夢に出てくるほどのトラウマになりました。理性でコントロールできていたものが、揺さぶられてコントロールできなくなるというこの体験は理性を超える身体や感性部分の重要性を深く考えるきっかけを与えてくれました。合理的に物事を考えている自分の外側にも自分の全体があり、世界はそこにも拡がっているというのが見えてきたんです。だから小さい頃に受けた虐待の被害者がその苦しみを頭で乗り切ったとしても、後になってときどき恐怖感がでてくるのは、こういうことかもしれないと理解できます。そのような苦しみを想像できるのも、この失恋体験があるからです。
 挫折といえば、いくつかの病気体験とか、受験の失敗とか、学会で評価されないとかもあるけど、それ以外に、ぼくは、92年の就職活動では履歴書を何通も出して落ちたんですよ。自分は社会では必要とされていない、認められていないと落ち込みました。自分の力を試す場さえ与えられずに、社会から無視されたように感じて否定感が高まります。
学生でも能力や人間性のよさとは無関係に就職活動で成功したり、いい人間でも合格しなかったり、理不尽なこともあります。まじめだけど、ちょっと暗くて、ぽつぽつとしか話せない学生は落ちやすいとか、そんな単純な世界です。落ちたとしても自分の個性だと思って、またエンパワメントする道を見つけたらいいのではないでしょうか。自分を肯定するためにどこかで働いたり、収入を得る体験も経て、これもできるんだと思った上で納得した方が楽ですよね。例えばコンビニでのバイト、工場で働くなど、敢えてしんどいことをする時期があってもいいんです。それも現実なんだから。もし就職活動がだめだとしても違う活動で自己肯定すればいい。
 
 ○目に見えない大切なもの
 学生と日常的に接して、今の若者が持っている心のかたさを変えることは難しいと感じています。自分からNPO活動やボランティアなどで社会参加する学生はほんの一部。でもこれは大人の反映でもあります。大人にしろ、若者にしろ、「戦争や人権侵害はだめでしょ」と啓発するだけでは足りず、より根本から問題提起したいと思い、ぼくが用いたのが「スピリチュアル」という言葉です。今まで学生が接してきた親や先生の言う分かりやすいこと、学歴、テスト、入社試験の結果などではない、目に見えないスピリチュアルなものといった、わかりにくいものがあるよということが必要だと思います。そんなあいまいなものも“存在”するということを伝えて、いわば自分にとってスピリチュアルとは何だろうかと一人一人が考え続けるための種をまいているのです。つながり、自分の本当にしたいことの気づきへの扉の入り口の命名としてスピリチュアルという呼び方をおいたのです。

 社会全体はすぐには変わらないけど、この瞬間の関係は目指すようなスピリチュアルなものに変わると思っています。NPOは効率だけを念頭に置くと、旧来の政党や企業と同じような組織体になり、現実主義という名のもとに、素朴な人の気持ちを後退させてしまいます。だからあまりマネジメントや効率性を求めるのではなく、結果よりも、もっと手作り感や非・合理性を大事にしてほしい。
もちろん社会ではより具体的な政策を出すことも増えるので、プロフェッショナルな人がいてもいい。けれども「組織まずありき」ではなくて、一人一人の思いを大事にした学び合い、時間をかけた関係や手作り感を増やしていくこと、そして他者への思いやり、想像、共感を大切にするスピリチュアルな感覚が今求められていると思います。 

 

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 「部落解放」水平線 原稿

  受容・共感と簡単に言うが・・・

  伊田広行 大阪経済大学 教員
 
  私は、社会政策、労働問題、ジェンダー・男女平等政策などをこれまで活動・研究領域としてきたのであるが、近年はあらゆる場・関係における見えにくい権力・抑圧に皆が敏感になっていくことが大事だという観点で、スピリチュアルな人権論を打ち立てたいと考えている。これに関連する話であるが、読者の皆さんは、「受容」とか「共感的理解」が大事であるというようなことは耳にされたことがあるだろう。だが言うは易く行うは難しである。私は、自殺防止に関わる傾聴ボランティア系(註)での講座を受けるなかで、自分が相談する側に回る体験などを通じて、どうでもいい「事柄」を聞かれることで話の流れを断ち切られ、自分が望んでいない方向に話をもって行かれる苦痛や、適切でないまとめや言い換えを言われる違和感を実感した。では「感情に寄り添そう」というときのかなめ要は何だろうか。 

 まず、上から下への関係である「治療する、教える、導く、助ける、解決してあげる、励ます、問い詰める」という姿勢でなく、同じ目線の友達関係になって、ともに学ぶ、教えてもらう、寄り添う、一緒に考えていくという姿勢をもつことだろう。テクニック/マニュアルで対応するのでなく、自分の全身全霊を傾けてその瞬間、ここでの即興性と個別性を大事にして、本気でかかわること。決まっているところに行くのでなく、決まっていないところに行かねばならない。軽く受け流さずに、相手が表出した感情や〈たましい〉に一つ一つ丁寧に心の底からの感情的受容を示すこと。そのためには、「それはつらかったですね」といった決り文句に頼らず、こちらが受け止めたものをユニークに表現できるよう多様な言語能力をもつ必要がある。

 〈弱さ〉こそ大切という価値観をもつことも大事である。普通では話しにくいことだが、本当に話したいことについて、逃げずに正面から向き合い話し合うこと。一見そう見えなくとも相手は大事なことを語っているのだから、表面的訴えや質問に振り回されずに、一言一言を集中して聴き、相手の論理にくらいつき、その人の奥にある感情や本当に言いたいことを想像すること。
 聴いている自分自身の感情や〈たましい〉にも耳をすまし、深く驚きをもって聴き、それを正直に適切に表現すること。あまり考えずに状況を尋ねたり理由を探ったり分析したりせず、その状況がどれほどしんどいか想像力を働かせ、無批判的に感情で受けとめること。「死んで楽になりたい」「私は醜い、ダメな人間」「○○がめっちゃ腹立つ」「全然眠れない」「誰もわかってくれない」などとても重いことを言われると、動揺してつい命令・否定・叱責したり、問い詰めたり、励ましたり、説教したり、アドバイスしたり、話題をそらしたり、笑って軽いことと思わそうとしたくなりがちであるが、まずは相手の文脈に寄り添って、「死にたい(醜い)と思ってはるんやね」「楽になれたらいいねえ」「腹立ちますよね」「眠れるといいねー」「気持ちわかってほしいよねー」「そう思って当然だよね」「がんばってきはってんねえ」といったような受容的な姿勢をもち、それに則して具体的にどんなときにどのように思うのか、どのように感じ、どのように苦しいのか等を聴いていくこと。むやみに相手の話をまとめたり、先取りせず、あせって言葉を重ねず、話の腰を折らず、沈黙を尊重し、待つことを重視すること。よくある話・知識の話をせず、他の人と重ねて一般化せず、その人の感情に焦点を当てること。 

こうしたことの全体を身につけることが、家族・職場・友人関係における抑圧的関係をなくし、対等なコミュニケーションをもたらし、人権が守られるということであろう。これらは、頭で理解しているだけでは絶対にダメである。実際にやってみて、そのやり取りをテープにとって自分で見直したり、第3者にみてもらうことによって、自分のだめなところに自分で気づき、修正していくこと(自己改造)ができるのである。
 
 註 悩みを抱えた人たちの電話相談に24時間態勢で応じているNPO法人「国際ビフレンダーズ・大阪自殺防止センター」(電話 06-6251-4343)。東京と、松山にも支部がある。同類のものに「日本いのちの電話連盟」がある。
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 『月刊ボランティア』原稿
 「NPO・ボランティアの中の男と女」コーナー エッセイ 

ジェンダー切り口でボランティアやNPO活動を考える ーー 

孤独のむつかしさ 

イダヒロユキ
 
 ボランティアやNPO活動は、「自己」の範囲が自分や家族やわが社どまりであるという狭くてエゴイスティックな段階の後の、「自己」の範囲が地域や人類、生態系全体にまで拡張する段階に対応した非貨幣的な関係の典型であるということで、とても未来を先取りしたものであるとおもっている。
 とするなら、そうした活動内で、ジェンダーに対して旧態依然とした感覚なら、それはないんじゃないかってことを、孤独についての考察と絡めて少し書いてみたい。
 
 僕は、ジェンダー問題が理解できるか否かの試金石のひとつは、孤独ということをどう考えるかだと思っている。僕の敬愛する安積遊歩さんと辛淑玉さんの対談本『女に選ばれる男たち』(太郎次郎社)はいい本だが、彼女たちは今共同生活している男性パートナーにとても厳しい。その意味は本で展開されているので、わからなくもないが、しかし、遊歩さんは、男に、とにかくこの女性とやっていくと決めたら、相手が別れるといってもそれだけはイヤという感じを伝えろ、この人は離れていくんじゃないかっていう心配をさせるなという。
 
 うーん。この2人はもっともまともなフェミニストで、僕は心から信頼しているから、この発言も悪くはとらない。「逃げるな」というすごみ凄みのある言葉を吐くだけの人生を潜り抜けてきた人たちだ。だから、人と人が心の奥の〈たましい〉で信頼したとき、表面的な喧嘩などでは「簡単に離れない」というのはわかる。

 ただ、僕は今の日本の状況を考えるとき、むしろ逆に、「すぐに離れること」の大切さを強調したいと思っている。それは逃げることができる「男性、健常者、日本人」の立場だと批判されるだろうか。
 
 どういうことかというと、僕は日本社会はとても群れたがる社会で、家族や会社がなくては生きていけない、独り者は寂しく不幸だという思い込みが強い社会で、その中で権力関係が生じているので、そうした中で、個人の自立ということをはっきりと打ち出すためには、「離れろ」とはっきり言うことが重要ということなんだ。これは、「共依存」問題でも指摘されているところだ。
 
 みんな一緒が嬉しい、一人は寂しいなーと思い、結婚したり恋人ができたり家族がいたり友達がいると、自分のことがわかってもらえて、愛されて、不安はなくなり、寂しくなくなり、シアワセになれると思い込んでるのは、あまりにも幼すぎる人間関係の捉え方だと思う。「人生最大のイベントは結婚」、「あなたも早く結婚したらいいよ」などと平気で言ったり、「相手を縛ること、嫉妬すること」(支配ゲーム)が愛情の表れだと思い込むのは、愚かしい。

  当然、そういう人は、親しい人と喧嘩したり、自分の気持ちがわかってもらえなかったりすると、どうしてなんだーと怒ったり失望したりする。もっと自分を幸せにしてくれる人を求め、自分は不幸だと嘆く。理想状態じゃない、理想の相手がいないという不安定感・不幸感を持っている。
 
 こういう人は、孤独が嫌いだ。理想状態の逆だと思っている。そして寂しいからと、ともだちや恋人や家族という「群れ」に入って孤独という寂しさから逃げようとしている。そしていったん、家族や恋人や友だちになったら、「他人としての適度な距離感」をなくして、一挙に甘えたり役割を押し付けて当然と鈍感になる。自分で努力することから逃げて、人に依存したりする。「人は弱いからそれでいいじゃないか」といったりする。「・・・してやる」というようなことに平気になる。
 
  で、僕は、思う。孤独はほんとうに悪いものか? 結婚していないとダメ、恋人や友人がいないとダメって思ってるから、それを基準に、孤独を恐れてるんじゃないのか?
 「愛されたい」「幸せになりたい」という気持ち自体に隠れているのは、小さいころからの生育過程のどこかで身に染み付いた、心の不安定感だと思う。多かれ少なかれそうしたものはあるだろうが、それに居直っちゃいけない。受身でどこかの共同体に入れば幸せになれると思っている限り、安定した幸せ感は得られない。
 
 それよりも、まず、人は孤独から始まると思ったほうがいい。それは何も、人を切り捨てたり、嫌いになったり、信じなかったりするというようなことじゃない。他人との関係の前に、まず、自分というものを肯定する力をもつということ。自分は自分でいい。人目や世間体なんて気にしない。人よりも成績がいいとか悪いとか、きれいかとか、金持ちかとか、愛してくれる人の多さとか、そんなふうに比べて優越感をもたないと幸せになれないという発想から脱することが重要ってこと。とすれば、当然、女の子らしくしなくっちゃとか、親や恋人が求める「いい人」でいなくっちゃということにならない。そうしていると、自分というものへの本当の自信が培われる。見下されたり、手下にされたり、虐げられることに抵抗する力がつく。
 
 その後でこそ、つまりドロドロした支配のしあいゲームに巻き込まれない「離れる力」こそが、相手との対等な関係、感謝の信頼関係を培かう。いつでも離れうるという可能性を心に忘れないことが、むしろ〈たましい〉の作動を援助する。
 
 ジェンダーを考えるのは本当に難しい。だが、NPOなどが、上記したように効率優先・市場中心社会において、未来社会を先取りする生き方を目指すチャレンジングなものならば、結婚やパートナーシップや孤独についても、根源的に考えてみなくっちゃ。相手との今ここでの権力関係を繊細に見つめなおすというその第一歩を自分から踏み出していくのはどうですか。
 
 


ラブピースクラブWEB メイルマガジン エッセー

スピリチュアル・シングル

 
ラブピースクラブWEB メイルマガジン 2000年9月 

スピリチュアル・シングル 
 連載エッセー 第1回 

 
いかに生きるか 
 イダ・ヒロ 
 「何のために生きるか」なんて考えちゃダメってのが、今ハヤリの「正解」だ。「社会のため」とか「人のため」とか、そんなヨリ上位の目標を設定するのはウソで偽善できれいごとだと。そして「輝かしい未来」があるとか、「人生に意味がある」などととらわれるんじゃなくて、そのときそのときを自分のために楽しめばいいじゃんって。 
 わかったようにいうじゃないか。でも、偉い学者が言うから正しいってことはないよ。なんでもそうそう言いきれるもんじゃない。零れ落ちるものも、反対の見解もある。今の努力もしない自分が肯定されるからいいってもんじゃない。 
 結局、自分が楽になったり、元気にならなくっちゃ意味がないと同時に、自分が“崇高なもの”に近づけなくては、おもしろくないんだよ。思考停止も、思考してるつもりのひねくれてるだけの奴も、やーだ。 
 
 そんな中、先日、ある人から僕の書いたものに関しての手紙をもらった。それは嬉しい手紙だった。今、僕が考えている、<たましい>、スピリチュアリティに関係するものだったから。舞い込んできたって感じ。僕が求めているものと、なにかがどこかで同調したように。 
 その人が「私のテーマは“どっしり”と生きること」という。「どっしり」とは、優しくなるとか、何があってもあせらん様になるとか、歳とっても続けられる仕事をするとか、どんな仕事でも“何でも来い!!”と思えるようになるとか、怖いものをなくしていくとか…いうことで、「わけ分からんまま」ではあかんということ、だそうだ。 
 この「どっしり」は気に入った。なんてうまく、いいところに近づいた表現だろうと思った。僕がシングル単位論やあれやこれやで何とか掴もうとしていた、その中核に近い言葉。理論だ、フェミニズムだ、学者だ、本だというのでなく、ある人が生きていく中で、体の奥の方で掴んだ言葉や表現。それは、今、見えないものとされているものに、「カタチ」を与えて希望をもたらすものだ。今の社会の「新しい情報や商品を知らないとダメだよー、遅れてるよー、カッコ悪いよー」という「煽り」に対抗して、そんなものに惑わされずに、人生の一番大切なものを明確にし、自分の生きる指針となる言葉が『どっしりと生きる』だとおもった。どうでもいいことと、大切なことを見分ける力を、この概念は与えてくれる。 
 その彼女は、いろいろ考え、自分の半生を振り返り、本も読み、「善く生きるために生きていかなあかん」という結論に至る。「自分を愛する」という安易なフレーズに引っかかって、それでもなお言えるとしたら、「自分を愛するためにも、善く生きなあかん」「善く生きてたら自分を愛せる」ってこと。 
 これはなかなかすごい言葉じゃないか。抽象的な議論や批判はいくらでもできる。例えば、「善く」というのは、絶対的あるいは近代主義的な道徳主義であり、宗教の論理と同じじゃないか、と。でもね、えーい、しゃらくさい、って、僕は思う。彼女のこと知ってんのか、オマエってなもんです。わからねーのかよ、この真摯で誠実な香りが! と。似ているようでも全然違うもんがあるんだよね。道徳主義のオヤジとは全然違う。その気配を大事にしたい。だから、見えないものを「ない」とする鈍感さに対抗して、僕は今、<たましい>を考える。 
 人生を死ぬまで生きるとき、僕は「どっしり」「善く生きる」という言葉を得ることで、見えてくるものがあると思う。それは<たましい>概念につながっていると感じる。<たましい>なんてあるのか、っていう問い返し自体に潜んでいる、ある忘却と傲慢。そんなことを、いろんな角度から考えていきたい。<たましい>を、もちろん安易な宗教やカルトでない形で、シングル単位論と結び付けて考える姿勢を、僕はとりあえず「スピリチュアル・シングル主義」、略して「スピ・シン主義」と名づけました。 
 <たましい>って聞いて、あなたは、何を思うのかなあ。僕は、この10年で、やはり大きく変わった。だからいま、「スピリチュアリティ」へ。 
 
……………………………………… 

第2回 
喪失体験 

 イダ・ヒロ 
 僕は物忘れがはげしい。あまりいろんなことを覚えていない。でもあの時の事は覚えている(ような気がする)。 
 手紙が部屋に入れてあった。ノートをちぎった紙2枚だった。 
 
「あなたと別れたい。もう好きではない。あなたは『教師』だった。それがいやだった。他に好きな人がいる…」みたいな。 
 
 いきなりか!! 一挙に、最期通牒か。今まではナンだったんだ。「再考の余地」「猶予」「敗者復活」ちゅーもんはないのか。うわおー、くそ!くそっ!くそっ!なんじゃーこりゃーァーァーーー!! 
 
 そしてその手紙をくちゃくちゃにして叩きつけた。まるで安物のテレビドラマのように。四畳半の部屋の中を傷を負った熊のように歩き回った。テレビを置いていたスチール製のタナを蹴り上げた。そこがボコッとへっこんだ。じっとしていられなかった。SHIT! SHIT!クソッ! SHIT! 世界がグラッと揺れた。心が、気持ちが1000%落ち着かない。落ち着けないどころか、沸騰してそこかしこに零れ落ち、じゅーっと音がした。体が今ここにあること自体を持て余した。走りだして叫んで、何かをモーレツに破壊しなければどうしようもない気持ちだった。何かを「殺す」ほどのエネルギーだった。 
 すぐに駅まで走って、電車に飛び乗った。彼女の職場にむかうのだ。とりあえず。そう、何も展望はない。電車でもじっとしていられない。電車の中で走れないもどかしさをこのとき強烈に知った。負の、負の、負のエネルギーだけ。世界がかすむ。電車が遅い。一駅ごとに止まっている。周りの客が幸せそうにのんびりいることが、殺してやりたいほど嫌な感じだった。不安。何もかも、人生最大の不安。ただ、今すぐ俺の体を彼女の職場へ運んでくれ! 
 
 そこから俺の第2の人生は始まったのだろうと今にして思う。 
「ひとつ」と思っていた二人。優しくて、繊細で、セクシーで、賢くて、素晴らしい彼女。僕の人生の誇り。ちゃんと生きてることの褒美。成果。優しくて、理解があって、楽しくて、社会の不正にも怒るような正義感があって、賢くて、おちゃめな彼氏だから、お似合いのカップルで、ずっと仲良くやっていけるだろう……。疑いはそこにはなかった。 
 
 そして、突然の別れ宣言。結果のみ。逆転なし。自分の体から腕が引きちぎられた痛み。それは、自分の中の、権威や確かなものや男性性や自信や調和が、崩壊していく過程のはじまりだった。「闇」に少しだけ触れ、他の人が語っていたかすかな「きしむ音」が、はじめて、聞こえた。 
 
 「この目さえ 光を知らなければ 見なくていいものがあったよ 
 からだが あなたを知らなければ 引きずる思い出もなかった」 
(『雲路の果て』by Cocco) 
 
 「スピ・シン主義」を考えるとき、「喪失体験」が重要だと改めて確認した。私たちが自分で自分のすべてをコントロールしているのではないことを、喪失体験は思いださせるからである。コントロールできない部分があることは、それはマイナスではない。それは、可能性の潜在湖であり、大きな全体の中に私もつながって存在しているという、他者との共感の基盤でもあるからだ。その湖の中に、<たましい>もある。見えている部分、理屈で割り切れる部分、捕まえてコントロールしている部分だけだとしたら、そりゃあ、面白くないねえ。でも、芸術があり、スポーツがあり、恋があり、感動があるのは、この汲みねど尽きぬ湖があるからだ。危険ではあるが、希望でもある。喪失体験は、闇と無意識の湖への地下トンネルを開けるダイナマイト。 
 僕にとって、あのときに勝る喪失体験は今だ、ない。 
 
…………………… 

第3回 
親密な関係についての他人の評価 

イダ・ヒロ 
20年弱前、ある人と付き合っていたとき、彼女から2年間ほども「したくない」と拒否され、セックスできないことがあった。そのことをほんの少数の友人に相談しても、誰も真剣にそのことを考えようとしないと感じた。考えるべき人権問題というものは、差別だとか抑圧の問題であって、セックスなどという快楽の問題には関係ない、贅沢な悩みだみたいな理解がまわりにあったように思う。恋愛的に好きじゃないんじゃないか、テクニックが下手なんじゃないか、思いやりがないんじゃないか、ひどい男なんじゃないかなどという浅いステレオタイプの反応があり、他人の冷たさを感じた。人はそうそう他人に理解されるもんじゃないなと思った。これは、彼女との別れ話の際にも感じた。そして他人のことを分かったように批評するのはやめようと思った。恋愛やセックスについては、自分にも当事者二人にも分からないことがある。まして、他人が、その二人の、会話や態度のひとつひとつを知らずに、断罪・判断するのは、まったく身勝手だ。分かるはずがないとさえ思った。 
 つらくて、夜中に泣いたことがあった。眠れない日もあった。なぜ自分なんだと。何が悪いのか。そんなに僕は悪いことをしているだろうか。彼女と話しあおうと何度もこころみた。でも、それはほとんど拒絶された。はぐらかされ、逃げられ、そんな状態が続いた。その他の面では仲がよかった。いろんな話をした。だからこそ、よけいにひとり悩んだ。 
 でも、今から思えば、自己憐憫もあったろうし、詰問調もあったろうとおもう。ある程度のレベルでは仲がよくて信頼し尊敬しあっていたが、奥深いところでの相手への信頼はどうだったか。相手が話したいような、聞く耳をもっていたか。じっと待っていたか。反論を待ち構えられていて、どうして語れようか。自分の無意識にさえ向き合うのが困難なときに、相手から「正論」を掲げて問われれば、それは真綿で締めつけられているという状態だろう。彼女自身がどれほどの苦しみを抱えていたのか。僕は浅くそれを「理解」する振りをして、実は深く彼女の痛みを想像・共感することができていなかった。<たましい>に耳を傾けることができていなかったと、今なら、いえる気がするが、でも、どうなのか。よくわからない。 
 
 自分だけにしか判らないことがある。彼女との「別れ」の説明は、世界中の誰にもできない。自分でも本人でもわからない、ということはある。ある程度の推測を入れて、あるいは断片的な主観と記憶をもって、私も彼女も回りの人も、今なら、あるいはある時点なりに、少しは語れるかもしれない。でも、ぼくは感じる。その説明は十分でない、と。むしろほとんど足りないとおもう。わからない、ということが一番近いという感覚。そういう種類のことを考えたとき、分かったように分析してそれですんでいるという奴の単純さが嫌いだ、と自覚するようになった。 
 僕が嫌いだなと思う人には、自分に見えないものがあるということが、みえていないのだ。見えないもの、説明することが困難なことがあるとわかったら、物言いはすこし変わるだろう。僕は、彼女とのことで、いつしか何かを学んだと思う。 
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第4回 
セックスについて 

