過去に書いたもの(2 )

作品関係のエッセイ/スピリチュアリティ/フェミニズム/シングル単位・スピシン主義/政治実践・運動/スピシン主義の思想的位置 

作品関係エッセイ



ドラマ『アンビリーバブル たった1つの真実』

 
アメリカのネット配信ドラマ『アンビリーバブル たった1つの真実』(原題: Unbelievable)が非常に良かった。(ネットフリックスで見れる。)
『私の解放日誌』や『グッドファイト(第3・第4シーズン)』に匹敵する最も良質的な作品だ。
 
『アンビリーバブル たった1つの真実』は、2019年に配信された米国のドラマで、実話を基にしたレイプ事件を描き、性暴力被害者に対して、警察を筆頭にいかに世間が無理解かということを暴いた作品である。2008年に米ワシントン州リンウッドで発生したレイプ事件とその後の顛末を綴った記事「An Unbelievable Story of Rape」がベースになっている。
 
警察官だけでなく、弁護士、ケースワーカー、カウンセラー、養父母、養子相談員、学校、職場の上司や同僚、近くの友人たちが、いかに簡単に、無理解、避難者、差別者、いじめ加担者になるかが描かれる。
 
このドラマが示すように、被害者への鈍感な、二次加害的なかかわりは徹底して反省されるべきである。世間の無意識の思い込みに批判的になり、ジェンダー構造を学び、被害者の複雑な心理を理解し、被害者に寄り添い、被害者は多様であることを理解し、慎重にアプローチすべきという、このスタンスを被害者支援としては忘れてはならないことは言うまでもない。
 
だが、今の社会で、こうしたドラマを見て、警察などその登場人物たちを最低だと憤っているだけでは、それこそだめだろう。というのは、そうした「被害者の心理の無理解」「弱者への自己責任論的な冷たさ」はまさに日本社会でも主流なのであるから。
このドラマに出てくる人々は、米国のそれなりに進んだ制度を体現している。養父母もそれなりにやっている。カウンセラーも、弁護士も、裁判官も、警察も、決められたルールや手順にそって、それなりにやっている。今の日本よりもかなり、制度的なものは整っている。
言葉かけもそれなりに、愛しているとか、責めているわけじゃないとか、うそと言っているわけではないとか、自己決定を尊重したりしている。配慮すべき言葉としての言い方を、皆がある程度マスターしている。そもそも、米国では日本に先んじて、被害者が何度もつらいことを証言しなくて済むような工夫がなされている【それが十分機能しているかというと、ケースによるだろうが】。
だが、それでも、決定的に足りない。それは一人一人の質の問題だ。

だから、まして日本で、このドラマの登場人物を上から目線で批判できようか。日本でも一部改善はあるが、被害者の人権はまだまだ尊重されていない。配慮などなされず、ずかずかと鈍感に警察が取り調べしたりしている。だから性暴力被害者の多くは警察に被害を訴えていない。役所でも水際作戦的な排除が存在している。ぎゃくたいやDV→いじめにたいしての、学校や児相や行政の対応の不十分さは目に余ることが少なくない。
間違った情報をうのみにし、誰かひとりを標的にして叩く。それは教室でも職場でも地域でも存在し、そしてネット空間で、日々大きくなっている。
他人ごとではないのだ。
 
だがこのドラマには希望がある。二人の女性刑事、グレースとカレンがあきらめずに捜査を頑張り続けるのだ。そしてその周りの同僚も。
とくにグレースとカレンは年齢的地位的にはいわゆる「中年的な女性」あたりだが、日本での「女性の盛りを過ぎた、容姿も衰えた、権力がなく、無力的な存在」のようすではない。そういうジェンダー秩序を内面化して自らつまらなくなっている感じではないのだ。
もう年だし、かわいくないし、おばさんだし、戸板自虐的で無力的な感じではないのだ。
若い人から見てどうかというと、二人は“強い”。
自分のキャリアの中で得てきたものを身にまとい、媚びず、なよなよしていない。思ったことを言う。怒ったら怒りを表現する。いっぱい批判されてきたが、批判されてもめげない。相手の批判も、クールに受け止める。相手に気に入られようとしてソワソワしたりするようなこともない。人目とか気にして、好かれようとかしない。ただ、一生懸命仕事をする。酷い奴を逮捕するという目標に向かってがむしゃらに仕事をする。それだけ。
だがそこに、その人の人間性が出ている。何を大事にしているか、何にとらわれていないか。
私の言葉でいうと、主流秩序・ジェンダー秩序にとらわれていない。
そして過去の失敗や悔いをちゃんと身体に組み込んで生きている。

そういう二人だからこそ、二人の関係も、言うことは言う、べとべとしない、しかし、その活動の積み重ねを通じて、性暴力加害者への怒り、被害者への思いを感じ、尊敬と友情をかんじていくというようになっている。そのクールさが素敵だ。
そしてその努力が報われた時、仲間も、その仕事ぶりをほめる。
こんな仕事をしているから家庭にもしわ寄せがいく。だが、そこに歯まあまあ理解あるパートナーがいる。底もべたべたはしてないが、理解がある、応援がある。そして逮捕してほっとしたとき、体を休められる肩がある。
 
この社会はなかなか全体としてはよくならない。ロシアのウクライナ侵攻があるし、中国も人権弾圧するし、日本もひどいことはいっぱいある。だが、世界のあちこちで、ちゃんと仕事をして誰かを助けている人がいる。
それだけが希望だ。
そしてそれで充分だ。
 
そのことをうまく描いた作品だった。作ることに意志を感じられる作品だった。
(2022年5月)
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山田太一「早春スケッチブック」 

 
(2009年7月ブログより) 
山田太一「早春スケッチブック」についてブログに書きました。 
それをまとめておきます。 
 
甘える男 
 
山田太一「早春スケッチブック」は、大好きな話だが、少し問題がある。それについて一言。 
 
「早春スケッチブック」で、病気の山崎努は、無理を言って周りの人を巻き込む。 
自分が死ぬということで、それをいいわけに、甘える。 
 
そばにいてくれとか、会いたいとか、帰らないでくれ、もうすこしいてくれ、一人でいたくない、電話に出ないでくれとか、そういうことをいう。 
 
ある日、元恋人で、今、別の人と結婚している岩下志麻が尋ねていって、なかなか帰らない。子どもが電話しても出ない。みなが心配する。 
実は、山崎努が帰らないでくれといっていた。だからずっとそばにいてあげたという。 
「怖さに圧倒されている人をみて、そばにいてあげたくなった。だきしめてあげたくなった。電話のベルが鳴っても、あの人はしがみついていた。突き放して帰ることなどできなかった。そんなときでも、一度結婚したら、他の男性には触ってもいけないのかしら? 
私、ずいぶん、自分を縛ってて、あの人の不幸に率直になれなかったわ。自然に、やさしくなれなかったわ。」 
 
夫 「結婚してりゃ当然だよ。俺だって自分を縛ってる。結婚ていうもんはそういうもんだ。二度とよしてくれ。」 
 
∞∞ 
山田太一は、家族という枠とか、けじめとか常識とか、そういうものを守らないといけないという常識に挑戦する。人のつながりの流動性とか、ダイナミックさを考えさせる。 
それはいい。 
 
だが、今から観たとき、山崎努の甘えに、山田太一が寛容すぎると感じる。 
人は矛盾だらけだし、弱いところもある。理屈どおりにもできない。 
だが、山崎のやっていることは、他者の操作の面がある。樋口可南子にしても、岩下志麻にしても、その他、周りの人も、混乱をもたらされている。病気だ、死ぬんだということを口実に、混乱させ、すっきり考えられないようにし、そうして結局、巻き込む。非難したり攻撃したり、泣きついたり、わめいたり、弱さを見せて、いろいろして、気を引く。 
これは、虐待する親とか、DV加害者とか、ストーカーの常套手段ととても近い。 
山田太一は、そういうのを美化しすぎていると、いまの僕は思う。支配関係に警戒心が低すぎると思う。 
 
その上で。 
 
過度に巻き込まれるのではなく、適切な距離で、関わる、というのは、大きな「課題」だと思う。「責任をもてないといって、全面的に離れる」か「べたーと、恋愛や家族や親友といった概念で一体化つながる」のではなく、そのどちらでもない適度な距離、適度な関わりというものが、僕たちには大事じゃないかと思う。 
だがドラマの中の山崎は、もっと無自覚で、それに回りは翻弄される。そこへの危険性への警戒心が、25年前のドラマではなかった。 
 

とは言うものの、このドラマ全体は、すばらしい。 
自分が、自分以上のものになろうとする気高さ、意志の力を描いて、すばらしい。 
僕が大好きな話。 
 
「早春スケッチブック」は、20年以上前のテレビドラマで、僕が一番好きな山田太一のドラマで、本(大和書房、1983年)になっている。DVDで6巻あって、レンタル店でみれる。 
 
昔、大学院生の時、塾でバイトしていて、受験前の中学3年に、このシナリオの一部をコピーして配っていた。受験しているみんなに、大きな生き方を伝えたかったんですね。 
 
ちっぽけな、型にはまった人間になるな、って言う、メッセージだった。普通という枠に縛られるんじゃなくて、瞬間、瞬間、自由に生きよと。 
でも山田太一なので、ああでもないけどこうでもない、そうも言えるがこうでもある、という感じで、バランスが取れている。 
 
最近、クドカンが『早春スケッチブック』が完璧だ、みたいなことを『朝日新聞』で書いていたので、なつかしく思い出して、再見した。皆さんにぜひおすすめしたい。 
 
ぼくが「あなたを好き」と思えるような人には、このドラマの中軸の感覚がある。 
それがわかるからこそ、このドラマを見ていて切ない。 
 
所有できない。だから離れる。だが、ある種の、つながり方というものでつながれる。 
そういうすばらしい瞬間があると、このドラマは切り取った。 
これが分かる人がいる。 
それが希望。 
なのに、離れるとしたら、悲しい。 
 
山田のドラマの最後はもう一つということもあるが、このドラマは、最後まで練り上げられている。 
すごいです。 
 
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 
 

偉大という言葉が似合う人生 

 
「早春スケッチブック」 その2 
 
やろうと思えば出来る、ということ。 
無難に普通の、普通の生き方をしている人間というのに対して、骨の隋までありきたりでいいのか、と問いかけます。 
別れた息子との出会い。そのなかで、受験して普通に生きていこうとしていた自分の問い直しが始まります。山崎勉と重なるところが僕にはあります。山田太一もそうです。でも、バランスにも気づきます。簡単に「ありきたり」を批判するなという深いメッセージです。 
僕が大好きな、僕の生き方に大きく影響を与えた、というか、僕の思想と大きく重なる作品です。 
 
∞∞∞ 
ああいう連中は本当にしあわせか、と思っていた。いい人間のつもりが流れからはずれたやつには冷たい。そういうことにあのころは敏感だった。 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 
 
お前らの暮らしはいったいなんなんだ。 
たいした未来はないか? どうせどこかに勤めるか? 
そんなふうに見切りをつけちゃいけねえ。 
人間ってのはもっとすばらしいもんだ。給料の多寡を心配したり、電車がすいているといって喜ぶだけの存在じゃないんだ。 
その気になれば、いくらでも深く激しく、広く、優しく、世界をゆり動かす力だってもてるんだ。偉大という言葉が似合う人生だってあるんだ。あんなおやじに、聞いてみろ。心の底までひっさらうようなものすげえことに感動したことがあるかって。世界に向かって「オレを重んじよ」といえるような人間になるんだ。 
 
 
家庭が幸せならことたれるというようなやつになるな。 
あいつは、ロクデナシでさえない。お人よしは徹底的に俺をはねつけることさえできない。一回ぐらい合わして、自分をいい人間だと思いたいだけ。ああいう手合いは自分を悪人にすることができない。自分が誰かに悪く思われることが耐えられないんだ。 
誠実? あれは誠実なんてもんじゃねえ。気が小さいだけだ。アンタはあいつを愛しているか? 愛してなんかいるもんか。ああいう男が人を愛するなんてできるわけがねえ。自分のことばっかりよ。中を覗いてみろ、安っぽくて簡単で、ガラガラ音がしているだろうぜ。 
 
適当に生きるなんてことを考えるな。体裁のいい仕事について、女房もらって子供作って、平和ならいいなんて、そんなくだらない人生を送るな 
アンタの亭主なんて、こんなちいさな魂しか持ってねえってこと、あんた百も承知だろうが。それで何が悪いと開き直っている。 
あいつがあんたを愛してるもんか。うんざりしながら便利に使っているだけだ。あんたがあんなやつに満足してるわけがねえ。それでなにがわるいといなおっている。 
 
やつは、自分の魂の安っぽさに悩んだことがあるか。少しでも魂を豊かにしようと自分を鍛えたことあるか。 
悩んでいることは、月給だの、体の調子だの、天気の具合、なんてことばっかりだろうが。 
誇りに思っている? 
あんなやつをどうやったら誇りに思えるんだ。 
 
 
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 
 

人間として立派? 現実は甘くない? 