 イダ・ヒロ 
 今、僕は、セックスや人間関係で恵まれている、と思う。でも、それは毎日、めくるめく性の快楽がある、乱交パーティーがある、愛する人とやりまくっている、もてまくって出会ったばかりの人と一夜をともにするなどということではない。そうそう、実際にセックスなんてあるもんじゃない。量が多ければいいということなどでは全然ない。 
 いいたいことはもっと複雑だ。プライバシーがあるので抽象的に言うが、<たましい>の交流がときどきあればいい、という感じでの、質的満足がある。「その人」への“思い”があるのがいい。いちゃいちゃがあれば、かなりいい。スピリチュアリティがあれば、いい。そんな風に思うセックス観になっている。 

 そんな風にいうと、聖人で、愛するパートナーとだけ愛ゆえにセックスして、他の人には性欲を持たない、考えない、まじめな人と思うかもしれないが、まったく違う。もっと生き方的にも、性的にも自由になりたいと思って、この15年ほどは生きてきた。まじめにこだわって、実は、自分の体裁にこだわっているんじゃないか。性や恋愛ではこうあるべきだとか潔癖主義がいいのだとか誠実なのだという狭い枠組みにいつのまにか自分は囚われているんじゃないか。一回きりの人生をもっと型破りに自由に生きたい。そうおもってきた。うまくいかないときも後悔するときもあったが、そうする中で少しずつ楽しめてきた。幸せな時間を少しは積み重ねられるようになってきた。<たましい>を基準に、自分に恥じない範囲で、少しの勇気をもって「そのときのその人」と「その瞬間」を大事にできたと思う。全般を見れば、まだまだ臆病で、まだまだだなと思う時も多いんだけれどね。 

 先日、地下鉄の歩行者通路で、目の前に、足が長くてきれいな、黒のパンツ・スタイルの女性がいた。その歩く姿にみとれてその後を歩いた。その長さ、細さ、腰の位置の高さ、バランス、ヒップの形。ほんとにみとれた。もちろんそれだけだけど、そんな時間をもてて少ししあわせだった。そんなもんだ。そんないいかげんな、僕だ。 
 僕らが当然到達した地点から考えてみたい。セックスはこうでなくてはいけない、人間関係はこうでなくてはならないと、誰かが神様のように決めつけ、それを人に押し付けることはできない。当然だよ。各人が自分の基準で決定していけばいい。世間体も、見栄も、常識も、道徳も関係ないよ。その意味で、セックスの面でも、自由にいきたいよね。そこまで自由を希求するような主体でいたいよ。もちろん責任をも引き受ける覚悟のね。 

 その上でいう。自分にとっての「質の高い関係」はあるじゃん。だからそれを僕は求める。自分にとっての「質の高いセックス」というものがある。僕はそれを求めるよ。あなたはどう? もちろんその「質」に何を入れるかは各人次第。その人の生き方の写し鏡。そのとき、僕には、スピリチュアリティとか<たましい>という基準が大事なものとして浮かび上がってくる。“切なさ”とか“想い”といったものは、その<たましい>レベルでのこころの交流の表現だともう。それがあるときに、セックスにも深みが出る。そんなセックスをしたいと思う。そうでないと、ノれない。 
 若いとき、まだセックスを実際に体験していないとき、過剰にその“世界”に期待し、また女性・恋人を過剰に美化していた。そして、実際に体験してみて、人間の生身さ、動物性に少したじろぎ、少し汚い感じをもち、少しさげすみ、こんなものかと少し冷めた。そして同時に恋愛感情と性的快楽に夢中でもあった。恋愛とセックスを結びつけることで自分を浅く正当化し思考停止していた。 
 それから、いくつかの経験をする時間を積み重ねた。若いときのあせりは影をひそめていった。今、「固い誓い交わしたのね あんなに愛し合ったと 何度も確かめあい 信じて島を出たのね だけど飛魚のアーチをくぐって 宝島に着いた頃 あなたのお姫様は 誰かと腰を振ってるわ」とCoccoがいうとき、適切なセックス観を感じる。人は強く、また、儚い。そんな“悲しさ”をセックスに味わうっていい。若い時の過剰な勝手な思い入れやさげすみを脱して、僕は等身大に、適切にセックスに距離感と“切なさ”をもてるところに来たように思う。つまり、思考停止を解き、その瞬間瞬間に対してマニュアルなしでとり組み、人との関係を前よりも適切に作る力ができてきたからこそ、セックスにおいても、うまく“幻想”に酔えるようになったのだと思う。 続く 

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第5回 
性的に恋愛的に自由に生きたい 

 イダ・ヒロ 
 ……でも、短い人生だし、「どっしりと生きる」ってことが大事で、だから、付き合えない(付き合える)とか、セックスできない(できる)とか、恋人になれない(なれる)とかなんていうことは、「何分の一」のことなんだけれど、でも、だからこそ、それをわかっていれば、何分かの一は、勇気をもってチャレンジして楽しんだらいいじゃないかともおもう。でもまだまだ堅い。ゼロか100かではなく、10も20も70もある。それを大切にしたい。 
 いろんな人の人生を見てて、自分の人生が一回だけであっという間だと感じて、とにかく僕は自分の人生を小さくまとめるなんてもったいないなあと思ってる。その人が魅力的な人で、スピリチュアルで、だからこそ、会えて嬉しかったし、「好き」だし、こういう人が世の中にいるってことが希望で、だからその人を傷つけたり悲しませたり煩わせるのはイヤだって思うし、またその周りの人も傷つけて平気とはいかない。だから、僕が「ステキだ」とか、「映画行きませんか」なんてことは、その人にとって「少しでも興味ないこと、うっとうしいこと」なら、まったくそれは忘れてもらって、まあ、末永くその人と友達でいたいなと思う。ちゃんとどっしりと生きている姿を遠くからでも見つづけたいなと思う。 大事にしたい関係だからこそ、「近づきたい」とおもうが、「いや、距離をおくことが大事な関係を大切にできる」ってことかもしれないってこと。 
 つまりどっちでもいいのだ。「できれば…」ということ。できれば、映画に行く、できればセックスする、できればかなり仲良くなるということもあるし、そうでないなら、ちゃんとかなりの距離をおく、踏み込まない、尊敬したまま友達でいる、映画や本について語り合う、どんなこと考えているか時々話す、手紙や電話やメールでの関係、なんてことで十分だ。大切にしたい関係だからこそ、どの程度の距離にするかは、相手の意思を尊重するしかない。どっちでも、大切と思う気持ちにかわりはない。 
 一回近づいて、それから距離をとるというのもある。それは、NO1にならなかったから、その関係ははじめから間違いだったと言えるだろうか。あの瞬間の気持ちは、ウソだったのか。間違いとかウソって何だ? 逆にNO1になるってどういうことだ。大事な人と、大事な時間を丁寧に過ごすということを、人生を大事にしたいなら捨てられない。その大事な人が、複数になることは避けられない。当たり前だとさえ思う。人生は、大事な時間の積み重ねだ。 
 「親しくなりすぎない」という選択は思った以上に確かに大事な選択肢だと感じている。でも、それだけかとも思う。むしろ人生、頭で先に結論の形を作るのでなく、飛び込むことで、自分の無意識や偶然や混沌の世界のエネルギーに出会うほうが面白いんじゃないかとも思う。「好き」という気持ちとセックスの関係もまだ、僕には「答え」はわからない。わかることは、「好き」はいっぱいあっていいだろうということ。それがストーカーやセクハラにならないって事が大事であって、ダメならすぐあきらめて、適切な距離をとればいい。 
 とにかく距離が大事。近づきすぎるのは、安易。恋人でも、ちゃんと距離を。いちゃいちゃしていても、距離を。友人も、浅い関係も、そこに尊敬と感謝を。セックスなしでも愛を。NO1でない人との“愛”を。そんな“愛”の夢を“スピリチュアリティ”と呼ぶと、僕は深く納得できた。あなたは? 
 
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第6回 
スピリチュアリティについて 

 イダ・ヒロ 
 ここまで、説明もせずに、「スピリチュアリティ」、「たましい」などという言葉を使ってきた。詳しくは拙著や近著をみてもらうしかないが、なんとか、片鱗でも示しておかなくっちゃはなしにナンねえ、ということで、今回。 
 栗本慎一郎は、『鉄の処女』[光文社1985]で、思考の対象となる社会の現実を、近代的理性の感覚でも掴むことのできる、分かりやすい、現象している表層世界(アポロ的秩序:Aゾーン)と、現代科学の言葉では掴みにくい、社会の深部の、見えにくい、しかし私たちを大きく無意識部分で規定している、混沌たる闇の世界、生命的根源の世界(デュオニソス的混沌:Dゾーン)、および、その両者の間の境界域Uゾーンの3つから成り立っているとした。 
 僕は、昔は、Aゾーンしかないし、また、そこしか問題にしなくてよいと思ってきた。非合理な部分は、迷信であり、宗教であり、封建制遺物であり、そんなものは合理的に考えて征服していけばいいと。でも、自分の喪失体験や、他者や歴史や、政治や社会運動や流行や戦争や芸術や愛や家族や性やその他もろもろの複雑性を見ていく中で、AとDの両方を統一的に捉えることこそ必要だと徐々に分かってきた。ぶっちゃけて言えば、正しい理屈を言えば人や社会は正しいものに変わるというものではないということだ。 
 仮説的に示せば、このDゾーンにおいて、人間の力を超えた生態系全体のつながりをみると同時に、その全体の中で、小さな人間も生かされているという不思議さの自覚をともなった世界把握が、「スピリット、霊」の『存在』を通じた把握、すなわち「スピリチュアリティ(「霊性」)視点である。 
 この視点は、個人レベルでは、歌や踊りや動物との交流にみられる「心の奥の方の声になりにくいエネルギー」や直感的に感じるところの、感動的な人のやさしさ、素晴らしさ、心のきれいさなどという「科学的言葉では表しにくいもの」があるとみて、それを大事にする姿勢となる。そうした人間各個人の中にある、その人を固有ならしめている、「優しい善なる、Dゾーン対応部分、スピリット呼応部分」を「ソウル、すなわち <たましい>」と呼びたいと思っている。この<たましい>は、人間個人のDゾーン・「生命の生きるエネルギー・無意識」の一部であり、「生態系全体のつながり」に対応して、具体的には優しさ、繊細さ、平等意識、権利尊重、友愛という感覚、高いレベルで生きたいという実存に関わる意識などとなって現象している。 
 いろいろな角度から説明してみよう。偏差値的に賢い人が、必ずしも魅力的でないのはどうしてか。優しくないのはどうしてか。権力者の側につき、エゴ的生き方をするのはどうしてか。それは、<たましい>の差である。私が世界の他のなにものでもなく、「この私」であるのは、その特性は<たましい>の違いである。生態系、他者を私の体の拡張とみなして、禁欲主義でないかたちで、「人・他者に与える」という喜びに気がついた人がスピリチュアル度の高い人。お金など資本主義的個人主義的即物的な価値でなく、他者との繋がりを意識するレベルの高いきれいな心をもったひとがスピリチュアルな人。 
 これは、正義というような、自分の深層の闇から離れた、絶対的善、偽善ではない。他者や自分の弱さ(汚さ)の認識の上に、それでもたちあがる勇気のようなものを美しいと思う、ひとつの考え方、感性の指標だ。 
 <たましい>などというと、そんなものはあるのか、信仰でしかないのでは?とすぐにお決まりの反応がある。しかし歴史上、おびただしく、その言葉が発せられてきたではないか。見渡せば僕らの生活にその言葉はしっかりと棲みついている。そして、善だとか、崇高なるものといえば、それはやはりなんとなく“通じる”ではないか。それを「ない」というのは実は「理屈」にすぎない。言葉ができるまえに、そのものは「ある」のだ。深く「ある/ない」ということを考えてきた人にとって、「ある」ということは、そういうことである。ラブもピースもセクシュアリティも、<たましい>抜きに深く考えられるとは思えないというところに僕は至った。 次回へ 
 
…………………………………………… 

第7回 
「シングル単位で生きる」ってのは、「強い人だけの理屈」か? 

 イダ・ヒロ 
 「精神的に強い人間のみに“シングル単位”はできる」という批判をよくもらう。でも僕は、「今の社会の秩序での成功者・強者・エリートでないような、普通の人、弱者、異端者、敗北者が生きていきやすい社会にしたい」ということで、シングル単位論を考えたんだけど…。したがって、まったくの誤解だとおもっているのだけれど、このような意見・反論があること自体が、今の日本社会の感覚を示しているとおもうので、そこ自体を深く考えなくっちゃならないんだろうな。 
 考えたいのは、弱っちい人間が、何とか自分に誇りをもって生きていくためには、「一人ぼっち」「もてない」「人とうまく話せない」「離婚した」「仕事できない」「成功者でない」「ダメな私」「何の才能もない」「普通・平均的でさえない」「性的少数者である」「親の思うように生きていない」「子どもがいない」「不細工である」などということを「肯定的に捉える」ような思想がいるのではないかってこと。 
 「甘えや思いやり」のなかで、秩序・組織・共同体に従属する代わりに保護・承認してもらうのでなく、こんな自分にも、常識とは違う形ではあるが、社会との関わりがあり、責任があり、自由があるという自覚にいたること、自由・権利をもつと同時に責任を持つことでこそ、人は自分に誇りをもてるのではないかと。「組織・秩序」の外に出る生き方を褒め称えたい。そうした人が増えることを応援したい。「責任」ってのは、自分を超える大きなつながりの中で、自己決定し、その結果をひきうける責任だと思う。弱いフツーの人間が、社会常識に媚びて合わせるのでなく、それから自由になるために、その秩序を笑ってしまうおうという戦略で「女でも男でもないシングルが基本じゃん」といってみた。つまりシングル単位論は、実は既成秩序の中で「成功・勝利」しない自分を、発想の枠組みを普通以上に拡大することで、フツー人をケムに巻くと同時に、知らぬ間に崇高なビジョンに自分を繋げて逆転で自己肯定するという戦略なんだけどなあ。 
 言い換えてみよう。「成功」でない「何か、サムシング、素晴らしいもの」を見る力が必要だ。繊細に他者の痛みを感じるような人になりたいと思うからこそ、鈍感に自分の「秩序依存」を肯定したくないと思うんだ。秩序と皆が向き合う中でしか、社会はよくならないとやっぱり思う。「弱き人」に同情でなく、沈黙的に向き合うときに、実は自分の「弱さ」にも気づく。 
 シングル単位論は、そのレベルの繊細さを求めたいって思う宣言なんだ。(希望。希望だよ。現実は難しい。)ただ、これは、決して、絶対、誓って、「キレイゴト」ではない。それは、自分にとっての解放につながる、楽になれる道だと思っている。ラクってことが大事。その力は皆に潜在的にあるよ、きっと。普通の人は馬鹿だから、弱いから、そんなのは無理だと言うのは傲慢です。どうせ皆、自分が可愛くて、カネだけだ、世間体だけだと言うのは、人間の可能性をみくびっている。過去、多くの人が崇高な生き方をしてきた。それは能力のある強者だけができてきたのではない。むしろ、「敗北」から学ぶ人が、崇高な生き方をする勇気を得ていったのです。今の時代、「希望だけがない時代だ」と村上龍は繰り返し語っている。その時代に、どのように『希望』をもつかが勝負のしどころ。皆がそうした思想をたとえ無意識にせよ、心の深いところで求めていると感じる。だって、僕が求めてきたから。 
 
………………………… 
LPC連載 第8回 

スピリチュアルな自己肯定へ 

 
 ある親しい友人が、僕のここまでのエッセーを読んで、いい点は認めてくれた上で、「でも、少しデキスギ感がある」と。つまり、その人は、自分が何物かにならんとしている「人生の途上・過渡期」にある。そのとき、「41歳で仕事も収入もあって表現の場もあって成功している花開いたような人」と、まだ途上の、何物でもない自分との差に、少し羨望、いたみ、あせりがあり、不平等じゃないかという気持ちもあると。苦しいと。「応援席にいる側の気持ちがわかるか。あなたは応援席に戻ることはないじゃないか。バッターボックスに立ちつづける側は、観客の痛みをわかるか」と。あなたには、焦りがあるのか。過去はいろいろあったかもしれないが、今やここまで来て、自分への肯定感しかないのでは、と。 
 その人はとても分かってくれた上で、でも鋭くそう問いかけた。その問いは、大事だ。このエッセーは、「ここまで来たよ、もう安心」という自慢をいいたいんじゃない。自分を深く掘って、“痛み”を確認したい。それを通じて、自分の今とこれからを作りたいし、バッターと観客の垣根を取り除きたい。あなたが、皆が、バッターじゃないかと。人を羨むのでなく、皆がアーティストになれるというコトをいいたい。そういう意味の、「脱エリート」主義、脱能力主義をつくりたい。そうおもってこれまでシングル単位論を書いてきたし、このエッセーも、次の本(明石書店から2001年中に出る予定)も書いている。 
 でも、それはとても難しい。というのは、シングル単位論でいいたいのは、私もあなたも世界に受け入れられ、愛され、必要とされ、そして貢献することができ、その意味で自己肯定するようになりたいってことなのだが、それは、「愛されている悩みのない人、自信いっぱい、幸せな勝者」とある面で類似しているからだ。また、シングル単位論は、あなたを共同体的に助けてあげる、守ってあげるというのでなく、あなたは自分でやるしかないよと突き放すスタイルだからだ。僕の文章や思考がまだまだなのだと、また深く課題を与えられた。 
 普通の人は、皆苦しんでいる。能力主義に囚われ、自分はダメだと思い、今の社会で成功しないとだめだと思い、嫉妬したり他人に勝って喜んだりしている。それに対抗して、“痛みや喪失感”を大事にしつつも、それに足をすくわれずに、生き延びるための、自立する力、自己肯定感を得たいのだ。しかし、僕がそういう意味で「自立・自己肯定の感覚」を示すとき、「安泰の地位にいる者が偉そうに高みからものを言っている。安全なところからのお説教」ということとどう違うのか。 
 まず、偉そうになっていないかという、自問は常に必要と思う。少し気を抜くと、いつのまにか人は傲慢になっている。自分のまわりだけしか見えなくなってしまう。こうして表現できるチャンスを与えてもらっていることに感謝を忘れてしまう。自分よりも才能や努力で勝りながらも不運ゆえにチャンスを得ていない人も多い。たいしたことしていないのに、いったん売れれば自分は偉いのだと勘違いする人がどれほど多いことか。 

 さらに考えてみよう。僕はなにもかもうまくいってるのか。花開いたのか。返事はNOだ。僕はちっぽけであり、まだ大切なものを十分に掴んでいない。無名であり、無力である。僕の本や論文などベストセラーや雑誌のおびただしい情報量に比べればほとんど無に等しい存在だ。大学での教育で一体どれほどの成果があるのか。単位を取るためにただ通過する学生たちの前で偉そうに誤解しているだけの自分。学者すなわち僕は行動せず口だけで信頼できないというようなことを直接言われたり、態度に示されたり、影で言われたりしたこともある。学者としていわゆるアカデミックな論文を書いていないので、多くの研究者からはダメだと思われている。著作は学者世界では超低い評価しか受けていない。フェミニスト的な人から、男性であり、エリート的だと不信感をもたれたこともある。傷ついた人を十分サポートすることができなかったこともある。するべきことは政治なのか、運動なのか、研究なのか、教育なのか、身近な人との関係の改善なのか、迷うこともある。他の人の活躍や着実さをみて、焦ることもある。いつかメッキがはがれるのではないか。自分で自分に酔っていたが、大きな錯覚だったと気づくのではないかという、恐怖もある。 
 結局、なにもかも、まだ途中であり、結果が出ていない。焦ることもある。そもそも、「うまくいっている」とか「私はひとかどの人物だ」というような、表面的な鈍感さを、なんとか見直すことで、僕は人につながる“回路”を獲得したいと思っているのだ。だから、「肯定感」をそのまま無邪気に自信として受けとめているのではない。 

 でも、苦しんでるだけじゃ、元気が出ない。自分を認めてやらなくっちゃ。信じてやらなくっちゃ。だから、僕は、自分の“痛み”を確認しつつも、同時に、人生日々の一瞬一瞬を幸せに生きようとしている。マイナスのエネルギーに足をすくわれないようにしている。深刻さに笑顔を奪われないようにしようと思っている。その人と今、語り合っていること自体の喜びをかみしめようとしている。活動できることをそのこと自体の喜びを味わおうとしている。心をこめる(マインドフルネス)という喜びを味わっている。恋愛感情にしても、セックスにしても、「沸きあがってくる喜び」ってカンジを大切に味わいたいなって思っている。「なにもかもうまくいく」でなくていいと思っている。禁欲主義をやめようと思っている。一回の人生だから楽しもうと思っている。冗談を言って深刻なこの世の中でも楽しい時間を持とうと思っている。サボりたいときはサボればいいと思っている。そして、あせらずに、少しでも世界につながれればいいと思って、その大きなビジョンの方向だけは見失わないようにしようとしている。行動が大事だと思っている。口先だけでなく本物かどうかは、これからの残りの人生の僕の行動、生き方全体にかかっていると思っている。 
 そうしていると、小人数だけれど、僕を、“信頼”の目でみてくれる人が出てくる。微笑んで、今、僕といることを心で肯定的に受けとめてくれる人が出てくる。本を読んでくれ、「アンテナ張ってる人には通じるよ」といってくれる人が出てくる。講義や講演を聞いてくれて、元気をもらったよといってくれる人が出てくる。いっしょに活動して、仲間とみてくれる人が出てくる。 
 これは、バッターボックスにいる者の「成功した」という奢りの感覚ではない。「勝ち組」などという鈍感な言葉に組みこまれて喜ぶ感覚ではない。怪我や失敗の記憶が走馬灯のように駆け巡りながら、三振するかもしれないし、明日はベンチに引っ込められたり二軍落ちになるかもしれないけれど、今はようやくこのバッターボックスに立てているという喜びの感覚だ。それを観客席から我がことのように思ってみている人たちがいて、ヒットを打てばともに喜ぶ人がいるという、観客とつながっているという感覚だ。私もまた観客であることを楽しむような、でも今日はここに立っているという感覚。なんのために自分は野球をしているのか。なぜここに立てたのか。才能があったからではない。特別努力したからではない。観客席にいるひとりひとりも、また自分の人生をもっている。この私のように。だから私は、その人たちの前で、自分にできること、観客とつながれる自分にできることをするだけなのだ。自分が、「自分の道」を深く進むとき、他者は、その深さに、共振してくれる。妬むのでなく、その人の<たましい>に触れる喜びを知る。ホームランも三振も、球場全体の<たましい>の共鳴に他ならない。無名のバッターになりたい。あなたと。 
 
 
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第9回 

ホリスティックな世界観としてのシングル単位論 

 
 家族という「男女異性愛近代性別秩序を前提とした共同体的組織」を社会の基礎単位とし、それを作って当然、作らない奴は不利益があってもよいとすることの<無理>を自覚し、近代の性別秩序から離れた者/離れたい者もそうでない者も、とりあえずニュートラルに扱われるように、「多様性を前提とした個人」を社会の基礎単位にしようというのが、シングル単位論。簡単に言えば、「男が養い、女が世話する」という決めつけをやめよう、世帯単位で税金取ったり福祉を考えるのをやめよう、結婚しなくてもいいよ、子どもを産まなくてもいいよ、働きつづけてもいいよ、性的少数者も離婚も事実婚も単親家庭も差別されるのはおかしいよというように、多様な個人の生き方を認めあおうとするものです。夫婦は相手に役割を期待したり片務的な役割分担になるのでなく、各人が自分で収入労働も家事も育児もして、双方がおいしいところといやなところを平等に分け合うことになる。そして、そのためには、家族がもっていた相互扶養や養育の機能を社会全体で担うように、家族の枠を超えて支えあう新しい連帯の社会にしようと考えるものなんだ。 
 このシングル単位論は、第一に理論面において、近代主義を乗り越えるポストモダンのひとつであり、ジェンダー・フリーを一歩進めたものだし、また第二に政治的・具体的水準において、どう変えていくのかという社会民主主義的福祉国家システムをめざす制度諸改革を提起するものでもある。でも、それだけじゃない。第三に、人間ひとりひとりの質・水準の領域においても、どのようなところに至ろうとするのかの議論なんだ。 
 でも、この3点のどれも十分に理解されていない。とくに今回は第3の面について「ホリスティック」という重要な概念を利用して少し語っておきたい。 
 ホリスティックとは、ギリシャ語のホロス(全きものholos)を語源として、「全体 whole」「健康なhealthy」「聖なるholy」「元気なhale」「癒しhealing」等の派生語の意味を総合的にもった、総合的、全人的、全生命的、歴史的な“つながり”を重視する概念です(詳しくは吉田敦彦『ホリスティック教育論』日本評論社がよくまとまっていてお奨め)。個の自由と多様性を圧殺する全体主義とも、自分勝手で他者の抑圧の上に自分の利益を得るエゴイズム(個人主義)とも異なって、全体と個の二項対立を超えて、個がいきいきと自己決定する主体となりつつ、全体が全体として単なる個の合計でなく調和的に成り立っていくという、「ダイナミックな全体と個」のあり方、そうした世界の捉え方がホリスティックなんだ。 

 僕が、単位としての「シングル」をいうとき、それはもちろんエゴイスティックな個人ではなく、ジェンダー・血縁・家族・民族なんていうちっぽけな幻想を乗り越えて「深く他者とつながっていける出発点としての個人」を意味してきた。その「つながり」をどのレベルで見れるかがとても大事と思って、いま、狭い近代合理主義的な主客分離・客観主義・要素還元主義を乗り越えて、自分の無意識部分まで含めた、直感的総合的認識、<たましい>のつながりに光を当てようとしている。もちろん、安易な神秘主義や主観主義や宗教依存はダメ。家族を批判するからといって、エゴな個人を絶対化するのも、市場原理をナイーブに信奉して後は自由競争に任すなどという楽観主義もダメ。つまり、近代的価値至上主義も、その反動としての単純な反近代的非合理主義もダメ。その両方の一面性を自覚して、その二項対立の発想水準自体を超える第3の地平での「解決策」を求めている。そのとき、あまりに家族的価値への信奉が強いために、原理的対極としての「個(シングル)」を強調したが、その意図するところは、そうした意味での家族・ジェンダーを超える“つながり”の単位としての「第3水準での個人」であった。そこまでみていくホリスティックな個を僕は「シングル」と呼んで希求してきたのだ。 

 社会的規範・社会的要請(秩序、常識、道徳)に直線的即物的に応えなくてはいけないという表面的意識的レベルでの「全体と切断された自分」でなく、心の深い無意識部分に眠っている、でも自分を突き動かす、本当の自分の喜びのレベルで、僕は、他者とつながれると感じてきた。自己犠牲でなく、自分のためが同時に他者とのつながりの確認(自分の行為によって喜ぶ他者の喜びが嬉しい)に至るような「個」を僕は求めてきたのだ。だから古い左翼や労働運動も含めた権威主義・政治主義・論理主義・現実主義といった個の自由を軽視する「男性原理」を嫌って、僕はウーマンリブ、フェミニズム、エコロジーに共感したのだ。 
  皆が、市場や国家や企業のもとで走らされるのでなく、<たましい>のレベルで自己肯定できるように、そして、世界(社会、他者、あらゆる生命)が好きで、その世界に自分が貢献できるという自覚をもてることが、希望だし、それを「あらゆる人がアーティストに!」とスローガン化してきた。今の秩序を前提にしたときに押し付けられる「正しい価値観」というものがある。でも、僕らは「欠落」していても生きていける。皆ちょぼちょぼ。魚や猿の末裔でしかない。みな欠陥「商品」で、ばかな俗物で、嫉妬もする。でも生きていける。心の奥になにか熱いものがある! そう伝えたいとおもって、「秩序の外へ!」という「シングル」を提唱した。 

 その主張が、「…しなければいけない」「変わらなければいけない」というプレッシャーを感じさせたとしたら、それはまだ僕の文章や思考が未熟だからです。僕がいいたいのは、「こう考えた方があなたは生きやすくなるのではないか」「こうすればその問題は解決するのではないか」ということ。「絶対的真理や偏った理念を私から無知な人に押し付ける」というものではないようにしたいと思ってきた。家族が幸せ、家族が単位という強制があるもとで、「それは本当か」という根源的問いをもって、各人が縛りから自由になることが目標だった。所有したり支配しようとするから不幸になるんじゃないのと思って、根源的に相手を所有しない、すなわち「共同体にならない」ことを提唱した。 
 今のあなたの「そのままのありよう」を私が認めるとか、認めないとかと言うのでなく、あなたはどう考えたいのか、どうしたいのかと、問うたのだ。絶対者が示す「真理」などないのだから、あなたは自由なんだよと応援したかった。そのためには、異質者が認め合えるルールづくりと、各人がその全体を支えるレベルにまで到達・自立することが必要なんだ。だから僕の主張は、突き放しが多くなる。あなたが考えなよ、と。共通項は「既成秩序を前提としない、多様な個人」で、後は、あなたが自分を深く見つめて、どのレベルで、自分の喜びを見出し、どのレベルでつながろうとするのかってこと。僕らはつながっている。全体のためでなく、自分のためにを深めれば、それが見えてくる。そのつながりの中核を僕は「スピリチュアリティ」概念で掴もうとしているんだよね。 
 
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LPC 第10回原稿 イダ・ヒロ 

あらゆる人がアーティストに! 

 
 僕の本のひとつに『樹木の時間――もう鼻血もでねえ』というのがある。僕がとった写真と、短いセンテンスからなるそこには、「あらゆる人がアーティストに」という想いが込められている。でも、分かりやすい“理屈”では書いていないので、その意味を感じとってもらえる人にしか伝わっていない(ように思う)。 
 そんな折、先日、友人のSに、大学の講義で「アートの持つエネルギー」という題で話をしてもらった。彼女とは感性が似ているところがあり、僕のいわんとすることに近いことを語ってくれた。そこで今回は、Sの話をヒントに、僕なりに「あらゆる人がアーティストに」の意味を噛み砕いてみたい。 
 アートとは何か。心の奥の方の、その人をその人たらしめている自分らしさの核、すなわち<たましい>の表現行為をアートというのだと、僕は考えている。心の無意識部分も含めた、混沌とした自分(そしてそうした人が集まっているこの世界を自分はどのようにみているかという自分の世界観)の全体を、表層的意識的ではない直感的まるごと形式で表現する、快楽的なものであり、だからこそ、その人なりの独創性・オリジナリティがなければ、それは物まねであり、工芸的商品でしかない。売れるかどうかは別の論理であり、値段が高いから上級のアートだというわけではない。やむにやまれぬ、その人独自の「生きている意味」としての、噴出するエネルギーが、アートである。 
 とするなら、アートは、特別の才能を持った人の高尚な絵や音楽や舞台だけで、私やあなたといった庶民には関係ないというものではない。誰でもが、<たましい>をもっている。誰もが唯一無二の個別的存在で、喜びに満ち溢れて生きたいと思っている。だから、自分を深く見つめ、それを表現するようなエネルギーが出れば、それはアートである。 
 ただ、僕らの多くは、そうした自分の<たましい>に自覚的でない。深く自尊心を持っていない。つまらぬ存在だと諦めさせられている。力を奪われている。したがって、アートなど関係ないと思っている。アートなどそんな悠長なこといってられない、それよりも食わなあかん、おまんまや、仕事やというのが「現実だ」と。 
 でも、そうか。ホントにそうか。皆、よく、「現実」というが、ホントにそれだけか。苦労して、まじめに、額にしわ寄せて、ケンカして、頭下げて、どなって、泣いて、我慢して、汚いこともしかたがなくて、それが現実で、「楽しい」とか「やりがい」とか「創造的」とか「人のため」は「理想だ=現実には無理だ」というのは本当か。 

 もう少し注意深く人々の生きざまをみてみたら、多くの人の生活や仕事は、カネだけではないことがわかる。義足を作っている人は、義足をつけた人の笑顔がうれしいという。看護士や医者は患者の笑顔がうれしいという。教師は生徒の笑顔がうれしいという。商売人は客と話すのがうれしいという。仲間といっしょに苦労して達成することがうれしいという。「うれしい」と、自分に「元気」が返ってくる。つまり、人のためは自分のため。禁欲主義でなく、自分のためは、人のため。 
 考えてみよう。思い出してみよう。「自分の<たましい>の呼び声に応えるような、本当にしたいこと=A」のために、僕たちは生きているのではないのか。でも、それだけじゃ暮らしていけないから、多かれ少なかれ、「市場社会でカネを稼ぐ活動=B」をする。当然、Bだけしているほうが、儲かる。経済的には効率がよい。しかし、Bを短くしている人がこの世には存在する。いっぱいいる。なぜなら、AのためのBであって、B自体が目的ではないから。お金自体が目的ではないから。これが大切。あたりまえに、大切。つまり、僕らにとって何が大切かってこと。Aがあるかってこと。さて、あなたにAはある? AのためにBをしているってことを忘れてない? Bだけになってない? 
Aがあることは、希望だ。だから元気が出る。だから「無理」なんかじゃない。我慢して、暗い顔して、やらなくっちゃっていうんじゃなく、もっと<たましい>に自覚的になって、AとBのバランスを取り戻したいよね。Bだけのほうが僕にとってはよっぽど「無理」だ。でも、つい、忘れがちになる。僕も、この間、忙しさに追われて、先生らしく、学者らしくあれもこれもしなくっちゃ、あっちにもこっちにもちゃんとしなくっちゃと思って、なんかしぼんでたときがあった。でもね、次の本に詳しく書くつもりなんだけど、大学の先生なんか辞めてもいいんだっておもうと、元気が出たんだよね。これって、Aを思い出したってことじゃない? これ、効果あるよ。 
 つまりね、アートっていうのは、そういうこと。原点に戻って、自分の<たましい>の声に耳を傾け、自分の人生をプロデュースして、再設計して、作りなおして、その瞬間、その瞬間という即興性、人生の一回性を自覚して作りつづけることなんだよ。そうすれば自由が目の前に広がる。作るという喜びが目の前に広がる。友達との会話も、恋愛も、どんな仕事をどんな風にするかも、みんなアート。完全にマニュアルどおりなんてありえない。だから、みんな、アーティストなんだ。自分というもの、<たましい>というものが大事にできたとき、Bに追われがちな現代人もAを自覚するアートを楽しめる。自分には、ユニーク性があり、力があり、創造力があると、自分を信じれる人がアーティストなんだよね。 
 アートで食っていかねばならない、そのように売れなくてはアートでないと思う必要なんて全然ない。「私は…です」と、Aを思いだし、それに自分の人生の一瞬一瞬を繋げられる喜び、誇らしく自分の<たましい>をいえること、それに基づいて自分らしく即興的に選び作りつづけること。それがアートであり、大事なんだ。みみっちい「理性や理屈や世間や慣習や役割」といった“秩序”から自由になって、体とこころ全体、結局は奥底の<たましい>によって溢れるように、毎日を、この瞬間を、自分の表現として創造すること! そんな人が増えたらいいな。僕もそうなりたいな。だから、だから、あらゆる人がアーティストに! 
 
 
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LPC 11回原稿 イダ・ヒロ 

「魂なんかあるかい!イダもあっち行ってしもたか」という人へ 

 
 〈たましい〉なんていうと、そりゃ、今の日本じゃ、いかがわしい目で見られるよな。トーゼンだよ。そんなもん、モノ=実体としてあるわけないから。でもね、〈たましい〉は「ある」んだよ。だから、この「ある」の意味を考えてほしい。「イダはバカだ、あっち(宗教、オカルト、狂気、非科学)へ行っちまったよぉー」と、相手を、自分の従来の分類に入れて、自分の足元を揺るがすことから逃げるんじゃなくて、「ん?」ぐらいは思ってもいいんじゃないのといいたいね。繰り返すけど、オカルトはだめだと思っているし、波動がどうだ、宇宙エネルギーがどうだ、『気』がどうだというのは、大方がいかがわしい。魂なんて、物体としてはないよ。 
 じゃ、なんなんだ?ってことなんだけれど、この連載エッセイでは、第6回と9回で抽象的に書いたので、今回はもう少し具体的に、普通の感覚のところで記述してみようと思う。 
 まず、最近読んだ大山史朗『山谷崖っぷち日記』(TBSブリタニカ)を使って。大山さんは、山谷での経験を綴るなかで、すばらしい人をいろいろな表現で表している。それは僕から見れば、<たましい>に関わる表現をしているってこと。それを僕なりに少し加工して著わしてみたい。 
 まず「すばらしい人=スピリチュアル度の高い人」は、侠気(おとこぎ)がある。ジェンダー視点としては、男に限るのは問題だが、そこでいわんとする「犠牲を払って人に尽くす気性。義侠心。強きをくじき、弱きを助ける気性」は実践すればやっぱりOK。さらに、すばらしい人は、他人からの承認を味わっているがゆえの、静かな安定した自信をもっている。静謐な穏やかさがあり、真摯な人柄で、いささかの諦念の深みを育んでおり、温順な香気をもつ性格である。人のダメさを見逃す度量があり、歳下の者にも敬語を使うような人である。つまり、生き方に気高さや美しさや高潔さがあり、気品があるような、人品上等な人間なのである。 

 逆に、「低レベルの人間=スピリチュアル度の低い人」を、彼は次のような表現で表す。それは、人の上手に立つことで優越感を得ようとする人であり、他人を攻撃することで静めねばならないような鬱屈をもった人である。人品賎しい人とは、無知、卑屈、傲慢の三位一体の人であり、相手を弱い(体力的に弱い、若い、女性、格下、知識が少ない等)とみると傲慢になる分、強い相手には卑屈になる。また、正義感に溢れ、自分はいいことをしていると思い込んで、そのことについての羞恥心がない人も愚かである。世の中は複雑で絶対的正義は簡単にはいえないし、そうそう完全な正義や正しいことが実現するはずがないのに、「+100」がないことに怒ったり、「+100と-100の対立」と信じこんで、自分は「+100」=「正義」の側と思い込める単純さは、人間の程度としてレベルが低い。弱者を助けるという構図のいやらしさに無自覚で、困窮者の存在が実は自分(私は良い奴だというアイデンティティ)の確認に必要というようなのはダメである。つまり、誰かを絶対的不幸と決めつけて助けてあげようと見下したり、誰かを崇拝してそのことに酔ったりするようなことは、洗練と多様性の承認に欠けた単純で幼いスタイルである。 
 どう?昔から言われてきたことだけど、やっぱり、そうした表現で近づけるものって「ある」んじゃない?僕は、前にも述べたように、頭(主観)では、目に見えないもの、「科学的に認識できないもの」を「ない」としてきたけど、でも、多くの人も僕も、映画やドキュメント番組で感動したり、実際の人物をすばらしいな、素敵だなと思ったりしたときには、なにか共通の「あるもの」を感じていたんだ。僕には、それを「ない」というより、「ある」として、その正体に近づきたいという願望がある。何か胸(心の奥)にこみ上げてくるものがあったし、それが原動力となって生きてきた。ところが、僕が嫌いな人には、どうもそのあたりが欠けている。この違いは何? 何が僕には強く感じられて、何があの嫌な奴には感じられていないの? 

 大学での講義や講演で、また僕の書いたもので、伝わる人と伝わりにくい人がいる。差別・人権(フェミニズム)とか、人の傷みとかに、嫌悪感とか反発心とか拒否感のある人がいる。つまりそれを、僕は、スピリチュアリティの問題だな、〈たましい〉がわかりにくいんだなと掴んでみる。そうすることで、学生やその他のひとの「反発や無理解」に対しても、単に批判・否定したり、怒るのでなく、〈たましい〉が見えないからそうなるんだなと思える。自分に自信が持てなかったり、自分が世界(他者)から必要とされ、愛され、また貢献できるという体験や実感がないんだなと思える。だから、こっちが「スピリチュアル度の高いもの」を示し、その人が〈たましい〉を実感できるようにすることが必要だなとなる。 
 たとえばダライ・ラマさんやハスラーアキラさんやパッチ・アダムスさんや中坊公平さんをみて、皆が〈たましい〉を感じることが必要と思う。今、執筆中の本では、そのあたりを何とか示して、説得力を高めたいと思っている。憤怒、嫌悪感を感じそれと闘うことは「自分の人権」を守るためにとても大切と思うが、否定だけのエネルギーは、自分の元気をなくさせる。人権の基礎には、自分を愛し尊敬できるセルフエスティームという「肯定」のエネルギーがあるし、その視点で世界を愛せるからこそ、それを否定するものと戦うのであって、「否定」だけでは、その主観とは裏腹に、「力の秩序」や「憎しみ、劣等感」を強化してしまい、自分も静かな自信を伴う穏やかさに至れないと思うんだ。そう思わない? 運動している人でも、口ではいいことといってる人でも、ダメだなってのは、このあたりに関係があるよね。 

 というわけで、僕は<たましい>という概念を鍛え上げれば、使えると思うんだ。あるかないか、科学的・客観的かという従来の枠で否定してしまうんじゃなく、何を求めるかってことで、僕にとって、この概念はその中核に近い表現なんだ。そして、歴史的にも多くの人がそのあたりを彷徨ってきた。これに代わるいい概念があるなら教えてほしい。よく考えれば〈たましい〉でストンとわかるんだけど、近代科学の時代に、どうもジャマが入りすぎたようだ。だから、21世紀は、合理主義の一定の有効性を認めつつ、もう一度、バカなオカルトやレベルの低い宗教とは一線を画して、ちゃんと〈たましい〉概念を再生し、僕らの人生と生活に筋をつけなくっちゃ。この<たましい>を大切にするのがスピリチュアリティ視点です。あなたにはピンとくるかな? 
 


LPC第12回原稿 イダヒロ 
肯定のエンパワメントへ 
 
 「スピリチュアリティ」とか〈たましい〉というと、巷で流行っている「なんかいい話、教訓本、人生訓、生き方マニュアル本」とか「仏教などをベースとしたエッセイ」みたいに捉える人がいる。まったく逆である。心のもち方を変えればよいのではない。古い宗教的教訓を一般的に繰り返したり、お祈りしたり瞑想するだけではまったく足りない。それは社会的には現状肯定だけをもたらし、個人的には自分を既存社会秩序に適合させているだけである。 
 僕の「スピリチュアル・シングル主義」は、社会システム(制度)を具体的に変えることこそが、まず最も重要であって、また唯一の根本的解決であるというものである。反権力的、反秩序的、反金儲けを、行動において、制度において、実際に実践していかなくてはだめだという思想である。ただ、システムが変わるためには、それを求める主体勢力の興隆と客観的状況の変化が必要である。環境変化を受けて、新しいシステムを求める、あるいは新しい時代を担う「新しい人間」が生まれてこなくては、変化は進まない。実際の社会矛盾を受けて具体的に苦しんでいる人の悩みに具体的に対処できるようなことを今ここからはじめることこそが、未来社会を今から育んでいくのである。 
したがって、当面、私たちは、自分の感性の上に、自分がどのように変わり、周りにどのように働きかけるか、具体的にどのようなプログラムをつくることによって人は元気になったり、「新しい人」となれるのかという、「質やビジョンや具体策、教育・研修プログラム」を求め創っていく闘いをすることが重要だと思う。それは、「新しい時代を反映するような、生き方の高い質を模索する」という意味で、とても理想志向的であり根源的である。 

 僕は、シングル単位社会の典型として北欧の社会民主主義国家を挙げるが、どうすればそのような社会に至るかとよく聞かれる。簡単に言えば、自民党政権による愚かな政治と教育が続いてきて、人の心がすさんでしまったという負の遺産をもっている日本社会は、すぐには決して変わらないと思う。でも、そんな社会の中でも僕たちは「高い質=スピリチュアルな生き方」を大切にしながらサバイバルしていける。むしろ、どんな小さなことでもいいから、自分にできることで何か他者に繋がること、社会変革に繋がることをすることが、自分が元気に生きていける基盤だと思う。そこを「スピ・シン主義」では追求したい。 
そのとき、特に強調したいのは、古い運動スタイル、教育スタイルにみられる「相手を否定する憎しみ、力づくのスタイル」でいいのかという問題である。僕はナアナアで中庸を言うのが成熟した大人だというような、根拠のない主張に賛成はしない。勇気をもってだめなものと闘うことが重要と思う。でも、「闘い」は、ともすれば怒りのエネルギーで自分(の側の欠点)を深く見つめるようなことを軽視し、相手ばかりを責めることとなりやすい。でも、それがもたらすものは、相手に声が届かないだけでなく、自分たちをも未来の原型からほど遠くしてしまうということではないのか。心豊かで感受性や繊細さのある、人品高い人間、すなわちスピリチュアルな生き方にほど遠いような「闘い方」でいいのだろうか。目的のためには手段を選ばずという、理想社会への革命が成功するまでは、ただ闘えばいいというような考え方は、歴史的に葬られたはずではなかったのか。 
意味ある革命があるとすれば、永久的革命しかないことは、まともな人たちならとっくに気づいている。人生は内的な成長のプロセスなのだ。この一瞬、一瞬にアートすること自体が喜びであり、生きる意味である。私たちは、どんな社会でもアートできる。そして、僕は〈たましい〉という概念で世界とのつながりの覚醒をもったアートが、これからの成熟社会での「充実した人生のための必須アイテム」だといっている。 
 児童虐待防止プログラムの浸透を図る運動をしている森田ゆりさんの『エンパワメントと人権』(解放出版社)も、それに近いことを述べていると思う。現状は、人々が比較や競争や差別や過剰期待や暴力などの外的抑圧によって力を奪われ、孤立分断させられ、お互いが遠い存在となっている。自分はダメだ、自分の努力や能力が足りない、自分の責任だというように、自分の可能性を限定して、恐怖、不安、無力感に囚われている。希望や理想なしに、外の価値観に縛られている。 