 
「早春スケッチブック」 その3 
 
好きな場面の言葉のメモ 
 
あなたに会う前、受験のことしか考えてなかった。いい大学に入らなきゃ、負けだと思っていました。そしていい会社に入らなきゃって。 
でも人格的にちゃんとしようとか、精神を高めようとか、そういうことは不思議なくらい考えませんでした。 
人のためになろうとか、社会のためになにかしようとか、そういうことは自分でもヘンな気がするけど、考えませんでした。 
自分のことばかり、それも大きなことを望んでいるんじゃなくて、体裁のいい会社に入って、ほどほどの位置までいければいいって、おもっていました。 
「自分に見切りをつけるな」って言われたとき、ショックでした。「偉大って呼ばれる人生っだってあるんだ」と言われたとき、ほんとにそうだなって思いました。 
そういう立派な生き方、自分には関係ないように思ってきたけど、僕だってその気になれば、どんな生き方だって可能なんだと、そう思いました。 
といったって、さしあたって何をしたらいいかわからないけど、自分のことだけ考えて、趣味を大事にしたり、そういうことだけで一生をおわりたくないと思います。なにかのために生きたいと思います。 
そういうことはあたりまえなのかもしれないけど、僕はあなたと会うまで気がつきませんでした。 
大学に入ったら、誰かのためとか社会のためとか、何か自分のため以外のことをしたいとおもっています。 
 
それにたいして山崎努がいう。 
 
水を差すわけじゃないが、そういうことを思っている人間はとかくいやみなもんだぞ。 
自分はいい生き方をしている、それにひきかえ、周りのやつは何をしている、そんなふうに考えて、みんなを教育しようとしたりする。 
いいかい、人間は結局、自分のことばかりよ。そう思ってちょうどいい。 
俺は人のために生きているなんて、本気でそんなことを思っているやつなんか、そんなやつは大雑把な野郎だ。 
人のために生きたいが、どうしても自分本位になっちまう。 
そうおもっている奴のほうが、たぶん、目が覚めてる。 
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 
 
3流大学、就職大変だぞ。はいった大学でその後が決まるからな。だから浪人しないか。という義理の父 
 
それに反発しての発言。 
どうして入った大学で一生が決まるんだよ。 
親なら言うべきだよ!「あんな大学からあんなすごいヤツが出てきたのかって、そういわれるるぐらいのやつになれ」って、それぐらい言うべきだろ! 
いい大学だの、いい会社だの、ムカムカするよ! 問題は人間だろ!人間としてどんなやつになるかってことが問題なんじゃないのかよ! 
 
そういわれて打ちのめされる父親 
 
母 「あなたにそんなえらそうなこと言う資格あるの。あなただって、お父さんと同じようにいい大学じゃなかったから、浪人しようかって思った悩んでいたくせに。」 
 
確かに悩んでいたよ。でもそれじゃ、いけないって、そうも考えていたよ!問題はどう生きるかってコトだって・・・そういうことも考えていたんだよ! 俺はお父さんとは違うよ! 
 
(父にむかって)「人間として立派なら、どこにいたって、何やったっていいんだって、それぐらいのこといってみろよ!」 
 
☆ ☆ ☆ 
 
酔う前は、タテマエをいっていた父が、酔ってホンネを言う 
「和彦、かっこいいこというなよ。3流大学で抜きんでればいいだと? 笑わせるなよ。ぬきんでるのは簡単じゃないから、みんな一流大学の名前で箔をつけてなんとかしようとしてんだよ。現実はそう甘かぁないよ。3流大学をでれば3流会社、そして3流の人生よ。そりゃ中には、どう見たって一流ってやつはいるだろう。でもそんなのは1万人にひとりよ。俺たち凡人には関係ないことだよ。現実、そんな甘かぁないよ」 
 
つぶやく息子「1万人に一人なら、その一人になろうとしちゃ、いけないかな。現実は甘く凪いだなんて、おどかすだけの親なんて、なさけなくないかな」 
 
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

深く複雑に味わう、自分を越えようとする意志 

 
「早春スケッチブック」 その4〔ラスト〕 
 
好きな場面の言葉のメモ 
 
山崎努が、和彦の妹に言う。 
「細かな味がわかってくるというのはとても大切なんだ。そういうことが魂を細やかにするんだ。マンガでもロックでも、深く好きになれる人は、他のものも深く好きになれる。一番恥ずかしい人間は、くだらないとか言って、何に対しても深い関心をもてない人間だ。そういう人の魂は干からびている。 

干からびた人間は、人を愛することも、ものを愛することもできない。ビールのふたを集めるより勉強した方がいいというかもしれないが、肝心なのは夢中になるということなんだ。何かに深く心を注いでいるということなんだ。それが心を育てるんだ。それに比べれば、勉強ができるなんてことはつまらないことだ。何かを深く好きになることが必要だ。しかしそれはほっといてできることじゃない。好きになる訓練をしなくてはいけない。 
マンガでもいいが気持のままに読み散らしてるだけじゃいけない。細かな魅力をわかろうとしなければいけない。 
すると誰のが「ちゃち」で、誰のが「いい味だ」というようなことがわかってくる。もっと深い味が欲しくなる。もっと複雑な魅力が欲しくなる。 

それはもう、マンガじゃダメだということになったら、他のものを求めればいい。その分、君の心は豊かになっている。好きなものがないということはとても恥ずかしいことだ。何かを無理にでも好きになろうとしなければいけない。若いうちは特に何かを好きになる訓練をしなくてはいけない。何かを好きになり、夢中になるところまでいけるのは、すばらしい能力なんだ。ものや人を深く愛せるという能力は、誰もがもてるというもんじゃない。大切な能力なんだ。努力しなければ持つことができない能力なんだ。 
 
∞∞∞∞ 
俺は自分勝手なことは何ひとつしてないぞ。いつだって家族のことを考えて、仕事で手を抜いたこともない。マジメに正直に、だれに恥じることもなく働いてきたんだ。それなのに、あっち〔山崎努〕のほうがステキだなんて、どういうことなんだ!。そんなこといわれてたまるか。 
 
お兄ちゃんは、すぐいい子になる。非難されてもすればいいのに。会いたけりゃ、いけばいいのに。 
 
∞∞∞∞∞ 
身の回りの世話に来てくれているつっぱり不良少女 
それをとがめる岩下志麻 
そんな常識っぽいことしか言わない岩下にいらだつ山崎 
 
自分を押さえているのかと思ったが、本当につまらなくなった。昔のアンタはもっと人を見る目が柔らかだったぜ。あんたのいうとおりだ。人間は変わるね。 
 
変わった。そのことをさびしいとも思っている。じたばたしてきた。今もじたばたしている。 
平凡な生活だって、そんなに単純じゃない。たまらないときもある。主人が平凡に見えてつまらなく見えて叫びだしたいときもある。 
どっか行っちゃいたい、とか思うこともある。 
 
無理にむちゃを言っているのさ。無理にでも言わなきゃ、こびりついた殻はとれやしない。先ず主婦であることを忘れる。子どものいることを忘れる。亭主を忘れる。 
そして耳を澄ます。自分が何をしたいか? 本当には、何を求めているのか? やっぱり子どもの成長化? 家庭円満か? 亭主の優しさか? 金か? 健康か? それとも若さか。ひとりになることか?恋か?若い男の肌か? 今とはまったく違う人生、別の男との別の人生か―― 
 
人は変わるといってしまえば、あのころのつっぱりはなんだったんだ。昔のアンタは自分を何とかしようとしていた。自分を鍛えようとしていた。どうせ人生、こんなもの、なんて訳知りになる事を嫌っていた 
 
以上 
 
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ケン・ローチ監督『ブレッド&ローズ』

2000年イギリス=ドイツ=スペイン映画
 
学歴も米国籍もないラテン・アメリカ系女性移民マヤが働こうとする。働く場所がない。バーで体を触られるようないやな仕事しかない。彼女は姉が働いている清掃労働をしたいと願う。それはけっして高賃金ではないし、エリートたちには「見えない」存在になることではあったが、仲間がいて、なんとか生活を続けられる望ましいものだった。
  姉のローザのおかげで仕事にありつけたものの、最初の1か月分の給料を現場監督のオヤジにピンハネされたり、仲間の清掃員が遅刻を理由に首を切られたりする。仲間をチクらないからと解雇されるようなひどい状況だ。
 労働組合を組織する活動をしているサムは、SEIU(全米サービス従業員組合)の“ジャスティス・フォー・ジャニターズ・キャンペーン”(清掃労働者に正義を!)を行っており、彼と知り合ったマヤたちは徐々に、自分たちのおかれた境遇の悪さ――低賃金、福利厚生なし、長時間労働、不安定就労、不当解雇――を認識するようになり、労働組合活動に近づいていく。それはもちろん、管理者たちの妨害に直面するのであるが、彼女たちは、過去の運動や仲間たちから影響を受けて徐々にたくましくなっていく。
 
この映画をみて、いろいろ思うところがあった。
 どこの国でも、底辺を支える労働者たちの生き様は似ている。偉そうに管理者に言われる。中間搾取される。クビになることが怖くて、ひどい扱いに対しても何もいえない。とても立場が弱い。不法入国者であったり、グリーンカードをもたないため、さらにつけこまれる。金がなく、大学に入るというほんの少しのことさえ遠くなってしまう。
  そんな中、ずるい人も、臆病な人もいるし、自分の安全を優先する人もいる。裏切りもある。危ない組合活動などに手を出さないと判断する人がいるのも当然だろう。だが、いったん、労働組合の論理に触れると、難しい理屈とか複雑な知識とは関係なく、一直線に突き進む人たちがいる。決して全員ではないが、何人かは、仲間を大切に思うとか、自分の悔しい思いを大事に抱えて、ちょっとやそっとの困難さにはたじろがない。すぐに諦めもしない。主人公のマヤも、「学」があるわけじゃない。大学に行く時間も金もない。だが、彼女は、悔しさを忘れはしない。仲間のために盗みまでするやつだ。
  そうした“気質”と呼応するように、SEIUなどの労組の運動スタイルも、オーソドックスな面――経営者はひどい搾取をしている、あなたたちには金を取り返す権利があるという訴え方――と、大胆な創造性に彩られた面――相手の企業や経営者を追い詰めるためには、脅しやだましやいやがらせでも何だってする!――の両面がある。この映画での組合戦術をみていると、そこには、何か懐かしいにおいがある。それは、日本では長らく忘れられている、手作りの創造性のようなものだ。
 そして、労働者たちは、デモを繰り返し、逮捕をさえ恐れない。日本じゃ、ちょっと考えられない。デモ?しかも、少人数で、会社の前で、何度も何度も。逮捕?日本じゃ、すぐに、逮捕を避けるような「方針」を出すだろう。「指導者」?未組織労働者と心から交流し、一緒に逮捕される、熱い生き方を持った活動家は、どこにいったのか。活動とはそういうものだったのだと思わせてくれるような、原点。だが、勇気というか、〈たましい〉というか、そういう崇高な感情は、いわなくても通じる。それを核にして、歌をうたい行進する。労働者の素直さ、たくましさ、まっすぐさは、やはり、何か大事なもののように思える。日本じゃ見えなくなったもの?それはなんだったのだろう。
 おもえば、ケン・ローチは、そうした日本では“見えなくなったもの”を映像にしてきた稀有な監督だった。『リフ・ラフ』で、『マイネームイズジョー』で、彼は、どうしようもない「労働者階級」の悲哀を描いた。映画的なヒーローが出てきたり事件があって、すっとする結末があるわけじゃない。むしろ、どうしようもない現実が描かれる。でも、そこには、ケン・ローチの優しい眼差しがある。『ブラス!』や『リトルダンサー』にも共通する、イギリス労働者階級への共感の匂いだ。
  そうした匂いがもっとも浮き出ていたのが、マヤの姉の切実な叫びだろう。みていない人のためにすべては書かないが、お姉さんの存在感を描いたことがこの映画を印象深いものにしている。人間は侮れないと、最近僕は思う。表面はスーとしていても、一皮めくれば、多くの人は言うに言えない闇を抱えている。だがそれは、真実のほとばしりの領域でもある。表層をなぞるような人間観では何事も立ち行かない。姉の叫びは、人間の希望だ。日本では、叫びがなかなか見えない。主流労働運動から、叫びの匂いが消えて久しい。
  清掃労働者は、エリートには見えない存在? それは恥ずべきことでも、脱出すべき場所ということでもない。エリートたちとは何なのか。政治家や中央官僚は自分が日本を背負っていると思っている。企業で2億・3億円の商売をしている人は自分が凄いことをしている気になっている。マスコミ・報道人は自分が世界の最先端に位置して世界を見張っている気になっている。大企業に属している者は、自分がエリートで世間の成功者だと思っている。学者は凡人には分からない真実を見ている気になっている。作家は自分だけが深く苦悩しており、自分だけが心のキビを感じている気になっている。テレビタレントは業界に属し、有名であることが最上の価値と思っている。弁護士は自分がこの世のルールを支配していると思っている。
  だが、そんな人生はつまらない人生だ(と私は思う)。なぜか。無意識的にしろ意識的にしろ、既存秩序に従属し、金や情報や地位に捕らわれて、本質的な危機感を持てていないからだ。まじめな無名の人々の気持ちの中のスピリチュアル水準でのすばらしさをわからず、自分の愚かさをわからず、自分は特別と思っているからだ。自分の無能を恥じ入る感性を持ちあわせていないからだ。偉そうにすることの愚かさ、自分が生き生きと生きるということが分かっていないからだ。攻撃性や権力性や競争性や破壊性の愚かさをわかっていないからだ。世間の秩序に捕らわれない自分らしさということの大事さが分かっていないからだ。金持ちである、社会的に成功している、有能・優秀ということと人間としての誠実さ、人間の質の良さは全く無関係ということがわかっていないからだ。
  労働運動とは何なのか。きっとそれは、エリートではない無名性ということだろう。見えないものの大切さを核にもつ、自分への尊厳と仲間たちとの連帯の表れという無名性なのだ。パンと、バラを!