 そうした中で、「エンパワメント」という重要な概念が間違って理解されていると彼女は言う。「女性たちがさまざまな分野で積極的に力をつけていくこと」といったようなよくある理解は、能力主義を超える視点をぜんぜん提示していないからだ。それでは、がんばって自立して競争に勝って、人からうらやましがられるような立派な人になりましょうというのと変わらない。外的抑圧の下、既成秩序に対して、能力主義的に適応しているだけであり、競争的な、否定のパワーの発想のままだ。 
そうではなく、アメリカなどでの人権運動の中で培われてきた、積極的な「エンパワメント」概念は、世間の秩序の中で上昇するとか比較・競争するのではなく、自分の中の内的価値に基づいて、自分の大切さ、かけがえのなさを信じて、自己肯定できることなのだという。競争による勝利というような外に力を求めるものでなく、自分の内にすでにある「生命力の源」とでもいうべき力(内的資源)に気づき、それにアクセスすることである。「安全、自信、自由」があるというセルフエスティーム(自己尊重)の状態を核とする肯定的パワーをもって、否定的パワーを乗り超えていくことなのである。 
そうわかれば、政治や学問や市民運動側においても、エリート的に賢い人がのさばったり、少しの違いで相手に不信感を持って仲たがいしたり、権威主義的な人が多かったり、単純な声が数や勢いで相手を圧倒するような光景が多々見受けられることの愚かさ、運動側自体の「肯定の心という高いスピリチュアル度」の視点から見た未熟さという問題が理解できる。 
この「エンパワメント」は、自分だけで持つものではない。「他者による受容、尊重、信頼、共感、愛情」や「自然」や「信仰・霊的示唆」などといった周りからの肯定的なエネルギーによって、もともと自分の内部にあった力が顕在化するのである。互いの内在する力に働きかけあうことでありうるものであるから、エンパワメントとは、ホリスティック視点で述べていたように、「つながり」を繕いなおすことであり、ある種のコミュニティの創造のことであるともいえる。 
僕たちが目指すべきものは、明らかだと思う。「敵」に見えないものを、自分たちがはっきりと掴めばいいからだ。北原さんのエッセイにあったではないか。LPCの活動に対して「結局、商売なんでしょ」という言葉を吐いた男たち。それに対して、あの人のことを思い出すと、胸の奥がぎゅっとつかまれる気持ち。自分の生き方の芯がいつも思い起こされるような気持ち。それは目には見えないかもしれない。重さも形もないかもしれない。しかし、「ある」ではないか。私は、他者と繋がっているではないか。 
LPC連載第13回 11月29日分 イダヒロ 
「組織時間」でなく「個人時間」で 
 
 会社とか役所とか大学とか裁判所とか、その業界にはそこ独自の“政治”がある。どんなところも少しぐらい「改革意見や正論」を述べてもほとんど変わらない。人間関係、信頼感、人脈、実績を作っていき、そこのルールにのっとりながら徐々に変えていくしかないというのが、常識である。そしてその結果、理想や大胆な発想は葬りさられ、組織改革は遅々としか進まない。番頭や丁稚の如く、主人(上司)に忠実な部下が可愛がられ、重宝され、またその人が後輩を引き入れ、組織の中心となっていき、現状維持的な人間関係・派閥が続いていく。この従来型の組織変化のゆっくりとした改革速度を「組織時間」と呼ぶとしよう。 

それに対して、一回きりしかない僕の個人的な人生の持ち時間量とスピードを「個人時間」と呼ぶとするならば、「組織時間」と「個人時間」の歩むスピードの差は、重大な問題だ。そこを考慮せずに僕の人生設計を考えることなどできない。わかりやすく言うならば、あまりに小さな一歩のために、一回しかない自分の人生を捧げるのは、割に合わないと思うのだ。「捨石」発想は性に合わない。つまり僕は、「組織」や「社会」のために生きているのではない。そんなちっぽけな改革のために、生きてるんじゃない。人生は短い。グダグダやってられない。 
 それが一番したいことか? 少ない能力と時間と体力をそこに注ぎ込む価値はあるのか? この貴重な1日、1時間を、何を優先して使っていくか十分考えないでどーする。「仕事だから」「この家族だから」「みんなこんなもんだから」「運命だから」。そんな風に思って僕らは学校で受験勉強をし、クラブやバイトをし、就職し、結婚し、子供を持ち、親戚付き合いをし、情報を追いかけ、いろんな商品を買いまくって、とくに家を買ってローンを払い続けて生きていく。 さて、それが一番したかったことなの? 
死ぬまでに何をしたかったの? 出世したかったの?家を買いたかったの?家族を持つという形がほしかったの?お金?権力?地位? 1年に1度海外旅行にいければ幸せ?同じ職場に雇用形態が違うことで大きく賃金が違う人がいることは、仕方ない?政治のだめさも、環境破壊も、首切りやセクハラも、他の国での人権侵害も、関係ない? ダライ・ラマがチベットから武力で追い出されていることは、関係ない? どうせわたし個人でできることなんて、ほとんどないし。 自分と家族のことだけで精一杯。人生甘くないし。不況だし。気を抜かずに、生活のために働かなくっちゃ。 
 ふーん、それだけ?ホントにそれだけ? 子供に望むのはいい学校に行くこと? ちゃんと結婚してくれること?子供を産んでくれること? ちゃんと給料の出る会社で働いて家族を養えば、それが幸せ? それが子供に望むこと?それだけ?病気がなく、痛いところがなく、仕事があれば、それで幸せ? 
 社会運動や宗教活動や政治活動などをしているとしても、ことは同じ。昔のパターンの繰り返しでいいの?それでホントに成果はあるの? 手段が目的になっていない?組織維持になっていない?官僚的になっていない?組織に従属していない?独創的に、生き生きとやってる?成果はあがっている? 一番したいことは何だったの? 

 能力は同程度でも、ある人は年収1千万円、ある人は年収200万円という現実がある。そこに憤怒はあるか。上の者には見えないかもしれない。しかし、憤怒はある。それに、私は無関係か? 「ない」として「知らない」として、私は今日も幸せに「組織の時間」で、遅々たる改革にいそしむのか。 
 知り合いにレイプ被害者がいる。本人の、そして家族の、その痛みはいかばかりか。 それに関わることなく、思いを及ぼすことなく、自分が経験するまで、自分の恋人や娘がレイプにあうまで、そうしたことを考えもせず、したがって、何もせず、何も考えず、私は生きていくのか。 
 セクハラされて悔し涙を流す人や、精神的に追い詰められている人がいる。男を見ると体が震える人がいる。一方で、「セクハラと騒ぐから、ものが言いにくくなったよ」と鈍感に言い放つ人がいる。たいしたことができないとしても、だから、何も関係ないか。 
 夫が突然亡くなってしまった人がいる。心臓が引きちぎられるおもい。それを「運が悪かったね」ですますのか。なぜシングルマザーは生き難い? 同情されたり、蔑視されたり。なぜ生きにくい? そのことに、私は、そしてあなたは無関係か。責任はないか。何もできないか。 
 他人事? なってみないとわからない?関係ない?人は弱すぎる?そう言い放つあなたは、なぜ自分の子供が可愛いのか? なぜ花を見て、空を見て、鳥の声を聞いて、陽だまりに目を細めて、心が和むのか?水面に映る木々を見て、心落ち着くのか?なぜ、友人の痛みに涙を流し、友と笑いあい、幸せを感じるのか? あなたのその地位はあなたの努力と才能の賜物か? あなたが中国の奥深い農村に生まれていればどうであったか? 
 
別れたり会えなくなったり、死んだ人の思い出は、今の私の、あなたの生きる力となりえないか。あのときの、あの歌は、詩は、映画は、友人の言葉は、あの人の涙は、震える声は、なぜあなたに力を与えるのか。私たちの人生を強く動かすものの正体は? 
 
前回、セルフエスティーム(自己尊重)が大切と述べた。だが、「ありのままの自分の承認」というのは、現状肯定ということではない。とらわれている自分の今の水準でいいというのではない。自分の奥深くに眠っている〈たましい〉に気づき、それにもとづいた「自己の解放」と「つながりの行動」を果たすことこそ、「ありのままの自分」の実現なのであり、喜びなのである。 
 
偉そうに述べすぎた。私もできていない。ほとんど何もできていない。偉そうにいえない。でも、だから、と、口をつぐむべきか。 
 「個人時間」で生きたい。今、ここで、なすべきことをなしたい。「いい1日だった」と思える日を過ごしたい。こころ震える瞬間を少しでも多くもちたい。そう、思う。やはり、思う。「心をこめる」という水準に、少しでも長くいたい。昨日は、かわりばえのしない1日ではなかったか。記憶に残る1日であったか。濃密な、スピリチュアルな一瞬があったか? そう一瞬でいい。そう、一瞬でいい。スピリチュアルな一瞬を、せめて1日か、あるいは1週間に1回持ちたいと思う。それがないなら、生きている意味がない、という一瞬を! 
そう思うと、人との語らいに〈たましい〉がこもる。人生の細部に、“神”が宿りたもう。 
LPC連載第14回 イダヒロ 

結婚・絆・恋愛について(その1) 

 
もうしばらく連載させていただけるということなので、少し、結婚や離婚についての話に移ります。その後で、再び、スピリチュアリティについて考えていく予定。 
 
キムタクが結婚する。「工藤静香が朝3時からサーフィン仲間の弁当を作っていた、料理上手だ、キムタクはそこに惚れた」とさんまがまことしやかに言うと、皆は「ふうーん」とうなずく。 
 
ある雑誌に載っていた言葉。「同棲だと恋愛の延長線上にあるだけで不安というのは本音です。結婚はお互いに対する責任感が出てくると思うし、永遠という安心感がありました。もちろん何があっても私を大切にしてくれる人という信頼があり、自然な流れで彼に決めたんですけど。」 
「これからも仕事はがんばるつもり。でも、それ以上に、私はあなたの奥さんであると いうことを第一に考えていきたい。独りのときはいつも自分のことだけ考えて生きてき た。でも今はあなたのことをいちばんに考えたいの。今、私、ごく自然にそう思う。……あなたの仕事が大変なことは…理解しているつもり。だからこそ家庭にいるときくらいは、あなたに余計なことはさせたくない。掃除、洗濯、それに料理。全部私にやらせてください。それが私の望みでもあるんだから。そして人前ではできるだけあなたを立てていきたい。そう言うことを全部やった上で私は私でがんばるつもり。」 
 
 「批判」をすることはできる。でも、逆に、これらの“感覚”の強さをここでは確認しよう。つまり、世に幾多の恋愛論・結婚論はあれど、結局、「信頼のある関係・絆はすばらしい」は共通項だし、「あなたのことをおもうから、あんたに尽くすのは喜び」というのが“素直で自然”だというのだ。これは強い。「必要とされる喜び」を多くの人は求めているし、「永遠の愛」「責任感」「浮気せずにいちずに一人の人と持続的な関係を持つのはよいこと」も定番だ。 
 
LPCへの投稿でも、「結婚は覚悟の問題」というのがあった。他者と関わることから逃げて自己完結した世界にまどろむのではだめだということから、「他者と一緒に生きていく」ことで浮かんでくる自分をみつめていくという、変化と展開の覚悟が、結婚なのだと。 
 
ゼミで浮気について討論した後、「私は浮気は絶対に許せない。必ず誰かが傷つくからです。いろいろな人と付き合いたいなら、特定の人は作らずに、自分と同じ考えの人と付き合えばいいと思う。そうでなければ、一人の人とだけ付き合いたいと真剣に考える人に、知らぬ間に害を与えるから。」という意見を書いた学生がいた。いろいろ理屈は言えるけど、自分の本音はとにかく恋人がほかの人とセックスしたり、仲良くなるのは嫌というのは、大方の意見だ。若者はともかく、「大人」は自分の欲望だけで生きてちゃだめで、他の人の痛みを考えて抑制して生きていかなくてはならないと皆がいう。 
 
これらの“感覚”に正面きって反論する気になれない。そのような「議論」に無力感を感じる。理屈としては、ある程度、拙著『シングル単位の恋愛・家族論』で書いた。でも、その読み方はひとそれぞれ。何か、違う切り口や伝え方がいるように思う(それを通じて、シングル単位論に立ち戻りたい)。多分、不毛な対立を超えるような、双方の意識の裏にあるものへの「肯定的な承認」がないと、言葉を重ねても「むなしい」という感覚があるからだろう。だから、僕はまず、自分の今までの切り口自体を一度横において、「絆や信頼や持続性が大事だ」という言い分にも、うなずいてみたいと思う。そうすれば、その「現実主義」も、もちろんわかる。 
 
ダグラス・ラミスは『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(平凡社)で、「タイタニック現実主義」という概念を提起している。タイタニック号は氷山にぶつかる方向に進んでいるが、タイタニック号の中だけで考えると、「エンジンを止めろ」というのはまったくの非現実的な声で、いつもどおりのルーティーンをやるのが「現実主義者」なのだと。 
 
結婚や恋愛の議論もこれに似ている。結婚や恋愛を批判する人は、なんて偏狭で、極端な例で物事を切り捨てるのだろうと思われている。歴史は、名もない人の毎日の地味な行為の積み重ねで形作られてきたではないか。結婚や家族や恋愛は、そうした所作の場であると。確かにそれは、ある世界では、「現実主義的見方」である。明らかに今、結婚しているカップルにも幸せな人がいるし、暴力や支配関係のない夫婦もいる。互いの欠点をも受け入れながら、努力して関係を維持したり新たに作り直しつづけているカップルもある。 
 
で、で、だから? ここからが、思案のしどころ。何か、ここだけで止まれないものを感じない? 外部の氷山はどこにもないって思える? 僕は、マイナス比べのように、「こんなひどい例(氷山)もあるよ」という形で「説得」しあうのは不毛だと思う。そうじゃないのもある、私はそうならないという水掛け論になるからだ。 
そうじゃなく、結婚や恋愛制度を肯定する人に、「もっと別の関係のあり方」「もっと高い水準の関係」がみえることで、〈見えなかった氷山〉をともに見出すようなことを考えたいと思うんだけど。相手側への不信感でなく、相手が何を言いたいのかを、肯定的な気持ちで聞く中で、ともに結婚や家族や恋愛の未来像を探っていきたいなと思う。 
 続く 
 


LPC連載 第15回 イダヒロ 

結婚・絆・恋愛について(その2) 

 
 「UFOを見たで、すごかったでぇ」という人がいたとする。昔の僕なら、「そんな非合理なものがあるわけない。錯覚やで」と切り捨てていた。でも、今は、その人がそれでうれしくなったり、日々に元気が出るなら、それでええやんって思う。だってその人には見えたんやもん。その人には「ある」んやもん。せやから「ふーん、どんな感じやったん?」と聞きたい。その人のうれしい感覚を僕も楽しみたい。 
 
 恋愛や結婚的なものにおける、「いいなあ」っていうものも同じやないかな。人それぞれ感じてたり、「あるはず」って思ってるけど、なかなか、はっきりするもんやない。思い込んでるだけのものも多い。だから僕は「幻想」やって思う。「激情」とか「ほっくり」とかはあるけど、それは幻想。でも幻想の上に僕らは生きている。宮台真司さんが言うように「社会の底は抜けている」んやけど、だから生きていけないって事はないんやから、せやから、幻想の上に生きてるって言えるんやな。 
 
 その中で、僕は「スピリチュアルなもの」っていうのに行き着いて、これは「答え」に近いなって思った。僕は民主主義・平等を求める近代主義者やったし、マルクス主義やフェミニズムやエコロジーに共感を持つ者やった。でも同時に、「ストレインジ・デイズ」や「狂い咲きサンダーロード」をみて「おーすげえ」と力を得たり、古谷実の『僕といっしょ』や『グリーンヒル』を読んで泣き笑ったり、みゆきの「誕生」を聞いて感じてた者やった。でも、その究極には、おぼろげながら、スピリチュアルな生き方をしたいんだなって、見えてきた。できてないけど、目指したいのはそっちやなって。 
 
 スピリチュアルなものって、幻想やな、やっぱし。はっきりせーへんし。感じるもんやし。せやけど「ある」んやな。僕には。 はっきりとな。そして、これが、恋愛や結婚を考えるときに、鍵となってくる。 
 
カミムラチヒロさんという人がいる。一人芝居「声をなくした女たち」をしている人で、すっごいええセンスしていて、感受性あふれた、それでいて、強い光を放つ人。好きな人やし、尊敬してるし、信じられるな。 
 桂むつこさんという人がいる。茨木市議やってる。世界で一番信じれる政治家やな。とても繊細で、弱さと強さを両方持ち、政治的なことから非政治的なことまで幅広く関われる、そういう意味でこれからもっとも求められる人間像やと思う。身近な友人を、世間の肩書きとまったく無関係に、平等社会の先取りのように愛せる人。せやから、一人の人間として、好きやなと思う。 
Yさんという人がいる。障害者の自立生活支援に関わっている人で、優しく、複雑に相手のことを思い、一人の時間も大切にして、焼き物を焼いたりする人。静かにものを感じる人やな。 
Kさんという人がいる。障害者介護を仕事としている人。自分の生き方を深い質で振り返り、繊細に人との関係を見つめている。繊細すぎて、傷つきやすいかもしれない。でも優しい。その言葉には教えられることが多い。 
森島さんという人がいる。中学校の教員で、『セックス・性・世界観』に文章を寄せてもらった。からだの音や声を敏感に感じ取って、自分の生き方を見つめていこうとしている人。水カンリンバを心をこめて作ってくれて、僕にくれた人。 
蔦森さんという人がいる。「彼女」は有名やな。その発想と感性は、独特で、すごいなと、すぐに思った。〈たましい〉の生の形のままが出ている人のようやな。 
Wさんという人がいる。まだよくは知らないけれど、僕の中にいいものを見つけてくれて信頼してくれて、優しい言葉をくれる。直感で、この人もそうだなと思える。 
Rさんという人がいる。僕の人生に最も「陰影」というべき側面の影響を与えた人やな。ある意味出発点であり、原点やな。そして、彼女の幸せを祈りたいって思える人やな。つまり、心の中に、独特の位置をしめて、僕の〈たましい〉をうずかせるような存在やな。 
たわだ先生は、多くの先生の中で一番、僕の〈たましい〉の基礎工事に関わった人やな。せやから僕の人生の基準であり、羅針盤や。 
Sさんという人がいる。芸術面に詳しく、バランスがとれてて、仕事もでき、同時に、複雑な内面を持ち、心に悲しみをもっている人。距離感をいつも大切にできる人で、クレバーで、繊細な人。だから、尊敬できるし、好きやな。 
Nさんという人がいる。読書や映画や音楽を通じて、自分が何者であるかに自力で近づいていった人で、孤独ということを正しく受け止める能力のある人。僕に、ル=グィンをはじめとして適切な情報を提供し、日々の交流をもって身体的に受容や優しさを教えてくれる人やな。 (その他にもいるし、会ったことないけどスピリチュアルな影響受けた人やモノや作品も多い) 
 
この人たちに〈スピリチュアルなもの〉を感じる。みんな繊細で、感受性が強く、闇や無意識や世界の未規定性に触れるような感性を持ってる。みな、社会や他者と繋がり、「成功」とは違うものを求めている。だから、僕のわずかな「光」にも感応してくれる。皆優しく、偉そうにしない人や。ホンモンや。僕の人生が何年あるかわからんけど、確実に、生きててよかったと思える、充実した時間を与えてくれたといえる。この人たちとある瞬間を共有できたことに感謝したいと思う。この人たちのおかげや。せやから彼/彼女たちが幸せになってほしいと思う。みんなのように、僕も〈そっち〉に近づきたいなと思う。 
 
この人たちに会えてよかったなって思う。それは静かな微笑をもって“スキッ!”って思う感じ。みんな大好き。それは恋愛? それは友情? パートナー的感情? その区分や枠組みに意味があるとは、もう、思われへんわ。他者から名前をなんとつけられようと、僕は、この人たちに会わないほうがよかったとは思われへん。この人たちが幸せな時間を過ごしてほしいと思う。複数の人を好きになるのはフツーの状態やんと思う。この人たちと語り合いたい。時間を共有したい。会えなくても、その人がいると思うと、幸せになる。会えんでもええわ。会えたという記憶だけで幸せだ。この人たちがつらいと、僕もつらい。 
この感覚を〈友情〉というならそうやな。友情で十分やないかと思うわ。友情やけど、恋愛や結婚やなんやかんやと分けた「単なるお友達という意味の友情」とは違うで。〈たましい〉で触れ合い尊敬しあうような、いとおしい友情感覚や。 
この感覚が、僕の恋愛論や結婚論の基礎にある。そこんとこをよーわかってもらわれへんと、『シングル単位の恋愛・家族論』でほんまにいいたかったこともわかってもらわれへんわ。結婚や付き合ってるという「形」なんて、どうでもいいんや。「浮気」や「裏切り」なんて言葉の次元とは違うところ。そこにスピリチュアルな交流があるかどうかっていう、その瞬間瞬間の〈質〉だけが大切というしかない。 続く 
 


LPC連載 第16回 00年12月イダヒロ 

結婚・絆・恋愛について(その3) 

 
森田ゆりさんの『エンパワメントと人権』に、ドメスティック・バイオレンスにともなう支配と管理をまとめた図表が載っている。そこでは、①経済力を奪う(仕事させない、金があることを教えない、こずかいによる管理)、②孤立させる(家の中に閉じ込める、交友関係を問いただす、チェックする)、③心理的に支配する(馬鹿にする、マインドコントロール)、④男を主人とする(決定権を独占、女性に家事育児役割)、⑤恐怖感を与える(動物を虐待する、物を投げる)、⑥脅す(殺すぞ、子どもは渡さない、自殺してやる)、⑦性的に支配する(セックスの強要、他人とセックスさせる)、⑧否認する(暴力をふるっていない、考えすぎだ)等といった手法が示されている。これは、DVにかぎらず、夫婦・家族関係、人間関係における支配に共通の側面をかなり言い当てていると思った。 
 
とするなら、僕たちが目指す新しい関係っていうのは、これの逆ってことだと思う。つまり、結婚や家族や恋愛を論じるとき感情的になることが多いが、理性的にまずこうした支配・管理はだめだということは押さえておけるとおもう。だが、もしそうなら、その逆を一つ一つ確認することによって、意外とラジカルな結論が出てくるということに、眼をそむけずに直面してほしい。すなわち、好きな人の経済力を奪うのはだめだし、だから仕事させないのもだめとなる。こずかいを与えるとか、おごってやるというのも、それが支配に繋がるという自覚が必要だ。相手を社会から孤立させるのもだめだ。心理的に支配したり、男を主人とするのもだめ。自分に関する決定権は各人にあり、二人に関することは話し合いで決める。家事育児は男女半々でやる。交友関係を問いただすなどとしないということは、恋人でも夫婦でも秘密はあって当然ということにおちつく。これは、僕のいうシングル単位的な関係に限りなく近い。 
 
結婚や家族や恋愛というものが神秘化され、合理的に分析されずに思考の前提とされているのがおかしいので、そこに光を当てて「幻想」をはがしてみた。そうすると、性欲とか生活便利とか知的欲求とか所属欲求などといった「なーんだ、自分のためにやってんじゃん」ってことが意外と多いことに気づく。じゃあ、「あなたのため」みたいに押し付けがましく言ったり、それをしないとだめみたいな、決めつけはよそうよということになる。その上で、でもそうした分析だけでは何か説明できないような、「高い水準の関係」とでもいうべき、「スピリチュアルなもの」ってあるなあと思い至る。合理的に分析しつくしたからこそ、そのあとに、言葉では届きにくいものが浮かび上がる。僕が『シングル単位の恋愛・家族論』で描きたかったのは、そうした可能性だった。そのとき、従来の結婚とか恋愛という形にはほとんど意味はなくなる。その瞬間の関係の質こそが問題だった。相手への尊敬の念があるようなことだけが問題だった。 
 
だが、「恋愛したい」「結婚したい」という熱病のような願望は、古い世代だけでなく、若い世代にも根強くある。「激情」がいいという信仰。永遠の愛。激しく、いっぱい惚れることがよい。我を忘れるほど、理性がなくなるような恋愛がよい。愛する一人の人を選択し、一貫性や持続性を持つことがよい。別れるのはよくない。好きという気持ちが変わるのはよくない。特に子どもができて、責任を持って、家族を維持するのが大切という「正論」。 
外部から突然降りかかってくる運命的な愛こそがすばらしいという発想は、すぶとく存続している。この私の平凡な状況を変えてくれる運命としての恋。そのゴール・成就としての結婚!運命の人! 二人は深い愛で繋がれ、死ぬまで永遠に子どもともども愛し合う。 
 
なんという受身だろう。受動性だろう。この、根拠なき、またほとんどの人が思い込まされている定型的イメージ。そうでないという情報がいくらでもあるのに、はっきりとそれを暴く言説が少なすぎる。フェミニストとかいいながら、結婚制度に対して思考が中途半端な人がいかに多いことか。それほど、「愛の物語」が根強いということ。私たちが、自立と孤独を怖がっているということ。「形でないもの」が見えていないということ。現実の変化についていっていないということ。 
 
 僕のシングル単位論は、はっきりと「激情(恋愛・結婚)は答えじゃない」といいきった。愛すれば、別れもある。気持ちの変化もある。人は支配できない。所有できない。愛する人が他の人を好きになったら、悲しいだろう。嫉妬心も出てくるだろう。でもそれを正当化できない。子どもも一人の主体。子どものことも含めて、離婚について考えて、それでもってのシングル単位論だった。 
 
いくつかの経験と試行と思考の結果、少なくとも僕は、「激情」じゃないというところに至った。「永遠」「真実の恋」「あるべき家族・結婚・恋愛」という幻想がない分、激情ではない。ロマン的情熱におぼれて、見えなくなることはない。もうない。それは悪いことか。誠実じゃない、本気じゃないというのか? 
 