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2012年8月ブログ

「石井筆子 いと小さき者になしたるは」

 
大学の授業の準備をしていて、昔、書いたものを見つけたので、ここに再掲しておきます。
 
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山田火砂子監督『筆子・その愛――天使のピアノ』
 
(NHK番組『そのとき歴史は動いたNo272:石井筆子 母の灯火(ともしび)で小さき者を照らして』)
 
筆子は、「私の一生を委ねる仕事が見つかった」と言った。
 
「いと小さき者になしたるは/ すなわち我になしたるなり/ 小さき者になしたるは 
神の道に通じる 自分たちの使命なり」
 
石井亮一は言った。「人は誰かを支えているときは、自分のことばかりを考えているけれど、実は相手からどれだけ恵みをもらっているかは気づかないものだよ」と。
亮一と筆子は、施設運営で苦しいときも、次のように考えた。「子どもとともに学び、ともに食し、もし糧なくば、ともに死せん」と。
 
自分より先立った3人の子どもの名前を刻んだ石の裏側には、次のように記されている。
「鳩、足とめるところなく 舟に還る」
これを誓いの言葉として、筆子は多くの「小さき者」たちの足を止めることのできる居場所作りに生涯をささげたのである。
 
そして小さき者たちを尊重するのは、「労働力や兵隊になるかどうかと言う点でしか人を見ない、暴力的な観点」と戦う、非暴力的な姿勢であった。それは、戦争体制と対立するものであった。「頭のおかしな者たち」に配給する必要などないとするのが、戦争体制だからである。
★★★★★★

こうした勇気ある人々の歴史があって、人類は進歩してきた。そこに希望がある。その後も多くの人の意思・努力・戦い・運動がつながって、現在の社会保障の体系、人権擁護のシステムに至っている。北欧社会はその集大成だし、日本はもっと低いレベルだが、それでも明治時代に比べれば、雲泥の差だ。
当時、女性の地位向上を思うようなこともとてもラジカルだった。そうしたことをした人々がいて、今のフェミニズムに至っている。
 
自分が生まれた時代に、自分のおかれた環境の中で、自分ができる範囲で必死に、まともな生き方をしていくということが、映画を見ていて僕に突き刺さってきた。だから泣けた。自分を省みた。すべきこと。どう生きる?

現代は、昔と比べれば、ずっと運動はやりやすくなっている。なのにあきらめていてどうする、と思う。
いつの時代も、スピリチュアルなもの、ピースなものと、そうでないものとは闘い続けている。
筆子や亮一、津田梅子、その他、無名の多くの人たちが“ちゃんと”生きたということを受けて、私たちはどう生きるのか。
 
例えば大学で学ぶということもこういうこととつながっている。そうでない学びに何の意味があるだろうか。
 
絶対見ておく必要のある映画です。

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ジョン・キャメロン・ミチェル監督・脚本・主演『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(2001年アメリカ)について

 (ラブピースクラブ 記事)

 愛のカタワレを探して歌われる「オリジン・オブ・ラブ」のメロディは切ない。「もともとは手足が4本ずつ、頭二つ、失われた半身を求めるのが愛」というプラトンのアイデアは、何度も目にしたものだけど、伝え方に、痛々しい喪失感をふまえそれでも何かを求めるという〈たましい〉があれば、やっぱりいいものになる。
 
 全体として、音楽が、舞台をふまえているからか、懐かしいような、気持ちを底から掻き立てるような、中島みゆきにも通じる、正統派の盛り上げ方をもったもので、ありきたりのようなのに、感動してしまった。歌詞・せりふに力がある。音楽もそれをストレートに出す。わかりやすい音楽。みゆきだ。
 
 「アングリー・インチ」他のあの打ち付けるような古臭い下品なロックって感じ、「ミッドナイト・レディオ」の、ヨーコやアレサの歌に救われ勇気づけられ、はみ出し者たちよ両手を高く突き上げろと歌う、革命歌の連帯のような気持ち、もうそれだけでサイコーだ。自分たちの信じる歌を歌うこと、お客がこなくても理解されなくても、自分たちの正しさを信じること。下品さを見下し、〈たましい〉で聞こうとしない客たち。そのしんどさ。「薄汚れた街」のせつなさ。
 
 そしてパンフでも何人もがいうように、「ウィッグ・イン・ア・ボックス」がかかるシーン。僕らは、孤独で壊れそうでダメなぼろぼろの主人公が、それでもカツラをかぶり化粧し歌を歌って、自分を鼓舞し、気持ちを入れ替えていくときの、人の厳しい現実に立ち向かうしぶとさに感動する。そんな、別人になるという乗り切り方、元気のもち方、に希望を見出す。せめて家に帰って、ベッドに潜るまでは。
 
 ロクデナシ、はみ出し者たちを賛美し、共感するブルーハーツが好きな僕が、こんな下品で、場末の寂しさと既成観念から自由になろうとする、愛と自由のロック・スピリッツ溢れる映画に涙しないわけがない。情感のある音楽で、うまく作られていると後で思うけれど、みている途中も、今も、この映画のことを忘れないで生きていたいと思うような。ワイルドサイドを歩けって感じ。そう、僕は、ワイルドサイドを歩きたいんだった!(中野翠が文章書いてたけど、おまえみたいな保守的な奴がこの映画をわかったようにいうなよと思った。)
 
 恋愛観としても、みている途中は、ちょっと、カップル単位思考だけかなとおもったけど、シルバースタインの「ミッシングピース:僕を探しに」「ビッグオーとの出会い」も踏まえているみたいで、「自分の半身、かけら、カタワレ」に幸せを求めてもそれはダメで、ぼろぼろのダメな自分こそが、WHOLE(全体性ある満たされた存在)だという気付きにいたる物語、ありのままの自分の肯定、エンパワメントつまりシングル単位にちゃんとなっている。愛や〈孤独〉ということの奥には、自分は何者なのかという問いがある。結婚やパートナーが愛してくれるという形はたいしたことじゃない。自分の中核への旅、つまりスピリチュアルな生き方は、哲学者というより、こういうぼろぼろのとりみだしの人生にこそあるということ。この映画のテーマはここ。「誰かじゃなく、自分がそばにいるじゃないか」と自分に言える人になることこそ、求めたいたものの核にある。
 
 ただ、CDの解説文で、井上貴子さんが次のように書いてるのには違うなって思った。彼女は、「愛、自由、はみ出し者たちの自由の王国としてのロック、そんな幻想は古臭い。もはや生き様としてのロックなど誰も必要としていない。同時多発テロなど現実には音楽にできることは何もない。現実はどこまでも音楽のような美とは相容れない。世界はちっとも変わらないけれど、この映画での涙や笑いが少しこころと体をあったかくする。」というようなことを書いている。
 
 この『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のよさを際立たせるためにあえて反語的に彼女はそうしているんだけど、僕には、それでも透けてくる彼女の世界観が気に障った。居直りすぎなんだよ。もうそんなのには飽きた。今さら、理想は古いなんていうのが古いんだよ。世界はちっとも変わらないなんて言う、あなたはどこにいて何をしているのかってことじゃないのか。そういう問いが聞こえてこない。痛々しくないんだよ。
 音楽映画評論しているあなたのそののんきな立場は何? 何でそんな仕事してるの? それで金もらってるの? 映画や音楽で少しあったかくなって、どーなんだよ。いかがわしい精神世界論とどう違うんだよ。おまえは何を喪失したんだよ! 世界を変えようとして挫折したのかよ! 
 『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を語るなら、そこが問題なんじゃないの? 口先だけで形容詞並べて評論するな! って感じ。

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 大阪経大 『本の虫』原稿 990925 イダヒロユキ
 ――辺見庸[98]『不安の世紀から』角川文庫を読んで―― 

 表題 「不安の世紀末にワタシはスピリチュアリティを遠くに見つける」

 
  漠たる不安感が日本中を覆っている。世紀末である。辺見は、そのあたりを様々な角度から表現する。曰く「対象のない恐れの感覚が“不安”である」、「価値一般の陥没、対立構図の拡散、あらゆる理念への不信感がひろがっている」、「生きる意義、目的とは何なのか、この種の実存不安も、過去のどの時期よりも広く蔓延している」、「摩擦がなく、快適で、合理的な、窒息状態に日本はなっている」と。また、それが「漠たる」ものであるということ自体にこそ、日本的な、危機的特徴がある。
 
 現在は、目的なき無限発展を正当化し座視しするようなニヒリズムに陥っており、漠たる不安を感じながらも、異議申立てをしない、そうするのがとんでもない時代錯誤であるというような冷笑的感覚にとらわれていると。それを辺見は、「集団的無意識」と捉える。オウム真理教は、特別の異物ではなく、モノとお金と消費と欲望の飽くなき狂騒の過程で、社会の胎内に知らずして宿していた我々の無意識の闇の反映でしかない。
 
  その現状認識は私も同じである。しかしはっきりいおう。私は今、そうした漠たる不安の中にいない。一度<絶望>したからである。「近代主義的普遍」の限界を知り、確たるものがないという相対主義にとっくにたどりつき、その先に、<私にとっての積極的な意味>を見つける作業を積み重ねてきたからだ。不安定こそ常態であると、危機の時代であると自覚しているからだ。辺見もまた、そこまで到達し、いくつかの方向を提示する。身体感覚あるところで、狭い善悪にとらわれず、人間の性(さが)を多様性を政治より上位に見て、全体的に捉えたいという。市民主義の良識や安っぽいヒューマニズムの浅はかさに、近代主義的限界をはっきりと見る。「事件」があっても報道があって新聞が売れて、また同じ事が起こるというニヒリズムにたどり着き、「メディアに飽きた」とまったくまともな感覚を呈する。
 
  ただし辺見は、「どうせ何をしても…」というような無力感にかまけているわけではない。解説に登場した鈴木光司のようにナショナリストとして自己肯定するわけでもない。それは例えば「B29爆撃機エノラゲイに搭乗し、広島に原爆を投下しに行ったパイロットの立場」に立って考えてみようという姿勢に明確に顕れている。
 個人の判断で、あの状況の中で、組織に組み込まれたまじめな個人がエノラゲイの投下ボタンを押さないでひき返せるか。辺見は、高見からの評論でなく、ぎりぎりの選択を自分に突きつける想像力をもって、それでもなお個人としてこれはいけないと声をあげるべきときがあるというのである。
 希望とは、「であるがゆえに」生まれるのではなく、「にもかかわらず」現れるイメージであると捉える。そうした覚悟の上に、彼は、モノにかわって失ってきたもの、精神、感動、心の底からの怒り、空腹、絶滅する人類、「種」としての自覚など、原初的感覚を取り戻す戦いをはじめることを提唱する。また彼は、絶対的真理を信奉する原理主義に対抗して、積極的な相対主義「プロテアニズム」を希望の発想として対置する。それは変わりつづける能力であり、人生に意味を与えてくれることを見出すための方策である。
 
  言いたいことは分かる。可能性は認める。だがあまりにも抽象的なままだ。私としては、辺見の提起は端緒でしかない。私はもっと先に進みたい。そう考えて、「スピリチュアル・シングル主義」という概念を提起してみた(『大阪経大論集』50巻1-3号)。「近代秩序が揺らぎつつあるという時代変化を認識し、孤独ということを見つめ、家族単位の発想から脱却し、近代の性別秩序を超えようとする、自己決定能力の高い<新しい個=シングル>を単位とする社会システムと生き方」を提唱する「シングル単位概念」については、これまで各拙著でかなり展開してきたが、最近はそこにスピリチュアリティという視点を付け加えようと考えている。
 
 スピリチュアリティは、私が、ここまでに経験し、歴史を見て、思考した結果見えてきた、「私にとっての、21世紀を生きるにあたっての、大切で魅力的な価値」である。私の志と責任に関わり、私を突き動かすもの、私の身体性に関わるものが、スピリチュアリティである。例えば中島みゆきの「ファイト!」を私がどう身体化するのかという翻訳である。辺見が「詩だけが人間性を救う」ということの私なりの具体化がスピリチュアリティである。私はスピリチュアル度の高い生き方をする人を増やしたいのだ。私は、理性で小さく縮こまるのでなく、矛盾を抱えて大きく過剰でありたい。そしてなおかつ相手との距離をもつシングル単位人間になりたい。浅はかな近代主義的昏睡状態に対して、私は個的な闘いを続けるであろう。

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 ラブピースクラブ 投稿 02年9月

 Let yourself go. (遠慮しないで自由になって)

  イダ・ヒロ

 待ってたぜーこんな本!!ってのが、出ました。フェミでシングル単位感覚がほーんともうパップパップと溢れている本。

 スーザン・ギルマン著『うまくいっている女の、かなり冴えた考え方』PHP出版、です。

 
 小気味いい。自由でエッチで、皮肉屋で、ユーモアがあって、欲望に忠実で、前向きで明るくて、生意気でパワフルで、女に優しくて、バカなペニスもちに負けてない。サラパレツキーの女探偵、ヴィクを思い出す。こんな友達が欲しい。LPCの感じに近い。ニューヨーカーっぽい。『SEX AND THE CITY』に少し近い。『フレンズ』を笑える感じも少し。フツーの言葉で消化したフェミを語っている。もちろん全部が「正しい」とか「意見が同じ」ってわけじゃない。でもそんなの、とーぜんじゃん。
 
 どんな内容か、少し、紹介しよう。
 
 男に媚びた時代遅れの雑誌を読まされていることに怒っている著者のスーザンは、女性がうまく世渡りするための実用的なアドバイスと、笑いが大事と考えている。
 だから型破りな、元気の出る、気の利いた次世代の女性の生きる実用的ルール、底力を引き出す知的なマニフェストを作ろうとしたわけ。それがこの本。それも、夫探しやオーガズムだけでなく、恋やお金、友達、セックス、健康、ダイエット、食事、仕事、家族、セクハラ、信仰、政治、スポーツなど、全般にわたって語った本。
 
 仕事では、もっと要求しよう、稼ごうという。男を捕まえるように、つんとすまして、ミステリアスに構え、相手の出方を待ち、自分を高く売ること。相手がちゃんと扱わないならNOをいうこと。歩ける靴を履き、やたらに大きなバッグを持ち歩かず、服のためにダイエットや整形手術を考えず、占い師に仕事の相談はしない。物体に謝らず、トイレでも我慢しない。そんな風になろうって。
 20代は仕事では基本的に最悪で当然で、経験の時期。惨めな仕事にしがみつく必要はないが、一挙に理想的で創造的なことはできない。泣き言を言わずに下済みから学ぼう。
 
 友達では、恋人の次というような残り物扱いせず、女友達の悪口は言わないようにし、自分や仲間を古い価値観で袋叩きにするのを止め、友達の彼氏には手を出さず、自画自賛しあい、「魔女連盟」とか「お茶とホットケーキ売春団」といった名の女のネットワークを作ろうという。
 
 知らない奴との初デートは、就職面接と美人コンテストとスピーチ大会をあわせたような淘汰のプロセスもんで、リスクあるから疲れて嫌って当然。愛国的軍事雑誌を読むような奴とか、絶対避けるべき男はいるけど、そうでないならチャレンジするしかないが、デートの本当の目的は、誰かステキな王子様に出会うことではなくて、友達に話す笑いの種を見つけることだし、バカから何かを学ぶことにある。
 
 男なしでイケるのは「あばずれ」とされるが、オナニーは自分とのふれあいを深め、自分の体を知り、コントロールできることで、大好きな人とのセックスだ。91歳のおばあちゃんがいうには「わしらに自分の体を触って欲しくなかったら、神様は腕をもっと短く作っただろうよ」。オナニーのことを、「指を歩かせる」とかのほかに、「ボタンを押す」「共和党に入れる」とか、いいかえちゃおう。
 
 女性のセックスの理由を多くの人は、①愛し合っているから、②赤ちゃんを作るため、③あばずれだから、④ほとんど意識がないから(わけがわからず)の4つとしか考えてないし、「寝ない理由」を「責任感があるから、純潔だから、慎み深いから」とみている。
 
 でも、セックスの本当の理由は、無数にある。自己確認、人類学的興味、懐柔、注意を払ってもらうため、赤ちゃん、お金、カタルシス、話のネタ、しゃれたおもちゃ、落ち込み、ダイエット、捨てられないため、酒酔い、断るよりラク、逃避、興奮、空想、恐怖、大人ぶる、元気を感じたい、求められたい、プレゼントをもらうため、美容、お礼、就職、親密さ、愛、仲直り、人に好かれたいから、メロドラマ、哀れみ、ナチュラルハイ、郷愁、ヒマ、友達からのプレッシャー、相手がホットだから、抱きしめて欲しいから、人を喜ばすため、パワーを感じるため、証明、反動、復習、自己教育、スポーツ、親へのあてつけ、バイブの電池切れ、楽しいし気持ちよくなれるから、などなど。
 
 「独身女はみんなみじめ」とか「いい男は若くてかわいい子がお好き」「真の愛は瞬時のもの。運命の人に出会えばすぐわかる」「男の子は好きな子をいじめる」「バレンタインデーを一人で過ごす人には価値がなく、哀れみに値する」「レズビアンは楽」「ストレートは楽」「愛は真の恵みである」なんていう、恋愛の神話はぜーんぶまちがっている。
 
 なーんて話がこの後もいろいろ続くんだけど、こんな要約じゃ、この本の面白さは伝わらない。その語り口の楽しさにあるんだから。
 
 で、その語り口のうしろに見え隠れするちゃんとした思いが僕は好きだ。「アメリカ文化はますますビジュアル化してるけど、その利にあずかるべきは、モデルじゃなくて、カメラ やコンピューターのうしろにいる女たち。」
 
 「某有名女子大の女子大生たちが『プレイボーイ』にヌードを出したこと。動機は何かって? 決まってるじゃない。知能が高いだけじゃないことを世の中に知らせるため。『頭がいいだけじゃないのよ』って。いやーね。私たち聡明な女神は『脱がないと、単なる天才数学者じゃないとわかってもらえない』なんて女に思わせる風潮に疑問をもたないと。」
 
 「女の最大の武器が本当に「美しさと性的魅力」なら、「お金を返して」といいたいわ。だって何世紀もの間、女は・・かなりバカらしいことを信じさせられてきたんだもん。纏足したり、真鍮の輪をはめて首を長くしたり、豊胸手術をしたり、「女の武器」を磨くためにどれだけ体を痛めつけてきたことか。それで何か得るものがあった?お給料が上がった? 政治に声を反映できた?洗濯を手伝ってもらえた? もっといえば、それで世の中はよくなったかしら?人種差別がなくなった?平和が訪れた?確かに美しさには男をそそる力はあるけど、それは箱入りドーナツにだってある。私たち、もっと望みを高くもたない?賞味期間をもう少し長くしてさ。」
 
 「若いストレートの女性たちが、今こぞってフェミニストバッシングに走るのはなぜだろう?」「アフリカ系アメリカ人は『あらー、どうしましょ。白人に嫌われちゃう』なんていって、人種差別についての発言を控えたりしない。・・・でもストレートの女たちは違う。『フェミニストだって言ったら、男に愛されない』と本気で思うのだ」
 
 僕は、最近〈たましい〉を大事にしたいと考えてるんだけど、そこでも自分で押さえておきたいと思っているのが、「俗、闇、悪、笑いの大事さ」ってこと。きれいな正義を語るいい人になんかなりたくねーと思って、そのバランスを探してる。で、このスーザンの本では、そのあたりのバランスがいい感じなんだよね。「いい人」でいるなんてダメだー、ペニス・ジョークいいじゃん、ポリティカルコレクトネスというガードルは窮屈、アラニス・モリセットのように大声で怒りを表明すればいいじゃないかって。型――いい子であれ悪い子であれ――にはまることを拒否し、自分らしくある勇気をもっている人が魅力的だって。
 
 「自分の問題を笑い飛ばせることほど、革命的なことはない。ユーモアは――いつもそうあるべきなんだけど――私たちの究極的な力の道具、私たちの第一の武器だ。革新的プリマドンナにとって、自分たちのことや世の中のことをくそまじめに考えることほど、命取りになることはない。はっきりいえば、自分の存在に、アホらしさのきらめきや、喜劇性が見えない人には、何かを守ったり、治めたりする仕事は向かない」
 
 楽しい語り口の一端を少し紹介しておくと・・・
 女・子どもは、生意気だ、大口を叩くなと家族・親戚から抑圧されてきたけど、次のように反撃してやろうと例示されたものは、こんな感じ。
 
 「まだ結婚しないの?」 ⇒ 「そ、やりまくっている」
 「太ったわね」 ⇒ 「いいセックスしてるからね」
 「それで、いつ、ちゃんとした仕事につく気なの」 ⇒ 「エロチックダンスのどこが、ちゃんとしてないの」
 「もう若くないんだから」 ⇒「げっ。それが悪いことみたいな言い方じゃん。」
 「もう若くないんだから」 ⇒「だから愛人はみな年下なの」
 「もう若くないんだから」 ⇒「そうね。でも叔父さんがその勢いでふけていったら、すぐおむつに逆戻りだね。」
 「孫の顔はいつ見られるのかしら?」 ⇒ 「さあね。お母さん、いつ腰骨折るの?」
 
 キャリアウーマンが、「どうして子どもを作らないの?」と聞かれたら、「あなたの子どもを雇っているから」と。
 
 「私達は、これまでと違った方法で、勇気を出して、自分のすることに責任をとらないといけない。でもそれがどうだっていうの? 大人らしく責任をとることよりすばらしいことが、他に何かある?」
 
 これが、「うまくいってる女の、かなり冴えた考え方」。いい題だよね。ここでの紹介の100倍は面白いから読んでみて!
 
 なお、類似傾向で少しカタメのいい本は、『シングルという生き方』カルメン・アルボルク著(水声社)。これもおすすめ。

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映画『約束の旅路』:行け、生きろ、何かになれ

2007年3月21日

『約束の旅路』フランス映画、2005年
 ( Va,vis et deviens 原題の英語訳Go, live and become、行け、生きろ、何かになれ)
 
 いい映画だ。もちろんその背景の事実は重い。エチオピアでの難民の苦しみ。イスラエル内の複雑な差別。
 多くの命が消えていく。
 『ホテル・ルワンダ』の重みと通じる。
 
 「行け、生きろ、何かになれ」といった母の思い。連れ出すことに協力して演技してくれた「母」。実の子のように愛情を注ぐ養母。
 そうした人々の思いに泣かずにはいられない。
 
 この映画は、イスラエルの複雑な状況を少しわからせてくれる。
 イスラエルの中の左派。必ずしも宗教的に熱心ではない。
 イスラエルの中の、愛国の気持ち。アラブとの争い。イスラエルの中の、少数派。誰がユダヤ人か、をめぐる差別や争い。黒人への偏見や差別。エチオピア系ユダヤ人への差別にくみしないひとがいるということ(人のいい警察官)。
 
 「なにになるか」という人生の問い。肌の色を超えた愛。信頼するということと、ヒミツを持つということ。
 
 そもそも、ユダヤ教やユダヤ人ということにこだわるとは何か。民族や宗教とは、人を幸せにするのか、分断し不幸にするのか。
 
 映画の最後。その強烈な映像と音が体に残る。
 クレジットが流れる中、ボクは、この映画の中で心身が洗われていると感じた。
 瞑想を通じたのだ。
 ちゃんと生きる力をもらった。
 監督から。現実の中で苦闘して、「なんとしても生き続ける」という選択をしている人々から。
 
 いい映画は瞑想である。

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「自爆テロ」を多面的に扱った映画、『パラダイス・ナウ』

2007年05月08日


『パラダイス・ナウ』(仏・独・蘭・パレスチナ/2005年)
 
 『パラダイス・ナウ』を観てきました。「自爆テロ」をする側から、なぜせざるを得ないかを描いた映画です。でもそのなかに葛藤があり、反対があり、それを行う人もその周りの人も、普通の愛すべき人たちであることがわかる映画です。
 
 この映画を日本中の人に見てほしい。
 「テロ」と日本では簡単に言う。アメリカの視点、アメリカのなかでも、ブッシュ側の視点から、日本のほとんどの報道機関は報じるからだ。でもテロというレッテルは、正義、正等、合法の側が、相手の不正義、不等、非合法の行動に対して貼り付けるレッテルだ。
 
 で、イラクにおいて、アフガンにおいて、パレスチナとイスラエルにおいて、一体誰が、どっちが、正義の側なのか?
 一面的にいえるのか。例えば、圧倒的な武力を持っているイスラエルが、テロに対する報復と称して、ミサイル攻撃して、多くの一般人が死ぬ。その前提として、イスラエルはパレスチナの人々がいる地域を支配占領している。
 そのなかで絶望的になる人がいる。世界がこの状態を放置している。自分たちにはイスラエルに対抗する軍隊も力もない。
 
 「テロ」と呼ぶことの一面性。その程度の初歩的な知性を持つ人が増えてほしい。そう思うから、この映画を全員に見てほしい。
 
 この映画の中でも、自爆テロの「愚かさ」を批判する人が出てくる。そんなことで効果があるのかという。罪もない人を殺していいのかという。非暴力的な戦い方もあるだろうという。もっともだ。でも、なのだ。そんな言葉だけでは足りない。圧倒的な抑圧。ひどいことが目の前でなされ、それに対して無力であるということ。その悔しさ。
 
 暴力にたいして非暴力。僕はその立場をとる。北朝鮮がミサイルを撃ってきたらどうするんだ、だからこっちも武装だ、集団的自衛権だ、などとほざく、その問題設定自体を愚かだと思う。
 だが、「自爆テロ」を高みから非難、批判する立場はとらない。そんなことをできるはずがない。
 
 なぜ優しきパレスチナ人が自爆攻撃を選ぶのか。監督のハニ・アブ・アサドがいう。
 
 「彼らの絶望に対する、世界の無知である。占領地での悲嘆、苦しみ、人権の侵害すべてに対し、長年世界が見て見ぬふりをしている。だからそこに住むものたちは自らの手で行動を起こすのだ。またこのような状況下で行動を起こさずに見てみぬふりをしていることで、世界は暴力とその連鎖に加担しているも同然だ」
 
 見え方は、立つ位置によって異なる。
 
 爆弾を落とす側と落とされる側。
 殺す側と殺される側。占領する側と占領される側。
 アメリカや日本のメディアに接しているものと、アルジャジーラに接しているもの。
 
 自分が殺されることを本気で想像したことがある者とそうでない者。
 自分の愛する身近な人が殺されることを本気で想像したことがある者とそうでない者。
 自分が人を殺すことを本気で想像したことがある者とそうでない者。
 自分の愛する人たちが住んでいるところに爆弾やミサイル攻撃を受けるということを本気で想像したことがある者とそうでない者。
 傷つく痛み、レイプされる感覚を本気で想像したことがある者とそうでない者。
 
 実際に経験してみないとわからないことも多いが、こうしたすばらしい映画を多く見てちゃんと想像力をもてば、世界観は変わる。10本、100本、1000本の戦争映画を見よう。戦争における、虐殺のシーン、空爆されるシーン、レイプシーンを無数に見て、想像せよ。
 
 この映画は、人を殺し、自分も殺す、そのようなことがなくなることを願ってつくられている。その感覚がわからないものたちは、今日も憲法を変え、武力を持つ準備に忙しい。
 
 あなたはどっちだ?
 