僕は変わったのだろう。 「誠実じゃない」というより、「誠実という激情」におぼれないようになったのだ。竹下小夜子『性 to 生』(沖縄タイムス社)も、それに似たところに至っている。「情熱の奴隷」から離脱することは、寂しいことではない。僕には、それは成熟として好ましいことに思われる。それを若い世代に伝えたい。 
 
最後に、石垣りんさんの詩をひとつ。彼女がこの詩を発表してもう40年ほどになるというのに。伝えるべきものはまだ、伝わっていない。 
 
夫婦 
 
年をとって半身きかなくなった父が 
それでも、母に手をひかれれば 
まるで四つんばいに近い恰好で歩くことができる 
 
あのひきずるような草履の音は 
まだ町が明けやらぬころから 
泣いたり、わめいたり、甘えたりしながら 
母にすがって歩き回る、父の足音だ。 
 
もう絶対に立ち直ることのない 
いのちのかたむきを 
こごめた背中でやっと支え 
けれど、まだすさまじい何ものかへの執着が 
父をいらだたせ、母の手をさぐらせている。 
 
あの足音 
ずる、ずる、とひきずる草履の音。 
 
自分たちが少しでも安楽に生きながらえるため 
一生かかって貯めたわずかな金を大事にしている 
そして父は、もう見得も外聞もかまわず 
粗末な身なりで歩く 
道ですれ違えば 
これが親か、と思うような姿で。 
 
その父と並んで 
義母も町を歩いている。 
買物袋を片手に、父の手をひき 
父の速度にあわせて、母は歩くのだ。 
人が振り返ろうと心にもとめず 
まるでふたりだけの行く道であるかのように。 
 
夫婦というものの 
ああ、何と顔をそむけたくなるうとましさ 
 
愛というものの 
なんと、たとえようもない醜悪さ。 
 
この不可思議な愛の成就のために 
この父と義母のために 
娘の私は今日も働きに出る、 
乏しい糧を得るために働きに出る。 
 
ずるずるっ、と地を曳くような 
地にすべりこむような 
あの、父の草履の音 
あの不可解な生への執着、 
あの執着の中から私は生まれてきたのか。 
 
やせて、荒れはてた母の手を 
ただひとつの希望のように握りしめて 
歩きまわる父、 
あのかさねられた手の中にあるものに 
また、私もつながれ 
ひきずられてゆくのか。 
 
 (続く:次回はより直接に結婚制度への態度について言及する予定) 
 
 
 
 


LPC連載 第17回 イダヒロ(1月17日) 

結婚・絆・恋愛について(その4) 

 
 多くの人が、近代化段階が終焉した現在の日本社会において、古いシステムが疲労しており、新しい時代に対応した新システムの構築が求められると述べている。同じことは、制度および人間の実存(生き方レベル)においての、家族や男女・人間関係にも当てはまるわけで、意識しないで踏まえていた「暗黙の前提」自体をみなおすのは当然だ。具体的には、他者不在で、理解しあえる共同体を信じたり、男女二分法の上に成り立つ異性愛結婚制度と意識(家族単位システム)を当然の前提とすることは、遅かれ早かれ耐用年数の限界に直面する。したがってもっとも身近な関係においてさえ、「他者」性を意識するような共生のスタイルを身につける人が増えていかなくてはならない。今の時点から、「結婚でない関係」「家族でない関係」という実践をはじめる必要がある。 
しかしこれはアイデンティティ・クライシスを伴う。特に、時代変化にフレキシブルに対応する能力が低い中高年世代ほど、危機に直面する。そしてもちろん、古い秩序自体を相対化する訓練を少しも受けていない若年者もあわてふためくだろう。家族・共同体幻想喪失の後、古い秩序を信じていた者はどのように安心して生きていけるのか。これに対処する教育なり制度フォローを準備しないと、過渡期は混乱と無用な対立が拡大するだろう。 
 
 以上は長期的な一般論だ。特に日本は、宗教的・文化的伝統に規定されて、近代個人意識がいまだ定着していないムラ社会だ(保守・右翼だけでなく、革新・左翼や一見新しい若年世代も)。それに対して、単純に「“個人へ”という論理」だけを対置しても人は動かない。だから、僕が言う「シングル単位社会」に至る戦略の論議は、かなり周到な複雑さを持ったものにならざるを得ない。そのとき、〈たましい〉という概念に関係する領域を意識することが必要とだけここでは言っておこう。 

 恋愛や結婚を論じるときにも、同様の困難さが付きまとう。恋愛という幻想や家族という幻想は、近代社会が軽視してきた「感情、身体的感覚、無意識、感受性の次元」、すなわち理性領域とは異なる「スピリチュアリティに関わる面」をもっている。だから、僕やフェミニストが家族・結婚(制度)批判をするときも、単純な理屈上の主張(ベキ論)ではないという奥行きを持たせなくてはならない(そのためのスピリチュアル概念の提起)。 
しかし、それは、「家族もいいね」という折衷論では決してない。逆に、もっと明確に、「求められている突破口は、家族や恋愛そのものではない」と明確な結論を提示しなくてはならない。身体的感受性次元での快楽は、家族や恋愛特有ではないし、家族に必ずあるものでもない、というシンプルな「論理的真理」を何とか伝えなくてはいけない。そこが分かってこそ、その対案のシングル単位のイメージも伝わる。そのような思考回路をもった人を増やさなくてはならない(とらわれからの解放、相対化の視点)。したがって、僕は家族や恋愛の「快楽」=「身体レベルでの強さ」を認めた上でも、家族復権論者、共同体主義者では決してない。 
 
以上の話をやわらかく言い換えて展開してみよう。「この人は神様がくれたプレゼント」。そう思えて,その人を大事にできるというのは、とりあえずはいいと思う。よかったね、と思う。謙虚さが適切な距離感に繋がっている限り、その人のよさが見えて,自分がいい感じになれて,自分たちの関係が見えている感じといえるから,いいなと思う。 
 
それと、「激情」というのとは違う。激情は「見えていない」感情だからだ。アタマがガーと熱くなって,距離ゼロ感覚(所有意識)で何も見えなくなっていることに酔うのは、僕にはもう、魅力的ではない。自分は相手のことを「わかっていない」ということを自覚するような、冷静な観察力がいる。結婚さえすればシアワセという思い込みに根拠がないこと、愛が続かない可能性は十分高いことを自覚するスタイルが必要だ。その上で身体的感覚を楽しむ覚醒がいる。「前提」自体を問うような相対的視点だけが、ブレイクスルーをもたらす。距離感をちゃんととれる人だけが、逆説的に、「ぎゅっと抱きしめあう関係」を維持できるだろう。 
 
 若い人に伝えたい。「先輩」として、言うべきこと、伝えるべきことがあると思う。30歳以上の者、先にやってみて経験して「何か」がわかった者は、次の世代の人に語り継ぐべきことがある。 
過去のことを非難するのではない。過去から続く現在はそうであるしかないという意味で、OKだ。結婚していてもOKだ。いろいろあるしかなかったんだ。結婚しているからだめとはいえない。事態は各人各事情の下、複雑だから。これからについても、今までの関係や制度の中にあった「よい側面」は大事にしていきたいと思う。 
しかし、若い人に、経験に基づく知恵、特に失敗からの教訓を伝えたい。未来に向かって、どのようにしたらいいとおもうかを語るべき責任が、年長世代にはある。あまりにも、これまで先人たちは、自分たちの経験と世界認識を、自分の中で十分に発酵させた上で分かりやすく伝えるという努力を怠ってきすぎた。「いのちのつながり」ということを手渡すようなことが少なすぎた。(もちろん、一部の人は貴重な経験を伝える努力を積み重ねてきた。例えばNet One編集・発行の『試行錯誤からはじめよう』(注文先03-3709-1377)は、結婚してみた後の現実を具体的に書いていて、若い人の参考になるだろう。) 
 
「結婚してもしなくてもいい」とか、「形ではない」といいながら、ほとんどの者たちが多数派の方を選んできた。秩序再生産に手を貸してきた。だからこそ伝えたい。 
 
伝えるべきことの一つは、結婚は制約が多いということだ。親戚づきあい、古いしきたり、周りの目、父や母や親や妻や夫やといった役割期待(義務の苦しさ)、固定的関係期待(離婚しなくて当然、簡単に関係を解消できない)、親の介護責任、権力関係などがついてくる。パートナー以外の人との性的不自由、将来の恋愛可能性を失うコストもある。特に子どもを持つと制約が非常に大きくなる。これらは各人の自由を減少させる。離婚は大変なエネルギーを使う負の行為なので、それに直面するリスクも負うことになる。女性の場合なら、働きつづけていれば得られる収入や仕事の充実感を失ったり減らすリスクもある。男性なら、妻子を養う責任という制約が大きく、妻の家事能力が低かったり浪費家であるときの負担が大きいとか、妻が働きたいという形で自立欲求を持つために男性の期待通りの妻にならないという問題もある。根本的に考えて、結婚=「二者が一体となる」ということは、「他人の人生を引き受ける」「他人を自分の人生に引きずり込む」という側面がある。これは大変なことだ(そこを自覚しないときに無意識の抑圧がおこる)。こうした負の側面を伝えず(教えず)に「結婚は幸せの典型=バラ色」というイメージばかりばらまかれていることに、自覚的であるべきだ。 
 
結婚制度自体のもつ社会的問題(社会的差別への加担測面)もある。結婚制度は戸籍制度と密接に繋がって、女性低賃金や役割強制等の女性差別、働きすぎなどの男性差別、婚外子差別や同性愛者差別、独身者差別、シングルマザー差別、シングルファーザー差別、等をもたらしている。家庭内暴力にも密接に繋がっている。男女賃金差別裁判の判例でいつも言われるのは、「一般に女性は妻となって夫を支えるため短期間で退職する傾向にあり、女性の側に役割分担を肯定し、労働意欲が低いものが多くいることも否定できない」というようなことだ。結婚して従来の役割分担をする人が多いと、女性の足を引っ張ってしまうという事実があるのだ(もちろん裁判官の判断自体が一面的であるという問題あり)。詳しく説明する余裕がないので拙著『シングル単位の社会論』をみていただきたいが、社会保障制度や税制度や労働制度などによって、異性愛片働きカップルがもっとも優遇され、それ以外の生き方が、ランク付けされた上で、少しずつ異なった差別をされている。 
 
逆に、結婚特有の有利な点もある。結婚すれば、多くの場合一体感が強まるし、「もう後には戻れない」という覚悟を決めることになり責任感が出やすい(カップル関係が安定しやすい)し、正常な一人前とみなされる、親が喜ぶ、姓を同じにできる、被扶養者がいることで税金負担や社会保険料負担や給料付属の手当て支給などで有利になる、相続税・贈与税上の優遇がある、子どもを嫡出にできる、制的自由が社会的に承認される、重婚・姦通・不倫を排除(批判)できる、離婚妻・寡婦に保護がある、児童扶養手当など社会福祉上の優遇がある、住宅獲得の際の有利さ、慶弔金(休暇)、結婚手当(休暇)、銀婚式賞与、入学進学手当、出産手当、家族入院手当、介護や病気付き添いの権利(休暇、休業手当金)があるなどの諸点である。だが、これらも裏を返せば、結婚神話ゆえの安定であったり、結婚制度に入っていない者への不利益(差別)と繋がっている面があるといえる。つまり、結婚制度に入るということは、そこに入っていない者たちを差別する現行制度の存続に加担しているということになる。これを自覚した上での選択であるべきとは言えるだろう。 
 
結婚をめぐる社会環境が変化してきたということも押さえなくてはならない。一人暮らししていける環境は以前と比べて格段に増えた。古い役割意識や家族観も変化しつつある。男性が家族を養う前提であった終身・年功雇用制度事態が変化しつつあり、それと一体であった国家諸制度も再検討されつつある。そういう中で、「20―30年前の常識」が常識でなくなりつつあるよということは、肝に銘じるべきだということも伝えたい。 
 
以上のようなことは勉強すれば分かるが、「自明の前提自体を疑う」という訓練を受けていない人は、情報を集めず、鈍感にも無批判的に今の(=旧来の)制度に乗っかってしまう。「ケッコン」と聞くと目をウルウルさせて「オメデトウ」という人は多い。心から、オメデトウ、よかったねと思う人は多い。充実感の少ない、確かなことの少ないこの世の中で、唯一といってもいいというくらい、結婚し、子どもを持つということは、シアワセの絶対的指標となっている。 
 
だが、時代環境が大きく変化しつつある現代において、無知ゆえの秩序依存は、時に本人に悲劇をもたらし、時に他者への差別加担を強化する。とするなら、情報を集める(マーケティングする)ことなしに、何かをやってみるというのは無謀だ、という言い方は説得力があるのではないかな。マイナスを考えずに、プラスだけを見て、マイナスは何とかなると思うのは、勇気ではなくて、自分と他者の将来人生に対する単なる怠惰だと思う。あとで「こんなはずじゃなかった、そんなつもりじゃなかった」と“泣き”を入れるのは、愚かだよ。少し、きつい言い方だが、未来に向かっては、それぐらいきつく言っておきたい。責任をとるのは、次の時代にそれを選択するあなただ。誰かのせいにすることはできない。結婚という形でなく、人と人の関係の質をどうするのかこそ、私たちが考えるべき課題だ。(続く) 
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LPC連載 第18回 イダヒロ (1月24日) 

結婚・絆・恋愛について(その5) 

 
結婚や恋愛によるメリットもあるが、それは本当に結婚や恋愛をしないと得られないものだろうか。戸籍登録しなくても得られるもの(愛情)をあなたが大事にしたいというなら、「結婚制度に入らない」という少数派の選択をあえてする気があるかどうかと、自分に問うてみてほしい。親がなんと言うだろうか。会社の人や親戚や近所の人や友人たちはなんと言うか。想像力を働かせて考えてみてほしい。 
 
公表・社会的承認が、結婚の本質だ。皆に隠した結婚はありえない。したがって、「自分の選択は、社会への影響とかそんな難しいことじゃなく、ただの二人の間の気持ちの確認よ」というのは、ちょっと違うと思う。秩序の中で、どこに自分の席を確保するかという、選択が問われているんだよ。結婚制度に入ったほうが得することがあるし、同時に、制約も引き受けざるを得なくなる。皆が結局、今までどおり籍を「入れ」る結婚をするなら、やっぱり古いジェンダー意識(規範)の残存の時間が長くなる。社会が変わっていくのを早めるには、既存制度に入らない人を増やし、彼らが異議を申し立てる行動をすると同時に、若い人に「別の生き方もあるよ、それも楽しいよ」というモデルを提示することが必要だろう。前回に述べたように、結婚制度には差別を再生産する側面があることをぜひ思考の一部に入れてほしい。 
 
だから、いろんな事情があるだろうし、一概には言えないということは確認した上でのことだけど、そして、あなた個人が決めるしかないけれど・・・、できれば「結婚しない人が増えればいいな」と思う。それがぜひとも伝えたいことの一つだ。明確な結論でしょ。「結婚という形に無条件に乗らないでほしい」。そういうことをアナウンスする大人が少なすぎる。 
男女平等とか、個人の自立、人権尊重をいうなら、まず少なくとも弁護士や大学教員や政治家やエリート(女性・男性)や条件が恵まれている人など、余裕や経済力や力(パワー)がある人は、結婚制度のマイナス(差別性)を考えて、結婚制度に入らない選択をしたらいいなと僕は思う。皆が今すぐにできるとはいえなし、女性が働く状況もいぜんとしてひどいし、社会保障制度なども家族単位のままだから、「結婚拒否」しないからダメなんて絶対いえないが、でも社会を変えるためにも、自分の人生を面白くするためにも、できる条件にある人とか、ちょっと変わった人とか、おもしろそうとか思う人は、そうしてほしい。そうしてみたらと提案してみたい。そうすることで社会に風穴が開いていく。選択肢モデルの多様性が目に見えるようになる。いろんなことが見えてくる。学校行かない人が増えたり、会社員にならない人が増えればいいなってのと、ちょっと似ている。 
 
これは禁欲主義でも、脅しでもない。やってみれば意外と簡単だ。僕は楽しくやっている。結婚の制約からかなり自由になれる。結婚のおいしいところの、本当に「大事」なところは、制度的結婚をしなくても手に入る。絶対に手に入らないのは、税金控除とか、現実的な、主に金銭的なメリットだ。結婚しなくてはいけないなんてことは、ほんとうにない、ということを、カラダで示す人が増えなくて、どうして「多様性」とか男女平等なんていえるだろうか。そういう時代にきている。 
 
「この恋(この結婚、この相手、この子ども)に賭ける」というのも、かっこいいようで、潔いようで、実は安易過ぎる言葉だと思う。それは思考停止を覆い隠し、複雑に人生をコントロールする努力から逃げるという安易さを美化した表現のようにおもう。安易に宗教、神様、仏様にすがるというのと構造上は同じだ。複雑さにちゃんと覚醒して向き合うのでなく、型にはまってこなすだけでことがすむという身を投げ出すスタイルだ。そういう「考え方は安易で愚かだよ」と若い人に伝える大人が増えなくてはいけない。 
 
といっても、この点に実は、結婚をめぐる議論の「深さ」がある。というのは、結婚というような「制度的で固定的で硬い関係」は、前回述べたように「他人の人生を引き受ける」という側面があるのだが、それ自体が、逆に結婚の価値を高めるからだ。つまり、自分の人生を充実させたいと思う者にとって、明確な“自分の生き方の芯”のようなものがなければ、その代替物として、「神のため」と並んで、「家族を作って家族のために生きる」というのは、もっとも手ごろに、そして確実に、充実感や意味を獲得できるツールだからだ。「何かに対する責任をもちたい」「特定の人と深く関わりたい」という「濃密な実感」を得るための実現形態として「結婚する=家族を作る」という「とても制約の多いもの」を選ぶということ(苦行に自分を追い込むこと)がおこなわれており、それは成熟化段階の今の日本でも(いやむしろ目標が見えにくくなっているからこそ)、結婚という行為の重大な存続理由(結婚することの正当性の根拠)となっている。 
 
 だが、もちろん論理的には、結婚だけが濃密な実感を得られる手段ではないし、結婚したから必ず濃密な時間を持てるわけでもないということがいえる。充実感のために結婚=家族作り(性役割、子育て)というものにすがるのは、その他の「自由な」選択肢が見えなくなっていることという不自由さの裏返しでしかない。自分の充実感のために、他者(配偶者や子ども)を巻き込むこと自体が、そもそも所有意識であっておかしい(そのおかしさに気づかせない仕掛けが“愛”=単位概念)。だからこそ、「この結婚にかける」「責任をもつ」「自分や周りの人(夫、親)が幸せになるために子どもを産む(母になる)」「幸せにするよ。守ってあげるよ」「私を捧げる(セックスさせてあげる)」というような文句に自己陶酔するなというアナウンスをすべきであると思う。問題は、充実して生きるということへのコントロール力を高めることなのだ。 
 
「結婚」がいかに思考されずに実践されているかの話に戻ろう。逆説的に述べてみるが、3年後や10年後や20年後の別れもあると、本気で想定する根性があるなら、「結婚的」なことをするのもいい。そのときに対処する力(離婚に関する知識や弁護士や法律などを使いこなす力、精神的経済的能力)があるならいい。離婚したいとおもったとき、子どもがいたらどうするのがいいのか、知っていたり対処する能力があるならいい。結婚した後、家事はどのように分担するのか。夫は残業が当然の会社のとき、どのように家事分担をするのか。どのように会社の上司に言うのか。夫は育児休業はどれぐらい取るのか。子どもが2歳で保育所に預けて共働きするときの忙しさを具体的に知って、そのときどうするのかをわかっているならいい。相手が暴力をふるってきたとき、どうすればいいのか知っているならいい。子どもが言うことを聞かない子になったときどうすればいのか知っているならいい。児童虐待のメカニズムや対策を知っているならいい。自分たちの結婚が、社会的にどういう意味をもっているのかを知っていて、責任をとれるならいい(例えば、結婚しながらも結婚制度変革の運動に関わるとか)。 
結婚前に、そんなことぐらい話し合うのが当然でしょう。覚悟するのは当然でしょう。シュミレーションしたり、体験したり、勉強したり、危機を想定したり、違う対処方法と比べてみたりするのは、当然でしょう。あらゆるケースを比べて最適なものを選ぶのが、まともな大人のすることでしょう。リスク管理をするのが大人でしょ。責任をとるのが大人でしょ。企業間契約で、文書確認もせずにハンコ押しちゃ、子どもだよ。後で文句も言えないよ。 
 
と、言ってみたら分かるように、つまり、実際には、そんなのはむつかしい。結婚前に何もかも考えて、性的少数者差別や婚外子差別や離婚や家庭内暴力まで考えて結婚なんてやってない。だから多くの人は、危機管理なしで結婚しているといえる。それで後で、泣いたり、知らなかった、そんなつもりはなかったといったり、家庭内権力関係で悩んだり、我慢したり、あきらめたり、自分が離婚しなかったから他の人も皆幸せであたりまえ、そうでないのは不幸な例外とみてしまったりする。それでいいわけ? 
 
幸せなカップルは確かにいる。その事実自体を否定しているのではない。「カップルを作っていない幸せな個人」もいるし、カップルだけど「幸せの源泉はカップルということからだけきているのではないという人がいる」ということを論理的に組み込んで思考するような、明晰な頭脳を持て!と言ってるだけだ。 「女性が怒るのは、彼が自分を振り返ってくれないとか、女の子らしい小さな理由だけであるべき」とするような、つんくの『LOVE論』を批判できる視点を持つためには、「ケッコン=シアワセ」っていうキラキラ目をやめることなんだといいたいわけ。(『LOVE論』については、北原みのり『フェミの嫌われ方』の突っ込みが痛快)(もう一回だけ、続く) 
 
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LPC連載 第19回 イダヒロ (1月31日) 

結婚・絆・恋愛について(その6) 

 
 この表題のラストです。 
親の立場から子どもに何を伝えるかと考えてみよう。子どもが大きくなって「自立」するとは、親の庇護から離れて、自分で生きていくということ。だから、将来どうやって食っていくかが、子ども自身が第一に考えるべきことだよね。そのとき、基本原則は、自分の希望や能力や個性を考えて仕事を見つけて働いて食っていくということだろう。「結婚して男に養ってもらう」とか「金持ちの遺産を相続して遊んで暮らす」とか「誰かに依存・寄生して生きていく」というのは、これからの未来社会を考えるときに子どもたちに選択肢として提示すべき事柄とは思えない。まともな、自立した大人のすることじゃないと思う。このことを若い世代にごまかすことなくアナウンスすべきである。 
「専業主婦も悪くない。ある意味、夫を利用しているけど、二人が納得しているんだったら他人に文句をいわれる筋合いはない」という意見もあるが、この「常識」が「夫婦単位」で考えているという、意識されなかった前提自体に自覚的になることが、不要な対立を避けて、建設的な未来社会を考えるときには有効だ。「妻を養わなあかんから夢を捨てる」という男の生き方がおかしいとみえるためには、個人単位感覚がいる。つまり、「夫の収入で生活する」「妻(女)の料理でメシを食う」ことのヘンさを、個人単位感覚で自覚すれば、新しい関係が見えてくると思う。それを若い世代に伝えたい。ガチンコでの「高校生夫婦」でどうしていつも女性が料理なんだあ?「未来日記」で、どうして他人の「無理やり障害」シナリオで盛り上がれるんだあ? そういう、自分たちの感覚の前提自体に自覚的になろうよってこと。 
 
つまり、過去の結婚にまつわる慣習は差別に満ち溢れていたと確認し、結婚しても男女平等はあたりまえであり、子育ては男もするのが当然で、女性が働くのも原則として当然だと伝えること。「専業主婦」も、病弱で働けないとか、一時的に資格をとる勉強のために誰かのお世話になるとかいう場合ならありうる。日本の家族単位的福祉事情の下では、高齢者介護や障害者介護を家族が担わざるを得ないというような場合もあるだろう。その他特殊な事情もありうる。だから過渡期の現在、一概にだめといっても意味はない。そうではなく、「個人単位で考えていこう」ということと「原則として自立するのがあたりまえ」「愛する人も他者である」ということを言えばいいのだ。 
「結婚して男に養ってもらう」というのは、あまりにも自分の選択肢が狭く制限されているという感じの発想だ。依存的で、セルフエスティームの低い発想だ。あなたも私も、なんか、今の時代、「優しくなって人を信じていれば、いつか誰かがシアワセにしてくれる」っていうんじゃなくて、「自分でがんばって自分に誇りを持ちたいの!」という気分なんじゃないか。前提の家族単位思考自体を相対化すれば、そのことが見えてくる。そうしたことを明確に伝える義務が、大人にはある。 
 
歳を少しとってきて、何回かの恋愛にも疲れて、仕事にも疲れて、ちょっとここらで安定した自分の「よりどころ」「ベース」が欲しいなという気持ちになることがあるというのはわかる。 
しかし、それと、戸籍制度に乗っかって、役所に結婚届を出し、親戚と会社の人と友人を集めて結婚式と披露宴をするというのとは違う。「いっしょにいたい」と「結婚」は違う。「幸せにしてもらう」というのと「シアワセになる」は違う。「役所に結婚届を出し、親戚と会社の人と友人を集めて結婚式と披露宴をする」ということをしなくても、あなたの求める「結婚的なもの=よりどころ」は手に入る。つまり、二人の暮らしとか、愛情とか、信頼とか、ぎゅっと抱き合うとか。 
「役所に結婚届を出し、親戚と会社の人と友人を集めて結婚式と披露宴をする」という「確固たる形(制度的保障)」がないと不安(こわれるんじゃないか?)というのは、そりゃ、あんた、話が逆よ。そんな形がないと壊れるもんなら、たとえ形があったとしても、「内容・質」はしれている。たいしたもんじゃない。それは、不幸よ。面白くないよ。その形がないとだめって言うのは、ちょっとつらい。能力が低すぎる。“オヨヨっていうすがりつき”って感じで、きつい。それじゃ、早晩、うまくいかなくなるよ。 
人間関係調整力、コミュニケーション力、交渉力、危機対処能力、などをもたないとだめだと思う。それを鍛える教育プログラムを作るしかない。それがあれば、「結婚という形」には意味がなくなる。必要なくなる。(そこまでを求めて僕は結婚制度批判をしている。)そんなの無理だから、昔ながらの形に入れ込んでおきましょうというのか。それも悲しいねえ。「自立する力がある、依存や支配ではない」とか、「結婚届なんてどっちでもいい」というなら、ぜひ、届けを出さないほうを選んで、次の世代に「別の生き方モデル」を見せていってほしい。今まで、そんな試みが少なすぎた。ウーマンリブはそういう端緒だったんだよ。きっと。 
 
情熱は冷めやすい。放っておくと。とくにセックス面はね。それに「男女・家族の愛情」という物語には、権力関係的なものがべったりと貼り付いている。情熱感情のプロセスについてよく知り、権力関係の罠を引き剥がす力を、子どもたちや次世代の人が獲得するプログラムを提供しなくてはいけない。「人生に過度の期待は禁物だ」とウッディ・アレンはいったが、それを適切な恋愛幻想批判・家族幻想批判として提供しなければいけない。距離ゼロの関係は、すばらしいのでない。それは所有なのだ、ということを繰り返し伝える必要がある。だが、それを分かっている大人があまりにも少なすぎる。「男女平等」「男女共同参画社会」の掛け声を口にして何かことが少しでも進んでいるかのように思っているような鈍感な人たちは、すべからく、この家族単位と個人単位の区別ができていない。道は長い。 
 
結婚は安定のシステムであり、相手を自分のものにするシステムである。あなたも恋人になったり、結婚したりすることで、「これで安心」と思わなかっただろうか。少しは思ったんじゃないかな。公表の力で関係を固定させようとするという性質があるんだよね。「自分たちは特別の関係だ」と自分にも、パートナーにも、周りの人にも思わせるもの、周りに宣言するものなんだよね。「この女は俺のものだ、手を出すな」、「この男は私のもの、手を出すな」というわけ。そのこと自体の“怖さ”に覚醒する知性を持ってほしい。 
 
 その先に、ようやく、結婚・家族という「形」に頼ることなく、身体感受性を開き、それを実践するという道が開ける。幸せになろうよ。気持ちよくなろうよ。「社会がマインドコントロール的に与えた装置=おもちゃ」である「結婚・恋愛」でない、フリーなスタイルで。権力的でない形で。それが僕の求めること。 
 
最後に応用論(シングル単位感覚入学試験)を述べておこう。人にはいろんな事情があるということをふまえる例だが、例えば、ラブラブでないが、同居している関係というのがある。若くして勢いで結婚したが、徐々に気持ちが離れてきて、もはや修復不可能だけれど、子どもがいるし、パートナーも悪い人じゃないし、いまさらややこしい離婚するほどでもないというやつ。あるいは、苦しいときを一緒に付き添ってくれたという“歴史”があり、いい人だから一緒にいるが、いまや熱く燃えるものはないという関係など。 
そういう事例は多いのに、若い世代にそれに対する対処策も教訓もぜんぜん伝えられていない。これを通じて、結婚とか家族とかいうことについて深く考えることを提起することこそ、「新しい時代の人間」を作るのための教育グッズだ。 
 
さて、どうするか。答えは簡単だ。「家」の外に「楽しい関係」を作るということだ。細かい事情によっていくらでも実際の形態は変わりうるが、原則はそれしかない。複数の人と関係を作る。それが答えだ。これは、根本的な「結婚幻想に対する批判的メッセージ」だ。 
「失敗した結婚」はあるように言われているが、「私は失敗しない」と皆が思っている。だからこそ、離婚や家庭内別居も含めて、うまくいっているときでさえ、複数の人と仲良くするという「答え」を明確に提示すべきと思う。「失敗」の概念をずらすのだ。「失敗した結婚」でなく、「失敗以前に結婚自体が失敗的」なのだ。そもそも、何が失敗で、何が成功か。成功はいいのか。失敗は悪いのか。 
もちろんそのときの「関係」には、友人や趣味や仕事等の生きがいと同時に、「恋人(恋愛する)」「性的快楽(セックスする)」も入りうる。それを不道徳とかいって、考えないようにしていて、欺瞞に満ちた社会になっている(理念・たてまえとしての二者排他性の存続と実際の不倫・売買春の蔓延)。まじめな人とか若い人(未経験の人)はその幻想にとらわれて不幸になっている。フェミニスト的な人でさえ、性的なことには、特に年長世代は保守的だ。自分の古いセンスを他者(若い世代)に「正論」として押し付けないようになりたい。 
 
そもそもなぜそのとき好きなのは一人だけなのか。楽しく生きればいいじゃないか。「人を不幸にしろ」というのではない。なぜある人が幸せなときに、それを道徳の名のもとに引きずり下ろそうとするのかということだ。1回だけの人生をできるだけ多くの人が喜びを持って生きてほしいと思う。過去を悔やんで泣いて、心を閉ざして、生きるのをよそうよ、いつからでも楽しめるよとメッセージしたい。 
これからの時代、リスクを管理するために、仕事を一つにしないとか、所属を複数にすることなどが必要なように、「関係」においても、何もかも一人でまかなおうとするのは無理だし、危険だ。友人は一人でいいといえないでしょ。好きな人が複数いるのは当然だよ。 
 
美輪明宏さんの『強く生きるために』(主婦と生活社)も、僕と同じような結論に至っている。この本は、スピリチュアル・シングル単位感覚があふれていてお勧めなんだけど、美輪さんは夫に恋人がいるとき、離婚するつもりがないなら、夫を追い詰めずに自由を認めてあげて、その代わり自分も、恋人を作るなり、性商品(サービス)を利用するなりして、自分の人生を楽しむべきだという。時間がたてば、夫婦の愛情の質や形も変わるのは当然で、「帰る港、遊ぶ相手」の両方あるのが幸せじゃないかと。 
俗っぽい言い方だけど、いいところをついていると思う。独立していれば、経済的にしがみつくこともなくなるから、その意味での「責任」もなくなる。だから、離れたければ、離れればいい。それをしないのは、本人の選択。経済力が片方にないときの発想(一人の人を養い続けなくてはいけない=愛は一人と永遠に)を、普遍的真理のように、いうのはおかしい。「玉の輿」ってのもおかしいよね。それが恥ずかしいという感じを早く皆が持てばいいのにと思う。 
 
「男の浮気(勝手)を許さない」というような、後ろ向きの否定のエネルギーだけで語るのはもうやめようよ。そもそも何でも男が悪いと叫んでるだけじゃ、深みがない。センスの悪い主張に未来はない。しがみつく発想で、「正論としての不倫はいけない」は、いやらしい。相手が決めればいいじゃないか。自分が決めればいいじゃないか。自分のセクシャルな自由と解放を考えたい。いろんな事情やいろんな関係があるから、きれいに線引きして、マニュアル的に言い切れない。相手の選択肢を、「正論」で縛るような、惨めなことはしたくない。嫉妬心を、「人の道に反する」と一般論で正当化して語りたくない。 
 「時代はまだそこまできていないのだから、誠実であるのは当然だ」というような言い方は、自分の嫉妬を正当化しているだけ。「不道徳」とか、「勝手」とか、レッテル張りは嫌だ。これからは肯定的なエネルギーとしての「寛容」が鍵なんだよ。もちろん、援助交際オヤジ、不倫バカオヤジ等を正当化したいといってるんじゃない。そういうものとの違いをいうためにこそ、結婚制度批判の上でのスピリチュアルなエネルギーの交流をいいたいのだ。 
 
そして最後にひとつ。そうしたオープンでスピリチュアルな志向の先にこそ、「形でなく質」ということの実践例のひとつとして、「特定の一人の人(同居している人)ととても深く愛し合い、仲がよいというケース」もありうるといえる。 
しかしそれは、はじめから「異性愛・戸籍結婚してその人とのみ一生愛し合うのが当然」という前提を疑わずにやっていることとはまったくちがう。前提をいったん崩した後の、選択の上での、スピリチュアルな関係のひとつとして、「仲のよい二人」的な“瞬間”はあるのだ。そして、その“瞬間”が結果として、長く続くということも。 
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LPC連載 第20回 イダヒロ (2月7日) 

「スピリチュアリティ」が伝わらない? 

 
 はあーぁーあーのはぁー。今、僕は大阪経大や立命館大学での講義(社会政策、ジェンダー論)のレポート採点に追われまくっています。そこにでてくる意見をみていると、どこで多くの人が「シングル単位」感覚に抵抗感・反感を持つのかがよくわかって勉強になります。というか、「本、読んでへんやろ!コノヤロー」とか「こいつ授業に出んとごまかしとるからこんなボケた誤解さらしとんな」とか「それについては講義で何べんも説明しとるっちゅぅーねん」とかも、内心少しも思わずに、まったく謙虚に、やはり「ワタクシめのいたらんところですばい」と思うわけで、僕の本の記述の足りないところや、極端な表現で誤解や無用な反発をもたらすところなどが手にとるように、これでもか、これでもかとわかるちゅーわけです。Mのケのある僕は、「ぐぅひっひっひ」とか「おげーぇ」とか唸りながら、自己の姿を省みるわけです。 
 
とくに今年は「スピリチュアリティ」とかいうもんを語ったわけで、レポートの感想欄を見ておると、それがなぜうまく伝わらなかったのかが、ハタっと合点がいったのです。 
 
僕の本を読む人、講義を聞く人は、自分の経験に照らし合わせて、納得するもんなのでございます。いや、そんなことはわかっていると、おっしゃるであろうが、ことは「スピリチュアリティ」である。週末の自動車かフジツーパソコンじゃないんだから、一体誰がレベルの高い「スピリチュアリティ」のようなことを、見て聞いて触っただろうか。ほとんど誰も経験していない。存在が見えていない。感じていない。 
 
だが、僕の講義では「それが高いレベルの、すばらしいものなんだぜ」ということをうまくいえていないのだ。抽象的にまとめすぎてしまったよーだ。だから、皆さん、簡単に「よーわからんかった」といってくださった。とほー。「考え方は人それぞれでいい」となんとも便利な言葉を吐いて、自分に見えていない高いレベルのものがあるってことに、微塵も接近しないままの人が多かった。スピリチュアルな意味で、心の目を閉ざした人にはなかなか、伝わらない。 
 
こりゃ、もっと具体的に「スピリチュアル」的なものを感じてもらえるようにわかりやすくしなくちゃならねえということですね。というか、それが今の自分にはわからないもんだとしても、「なんか、すばらしくて、すごいもんなんだな」、「それが感じられるようになりたいな」と、思ってもらえるように伝えなくてはダメなんですね。ハイ、失敗でした。そうできていませんでした。 
 
だから今度の「スピリチュアル・シングル」を考える本では、ここを突破して、美輪さんのように、「修行」と言うほうがいいのかもしれないなんておもったりしました。「修行」というと、レベルの高さはなんとなく伝わるじゃない? でも微妙です。「宗教」や「精神世界」は確かに危険だし、偏見も強いし、やばいからなあ。 
 
 むしろ、「命をかけて線路に飛び込んだ人のこと」とかというように、チョー分かりやすく示すことがいりますね。確実に。でも、それだけじゃ、ぜんぜんご不満です、僕は。そんな「いい話」と間違われそうなアプローチよりも、もっと「目盛りの間」を示すような、不気味なブラックホール=不条理が世界にあふれ僕等のすぐ横にあることを、分かるように描ける筆力があるかどうかでしょうねえ。不安をもっと根源的に煽れるかってことです。 
 
 そしてさらに、スピリチュアリティは、たんなる「非科学」=「神を信じる楽な発想」とか「ニューエイジばりの、これが精神と物質を統合するキモチイイだ!」というような安易さでなく、非常に「知的レベルの高い複雑なもの」というような位置付けをして、現代人にも憧れたり羨ましがってもらえるような伝え方がいると思いましたねえ。これはもちろんいまの学問・科学への信仰を利用する危険な面も持ち合わせています。難しく書くことで「知識=お勉強のチカラ」で相手をひれ触れさせるような面もありがちです。でも、スピリチュアリティへの見下しと無感応がある下で、なんとか、科学とか合理主義の対立物ではなく、まさにそれらの先・最先端に、「それ」を扱う領域があるのだと伝えるような力が要りますね。「闇の世界」「夜の言葉」ということを、これでもかというぐらいに示さないと、頭の堅い人、合理主義や表面だけの人には、「それ」が考えるべき領域の問題だということ自体が分からないのです。領域自体が見えないのです。 
 
一度、絶望に突き落ちる必要があるのです。私たちが。スピリチュアリティを語るとき、科学の力をもって圧倒した上で、その先への感受性を開いていきたい。 
 
あなたには、感応する力があるのか、ないのか。僕は、可能性はかなり多くの人にあると思ってます。特に若い人には。心が固まった大人=「おじさん・おばさん」はダメでしょう。これは直接的な年齢のことではないよ。 
「近代が排除した感受性」を取り戻す闘いが、ようやくフィールドにのりそうな時代です。でも、それが課題となるということは、逆にいえば、今の大多数には「それ」は見えない状況だということ。だから講義では、それにぶつかって、自爆した。僕の語る力では、「それ」へ感性を切り開けなかった。多くの人には「???」だった。いや、「?」以前で、何も聞こえなかった人も多かったようだ。聞こえた言葉は、意味をなさずに、せいぜい「ああ、まあ、よくあるいい話ね」と分かった気になって、不安による自分の省みに少しも繋がらない人が多かったようだ。僕自身が、「届くところまで消化した言葉」をもってスピリチュアリティに近づけていないんだということだろうね。 
 
でも、それでも感応してくれた人は少しだけど、いた。映画や音楽や文学でさえ、ようやく近づけるものを、どう僕は掴み、表現し、伝えることができるのか。チャレンジする楽しみに、僕の心は少し躍る。不調感も、もどかしさも、絶望感も、自信喪失も当然抱えながら。だって、〈たましい〉が浮き彫りになるのは、この世界に闇や悪意やおぞましき虚無があるからこそだもの。ろうそくの火が輝くのが、闇の中であるように。そう、「一点の曇りなきハッピー」が若さゆえの浅薄さであることに気づく程度に賢くなったものは、しんどさを抱えることに慣れながら、なんとか生きていくしかないのである。なーんて、偉そうに言うのはおよし!ペシッ! 
 
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LPC連載 第21回 イダヒロ (2月14日) 

目盛りの間の無限がみえる? 

 
例えば、なぜ、あなたはボタンを押せばお風呂に入れるのか?なぜ蛇口をひねれば飲める水が出てきて、ガスや電気が家庭で手に入るのか。それが科学の力だ、日本経済が成功したからと、答える人がいる。そこで終わる人がいるが、そこで終われるか? 
というのは、問いはどんどん続くからだ。例えば、なぜ日本経済が成功した成果をあなたは手に入れられるのか。なぜ電気やガスというものがあるのか。1000年前には利用できなかったし、今も利用できない人がいるし、そもそも、誰がガスや電気を作ったのか。それが自然法則だとか、それが運命だといって思考を止められる人がいる。でも本当にそこで終われるか? 
なぜその運命や成果はあなたに降りかかったのか。つまり、なぜあなたは100年前に生まれなかったのか。なぜインドネシアに生まれなかったのか。なぜ原子があり、その構造として電子があリ、それが流れて、エネルギーが運搬できるのか。なぜE=IRなどといった電気の法則があるのか。なぜ、酸素や水素やナトリウムなどの原子の種類があるのか。なぜその種類は1万種ではないのか。5種類でもないのか。なぜ万有引力があるのか。なぜシマウマや麒麟や亀やミトコンドリアがあるのか。なぜ、ヒヤシンスやタツノオトシゴはあの形であの色なのか。 
 
何を言いたいのか、わかる? それは、私たちは不思議の上に生きているということなのよ。「不思議さへの自覚」の感覚がわからない人が多い。なぜ生物種にこれほどの多様性があるか。生命自体の不思議。言葉があること。病気になること、ならないこと。体の不思議。命の不思議。宇宙があること。その生成と時間と宇宙の果て。ものが見えること、音が聞こえること、におうことのすごさ。しかし、光のうち見えているものは一部だし、におえるのも味わえるのも一部。つまり、私たちは、何もかもわかった上に立っているのではない。よく分からないことの上に、途中から一部がわかって、それを利用して何とか生きている。分からないことがあることを分かっていない。 
 
これを、象徴する表現として、「ものさしの目盛りの間がないとおもっている人がいる」という言い方がある。表面的に見えることだけ、科学で「ある」と言われていることだけしか「ない」と思っている単純な人がいる。経済を知るとは、教科書にかいてあるような理屈をしって、銀行や証券の動きが分かって、日経新聞の経済記事がわかることなのだとおもっている人がいる。 
だが、深く世界が見えてくれば、そんなことではないということが分かってくる。科学や学問というのが、ある部分の合理的説明ではあっても、そこには領域の限定があったり、無意識の前提があったり、論理的飛躍があったりする。立場やイデオロギーや規範が影響している。だが、「目盛り」だけをみているひとは、2ミリと3ミリの間はないと思っている。14センチ6ミリといえば、完璧と思っている人がいる。自分はクリアーだと思っている人がいる。狭義経済学だけやっていれば社会のことが説明できると思っている人がいる。だが、目盛りの間には無限がある。ものさしの目盛りの印刷の太さはどうなのか。自分についても社会についても分かっていないことは多い。 
私たちは、無限の中に生きている。それを、認識できる範囲で、目盛りを打ち、言葉・概念を与え、理解した気になっている。例えば男と女と言葉を与えて、人間には2種類あると思っている。だが、人間は人それぞれだ。ジェンダーもセクシュアリティも個人差の宝庫だ。性格はどれひとつとして同じものはない。言葉による区分や理解、したがって合理的認識とは、ある程度整理して掴むためには必要で便利なものであるが、決して、完璧ではない。 
それを意識するのが、「目盛りの間」である。「目盛りの間」は、例えば、密度(距離や時間のつまり方)であると捉えることができる。つまり、目盛りの間にどれぐらい詰まっているかは、その人による。本当は無限に詰まっているのだから、人がそこに密度を見る感性・視点をもっていれば、いろんなものがみえてくる。0.1ミリも、1ミクロンも、それ以下もある。1秒も1000分の1秒もある。それがわかれば、顕微鏡やスローモーションのように、その1ミクロン、その1秒、整数でない不定形、不思議が味わえる。 
見えているところだけがある、したがって見えていないところ=「目盛り以下」は「ない」とおもっている人は、1の次が2であるというように、AだからB(A⇒B)と単純におもいこめる。言い切れる。自信いっぱいで発言できる。迷わない。間の複雑性(非法則、非定型)を見ない。だが、繊細にものが見えてきた人には、そこが引っかかる。そうだろうかとおもう。躊躇が出てくる。言い切る気持ちよさに、酔えなくなる。相手を簡単に見切って切り捨てられない。 
 