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 以下、情報
 
 『パラダイス・ナウ』は2005年ベルリン国際映画祭で最優秀映画賞を受賞し、ゴールデングローブ外国語映画賞を受賞した作品で第78回アカデミーショーの外国語映画部門にノミネートされましたが受賞は逃しました。全米ではワーナー・インディーによって公開され問題作として話題になっている作品です。
 アカデミーショーの授賞式前には自爆攻撃により亡くなった人のイスラエルの遺族たちが、テロを支持する映画ということでノミネート中止の署名運動も起きました。
 アカデミー賞は、これまでパレスチナは国家ではないと言う理由でパレスチナ人監督のエリア・スレイマンによる『D.I.』を選考対象から除外してきましたが、今回はヨーロッパ各国との合作と言う事でノミネートされています。
 映画は、パレスチナの幼馴染みの二人の若者が自爆テロに向かう48時間の葛藤と友情を描いた物語です。同じくアカデミー賞にノミネートされている『ミュンヘン』がユダヤ人監督スピルバーグが、巨費を投じて製作したイスラエル人テロリストのエンターテインメント作品に対して今迄語られる事のなかった自爆攻撃者の葛藤と選択を描いています。
 世界各国の映画祭で上映され、好意的、批判的両方の意見を強く引き起こしていますが、アブ・アサド監督は「物事を“邪悪”と“神聖”にわけるのはナンセンスだ。私は複雑きわまりない現状に対する人間の反応を描いているのです」と語っています。
 日本公開は2006年内を予定してます。
 『パラダイス・ナウ』(仏・独・蘭・パレスチナ/2005年/90分/カラー/原題:
 Paradise Now)
 監督:ハニ・アブ・アサド
 出演:カイ・ナシェフ、アリ・サリマンほか

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『デスパレートな妻たち』 

 

2007年05月22 日

アメリカのテレビドラマ『デスパレートな妻たち』(シリーズ、①,②)
 
 味わいのある、僕の好きな番組。
 
 人生いろいろある。馬鹿なことをしてしまう。
 隠したり嘘をついたり、だましたり。
 
 お金に負けたり、お金に正直に突っ走ったり。恨みを忘れず、殺したり、殴ったり。セックスを楽しみ、浮気をする。完璧な妻や母や隣人であろうとし、真実を隠す。
 人を陥れ、嫉妬し、怒り、友人のふりをし、裏切る。
 子育てに疲れ、仕事に疲れ、家族関係につかれ、人間関係に悩む。
 過去の過ちがよみがえり、ダメだとわかっているのに、また過ちをしてしまう。
 
 でも、それでも時には人を助ける。
 友情や愛情がある。
 
 過ちを許し、憎しみを水に流す。
 人のだめさや弱さが、観るものを癒してくれる。 

 

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あさのあつこ『バッテリー』はシングル単位感覚の作品だ 

2007年05月22 日

『バッテリー』角川文庫Ⅰ~Ⅵ
 
 とっても好きな物語。
 友人が教えてくれた。シングル単位感覚に近いから、伊田さん好きだと思うよと。
 
 ホントにそうだった。
 
 いま映画になっている。映画は見ていないが、多分、本のようには面白くないだろう。(後日見たが、まあまあ)
 
 作者のあさのあつこさんの 生きることへの切なる思いが伝わってくる物語だ。
 
 世間、社会、常識、役割、伝統、常識、ルール、法律、慣習、集団の規則などといった枠組みを重視し、それに順応することを過剰に求める日本社会にあって、原田巧のように、自分のしたいことがわかって、それだけが価値あることで、それ以外に価値を認めないという潔い生き方は、周囲と軋轢をもたらす。
 
 年齢や性や、社会的地位など関係ないじゃないか、という巧。大人はすぐに子どもを上から見下ろす。バカにする。命令する。支配しようとする。
 巧みはそのことを憎む。
 
 
 面白い個性のやつがいっぱい出てくる。
 
 自由に生きる。
 一生懸命に生きる。
 自分に正直に生きる。
 自分の生きる意味。
 自分の能力ぎりぎりに生きていくということ。
 
 そういうことを伝えようとする物語だ。
 
 ジェンダーという枠組みから自由に生きるということ。エンパワメントということ。
 
 そんなことを伝える物語でもある。
 
 友情等と簡単にいうな。
 簡単にわかるな。
 
 信じるとか愛情とか、簡単に言うな。
 
 笑っていても相手のことを憎いと思っているようなこともある。
 
 作者のあさのさんが、自分がかきたいという衝動、自分の才能への不安と自信、などを思ってかいたのだろうと思う。
 
 それは、僕にも、自分が一番気持ちいいことはなにか、自分がみつめているミットは何か、それ以外はどうでもいいことなんのに、囚われているのは何かを考えさせてくれる。
 
 かなりシングル単位だし、野球をする、球を投げる歓びの記述は、自分の〈たましい〉に出会う歓びというスピリチュアルという匂いに満ちた物語だ。
 
 人はわからない。
 意外な力がある。
 
 闇もある。
 
 前を向いて生きてゆきたい。 
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ドキュメント映画『選挙』は、日本社会のダメさをみせつけてくれる! 

2007年05月22 日

映画『選挙』をみた(2007、日本・アメリカ、想田和弘監督)。
 
 私はすでに知っていることばかりだったが、外国の人や、選挙をする側に回って関わったことにない人には、「選挙運動の裏」がわかり、こんなものなのかとあきれ、驚けることだろう。日本の民主主義とはこの程度のものなのかと。
 
 2005年秋、小泉人気にあやかり、地方都市、市議選の補選で自民党の公募で決まった候補(山内さん:地元にとっては落下傘候補)が立候補し当選した。
 地元の保守系議員、その後援会が、応援したからだ。でも、補選だから応援したわけで、次の本番の選挙では従来の応援候補に入れるから、地元に足場のない彼は、次の選挙は難しい。
 実際、2007年春の統一地方選では山内さんは立候補せず、いま彼は議員ではない。
 
 この映画では、自民党系のおじさんおばさんたちの生態がカメラに収まっている。
 
 候補の山内さんは、地元出身ではなく、相対的に若く、政治家的雰囲気もない普通に謙虚でマジメな人(もと切手コイン商の気さくな人)なので、周りはなめている。周りの議員は上から目線。支援者のなかのおじさんたちも偉そうに怒ってばかり。おばさんも馬鹿にした口調。「妻といわずに家内といえ」と、いうような人たちばかりに囲まれている。
 選挙では政策などは何も語らない。本人も語れないし、そもそも、政治運動、選挙で政策など必要ないとわかっている人たちばかり。
 ただ小手先のテクニックで、どうすれば、選挙に通るか教える。つまり、名前を連呼しろ、握手しろ、手を振れ、頭を下げて関係団体を回れということだけ。電柱にも頭を下げろとか。後は周りが運動する。
 当選したら、周りのやつも「先生って呼ばなきゃダメになるかなー」とかほざいている。大物政治家が来ると、手のひらを返したようにみんなぺこぺこ。上の人に失礼があると怒っている。世ガ世なら切腹モノだと。アーーナサケナイ人たちばかり。恥ずかしくて見ていられない。デモこれが現実。
 
 ぼくのきらいな人たちばかり。
 スピリチュアルの匂いのひとかけらもない。
 
 『バッテリー』での巧が、人生で何が大事かを見てそれにまっすぐに生きているとすれば、この映画に出てくる人たちは、まったくその逆で、大事なものがまったく見えていない人たちなので、今の社会の表層の利害だけで薄汚く生きている、という感じ。
 
 
 それが現実だ、そういう人とも接しろといわれても、僕は断る。死ぬまでこんな人たちと関係なく、自分の道を歩いていきたいと思ったね。
 
 映画自体、手法や構成としては正直、面白くなかった。でも一つの手法ということと素材の面白さで、外国では一定評価されているようだ。
 
 それでもこの映画は見ておいたらいい。自民党的なもの、あるいは、日本の政治・民主主義・選挙というもののダメさがよく出ているからだ。

 この映画は、主人公となった人のユニークさがまあまあ出ていてそこは面白い。
 一番僕が気に入ったのは、彼の妻が、選挙期間中、「私に仕事を辞めて専業主婦になれって、支援者の人がいうのよ。でも将来、もし落ちたら私たち、職なしになるわけでしょう! どうしてそんなこといわれなきゃなんないのよ!」と怒るところだ。
ようやくまともな意見や感情にであえたと感じたね。
 これを写し取ったことでこの映画は何とか、まともになった。
 でもね、それなら自民党の候補になんかなんなよ。もう少し自分の人生大事にしろよと思う。でも、主人公の山内さんもあんまり考えていないバカだから、小泉がきただけで感動してるしなー。ぺこぺこばかりしているしなー。こんな人が議員になる。応援に来る有名人議員たち。それを喜ぶものたち。こんな人たちが自民党政治を支えているのか。あーあ。そんなばからしさがあらためてよくわかる映画。

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『ダーウィンの悪夢』

ダーウィンの悪夢  映画評 

06年11月09日

ヴィクトリア湖の巨大魚ナイルパーチをめぐって、開発、貧困、環境破壊をあつかったドキュメンタリー。
 ヴィクトリア湖は多様な生物がいるところから別名「ダーウィンの箱舟」と呼ばれていたそうだ。
 先進国である日本やヨーロッパで白身魚(白スズキ)を食べている私たちは、実は、この問題に加担している。
 ヴィクトリア湖に、50年ほど前に、誰かがナイルパーチという肉食の巨大魚を放ってしまった。そのため、他の魚などが大激減した。
 しかしそのナイルパーチによってヴィクトリア湖周辺では、魚加工工場が立ち並び雇用が生まれた。貧困な地域に産業が出現した。一部大もうけする人が出る。だが、環境破壊が進む。貧困な人々には、その恩恵は及ばない。うじがわくような環境で残飯の干物をつくり、それで食いつなぐまずしい人たち。
 貧困。貧困。貧困。
 運搬業の男を相手にして、売春せざるをえない女性たち。親をなくし、路上で暮らす子どもたち。
 飢え。少ない食べ物を取り合う。

エイズの蔓延。
 危険な粗悪ドラッグをすってごまかす子どもたち。
 内戦で人殺しをした経験を持つ男たち。
 戦争は仕事になる。給料がもらえる。戦争を待ち望む人。
 
 ロシアの飛行機がナイルパーチの運搬を行っている。そのパイロットたちは、家族を養うために働いている。何を運んでいるかには無関心。内戦にも無関心。

セックスワーカーへのひどい態度がいやだった。食べ物を取り合う悲しさ。ドラッグでごまかす悲しさ。
 
 パイロットたちは、武器も運んでいるらしい。しかし政治には触れないようにしている。
 僕はここに、私たち日本人を見た。
 「世界中の子どもたちの幸福を望むが、どうすればいいんだろう。言葉が見つからない・・」というが、
 そんなことをいって、実際やっていることは、悪への加担なのである。
 「生活のため」
 この言葉でどれだけ多くの人が思考停止しているだろう。自分の責任から目をそらしているだろう。
 武器密輸の流れに加担している自分を恥じるべきだ。どうするか。
 その仕事を辞めるべきなのだと思う。
 
 「オレが辞めても誰か他のヤツがする。」
 それはそのとおりだろう。
 だが、「だから構造が問題だ」というような理屈は聞き飽きた。それは正論だが、半面でしかない。
 
 自分の個人の人生としては、辞めるという決断が必要なのだ。
 誰かを搾取するような仕事を辞める。
 程度問題だが、ひどいことから、できるだけ自分の身を引くようなことが、個人にできる大事な選択だと思う。
 その典型が、仕事としての軍人だ。
 それは辞めるべきなのだ。

 

反論があることは承知している。
 でも、汚職ひとつをとっても、末端の人間がそれを担っていたのだ。知らなかったでは済まされない。組織のトップの責任だけを追及してはならない。
 ましてや「命令だった、それしかなかった」などといういいわけはもう通用させてはならない。
 奈良市の不正に長期休業していた職員の診断書を出した医者は「圧力を感じて(ニセの)診断書を書かざるを得なかった」と述べているという。
 
 恥を知れ! ということだ。
 
 こういう人は今すぐ医者を辞めるべきで、刑務所に入るべきなのだ。
 
 恥を知るということが求められている。
 
 それは自分に対しても忘れてはならないことだろう。
 「環境を大事に、地球を大事に、ロハスで暮らそう」
 などとのんきにいっているものは、他方で、自分の加担性、先進国性を踏まえての覚悟を持っていなくてはなるまい。
 戦略としていろいろな仕掛けはあってもいい。
 スローを提唱している辻信一さんなどは、ホンモノの人だとおもう。坂本隆一さんもいい役割を担っているといえるだろう。
 だが、口先だけで、環境やスローをいっているだけのやからが多すぎる。
 もっと自分にできることの枠組みを広げる真摯さが必要だろう。
 そういうことを突きつけるいい映画だ

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スピリチュアリティ

 
 

 やむにやまれず動き出す、スピリチュアルな人

   

「私の市民論」 『Volo(ウォロ)』2003年12月号 

イダヒロユキ
 
 私が今、興味のある生き方は、人生のラストである「死」をいれて、悔いのないような人生(生きる意味のある人生)をデザインして、毎日を生きるというものである。一挙に北欧のようなまともな社会にならないとしても、自分が理想をもって息長く生き残り、人生を楽しみながら自分にできることをやっていく。自分の解放、自分に恥じない生き方をするという姿勢が自分の周りに影響を与え、小さくとも自分の周りでの関係を実際に変えていくことで、それが未来社会の雛型となって、徐々に社会に影響を与え、大きな変革につながっていくという展望に希望がある。そのときの主体が、私のイメージする「積極的な市民」である。
 
 NPOが社会を変える
 
  こうした発想の典型が、NPOによる社会変革ビジョンである。このNPOによる社会変化の一例として、最近来日した、米国のレイプ・クライシス・センター(BAWAR:Bay Area Women Against Rape)の活動を紹介しておきたい(03年10月20日に、NPOのSEANが主催した催しにおいて、レイプクライシス・サイバーズネット関西:RCSNKとBAWARが発表したことを元に筆者が要約)。
 
 BAWARはカリフォルニアで1971年にたった3人ではじめられた、米国初の性暴力被害者支援組織であるが、現在では有給スタッフ7名、ボランティア70名以上を抱えており、活動内容も経験のなかで必要とされるものを増やしていき、今では24時間の電話相談活動、病院・警察への付き添い、子どもの虐待防止プログラム、その他学校・地域での研修、緊急シェルター、自立支援シェルターなど多様なものを抱えている。同種のNPOは、いまや全米で900以上も存在するまでに広がって折り、中には医療施設をもって運営するといった大規模なNPOもある。
 
  ここで注目すべきは、まず必要と感じた者たちがやむにやまれず活動を始め(先駆性)、その活動の中で必要と思われるものへと活動が広がっていったことである。ニーズからNPOの活動は展開される。そうした活動の成功や有効性をみて、他の地域にも同じような活動が広がっていく(波及)。そして同じ課題で取り組む諸団体が連絡を取り合い、連携・協力し、「同盟」を結んでいく。どこでも同じ共通の問題にぶつかることから、それを解決するために必要な制度・システム変更の要求が芽生えていく(問題の顕在化)。そこで、法律・条例制定や改正を目指し、新法(制度)案や改正案を作り、共同でコーディネーターを雇い、ロビー活動を行い、システムを実際に変えていく。
 行政や企業、他の組織などとの粘り強い交渉は、実績の累積とともに信頼関係を培い、実を結んでいき、地域のシステム全体が変わっていく。たとえばBAWARのような地域のレイプ・クライシス・センター(RCC)は、地域の性暴力被害緊急対応チームの重要メンバーになり、病院や警察との協力関係をもつようになり、警察に通報された事件はすべてRCCが支援することとされ、弁護士・警察・行政がRCCに相談に行くようになっている。
 