例えば、「現実的に政治を変えていくしかないでしょ」⇒「政権党に入って変えていくべき」とか「妥協するしかないから理想を言っても仕方ない」という人がいるが、ここには飛躍がいくらでもある。政権党に入ってしまうことで牙を抜かれることもあるし、政権崩壊を防御してしまうかもしれない。選挙政治自体あるいは選挙制度の設計自体に問題があるかも知れない。妥協と言いつつ大きな前進を妨げているかも知れない。政治を別の角度から変えられるかもしれないことに思いが及んでいない。「現実的」ということ自体が政治的なバイアスかかったスローガンだということがある、というようなことがわかっていない。よく見えてくれば、政治とは何なのか。迷い始める。同じようなことは、「選挙は勝たなきゃ意味がないでしょ」と言い切るようなところや、「大きな目標のためには、小さな手段レベルの妥協や矛盾は仕方ない」というような思考にもある。 
 
「決まりだから、今までずっとそうだったから」⇒「名簿で男性を先に書く、PTA会長は男性、男は君、女はさん付けで呼ぶ」、「子どもが不良になるのは」⇒「母親が働いている(子育てに手抜きしている)からだ」、「妊娠したから」⇒「戸籍登録して、責任をとろう」、「女性が家事をしているのは」⇒「家事が好きだからだ」、「父親・夫は仕事で忙しいから」⇒「家事を母親・妻がすることは当然だ」、「家族なんだから」⇒「心配して当然だ、秘密がなくて当然だ、家族のために自分を犠牲にするのは当然だ、少しぐらい干渉しても当然だ」、「そんなミニスカートをはいていたり、夜道を一人歩きしたんだから」⇒「セクハラされたりレイプされたほうにも責任がある」、「相撲は日本文化の伝統の上に成り立っているから」⇒「女性が土俵に上がってはいけない」、「学歴が低くていいところに就職できない」⇒「努力しなかったんだから仕方ない」、「毎日、残業できない」⇒「そんな女性は男性より低賃金でも就職難でも仕方ない」、「不作為による責任があると追求されても」⇒「前例がないのでそれはやめましょう」、「理屈ではそうでもまだ多くの人はそう思っていないから(機は熟していないから)」⇒「今すぐ変えることはやめよう(もう少し改革は後にしよう)」、「今は不況だから」⇒「景気対策のためにどんどん国債を発行して景気を刺激しよう」、「皆が幸せになるために」⇒「みんな仲良くしなさい」、「子どもは成長するために」⇒「学校に行きなさい」、「幸せになるために」⇒「結婚して子どもを生みなさい」、「メスとオスの生殖で子どもができるのだから」⇒「同性愛は間違いだ」、「政治家は汚いから」⇒「政治なんてどうせ変わらない」、などなど、論理的には必ずしも必然でないのに、その人の「目盛り」ではそこは必然のように埋まってしまう、ということはいくらでもある。 
むしろ、ほとんどがそうだと気づいたとき、僕は、「自分はいい奴だ、自分は論理的だ、自分は正しい」と思っていたこと自体の、自分の愚かさ・傲慢さにも、ようやく気づいた。「あの人はあんなこといって愚かだなあ」と思うとき、自分のほうも実は自分なりの隠れた前提があることに自覚的でないと、とってもヤバイ。 
 
「自分は障害者でない」⇒「だから障害者のことは考えられない。なってみないとわからない」などという人がいる。この理屈では、すべてのことは分からないとも言えるということへの自覚がない。多くの人が障害者になればころっと感覚が変わるという現実がある。問題は、そのことを、今「健常者」といわれる人が想像できるかということ。そのことへの想像力があれば、「なってみないとわからない」などと雑なことはいえない。なってみてもわからないことはいっぱいある。ならなくてもわかることもある。根源的に考えてみれば、コミュニケーション自体が不思議だし、完璧に伝わるわけがないのだ。例えば、なぜ僕は「文化」とか「美しい」とか「まとも」とか「精神の高み」という言葉を使って、相手に僕の思いが伝わるとわかるのか。わかるわけない。コンゴやザイールがあることや地球が丸いことさえ、本当のところは分からない。分かっているつもりになっているだけだ。恋人の言葉を聞いても、分かった気になっているだけだ。完璧には分からない。その中で、僕らは他者と関わっている。想像力なしに生きられない。自分の想像力をどこまで伸ばしたかがないと、「なってみないとわからない」という言い方は自己弁護になるだけだ。 
戦争に行っても、そこから何を引き出すかは、人それぞれだ。人を殺しても、殺人をしたとさえ思っていない戦争経験者は多い。「元従軍慰安婦の人たちが国家に対して謝罪と賠償を求めている」ことに対して「証拠がない、金目当てだ」といいえてしまうような感性の人がいる。「戦争を経験していない者は実態を知らない」⇒「そんな奴が口を出すな」というような論理が、いろんな場面でよく見られる。みな、あまりにも、論理や言葉の荒っぽさに無自覚すぎる。自分の立場や感性を相対化する能力に欠けている。結果、〈たましい〉が見えていない自分を自省しない。 
 「A⇒B」とはいえない(いえると思っているときに、隠れた前提がある)ということがわかっていない人が多いことが、実は一番恐ろしい。「現実主義」という愚かさの多くは、ここに関わっている。相手がなぜそんなことを言うのか。なぜそのような存在であるのか。そこへの想像力がないことこそが、問題だ。 (続く) 
 
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LPC連載 第22回 イダヒロ (2月21日) 

「自分のため」の“次”と日常のすぐそばのブラックホール 

 
「ニュース23」の「幸福論特集」(2月13日、19日放送)に出た慶応大学生、ケンさん(21歳)に批判が集まったそうだ(共感も一部あり)。彼は、携帯電話の出会い系サイト(メールでのナンパ)に毎日没頭し、そこを通じて会った女の子27人とセックスして、その結果(満足度評価)をインターネット上で公開し、テレビにも出た。「カノジョ」は3人いて、セックスするメル友もその他に複数いる(カノジョたちはお互いの事を知らない)。ナンパの過程を楽しむ、かなりクールなヤツだ。感情的でなく「無機質」にセックスできる人だという印象を多くの人に与えた。 
 
僕は、今の時代、彼のような感覚やスタイルがあって当然だよと思った(宮台真司さん的な人だなとも思った)。でも、いっぱい反発がくるだろうなと、見ていて思った。僕が彼のことを好きか嫌いかが大事な問題なのではなく、彼の存在を承認しないとか、彼を間違っていると非難できてしまう人が多いことが問題なのだと思う。少なくとも、番組のアナウンサーたちの陳腐な「わかりませんねえ。」的な反応には脱力である。 
 
一方で、教育テレビ「シャベリ場」での若い人たちの、面白さと危険さがある。確かに北原さんが嘆くような、ミニオヤジのような言説を何のリードもなくたれ流すNHKの無責任さの面はあるが、まあ、あれがましなほうの現実だから、あそこからかなとも思う。 
 
上の両者に対して、僕が思うのは、“次”を僕等が持たないと、深い話はできないなってこと。さっと出てくる表面的な「批判」感覚を飲み込んで、前回述べた、自分の依って立つ根拠のなさの自覚(目盛りの間への覚醒)の上に、相手への深い理解を持ち、自分の反感自体を深く見つめなおすことこそが、対話の始まりだと思う。そうしないと、従来からの批判(私は正しいがおまえは間違っているという自信あふれた批判)になってしまう。 
 
僕が「次」と呼ぶのは、「スピリチュアリティ」とか〈たましい〉という概念を持ち出して、ケンに「?」を提示するようなことだ。アナウンサーたちの「新新人類はわかりませんねえ。」に対して、「あなたは自分や世界が分かっているのか、分かってねーだろうが!」と、いったん「社会の底が抜けている」ところに至った上で、「それでも求めうる“充実感”や“つながり”はなんだろうね?」と問い、ともに探すものとしての〈たましい〉だ。そのとき、ある種の充実感を求め探すケンと、ナンパ以外のものについて語れると思う。 
 
「シャベリ場」の若者やケンたちは、みのもんたのようなバカ大人よりもずっとまともなところをついている。そしていつも「詰まる」のは同じところだって感じる。 
 
それは「自分のために生きればいいじゃん」の“次”が何かってこと。「自分の人生を何かに捧げるとかいうのはウソで、結局自分のためだよね。大人なんて汚いだけじゃん。ウソだらけ。意味なんてない。人の目や社会の目を気にせずに、感じるままに自分らしく生きればいーじゃん」(強度重視)っていうのは、ある程度考えつづければ、論理的に至るひとつの結論である。しかし、その“次”がない。スピリチュアルなものの議論に行かない。経験から直接的にそうした切実な実存的なものをもてる人だけが少しそれ(スピリチュアルなもの)に近づくが、――例えば、家が借金して夜逃げしたとか、障害者になったとか、ガンになったとか――そうでない人には、わからない。みえない。あるとおもえない。考えもしない。回りの大人もメディアも教育も、そんなことを教えてくれない。近そうなものとしては、従来からのたてまえ(道徳)や愚かそうな宗教やお説教オヤジ(先生、親)しか、みえない。 
 
結果、自分らしさというものへの強い実感、充実感(強度)をもてないから、それを求めて、せいぜい、受験勉強したり、ゲームしたり、恋愛に夢中になったり、結婚したり、カツアゲしたり、アイドルの追っかけをしたり、ダンスしたりする。充実感、濃密な時間をもちたいという衝動にとりつかれて。ケンは、ただそれをナンパしてセックスすることで、埋め合わせようとしているだけだ。なんら、違和感はない。ケンになんとも言いがたい違和感を感じる人は、自分の価値観を振り返って相対化しない、ポスト・モダン以前にいるというだけだ。 
 
「人のため、社会のため」というのも、結局は、自分の理念、快楽のため。そこまではOKだ。次は、「自分のため」なら何でもいいのかという疑問。ここでみんな止まる。「何でもあり、人それぞれ」で、止まってしまう。 
 
そうだからこそ、その「自分のため(個人主義)」の行き過ぎがよくないなどという、あまり頭がいいとは見えない人たちは、「自分」ではなくて国家や公のために命を捧げるのが正解だとか、自分勝手を言わずに素晴らしい日本の伝統や民族性に誇りを持つべきだとか言う。そういった懐古趣味的なイメージにすがる。ポスト・モダンというような視点を訓練されていない人たちは、自分の「自然」感覚にすがって、それを基準に道徳を語る。家族だとか、お金だとか、伝統や礼儀だとかいった、予定調和的なものを前提に、めでたし、めでたし、あははは、ってなことになる。思考は止まる。 
 
「自然」というのは、「なぜそうなのか」という問いに対して、それ以上さかのぼれないと思う事柄に用いられるもので、そのことがわかれば、その時代に「自然」と呼ばれること自体の「真理性」を相対化できるというのは、社会学的常識であるが、そのことが教えられていない。まだ、皆の常識になっていない。そのなかで、ようやく、若い世代から「ほんとにそうなの?何でそうなの?」という根源に至る疑問が出てきているのだ。例えばケンはその象徴だ。 
 
そうであるからこそ、若いセンスある人たちに伝えるメッセージとしては、保守オヤジのように過去に向いて話すのでなく、社会の底がぬけていると分かった後での、「自分のため」というときの「質」が鍵なんだよということだと思う。「“自分のため”の質」について、明確なメッセージや哲学的示唆が少なすぎる。僕は、そこにスピリチュアルなレベルでの“つながり”を提示することで、ケンのような人たちと過去の良質性と未来を語りたいと思う。 
 
自分のことがわかっていると思っている人がいる。そのこと自体が愚かしい。少しでもちゃんと、映画や文学に触れたり、人間の心理を考えたり、自分の意識の変化を見つめれば、人の複雑さとわからなさが浮かび上がってくるのではないのか。自分が意識できたりコントロールできているところは一部でしかない。視角、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の五感以外もある。シュタイナーは、熱感覚、平均感覚、運動感覚、生命感覚、言語感覚、自我感覚の7つを加えて、合計12の感覚があるといった。小さいころからの環境や時代の影響を受けている。自覚できていない自分の癖やパターンがある。 
 
自分で「これがいい」と思っていても、人からみたらすごくヘンだというようなことはいくらでもある。自分の話し方や表情やファッションや動作ひとつとっても、多くの人が無自覚だ。ビデオにとってみるだけで、ゲッとなる。昔の自分が夢中になっていたときの言動や他人が「ハマッテいる状況」をみれば、人って洗脳されやすく幻想にはまりやすいものなのねと分かる。ワークショップなどで自分の“体”と“ことば”の堅さを知れば、こんな話しかたや表情をしてたのかと嫌になる。「傲慢な言い方」「偉そうな態度」「自分の愚かさや暴力性」がみえてくる。自分の隠されたコンプレックスや焦りが見えてくる。 
 
こうした「自分のことさえ完璧にはわかっていない」ということがわかれば、私の日常(自分と社会全体)のこの完璧な自明性の世界は、実は、その横にぽっかりと虚無とか闇とか不思議といった「ブラックホール」的なものと、次元をずらしつつも、裏表でひっついていることにまで認識は広がる。「目盛りの間」には無限の虚無というか、底の見えない深い谷底がある。ケンのような存在は、その「裂け目」を少し見せる。だから、多くの人は反発する。自分の自明な世界を壊されまいとして。 
 
だが、だからこそ、自分が、スピリチュアルな、「精神の高み」とでも呼ぶべきものをみれていなかったことに気づくのは、そうした「自明な世界を壊すところ」に至ってからのことなのだ。老い、失い、壊れ、弱く、沈んだものこそ、葉を落とした木々の優しさと冬の土のやわらかさを獲得できる。 
 
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LPC連載 第23回 イダヒロ (2月28日) 

微細に見つめれば、そこに、底なし谷のつり橋と宇宙が見える、だから、わたしは・・・ 

 
前回と前々回のフォロー。「目盛りの間」の話が少しわかりにくかったようだ。数字なんて急に出てきて、違和感がある人もいたようだし。たしかに、ここをわかってもらえば、話はかなり通じると思うが、今度、出版しようとしている僕の本でも、「多くのA⇒Bには、論理的にみえて実は飛躍というものがあり、その間には虚無というかブラックホールのようなものがあるというような、この世界の底がぬけている感覚」をいかに伝えられるかが勝負の分かれ目のひとつだとおもう。なかなか短い文章だけで、みんなに、あなたの信じていた自明な世界の足もと自体は浮いているって感覚をわかってもらうのは至難の業なのだけれど、もう少し、例示してみよう。 
 
今は、生きているし、いい関係(家族、恋人、友人)があるし、仕事もある。だから、これが続くと思って安心しているが、本当は、いつ、病気になって死ぬかもしれない。いつ、この今の関係が終わるかもしれない。いつ、仕事がなくなるかもしれない。ほんとに一歩先とか少し横は崖っぷちなんだ。でも、「そんなこと、確率低いし、自分にはないだろう、なったらなったで考えるさ」と思っている。でも、実際、世界には失業も、関係の破綻もあふれている。実際、自分がそれに直面すれば、のんきに言ってたことなど吹っ飛び、泣いて嘆き悲しみ、気も狂わんばかりに苦しむ。その苦しさに無関心な周りの人に対して、憤りが膨らむ。 
 
それが実感できれば、他人事でいられなくなるし、今の奇跡的に幸せな状況への感謝もでてくる。この一瞬への感謝、存在自体や出会いや偶然への感謝、そして、この一瞬の幸せの質を大事に味わおうと思えてくる。そして、自分のすべきことも見えてくる。そういう微細な感覚の先にあるものを僕は、「スピリチュアルなもの」と呼ぼうとしている。 
 
同じようなことはいくらでもある。花粉症の季節だ。自分は花粉症にならないと思っている人も、明日からなるかもしれない。自分の子どもが、アトピーだとかダウン症の子どもとして生まれるかもしれない。阪神大震災のような大地震が、また自分の住んでいるところで起こるかもしれない。明日、あるいは来年、世界経済が破綻するかもしれない。なだれのように、経済や社会の信用が崩壊するかもしれない。ないとは言い切れない。自分のパソコンが急に壊れるかもしれない。核戦争がこれまで起こらなかったのは、偶然の幸運だ。キューバ危機もほんとに危機一髪だったけど、それ以外でも核戦争に至る可能性は十分にあった。原発が大事故を起こしていた可能性もあったし、明日起こるかもしれない。そして、大地震や核戦争や世界経済の破綻や原発大事故があれば、当然、僕等の生活は一変する。その闇の可能性が、リアルに見えるか見えないかは、大きな世界観の相違だ。 
 
また、例えば、「人の狂気」は周りにあふれている。いつ、その「狂気」が自分に向けられるかもしれないし、また、自分が「狂気」に至るかもしれない。ほんの少しの差だ。自分も、ちょっとしたことで、精神的に不安定になり、自律神経失調になったり、脅迫症になったり、「発狂」するだろう。交通事故にあうかもわからないし、レイプされるかもわからない。泥棒に入られるかもしれない。これらは、実はほとんど防ぎようがない。私の努力や注意は、ほとんど役に立たないだろう。自分はならないと思っていても、被害に遭うときはあう。それが歴史であり、事実だ。 
 
そういうことは本当にありうるからこそ、自分が、今日、そうならずに生きていることは、不思議だ。そういうことと、地球が回っているのはなぜかとか、なぜ地軸は23度ほど傾いているのか、とかは、不思議ということで繋がっている。星ができたり、生命が発生したり、みんな不思議。人間の力とか理性・科学とかの及ばないところがある。いっぱいある。そういう日常の「底」とか「すぐ隣」にある「不思議の領域」を、僕は、「目盛りの間」といい、虚無や虚数のようなブラックホール的底なし谷のようだといったのだ。 
 
子どもの事故がある。子どもを見ていると、すごーく危なっかしい。子どもの自立力を高める子育てをしよう、自分で怪我するのも経験・教育と思うなら、子どもを管理しすぎず放任させざるをえないが、それは危険と隣り合わせだ。子どもが大事故や大病にあわずに何とか無事に大きくなってくれたら、神様に感謝ものだ。僕はそこに、底なし谷でのつり橋を渡る感覚を持つ。 
 
自分のファッショや話し方など、変えようと思ってもなかなか変わらない。僕からみて、「あっ、この人、嫌な話し方するな」とおもっても、それを、その人は自覚していない。もし何かのきっかけで本人が少しでも変えようとおもっても、やっぱり、癖のように、ほとんど無自覚なままそれは「直らず」に続くものだ。僕等を無意識で規定しているものは、自覚している以上に、大きい。自分もまた、底なし谷のつり橋の上にいる。 
 
少しは、前よりも分かってもらえただろうか。というか、わかっている人には自明のことなんだろうけど。 
僕は「学者」の端くれにいるからこそ、「数字」に代表される「科学的なもの」のいいかげんさにこだわっているのだと思う。「数字のような自明の極致のものさえ、あやふやな底の上にある」といいたいのだ。意味のない端数だ、誤差だと切り捨てて、きれいに数字で掴まえた気になっているが、実は、現実こそ複雑かつ豊かで、その豊かさの表れが、端数とか割り切れなさで、法則とか、モデルとか理論とかはほんの部分でしかないのだということ。つまり、近代社会での認識は転倒している。科学が先にあって、それで現実を割り切り真実を見た気になっている。でも、例えば、数学でいくらりんごの表面積を掴もうとしても、完璧な面積は分からない。本当の重さは分からない。近似値が分かるだけだ。だが、僕らは、数字で、真実の面積に到達できると思っている。完璧には分からないのだ、ということを忘れている。「目盛りの間」が見えていない。人間の力の限界が見えていない。転倒している。 
 
宇宙を考えていくとその始まりや終わりや宇宙の外側がわからないように、また細胞や原子や核や遺伝子などをみていっても、これが最小というものには行き着かない。この不思議さ。つまり、細かく見ていっても、外の宇宙と同じく、そこには無限が見えてくる。人間の力が及ばないことが分かってくる。「目盛りの間」には、宇宙があるのだ。宇宙は、すべてであって、虚数や虚無もブラックホールもある。自分をみつめれば、またそこには、無限が見えてくる。そのときに、自分なんてたいしたことないし、偶然や他者に支えられていること、つながりが見えてきて、謙虚さに至れる。 
 
何を言いたいのか。誤解されそうだから言っとくけど、不思議や虚無の認識から、たんに、神様仏様、運頼みになろうといいたいんじゃない。よくある「体が滅びても残るというような宗教的霊魂」を信じましょう、などということでは全然ない。ささいな何気ない日常に感謝、先祖に感謝、伝統に感謝というような保守主義者のようなことを言いたいんじゃない。 
 
まったく逆。上述した、奇跡的というか不思議な、不確かな上に僕等が生きているという自覚から、即物的な、目の前の、金だ、出世だ、偏差値だ、バーゲンだ、車だ、自分の家族だ、会社だというような「表層的狭さ」を自覚しようよということを言いたいんだ。スピリチュアルな感覚とは、自分の服ひとつをとっても、そこにそれを生産したり流通させる人、デザイナー、服を作る工場やアイロンやはさみやボタンや型紙を見ていくこと。糸を作る人。服のアイデア。技術の伝統。さらにそれらの材料を考えれば、羊や石油にいたるし、羊のえさを考えれば草木とか、石油の元を考えても草木に至る。工場を考えれば、鉄なども関わる。結局、地球資源全体。運搬には自動車が使われ、自動車の材料ときたらもう・・・。 
 
つまり、何百年、何万年、そして地球の空間と歴史全体が、「現在のひとつの服」に繋がっている。どれひとつを取り上げても有限ではない。独立して存在しているのでもない。ひとつの服には全宇宙が詰まっている。自分だけのものだとか、私は私の力だけで生きているなどということはない。すべては相互に依存しあっている。私のものだとして勝手に処分していいものはない。だから自分の生き方や存在の、地球環境への影響を考えるのは当然だし、外国の人々や日本国内の貧しい工場労働者や、パート労働者や、地球上の動物や植物や空気や水と繋がって、彼ら・それらと共存して、皆が幸せに生きる道を探るのは当然の責務だ。つまり、つまり、「スピリチュアルなもの」を僕はひとまず〈たましい〉と名づけて、それに接近しようとしてきたが、それは、その微細な感覚でみえてきたつながりへの感謝の気持ち、みたいな“サムシング”を、現実の行動として示すことによってこそ浮かび上がるものだといいたいのです。 
 
自分が健康で小金持ちであることを感謝すればいいのでもなければ、自分だけの心の安定があればいいのでもなく、全世界の人々や環境が幸せになるように、つながりの回復のために、自分にできる「ミッション」を行うこと。その喜びに気づき、それをまた子どもたちに伝えること。身近なところで、具体的なことをひとつでいいから行うこと。 
 
〈たましい〉は私の心の中にあり、あなたの心の中にあり、相互が繋がっている、その大きなつながりの全体の一部が私の中にもあるというようなものだと思う。世界は見えない「血管」で繋がっており、私もその「血管」につながっているから、他の人の喜びが私の安らぎになり、子犬を見て嬉しい気持ちになる。私は、何らかの世界――特定共同体を超える、全世界――への貢献を行う責務をもっている。もちろんこの「責務」はいやいやながらのものではない。 っていうようなこと。ひりひりした、この微細な感覚へ。 
 
もうじきこの連載も終わるが、ラブ・ピース・クラブという、とても自由でラブリーなスペースで、いいたいことの一端が言えて幸せだった。LPCがテーマとして扱う、セクシュアリティひとつとっても、それを突き詰めれば、そこには無限が見えてくる。自分の本音、隠された無意識や抑圧、自分の体の神秘、精神と肉体とのつながり、性的快楽の深層、人間関係や表情と性的快感の関係。探求は尽きない。セクシュアリティを恥ずかしがらず、楽しく、考えて、実践していくのは、まったくもって正しい直感だと思う。愚かな人が「性とは結局スケベでしょ」「金がほしいんだろ」「突っ込んでほしいんだろ」となめてかかるような、ゲスびた水準を乗り越えるように、性を、オスマシでなくリアルに、それでいて、スピリチュアルに心をこめて、語り実践したいよね。 
 
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LPC連載 第24回 イダヒロ (3月7日) 

さわる、体で触れ合うということ 

 
電車で若い(20歳ぐらい)カップルが、引っ付いたり離れたりしている。ハグするような動作がはいる。 
いいなと思う。みんな、こんなことができたらいいなと思う。 
狭い意味の恋愛中か、オネツ・ポーのときだけにするのって、もったいない。 
 
若い人が人前で抱き合ったり、キスしたりするのを嫌がる人がいる。はしたないとか、人前を気にしろとか、隠れたところでやれとか、日本の文化に合わないとか言うが、要するに、迷惑だ、みたくないというのだ。 
 
でも僕は、そんなことないんじゃないかって思う。まあ、電車の中での、調子乗りすぎで、にやけたバカぶりまるだし、ってのは、たしかに愚かだ。周りを不快にさせすぎるのはやめたほうがいい。 
 
でも、周りの「不快」が、古い性道徳を基準にしていたり、自分の「不幸」からのねたみから生じているとしたら、どうだろうか。みんな、無意識のうちに、少しうらやましいんじゃない? 
つまり、なんか、自分が幻想に酔っていることが自覚できていなくて、初めてセックスしたり、はじめて恋愛して、もう夢中で、周りが見えなくて、ただただ見つめあったり、触りあったりしたいような“にやけたバカヤロウ”の感じで、かつ、まわりの奴等(大人)は敵だ、無視する、勝手にしろというように敵対的にしかみていないようなヤツだと、「バカだねえ、若いねえ」ってなことになるのは、わかる。 
 
が、「そうじゃない、いちゃいちゃ」というか、「そうじゃない、もうちょっとクールな、いちゃいちゃ」はあってもいいんじゃないかって思うんだ。よく言うでしょ、パリとかでなら、なんかキスしてても腰に手を回してひっついてても、かっこいいって。あれって、たんに日本人だからダメってことじゃないと思うよ。 幻想性を意識して、性欲とか恋愛夢中性を少し後退させて、クールにさらっと楽しむことができるかってことだとおもう。 
 
日本の感じって、裏に回れば、なんか、べたべたで湿っぽくて、バカっぽいのが、性だ、恋愛だ、セックスだってのがあるから、そういう「恥ずかしい」のは表に出すなって感じじゃない? 
そうじゃなくって、人前でもそうでなくても、もう少し、べたべたが減れば、人前でのいちゃいちゃも、もっとクールであたたかくて柔らかいハグになれるような気がするんだけど。 
 
もっとみんなが柔らかで優しいハグのようなことを、恋人や若い人に限らず、人前でできればいいなと思う。 
 
でも、相手はそこまで心を許してくれるだろうか。 みんな、そんな不安感も持っているんじゃない?こっちだけが、そんな気持ちで、拒絶されたら、恥ずかしいなっていうような。 
 
なんか、自然とハグできるようになりたいな。それって、あせりとか、下心とか、どろどろとか、自信のなさ(卑下)とか、そんなのがなくて、いい意味でエンパワメントできていて落ち着いていたら、できそうに思う。 
 
でも、今の僕は、まだ、修行が足りないというか、ふらふらしていて、どっしりとしていないというか、スピリチュアル度が低いから、うまく、さらっとできないのかなと思う。 
 
そんな僕だけど、すごく親しい人とは、だいぶ、触れ合えるようになってきた。 
 
春になりそうな季節に、そっと雨の音やにおいを感じたり、冬の木立に触れてみたり、足の裏の土の柔らかさを感じるように、 
人の骨や、骨格や、肉や、筋や、肌や、しわを、触って、掴んで、つまんで、なでて、感じたい。 
 
僕にはおばあちゃんがいる。97歳だ。要介護度が「2」だという。だんだん、目が見えにくくなっている。ぼやっとしか見えないらしい。耳も遠い。でも大きな声で話したり、耳元で話すと、聞こえる。 
僕は、手で、手を包む。手の甲をなでる。両手でおばあちゃんの顔を両側から包む。「おばあちゃん」という。 
おばあちゃんは、僕がいるだけでうれしそうだ。お互い触りあう。微笑みあう。笑いあう。しっかりと握り返したり、手を揺らしたりする。肩をもんだり手をもんだりする。骨を掴む。味わうのだ。 
お互い、手の重みや、暖かさを味わっている。 
笑いあう。最近あったことを話したりする。 
皺だらけだ。若い人が横にいると、その皮膚の弾力性がまぶしい。 
死んだら、この手は握れなくなる。 
温かさもなくなる。この笑顔も声もなくなる。 
ここには今、命がある。 
僕が触れることのできるもの。僕の手を受け入れてくれる人たち。 
そこにある命。 
感謝したいと思う。 〔次回、最終回〕 
 
 


LPC連載 第25回(最終回) イダヒロ (3月14日) 
 

ありがとうございましたよーん 

 
2001年3月13日時点で、森政権の後がどうなる、株価が暴落だ、と騒いでいる。だが、僕は、この30年間の日本の政治風土・日本人の気性に大きな変化があったとは思えない。いつも同じだ。リストラ・いじめやパート差別があふれていても動かない人々に、当面、希望はない。1999年の国旗国歌法、盗聴法、日米ガイドラインなどなどをなにげなく見逃す日本に希望などもっていない。石原東京都知事や扇千景や田中真紀子が人気あるようなことで、一体何が見えているというのか。企業責任をいつも問題とできず、罰則を設定できず、4月からのリサイクル法を前に、不法投棄や駆け込みごみだしが増える日本に希望はない。 
89年のマドンナ・ブームのときにも、93・4年の細川政権や村山政権のときにも、深いところで日本人の民度が変わっていないことが如実になっただけだった。メディアのその場しのぎの煽り方の底の浅さに、今回もあきれる。90年-91年のバブル経済崩壊までのメディアの無批判性を、僕は簡単には忘れない。今度の参議院選挙で、自民党は数を減らすだろうが、自民党的な政治思想に対抗的な世界観とビジョンを民主党がもっていないのだから、政権交代が数年内にたとえ起こっても、日本はあまり変わらず、国民は、あーあと思い、またあきらめが広がるだろう。 
 僕は無気力なのではない。森政権から他の自民政権への変化に希望はないのに、メディアはその程度しか追えず、数年内に政治地図が変わっても、今の新自由主義路線は続くだろうといってるだけだ。だからこそ、今年の参議院選挙だけに希望を託さないということだ。長期的に希望をもち続けサバイバルするために、ぜひ、今度の選挙で変わるとか、すぐによくなるといった「短期的な希望」をもつことをやめようといいたい。根底から自分を変えて、メディアや政治家の言葉の次元と異なるところにいくことこそが、真に対抗的だということを忘れないでいようと思う。僕にはそういう〈希望〉がある。 
 
政治運動や労働運動を変えていくことは必要だよ。あきらめてはならないし、あきらめる必要もない。だからスウェーデンだよという。日本でも、自民党政権が存続しつづける基盤は縮小せざるをえないために、遅ればせながら政権交代があるだろうし、政権が変わり政策が変われば、社会にも人々の行動様式にも大きな変化をもたらす。 
それを分かった上で言うのだが、たとえ政権交代があろうと、今の日本で政治や労働運動の水準自体を本当に変えることは、とても難しく、時間がかかり、その成果は小さい。なぜなら、もっとも、金・利権と権力をめぐって魑魅魍魎が集結し、過去の惰性が影響し、純粋な人々が敗北せざるを得ない「妥協の領域」だからである。政治という領域は、対象が全体であるがゆえに、一人一人としっとりと向き合うことができないという意味で本質的に大雑把であらざるを得ず、闘争的で人品低い人々がのさばりつづける領域であらざるをえない。 
だからこそ、僕は、「政治」を語るのでなく、〈たましい〉を考えたいとおもう。本当に政治風土を変えるために、遠回りのようでも、一人一人と向き合う力を僕等が取り戻す/獲得するプログラムを作り実践していきたいなと思う。そのあたりの中核を、僕はスピリチュアリティ概念で追求していきたい。 
☆ ☆ ☆ 
「なぜ めぐり逢うのかを 私たちは なにも知らない 
いつ めぐり逢うのかを 私たちは いつも知らない」 
(中島みゆき「糸」より) 
 
そうなのだ。その不思議。科学とか、学問とか、政治とか、理屈などの守備範囲が狭いことを忘れてはならない。 
僕は鈍感だった。でもようやく、見えてきた。 
「それ」が僕には見えてきた。だから、「それ」を言葉にして、伝えたいと思う。「それ」を感じている、傷つきやすい人が、少しでも元気になるように、手伝いたい。自分をその水準で、変えていきたい。高めていきたい。目盛りの間、だよ。 
深い思いがいっぱいあると、その思いが頭を駆け巡り、感情を揺らし、短い言葉や時間では表現できなくて、足りなくて、それで、ぐっとなってしまう。涙がからだの芯の方からわきあがる。 
 ただ、口先で言うのは簡単だ。できないことを簡単にいうような鈍感さをこそ、やめたい。とすれば、「善く生きる」というような抽象的なことを100回いうのではなく、明日からの生き方が具体的に変わるような具体的な一歩に繋がることを言わなくてはならない。だって、投稿誌「わいふ」の調査で、主婦の「やりたくない活動」の1位が「市民運動・消費者運動」、2位が「フルタイム労働」だったんだって。あーあ。社会的活動に繋がる、シングル単位論と結び付けてこその、スピリチュアル概念でなくてはならないな。そういうことを考えたい。 

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かなり前だが、あるフェミニストが「家族や子どものいないことからくる孤独感に悩まなければなりません」として「家族を否定する急進的な動き」に批判的に言及したことがある。でもねえ、孤独感について、僕らはもう少し丁寧に、かつリアルに考えるところにきているんだよ。誰かと一緒に暮らしたり、ラブラブだったり、ふふふだったりするのは、人生の一部だろうと思う。一人が基本で、あとは個性とか運で、時々とか一時期、誰かといるってこと。「就職→結婚→出産→家族作り」ということを太陽のように頭上に掲げるのをやめれば、いろんな景色が見えてくる。「独身にとどまっている理由」なんていう調査があったけど、お笑いものだねえ。「主婦」なんて言葉とか、「未婚」「既婚」の2つしか選択肢のない調査ってのもまだあるよね。20年後には、博物館に陳列されているんだけどねえ。「おかま」という表現の暴力性を感じない人々だらけの中で、「暴力」と「非暴力」概念がほとんど理解されていないしねえ。 
「非暴力」を浅く理解する状況を変えたいっす。スピリチュアルということと「非暴力」ってほとんど同じなんだけどね。つまり、暴力とか権力ってことが、男性性とか人権概念と結びつけて理解されていないってことだろうな。 
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 「若くないから、もうだめ」とか「若いから何でもできるね」なんて年配者がいうのはサイテーだ。何歳であろうと何でもできるし、できないことはでもできない。10代や20代がそんなにいいわけがない。まだまだみえてないからだ。それはそれで走ればいいが、それを過ぎ去った年代の奴がうらやましがるようじゃ、そいつはシレテル。仕事、結婚、金、地位、服、肩書き、見栄え、若さ、そんなもん、一部。恥部。そうじゃないものが、あるのに、見えないってか。 
10代、20代がうらやましがる30代、40代、50代になるしかない。それは、そのひとが前に進んでいるということ。「前」ってなんだ? それは人それぞれ。自分で見つけるしかない。 
でも、体力も落ちてきて、若さ、肌の張りも衰えてきて、でもそれでもなお、「前」とおもえるものをその人がみつけるからこそ、歳をとるって素晴らしい。40歳でも50歳でも、何でもできるから、むしろその歳になるから見えるものがあるから、また長年の努力の結果があって幸せになるから、20歳が歳をとることを恐れることはないというのが、反論。 
 ただのババアやジジイじゃ、だめなんだな。年齢じゃない。例えば、僕なら、スピリチュアル度が高まるってことが、基準。この基準の前じゃ、「年齢」「若さ」なんてふっとぶ。木っ端微塵。葉っぱきれぎれ。爆裂・歳! どうだといわんばかり。数年経てば、また変わるかも。でもしかたねーじゃん。ね。 
人生長し。人生、流すためには、テーマ変更、避けられず。 
目先のテーマ変更は、実は、深い穴を掘るというための手段。深く掘ればどこまでも探求。探求こそ、人生の極意。探求こそ、想像力の源。どこまでいっても「無」だから、これなら時間は足りないぐらい。あーよかった。 
 
「若さ」もそうだけど、才能論に負けすぎ。「才能あればいいけれど、ないから、どうせ人生はしれてる。」「だから勉強するしかない。」これはあきらめの論理。自分が競争することへのいいわけ。不幸のいいわけ。権力者の思う壺。才能ないからと逃げている。努力とか言っても無理と。そして自分も、社会も、変える気がない。それで、いいか?楽しいか? 
 
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今回で連載は終わりです。LPCのみなさん、書くチャンスをくれてありがとう。 
だらだらとしてたから、ツマラナイとおもわれた方も多かったと思うが、にもかかわらず関心もって読んでくれた人たち、ありがとうございました。もし興味をもってもらえたら、最後に掲げている僕の他の本や文章もみてやってください(本については、あんまり本屋で見つからないでしょうから、大学のほうに連絡くだされば、著者割引でお分けできます)。それから、明石書店から『スピリチュアル・シングル主義』(仮題)という本をなんとか今年中に出版する予定です。僕の半生を振り返って、人生後半の羅針盤となるようなものになるはずです。僕にとっては、人生を変えるような重要な一歩になるでしょう。またみてやってください。 
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「スピリチュアル・シングル主義」というものを、作り上げている途中ですが、多分、この作業は数年にわたるものになるでしょう。ですから、行動しつつ、自分を変えつつ、粘り強くやっていきたいと思っています。 
そういいながら、おまえは何をやっているのかとおもわれる方もいるでしょう。今やっている活動には次のようなことがあります。 
 
まず、中心は、大学・大学院で相変わらずいろいろうまくいったりいかなかったりしながら教師しています。大阪経大以外では、立命館大学で「ジェンダー論」をやってます。ゼミや講義で、ワークショップなどから学んだ手法も生かして、一人一人に語りかけられるようなものにしていきたいと、現在、改善・模索中で、それ自体が挑戦課題です(毎年、講義の内容が変化していく)。今までの「一方通行、客観主義的一般論・暗記教育」を変えていくこと自体が大事な仕事で、学生一人一人と人間として向き合えるか。それができれば、「嫌な仕事」ではなくて、それ自体がやりがいのある活動となります。 
以前は、うまくいったときは「やってよかったー」と思い、うまくいかなかったり学生の嫌な面を見ると、「あーあ、教育って嫌だなあ。無力だなあ」なんて思って元気をなくしていました。僕の忙しい時間を、「学生のため」に使っていて、時間の非効率な使い方のような感じをもっていました。大学内の教育にはあまり展望はないとみて、外部に希望を見出すような発想でした。でも、それは、逃げであって、教育とか学生のせいにするのは間違いで、僕の姿勢の問題なんだって思えるようになってきました。 
僕は充実して生きていきたいわけだから、恋人や大好きな人と語り合うのが楽しいように、素晴らしい映画や作品に触れているときが楽しいように、おいしいものを食べて素晴らしい風に触れて嬉しいように、目の前の人と、スピリチュアルな交流ができて嬉しいのです。教育って、「授け教える」ようなものでなく、交歓なんだということを実践できないで、何が「人権」だ、「社会改革」だ、と思うようになりました。あたりまえなんだけどね。目の前の人と少しずつでも、心をひろげて関わりたい。そう思えるようになって、教育が楽しくなって、それを中心にしています。 
 
その他の〔活動〕としては、僕の個性、得意分野ということで「執筆活動」が大きいですが、メディア発言、研究会参加などの他に、市民運動、労働組合、小中高等学校関係、行政関係でジェンダー問題、労働問題、福祉関連・教育関連などの各種講演にも力を割いています。これらも大学内の教育と同じ心構えで行いたい。だから、組合とか研修などで、やる気なく動員されたような人たちだと疲れます。何とか、心の中に食い込もうとチャレンジしますが。 
それから労働における女性差別問題、パートや派遣労働などの不安定雇用問題に、コミュニティユニオンの人たちとの活動を中心に取り組んできましたし、これからもいっしょに運動をしていきたいと思っています。労働省交渉や全国的な間接差別禁止運動にも関わりつづけるつもりです。男女労働差別裁判にもできる範囲で関わる予定です。 
具体的な労働実態を知り、それを人権問題として考えていこうという試みとして、毎月「職場の人権」研究会を開き、そこの運営委員になっています。(会員になってくださると、2ヶ月ごとに講演内容を掲載した会報が届きます。連絡先℡・FAX06‐6315‐7804)。 
大学の足もとでパート労働差別があるので、99年以来、非常勤講師労働組合の執行委員にもなりました(カンパ振りこみ口座 00900‐8‐147395 阪神圏非常勤講師労働組合)。 
 
また、セクシャル・ハラスメント・性暴力に対してできることとして、講義内で扱うと同時に、大学で人権委員会委員長として、学内体制整備、啓発、「事件」対処にも時間を割いています。 
日本の市民運動・フェミニズム・エコロジー関連、市民派政治活動の諸運動の大同団結(シングル単位と社会民主主義型福祉国家の理解)にも、微力ながら関わっていきたいです。 
 
でも、こうしたことで、忙しくなって、何か大切なものを忘れてしまわないようにしたいとも思っています。友人と会う時間と一人になる時間、映画を見る時間を大切にしたいな。微細な時間から学ぶことを忘れないようにしたいな。 
 
例えば、介護。小畠さんの「介護」に関わるようになって22年。教えてもらったことがある。だが、最初、そんなふうに思っていただろうか。言葉では「同情じゃない」とか言いながら、それはすぐにはわかっていなかったようにおもう。だってしんどいもん。ジャマくさいもん。行かない方が楽。やめる言い訳はいくらでも作れる。でも、それが本当に分かるのは、結局、長い間関わって、たくさんのことを得てからだ。人と長い間関わって、見えてくるもの。それを言葉にするのは難しい。頭で分かったように思えるものは、違うから。 
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先日、LPC事務所にいってきましたー。バイブの古典のことを少し北原さんに教えてもらったりして、ステキな時間をすごせました。きれいな「100年カレンダー」を買わせてもらいました。年輪のように僕等が流れめぐる時間の中に生きてて、何年か前にこの世に降り立ち、そして多分僕は、21世紀の中心に近いどこかで息をひき取り、あの宇宙の中へ消えていくだろう、ということがすーと伝わる美しい模様。だからこそ、ちゃんとした事をしておこうと思える美しさ。 
たくさんのラブピなセックスグッズをみて、北原さんたちは自由なんだろうなと感じました。そして、今の時代、それを感じない人が心ない言葉をLPCに投げかけるだろうなとも。 
 
 性というと、性教育に尽力された山本直英さんが昨年お亡くなりになりました。彼を追悼するビデオを見ました。少しの意見の違いはあろうと、彼やその仲間たちが、この日本の地に、おおらかな性の考え方をひろげようとしたことは、画期的だったし、マトモでした。それは、今多くの運動に繋がり、LPCもその流れの中に位置すると思います。 
 彼は「すてきな性交」には、両者が成熟していること、対等であること、敬愛していること、快感があること、解放されていることなどが必要であるとし、そのようなものを「幻想の性交」と名づけました。それは、LPCのパンフにある、「セクシーであること、ユニークであること、キュートであること、気持ちいいこと、わがままじゃないこと、差別的じゃないこと、自由な心持ちであることがとってもた・い・せ・つ」ということと根底で繋がっているように思います。 

自分の性を、僕はまだまだ見つめきれていない。でも、少しずつ、考えてる気がします。「抱きあう感覚」と「腰がとろけるような感覚」が好きです(「抱く」と「ハグ」って近いね)。表情が好きです。組み手のように、ダンスのように、相手との距離や呼吸や、反応や、表情の交歓などがあってのことだよねって思います。ワークショップで、体のこわばりを意識することで、少しずつ、自分が見えてくるように、性を考え見つめて、自分を知り、こわばりをなくしていきたいです。 
 
「たんなるセックス」、「不倫」、「情事」、「浮気」といった大雑把なレッテル張りに、僕は嫌悪感をもちます。『ことの終わり』という映画を見てとくにそう思ったね。皆さんのセックスはいつも同じだろうか。セックスは「伝えること」という場合がある。相手を感じる喜び。そう思うとまた違う味わいがある。でもそうでないとダメってことじゃない。ひとりのマスターベーションもある。あれとかこれとかの、多様な性・セックスがあるというだけのこと。自分の基準で、他人を想像できないのは、どんなときもかっこ悪い。 
 
竹内敏晴さんの本を読んでいたが、先日、初めてお会いした。声を出すこと、伝えること、 感じることの原点を思いださせてくれる。そのひとを見て、そのひとに心の底から伝えたいことがある。そう思って、深く息をして、肩を落として、口をあけて体を震わせて声を絞り出すとき、相手にも「何か」が飛んでいって受け止められる。それが伝わるということ。体の喜びという、正直に浮かび上がってきたものを出すことができるようになりたい。僕にはまだこわばりが多くあるように思う。力を抜きたい。セックスでも同じだろうとおもう。一つ一つを大切に味わいたいな。ありがとうね。 
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LPCというと、皆さんは、LPCのほかの連載、読んでますか。面白いのが多いですよね。とくに武藤かおりさんの第4回「個人の時間を楽しむ」はよかったですね。LPC的週刊ワイドショー(坂井恵理さん)も毎回、いいところついてるし、自慰連合・アジ原ゲバ子さんは、マジメだけど最高ですね。あのタテカン・アジビラがね。 
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「織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない 
織りなす布は いつか誰かの 傷をかばうかもしれない」(中島みゆき「糸」より) 
 
そのような布を、私は、誰かと、つくりたい。とりあえず、手をとって、目を見つめて語りたい。いらんこといわんと、ハグしたい。 
長い間読んでくださって、本当にありがとう! またね。 
 
主要著作 
『シングル単位の社会論-ジェンダー・フリーな社会へ』世界思想社、98年 
『シングル単位の恋愛・家族論-ジェンダー・フリーな関係へ』世界思想社、98年 
『21世紀労働論――規制緩和へのジェンダ-的対抗』青木書店、98年 
『性差別と資本制-シングル単位社会の提唱』啓文社、95年 
『樹木の時間――もう鼻血もでねえ』啓文社、97年 
伊田広行編著『セックス・性・世界観』法律文化社、97年 
 
関連した最近の僕の文章など 
伊田広行・堀口悦子著『いろんな国、いろんな生き方』(ジェンダーフリー絵本第5巻) 
石橋富士子・絵、大月書店 (2001年4月) 
「フェミニズム戦略としてのシングル単位論」『女性労働研究』39号(ドメス出版) 
(2001年1月) 
「スウェーデンから学ぶもの――個人単位政策によって男女平等を達成した新福祉国家」『女性労働研究』37号(2000年1月) 
「21世紀のジェンダー論 ①②」、季刊『SEXUALITY』1号、2号、エイデル研究所発行(2001年1月、4月) 
「スピリチュアル・シングル――生き方と社会運動の新しい原理を求めて」『大阪経大論集』50巻第1-3号(1999年) 
「未来派シングル単位宣言」(およびQ&A)『週刊金曜日』99年9月3日号