 
  つまり、ある課題のNPOは、その問題においては最先端においてもっとも現実・現場をよく知っている経験豊かな「専門家」であり、その問題に心を砕いている熱心な者たちであるので、あらゆる問題を平等・標準(平均)・多数の視点で扱う行政(しかもその職員は必ずしも専門性や経験や情熱をもっているわけではない)よりも、有効/良質に活動をすることができるのである。
 したがって被害者への対応(対人サービス)といった微妙で高度な活動は、NPOの方がむいている。行政はそのことを認め、協力関係を築いていく。制度・法律の制定・改正においても、現実をよく知っているNPOの意見・経験を反映させることでよいものに変化していく。そうして社会システムは当事者の権利がより守られる方向に改革されていくのである。
 
 スピリチュアルな人
 
  まとめるなら、教育、労働、環境、マイノリティ、特定グループ、人権擁護、政治、国際協力、宗教、異文化交流、アートなどあらゆる方面(社会問題)でのNPOが存在しており、それらが社会システムを変えていくために実践を積み重ねて、積極的提案を行うことで、社会が現実的に変わっている。そうした変革の展望の出発点は、ある社会問題にいち早く気づき心を砕いて行動する少数の人たち(スピリチュアルな主体)である。
 
 NPOはけっして行政の下請け機関であってはならない。先行研究が示すように、NPOには先駆性(社会的実験)、自発性、独立性(非政府、他の組織から自律)、多元性(多様な選択肢を保障するという豊かさ)、批判性(行政や企業のチェック)、人間性(心を込めた質をもつ特性)、非画一性(個性/多様性に対応)、民主性(市民の参画、当事者尊重)などがあり、それらは社会にとってNPO――企業、行政に対する第3のセクター(ボランタリーセクター)――が必要である事を示している。
 語るだけ(心痛めるだけ、祈るだけ、瞑想するだけ、投票するだけ)では変わらない。身近なところから変えていくのがNPO的実践であり、それを行う人が「積極的な市民」である。
 
  その他の分野でも、新しい、希望を感じられる運動には、こうした〈たましい〉をもった個人の声を大事にする、そしてみずから動いていくというNPO的な――私の言葉では〈スピリチュアル・シングル主義〉的な性質が共通に見られる(拙著『スピリチュアル・シングル宣言』明石書店、参照)。
 
  人権意識を高める学習運動においても、ワークショップ型学びが、〈スピ・シン主義〉の実際の出現形態となる。〈スピ・シン主義〉とよく似た発想の白井俊一『人権相談ワークショップ』(解放出版社)はそのあたりをうまくまとめている好著であろう。個人の内面変革と社会システム改革の統一を目指す学び自体が、NPO的活動/性質であり、かつ「新しい運動」の重要な一部なのである。

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 『クーヨン』04年10月号 

「men’s voice cafe&eacute 」 

今月のマスター:イダヒロユキ
 
 過労死しないか心配。どうすればいいのかわからない。
 
 来店客 
 
夫(38歳)は朝7時に家を出て、帰りは夜の11時、くたくたに疲れていて家では不機嫌になっています。妻である私(35歳)は、パートをしながら家のことをひとりで担い、家事や育児分担などは夫に一切求めずがんばってきました。夫の機嫌を損ねないように一生懸命尽くしてきました。疲れている夫に「働きすぎて体を壊さないでね」と声をかけ、気遣っていますが、夫は「そんなことを言ってもどうしようもないんだ! 俺がいないと仕事がまわらないんだよ。クビになったらどうするんだ」と語気を荒げて怒ります。過労死が心配ですが、どうしたらいいかわかりません。夫婦の関係もなんだかうまくいっていない気がします。
 
 マスター 
 
この状況はつらいなぁ。彼は余裕がなくなっているんやろね。現実はホンマにキツイから、会社はぎりぎりまで人を削って責任ばっかし負わせとるんやろなあ。彼が「俺がいないと仕事がまわらへん」というのもホンマやろねぇ。あんたもそれがわかるから、どうしたらいいのかわからんよーになって、神様に「どうか過労死など起こりませんように」と祈るしかないようになってるんやろなぁ。わかるわ。どんづまりで、しんどいなー。
 
 まあ、その上でいうんやけど、考えられるとしたら思い切って考え方の枠を広げてみるちゅうのもあるんちがう? 僕は、男女は平等で当たり前やとおもてるけど、そこには、男ももうちょっと枠から自由になりーやという意味があるんよ。
 
 彼、38歳やろ。もう15年以上も働いとるやんか。それでやで、65歳まであと27年間も走り続けるんか、ゆう話や。彼にゆうたってほしいんや。人生、1回やでって。1つの会社にエネルギー全部とられてしもたらあかんでーって。仕事も大事かもしれへんけど、健康を損ねたり、死んでしもたりしたら後悔しか残らへんで。家族も泣く、ちゅーねん。
 
 たとえ病気にならへんかったとしても、40歳代、50歳代の時間、充実してるか、ゆうこっちゃ。アリとキリギリスやないけど、今ガマンして65歳から妻や子どもとの時間や自分の趣味を大事に味わおうと思ても遅いわけや。自分が元気な40歳の時間、子どもが10歳の時の時間は手に入らんねんからな。
 
 せやから、いっぺん、彼に「あんた、人生でホンマにしたいことしてる?」って聞いたってーや。「ちゃんと家族のために働いとるやろ」とかいう決まりきった答えが返ってきたら、「ちゃうんねん。あんたが自分の心の奥底をみつめて、ホンマにホンマに、ホンマにしたいことの話をしとるんよ」ってゆうたりーや。
 
 そんな理想主義みたいなことゆうても無理やって、また最初の話になるわな。そのとき、仕事を辞めるゆう選択肢を入れて考えたらええんやでって、ゆうたってください。家のローン、子どもの将来、老後の心配、次の仕事のこととか、いろいろあるやろーけど、定年退職するまで同じ会社で働き続けることは避けようがないと思うのが、間違いやでって。
 
 何も明日すぐに辞める、ちゅうようなことをゆうてるのと違うで。そういう大きな発想で、自分の人生の全体のバランスを考えたらどーやちゅーこっちゃ。3年後に会社を辞めるとか、考え出したら、みな元気になるでー。そういう視点がないと、過労死・会社人間は避けられへんで。大事なことは、金や肩書きなんかとちごてな、今、自分がどう生きているか、笑ったり遊んだり、周りの人にやさしくできているかみたいなことちゃうんかってことや。
 
 これをあんたが言い出すゆうことは、「夫婦ワンセットでとらえて、男性(夫)が家族を養うのは当たり前」ゆう枠をはずすゆうことでもあるんや。あんたも覚悟を持って、貧乏になることも含めて、人生考え直すってことや。今の枠内で、妻役割がんばったり、夫に尽くしたり心配するだけが愛情ちゃうで、ゆう話や。でもな、女性が自由になったらええように、男性も自由になったらええんや。それが対等と言うことやと思うし、そんなことが話せる夫婦になったら、また関係も変わってくるんとちゃうやろか。まあ、他人の無責任な話やけど、参考にしてみてーや。
 
 
  
 
 

フェミニズム


 ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの:情熱の政治学』新水社、2003年

  伊田広行(『はじめて学ぶジェンダー論』著者)
 日本女性学会誌『女性学』 掲載 元原稿 
 
私が好きなフェミニストを今2人あげるとすれば、北原みのりとベル・フックスだ。勢いと〈たましい〉を感じるから。ベル・フックスさん(以下敬称略)は、1952年生まれのアメリカの黒人フェミニストで、「白人・中流以上階層女性の問題だけを取り上げる主流フェミニズム」ではないものを求めてきたラディカルな人。その彼女の主張がわかるやさしいフェミ入門書が『フェミニズムはみんなのもの』(原著2000年)である。フェミ叩き・フェミ嫌いが横行する中で、実は多くの人はフェミ自体を知らないので、手軽に手渡せるものがほしいと思って、ベル・フックス自身が自分で書いたものだ。すべての世代の女性と男性にフェミニズムってこうなのよ、あなたのものよ、「未来を開くフェミニズム」にしていこうよ、と訴えている。
 
 私は、1998年に雑誌『We』に堀田みどり碧さんが紹介していたものを読んでベル・フックスに興味を持ち、その後間接的にはその名前と主張の概略を目にしていたのだが、ちゃんと読んだことがないままになっていて、この『フェミニズムはみんなのもの』でようやくその香りを感じることができた。そしてかなり好きになった。それは私の〈たましい〉に響く匂いが感じられるからである。あることへの「感じ方」といったものは、もうそれは体臭に似ていて、それが似ている人に私はほれ込むのだが、ベル・フックスにはそうしたものを感じた。
 
  どういうところが魅力かというと、自分の狭い専門分野の発想や物言いに縛られておらず、労働者階級も含めた草の根の運動の中で鍛えられたバランス感覚があるところがそうだとまずいえる。
 
 米国、日本を問わず、学者研究者というのはどうしても、知らぬ間に専門用語で学者っぽい言い回しになってしまいがちだ。社会運動にも参加しない人が多い。だから観念的になったり、ブレることが多い。いいものを書いても学問スタイル的すぎると多くの人には届かないが、そのことに無自覚な人もいる。「だからどうなんだ」となるとだめなものが多い。CRのような学びと自己変革の場というより、知識を得る/与えるエリート的なものとなっているような「ジェンダ―論」をやっている大学もある。社会が男女共同参画だといい、企業の中でのし上がることがまるで女性の権利の獲得であるかのような風潮がある中で、ついそっちにひっぱられてしまう人は多い。嫌われることをいいたくないようになる。保守派も含めてだれもが認める「男女平等」はいえても、「過激」なフェミニズムの主張をリアルに展開する人は少ない。マスメディアも、真のフェミニズムには関心を示さず、もっぱら、大都市に住んでいる裕福な人の――米国なら白人の――、しかもおうおうにして美人の、特権を持った高学歴エリート女性たち――彼女たちは男性の賞賛を浴びようと媚びるのがうまい――の非政治的な主張を、フェミニズムを代表するものとみなす。
 
 だがベル・フックスは、そのような傾向に鋭く反発し、まずエリート学者や企業で出世するような上昇志向の女性たちが「フェミニズムの言葉」を用いることを批判する。そうした権力を求める「パワー・フェミニズム」は、真のフェミニズムではなく、逆にいまの「白人中心で家父長主義的な資本主義」を裏側から支えるものになってしまっていると批判する。つまり彼女は、現存する制度の枠内での(特権を持っている)男性との平等だけを運動の目的にしようとした改良主義的フェミに反対し、もっと広く、差別、搾取、抑圧、暴力をなくし、「システム変革をめざす革命的な運動」としてフェミニズムをとらえ、そのようなものにしようというのだ。貧しい女性の具体的な情況に運動の基礎を置かねばならないという。
 
 その文脈で、「専業主婦から働く自立した女へ」というようなテーゼは、もともと貧困ゆえに働かざるを得ない労働者階級の女性をみていない、働いたから解放されるのではない、と主張する。もっともだ。
 
 これは日本の文脈で言えば、たとえば「女性の中の成功者」が審議会などで「女性の立場」と称して役人が予想する範囲内の穏健な発言をいちおうしているような状況は、まったくフェミ的でないということになる。またパート労働問題を射程に入れず、むしろそうした低賃金不安定雇用を前提として、経済や組織運営や政治権力を語るような主張は、まったくフェミとはいえない、ということになる。
 
  次に、ベル・フックスは、以上のような視点をベースに、今の性差別的で暴力的な社会を支えているのは男性だけでなく多くの女性もそうだと批判する。フェミニズムは女性の連帯――シスターフッド――を歌い上げるが、それは女性だから自動的にみなが仲間というのではなく、女性の間での違いを尊重し、ともに抑圧・差別と戦う中で培われるものだという。男女ともに、「内面化された性差別」と対決するような姿勢(コンシャスネス・レイジング)がいるという。犠牲者とだけみるのでなく、階級、人種の視点なども入れて、女性が他の女性を支配している場合にそれと闘うことで、シスターフッドは力を持つと。そして、今のひどい社会と闘う点で、男性もともに戦う同志になりうるとし、男性敵視論にこだわるのは、生物学的決定論(本質主義)になっている点で理論的に誤りだし、運動としても、フェミニズムを「男嫌い」と決め付ける保守的メディアの宣伝に加担してしまっているとする。だから女性の解放に求めるものを男性にも求めるという立場をとる。
 
  こうした彼女のスタンスは、男性でありながらフェミニストである私にはとてもまともな主張だと感じる。私は「勝ち組指向」であったり「フェミニズム嫌い」であったりする権力を持っている女性がきらいで、そのことを友人のフェミニストにいったとき、「伊田は実は女嫌いなのね」と言われたことがある。男性である私が、何であれ女性を批判すると、「今の社会で女性は劣位にあるし、男はもっとひどいことをしている」という文脈で、やっぱりわかっていない、というようにとられたのだと思う。でももちろん、私は権力をもっている男性もきらいだ。この点は微妙な問題ではあるが、ベル・フックスのいうような文脈で理解しあえたらなと思う。
 
  またベル・フックスには、フェミニズム運動の退潮に的確に危機感を持ったうえで、それに対処する方向を、希望の感じられる言葉で伝える力がある。この点も彼女の大きな魅力だ。米国でも日本と同じく、保守系言論人を中心に、フェミニズムは終わったとか、フェミニズムは間違っているというバックラッシュが繰り返しあり、また大衆的には若い世代を中心にフェミニズムへの無関心が広がっている。
 
 それに対し、ベル・フックスは、真の魅力的かつラディカルなフェミニズム運動の再興が必要だという。フェミニズムが力を失っているのは、政治信条は関係ないという、いい加減な、うわべだけの「フェミニズムと呼べないようなもの」がフェミニズムと思われているからだとみる。したがって、運動内容としても反暴力・反権力的なラディカルなものになること、またそうしたフェミニズムの魅力、その解放像をわかりやすく伝える手段がいることを熱心に訴える。たとえば、フェミのメッセージを正しく伝えるような、雑誌の広告や交通機関の中吊り広告やテレビCM やTシャツや車のステッカーや絵葉書や看板やラップミュージック、子どものための本、録音テープなどを考えようよって。つまり彼女が求めているのは、フェミニズムの主張のレベルをよりわかりやすく、かつより高くしていく中で、今のひどい差別社会をよりよきものに変革していく闘いの中心的な武器にフェミニズムを鍛え上げていこうということだ。そうした高い志が、この本にはあふれている。
 
  その「高い志」にかかわるのが、「スピリチュアリティ」への言及である。日本でフェミニズムや人権論が論じられるとき、この点に触れる人はほとんどいない。だが、ベル・フックスは、キリスト教などの既成宗教の性差別体質への批判を踏まえたうえで、それでもフェミニズム的なスピリチュアリティを伝えることの重要性をいう。それだけでなく、彼女がフェミニズムを「フェミニズムが目指すのは、支配をなくし、自由にあるがままの自分になること――正義を愛し、平和な人生を生きられるように、私たちを解き放つことである」などと歌い上げるとき、そこには、スピリチュアルな魂の匂いがある。
 
 私はこの本では特にレズビアンやセクシュアリティを論じた16章に、スピリチュアルな意味での格調の高さを感じた。そこでは、レズビアンへの深い共感が示され、どこかの高みからセクシュアリティの点で相手を非難することの傲慢さ、女性は自分が幸せになるために男性に頼る必要も縛られる必要もないこと、性差別的な男性に欲望を抱かないフェミニスト女性こそが男性には脅威であることなどが示された。彼女のフェミニズムが深い質であることが伝わる章であった。
 
  その他、詳しく紹介する余地がないが、彼女の主張には、家父長制を見抜き「批判的意識」を育て闘い方を学べるフェミニズム教育(学校設立)の提起、体験だけでなく自覚と選択を通じてフェミニストになるというレベルでフェミニズムの質を階級、人種、ジェンダーの総合的視点から深くとらえていること、中絶の権利保障を含めた、セクシュアリティにおける積極的な性的自己決定と性的欲望肯定の議論――これは北原みのりの戦いなどと重なるところであろう――、ダイエットに関わる「美」について、自分が自由になり、自分のからだをそのまま愛することができるようになるフェミへと提起している点、DV・虐待問題をメディア的な表面把握にとどめるのでなく、戦争、軍事優先主義、青少年の暴力、人種差別の暴力、ジェンダー的子育てといったすべてとつなげて捉え、大人たちが非暴力的な育児・教育法を身につけるよう提案する点、家父長制的ではない、新しい対等なパートナーシップの必要性の提起、フェミニズムが生活の隅々にまで行き渡っている具体的かつ豊かな未来像を示してフェミニズムの影響力を広げようという提起、など多くの魅力がある。
 
 「フェミニズムとは、性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくす運動のことだ」、「フェミニズムが目指すのは、支配のない世界、各個人それぞれが相手を思いやる精神が隅々にまで行き渡った世界に生きること」、「私は、フェミニズム運動はあらゆる形での暴力をなくすという高い目標を持つべきだと信じる」という簡単ではあるが重要な考えを伝えるすばらしい入門書である。私は日本では、これだけのイキのよさと「スピリチュアルな匂い」をもったフェミニズムの本をあまり見たことがない。ぜひ一読をオススメしたい。

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 「ジェンダーフリー概念を捨て去るという退却戦略は有効か?」

 

日本女性学会 ニュースレター 101号原稿 05年1月2日 
イダヒロユキ 

 『We』2004年11月号や同時期の研究会などで展開されている、ジェンダーフリー・バッシングに対する「ジェンダーフリー概念を使わなければいい」という上野千鶴子さんや一部論者たちの意見に対しての私の意見を少し述べます。
 
そこでは、ジェンダーフリー概念をめぐる戦いは、言葉使用を巡る象徴闘争、名目上の戦いにすぎず、意地の張り合いに過ぎず、バッシング派と推進派のどちらが勝利しようと実際の女性の行動や運動は変わらないので、この戦いに乗らなければいい、ジェンダーフリーという用語を捨てたらいいというようなことが指摘されています。またジェンダーフリーという概念が、バーバラ・ヒューストンの論文の誤読に基づくものだということを根拠にして、この概念を使うべきでないという意見もあります。
 
まず私がいいたいのは、前号でも述べましたが、外国人の誰がどういった、いっていないというのは権威主義の発想だということです。(同じことは、政府・官僚の答弁についてもいえます。)
大事なことは、私がどのような意味で使っているか、日本の運動の中でどのような意味で使われているかです。「誤読だ」ということをもって何かがいえるというのはとても狭いアカデミズム的な姿勢です。そもそも誰か一人の最初の使い方にだけ正当性があるということはいえません。細かい議論は省きますが、どこを見ての議論かが大事です。
 
次に、私がどのような言葉、概念を使おうと、反対のために反対する人から邪魔されたくない、と言いたいとおもいます。文句を言われたからある言葉を使うのを引っ込めるということが、本当にどうでもいい、名目的な象徴の戦いに過ぎないといえるでしょうか。

 
というのは、今、天皇制や戦争をめぐってつばぜり合いが続いています。日の丸・君が代の押し付けで処分があるとき、保守派がうるさく言うからと、日の丸を掲げましょう、君が代を歌いましょう、抵抗をやめましょうというのでしょうか。むしろ思想の自由を各人が表明するべきときなのではないでしょうか。そこをめぐって、自由に意見を言えるようにしようというとき、日の丸などをめぐる議論や言動の対立は、どうでもいい戦いといえるでしょうか。

 
性教育では、この教材を使うな、ペニスやヴァギナという用語を使うなという圧力がかかっているときに、そういわれたから使うのをやめましょうとなるでしょうか。ジェンダーフリーについても、一部では、女性センターなどに「ジェンダーフリー」という用語が入っている文献をすべて撤去するような動きがあります。講演者の人選にもジェンダーフリーを主張している者を選ぶなという圧力があります。講演者に「ジェンダーフリー」という言い方は自粛していただけますかという要請もあります。
そういうときに、上記の「ジェンダーフリー概念を使うのをやめよう」という意見は、どのような作用をもたらすのかという視点が大事です。
 
私個人はこれまでジェンダーフリーという用語は積極的には使ってきませんでした。しかし自分が使ってこなかったから安心ということで、ジェンダーフリーをつかってきた者たちが排除されていくのを横目で見ているだけでいいのかという思いがあります。歴史教科書にも出てきた、「最初は共産主義者、次に自由主義者が排除されていった」という事実をもう忘れたのでしょうか。

 
つまり、今、「・・・をしろ」「・・と考えろ」「・・に賛成しろ」という圧力があり、それとの関係で、「逆に・・・を言うな」、「・・・をするな」という圧力もあるのです。何がしさの「正しさ」の押し付けが現にあるのです。その「正しさ」を基準にした言葉狩りや行動狩り、言動チェック、監視体制が始まっているのです。
それに従う人が増えているときに、それに反抗する人がそのスタイルを表明すること、自由な意見表明の大切さを訴えることはとても大切と思います。若者・生徒・学生一人一人に、大人はどのような気概で生きているのかを見せられるかどうかが試されている場面が続いているのです。多様性という概念を本当に伝えることができるかどうかの境目です。口先だけの民主主義理解のメッキがはがれるときです。
 
「ほうっておけばいい」といいますが、ほうっておけば向こうはさらに図に乗って、法律や制度で周到に自分たちを正当化していき、こちらの自由はもっと少なくなる可能性が高いと思います。だからこそ、私は、どんな言葉を使ってもいいじゃないですかといっていきたいと思います。
「ジェンダーフリー」をやめて、「男女平等」にすればいいといいますが、政治的な戦いは、一つ後退すると次は、ジェンダー(ジェンダー・センシティブ、ジェンダー・バイアス)やリプロや性教育や男女平等や中絶という用語を巡っての戦いになるのです。

すでに指摘されているように、「男女平等」概念だけでは、フェミニズムを通過しない男女性別特性論レベルのままになるからこそ、リヴもフェミもさまざまな概念を豊かに展開してきたのです。だからこそ、各人が男女平等もジェンダーフリーも豊かに使っていけばいいのです。
ジェンダーフリー概念は確かに曖昧な概念ですが、ヘンな使い方には適切に否定しつつ、自分のなかの積極的な意味を前に押し出すことがいると思います。ジェンダーフリーに賛成か反対かの踏み絵を迫られたとき、その内容を巡って闘いつつ、私の自由を守るという意味で「賛成だ」とはっきりいうことが要るのだとおもいます。

そしてその戦いを広げ、逆に相手方一人一人に、どういう意味でそういっているのかを突きつけて議論をしていくことがいるのです。私なら、シングル単位論を展開します。これならジェンダーフリー概念が単なる意識の問題に解消しているとか、アファーマティブ・アクションにつながりにくいという心配もなくなります。
 
ヌード・ハダカ規制において、とにかくハダカがあるとダメ、そんな本を撤去しましょう、出版禁止としましょうというようなことは、思想統制のおぞましい社会といえます。同じように、内容に関係なく、「ジェンダーフリー」という言葉が入っている本はダメ、そんな文献は置かない、閲覧のところから撤去するというのは、思想統制社会です。そこをめぐっての闘争が、どうして空中戦でしょうか。ほうっておくとは、言いなりになって本を撤去することでしょうか。

 
  以上の基本スタンスをおさえて、ようやく「戦略」の話ができます。
男女平等への同じ思いをもつフェミニストのなかで、以上のような基本を押さえた上でも、今の状況の中で、ジェンダーフリーという概念は守りにくい「陣地」なので退却しようという意見があります。性別秩序自体の廃棄という究極状態を巡って戦うときではないので、今は現状を変える次の一歩として、「究極像をイメージさせるジェンダーフリー」はやめて、個人の選択の尊重というラインまで下がって闘う時期ではないか、そのプロセスこそ大事だという意見です。
 
この意見はわかります。本当にうまく退却できて、新たに戦いに有利な陣地を作って、そこに犠牲を出さずに「転進」することができるならいいとおもいます。でもまず上記したように「ジェンダーフリー」だけの退却ですむかという問題があります。それができるぐらいの力量があるなら、ジェンダーフリーという前線でも僕なら戦えるという感覚があります。ただ行政という公的な場所では確かに退却するのも一つでしょう。

問題は、単なる退却でなく、このことを通じてみながジェンダーフリー論が目指していた高いレベルのフェミニズム、ジェンダー論を語れるかどうかということです。ですから、実はジェンダーフリーという言葉をめぐる問題は、フェミニズム側の質と量の問題だったのです。程度の低い反論などいつの時代にもあります。フェミニズムをめぐってはこれからも難しい議論が続くでしょう。そのひとつひとつに豊かに意見を構築していくことこそ大事なのです。
 
そしてその議論の中に、たとえば私のような「究極的理想像やラジカルなことをいうような論者」がいてもいいと思っています。「そういうことをいうやつがいるから迷惑だ」というのは危険な発想です。「そういう意見があってもいいじゃないですか、でも私はこう考えますよ」というスタンスを皆がもてればいいなと思います。そうしないと運動は常に分裂します。それに私はシングル単位的な関係は、部分的にならば今すぐ作れると思っています。
 
なお、フェミニズムの精神を伝えるイキのいい入門書として私は、サンドラ・ヘフェリンの『ドイツ女性 自立生活の楽しみ』(カッパブックス)と、ベル・フックスの『フェミニズムはみんなのもの』(新水社)をあげたいと思います。こうした勢いを持って、バッシングの波を押し返すのは楽しい作業だとおもいます。

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 ジェンダーフリー・バッシングについての私の個人的なスタンス

日本女性学会 ニュースレター 100号原稿 04年10月20日
 
 
 伊田広行
 
 ジェンダーフリー・バッシングについて、紙幅がないので、結論のポイントだけを書く。まず、バッシング勢力からの無理解、誤解、意図的な矮小化、さらには歪曲やウソなどがあるのはご承知のとおりである。どんな運動や主張にも不完全なものや単純化しすぎたものが混ざることは避けられない。そこもバッシング派から突かれている。そのとき、どう対処するかで、意見は分かれる。
 
  私の個人的な考え方は、他者の「ジェンダーフリー」の理解や定義の上に、それを擁護しようとするのではなく、「私はこのように使っています」と自分(たち)独自の定義や理解を示して、むしろ積極的にこの概念の有効性を訴えていけばいいということである。「ジェンダーフリー」を使わずに「男女平等」や「ジェンダー」を使えばいいという自粛スタンスは、そのうち、「ジェンダー」も「リプロ」も「性教育」も言葉狩りされるというように、とめどなく後退を余儀なくされるであろう。私がどんな服を着るかを指図されたくないように、私の言葉(概念)使いをどうして他者から指図される必要があろうか。過去の理論的蓄積を、どうして単純な意見によって押し流される必要があろうか。
 
 具体的には、あなたはどの本を読んで「ジェンダー(フリー)」をそのように理解しているのかと問い、私はこの本、この論者の主張に基づいているといって、自分の自信のある土俵に議論をもっていくことであろう。
 次にそれに対しては、教育や公的な場所においては、そのような偏向した個人的な意見をいう権利はなく、正しいことが教えられるべきであるという反論がくるだろう。では、「正しい」「偏向」とは何か。教育の中立性・客観性とは何か。そのような、昔からの議論を、再度自分なりに消化して説明できることが必要であろう。社会科学の素養を少しでもつめば、ある近代的な概念の相対化の姿勢と、その上での各人の思想の自由を譲ることはできない。そこを保障せずに、何がしかの「正しさ」の押し付けという幼稚なスタイルをとるとするなら、それは学問自体の放棄になる。
 
 その上で具体的には、男女平等、男女共同参画、人権尊重、差別(偏見)反対、家族尊重という「相手方も認める用語」を、自分のジェンダー理解、さらには、エンパワメント、多様性、暴力と非暴力、権力・支配、自己決定、家族単位とシングル単位、スピリチュアリティ、性的少数派、セックスとセクシュアリティ、恋愛と結婚、結婚と離婚、アンペイドワーク、正常と異常、本質主義と社会構築主義、伝統と差別、区別と差別などの理解と結び付けて豊富に展開するのがいいと思う。私のこの主張のどこに、あなたは反対なのですかと自信を持って言っていけばいい。圧倒的な豊富さと深さによって、私(たち)の主張の真髄を伝えていくこと。その場があらゆるところに開かれているということである。私たち一人一人は常に、歴史の1ページ1ページを書く前に立たされている。戦前に戦争体制に迎合する人が増えていったときにも、それとは異なる選択をした人はいた。
 
 
 なお、私のジェンダー(フリー)概念の理解は、拙著『始めて学ぶジェンダー論』(大月書店)に書いてある。バッシング派の方で反論のある方はそれを読んでから意見を言ってください。

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田辺聖子さんのフェミ的作品『言い寄る』『私的生活』

2007年03月22日

昔、友人が、田辺聖子、いいよ、面白いよーといってた。 
 信頼できる人のいうことだから、間違いないだろうと思いつつ、すぐには読めなかった。 
 古本屋で少し買ってみた。 
 でも忙しくて読まずにいた。
 
 そしたら別の友人が、田辺聖子にハマった。 たくさん読んで、オオウケ。 

 で、僕の好みも知っているので、 『言い寄る』がおもしろいよー。
で、そのあと、『私的生活』 

 この2つは続き物だ。 
 で、読んでみたら、本当に面白い。 
 で、で、その続きで3部作の最後の

 『苺をつぶしながら――新・私的生活』(講談社文庫)

 
 この3作、全体で、ほんとうにフェミになっている。 
 1970年代末から80年代初頭といえば、まだ、日本じゃあ、DVという概念は広がっていなかった。 
 ウーマンリブのあとの時代で、まだフェミニズムという呼称でさえ十分にはひろがっていなかった。 
 そんなとき、田辺聖子さんは、
 男女カップルの関係性を観察し、恋愛、セックス、ケッコンというものをうまく描いている。
 
 元気な女性だけれど、一人でいられなくなる気持ち、「迷惑かけたらあかん」とか、いろいろ、結婚のルールというものに、知らぬ間にからめとられてしまう様子。女ジェンダーの問題といったものを描いている。 
 主人公・乃里子と中谷剛との、丁々発止に見えて、微妙な権力関係が徐々に浮き彫りになる。フェミ視点じゃないと、わかるわかるで終わるかもしれないが、フェミだと、楽しい丁々発止じゃない。この微妙さが適切に書かれていて、すごい。
「男と女のどうしようもなさ」なんかじゃない。
 
 DV関係を先駆的に描写している。
 そこに出てくる剛という男は、DV男である。
 その描写がことごとく、DVである。でも、その剛と結婚してしまう主人公は、その剛のいいところもみえている。ダメだけどいいところもある。 
 でも主人公は、離婚する。
 で、見えてくること。 
 その感覚は、シングル単位感覚! いや、ほんとう。
 
 いま、僕は、シングル単位とかいっているが、僕がそんなことを言うずっと前から、シングル単位感覚で面白く豊かに書いている。 
 一人で生きるということ、離婚や結婚ということを考えたい人には、とても示唆に富む本だとおもいます。
 金持ち一族のいやらしさをうまく描いてもいます。 
 
 本当におすすめします。
 みなさん、お忙しいでしょうが、旅行に行くときに持っていく本、あるいは、毎日通勤電車で少しずつ読む本として、優先順位を上げることを強くおすすめします。
 
 人生は、自由なんだよね。ほんとうに。その感覚に目覚めるとき、スピリチュアルな感覚だと思っています。 
 そういう自由、ということと、どうしてもぶつかりやすくなる、ケッコンという制度・枠組み。 
 結婚して子どもを持って、普通の生活して苦労してこそ一人前とはいえない。 
 でも、結婚したり、子どもがいたりしても、そこから、この本の第3巻にあるようなシングル単位感覚に至れたらいいね、と思います。
 
 ボクからあなたへの応援歌として、推進する本。
 
 ★★★★★★★★★★  
 毎日の楽しみの夫婦生活は、私をいけにえにして行われている というような気づき。
 
 すまんゆうてるやないか すきやから というような、理屈。 
 仲直りのきっかけつくりは、私(女)の役割という気づき。それがイヤじゃなかったけど、あるとき、めんどうくさくなった。 
 セックスの仕方も、女性を子うさぎのように扱うという気づき。
 
 いい石鹸とうっとりしてたら、剛が「当たり前や、3000円もするねんから」と。 
 妻を甘やかしすぎた、という男の感覚。 
 だましだましの生活に疲れました。
 
 独占したい気持ち そうすると結婚しかない  
男の仕事は結局、後で金を払うこと  
お茶を入れる これは女の仕事
 
 いろいろ。3巻は、シングル単位感覚の箴言集。小説としては、1,2巻が面白いかも。
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「女」の生き方、2つの道:認め合ってエンパワメント

 

070429

専業主婦と歌手志望の女性の出会いと交流:TV『一期一会』(NHK、2007年4月放送)
 
 20歳のまゆみさんは、結婚して、夫・子どもがいて楽しい、その楽しさを伝えたいと番組に応募。
 20歳の歌手志望のかえでさんは、音楽がすべてで、結婚はいらないと考えている人。
 その二人が出会い、お互いの生活を見て、話し合う番組。
 
 どうなるのか、少し心配した。お互いが否定しあわないか、逆に相手を見てうらやましくなって、自分の道に自信をなくして自己否定的になってしまわないか。
 
 でもよかった。いい番組になっていた。お互いが否定し合うことなく、また自分の道に自信をなくすことなく、励ましあう感じになっていた。
 
 かえでにとって、歌はすべてで、お客さんの顔が見えるところでうたって、つながっていきたいと強く思っている。今も充実しているし、将来、カナダにいってライブハウスで鍛えられたいと思っていた、だから英語の勉強も苦にならない。めっちゃがんばっている。そんな彼女にとって、結婚は、自分の夢を捨てることのように思える。結婚というと、自己犠牲で、責任を持たなくてはならず、家事や育児におわれてしまうこと。恋愛はOKだが結婚は自分を捨てることのように感じる。だから20歳で主婦って、どうなんだろう、自分にはできないと思っていた。自分がかわいい、だから自分のために生きたい、家族のために犠牲になりたくないと。
 
 まず、まゆみが、かえでのライブを見にいく。かえでは輝いている。メジャーじゃないけど、売れるとかそんなことめざしていない。うたうよろこび。小さな会場でお客の顔が見えてつながれる喜び。
 
 家事や育児に追われているまゆみは、久しぶりにそういう派手な場所に行った。圧倒された。カッコイイと思った。そして自分にも夢があったことを思いだした。バスガイドになりたいと思い、念願かなってバスガイドになったのだった。好きな仕事だった。でも、子どもができて結婚することになり、2ヶ月で退職。だから、かえでが目立ってパフォーマンスしているのを見て、少し動揺する。正直、うらやましいと感じた。主婦は裏方だ。表に立つのではない。でも、いまの自分は主婦で、本当に幸せだとも思っている。子どもと公園にいると1日中遊んでいられる。こうした派手な場所は自分の居場所じゃないと感じた。家庭こそが私の居場所と思った。
 
 つぎにかえでがまゆみの家に行く。まゆみの生活の一端を垣間見る。まゆみはたのしそうだし、さすが主婦、母親って感じ、で慣れている。かえでは最初とまどう。自分が一日中、ずっと家事などをするのはストレスだなと思う。まゆみが2日家を離れていると、たまった食器の洗物や洗濯がある。夫はいい人だが、大学をすぐに辞めぶらぶらしているような人で、できちゃった結婚してからはがんばって働いている。でも給料は17万円ほどで安い。貧しいけど助けってがんばっている、仲のいい夫婦だ。
 
 かえでは二人に聞く。「お互いを信頼しあってる?」
 どうしてそんなことを聞くかというと、いままでのかえでの恋愛経験では、男ってつきあうといろいろダメなところが出てくるし、裏切られたというようなことが何度もあったから。信じるってどうしたらできるのか? 何を根拠に信頼できるのか?結婚といっても形式に過ぎず、人の気持ちって縛れないのだから、絶対的に信じられるっていえるのか?
 
  まゆみはいう。信頼していると。夫のほうも、働いてきた給料全部渡すんだから、そういう意味で信じていると。口が達者なインテリ系ではない二人。エリートではない二人。でも、それなりに信頼感があり、がんばってやっていこうとし、愛情を持っている。
 
 それを見て聞いて、“信じあっている二人”というリアルな実例を感じて、かえではなにか幸せな気分になった。 「心から信じあえるという事実がある」ということが感動だと。
 
 二人は微笑み合って別れ、お互いの生活に戻っていく。でもお互いが、相手の幸せを願い、自分の夢に向かってがんばろうという気持ちで終わった。
 
 友情? まさに一期一会。
 
  まゆみの将来は平穏ではないかもしれない。これからいろいろあるだろう。心乱れるときもあるだろう。でも、20歳のあの時点において、私は一生懸命生きていた、といえるだろう。
 
 かえでも、今後いつまで夢を追っていられるか。それはわからない。当面はがんばれるだろう。強烈な意志を持ち、とてもがんばっているから、そこそこ望んでいるものを手に入れられるだろう。でも挫折もあるだろうし、ゆれることもあるだろう。でも、でも、私は生きている!という実感を持って彼女は歩み続けるだろう。
 
 そうした二人が、出会い、異質なもの同志が認め合う時間をもてたこと。番組に出たこと。いっそう、自分というものがわかったこと。そしてかすかな、友情のような“音”がそこに確かに流れたこと。
 
 だからいい番組だったと思う。ケンカでなく、微妙に揺れながらも性格のいい二人は適度な距離を持ちながら、素直に認め合っていた。そして自己を肯定できていた。
 
 テレビ番組の見方はそれぞれだけど、若い人が自分の〈たましい〉に耳を傾けるきっかけになるような番組だったと思う。学生の皆さんが見て、深く自分を見つめる機会になるだろう。
 浅く「女の幸せは結婚・専業主婦だ」といってみたり、「いや、自立して仕事持つとか夢を目指すのがいいこと」といってみたりするのでなく、自己への肯定感(私は私のままでいいんだ)がありつつ、異質な他者を認められるというバランスをもてるところへ、多くの人が至れればいいな。まゆみさんとかえでさんのように。

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結婚制度と民法改正:民法772条・300日規定問題

2007年5月7日

「300日規定」見直し等の民法772条問題(保守派・バックラッシュ派が貞操義務などを理由に法改正などに反対している)で、杉浦ひとみさん(弁護士)がわかりやすくフェミの立場のイロハのイを説明されています(後掲)。
 確信犯バックラッシャーだけでなく、新聞記者や多くの「一般の人たち」なども、家族制度の安定などという言葉には弱いものと思われます。
 僕などフェミニストたちが当然と思っている出発点程度の認識すら多くの人には理解されてないということだし、ここは結局、家族/結婚制度のあり方に関わるところなので、だからこそフェミは重要なのだとおもいます。私の言い方でいえば、シングル単位感覚をもてるかどうか、がこの問題でも立場を分けます。
 
 ほんの簡単な見取り図ですが、以下、少しまとめておきます(ML上の情報の切り貼りが中心)。必ずしもこの3つにまとまるのではありませんし、改正推進派といってもここでいう「穏健系」や「ラジカルなフェミニスト系」のようなものにはさまざまな考えがあると思います。が、あえて大きな方向性の違いから3つに分けてみました。
 
 1:772条見直し(改正)反対派 
 
民法の婚姻制度、親子制度を維持すべきだ。結婚は、基本的には婚姻中に生まれた子について夫が責任を持つという重い制度だ。DNA鑑定などで生物学的に親子関係を決めることが重要なのではなく、法的な親子関係を決めることが重要。その目的は、子どもの地位を安定させ、家庭生活を平和に営ませるというものである。DNA鑑定で親子を決めるとなると混乱をもたらすので、すべきでない。結婚や離婚、出産には重い自覚が伴うべきもので、離婚が成立していないときに他のものと性関係を持って子どもをもうけるなどというのは、貞操義務に反する、無責任な行為で認めるべきでない。そんなことを認めると不倫を助長し、一夫一婦制が否定され、結婚制度が崩壊する。国の基礎となる法律婚の軽視は、ゆくゆくは事実婚や乱婚、同性婚の容認につながり、結局、男女間には何でもありといった不道徳社会になってしまう。つまり民法722条見直しをいうのは、家族制度を崩壊させようとするフェミニストの主張である。
 
 2:772条見直し(改正)賛成論:穏健系
 
 家族制度・結婚制度・貞操義務は守るべきであるが、民法722条見直し問題はそれとは別である。本人は悪くないのに、不利益を被っている人(子ども)がいるというケースがあるので、それに対応するよう改正すべき。例えば、母のその時の夫を父親とすることにすれば、すっきりする。その他、さまざまな現実対応的改正。
 
 3:772条見直し(改正)賛成論:ラジカルなフェミニスト系
 
 双方が同意すれば離婚は簡単にできるが、相手方が離婚を望まないときには、なかなか簡単には離婚できないのが日本の結婚制度。そのため、事実上、愛情ある夫婦関係は終結しているのに、形式的に夫婦となっている関係はかなりたくさんある(そのなかの一つが別居状態)。離婚を求めても相手が応じてくれない(離婚の話し合い中)、DVなどから逃れて身を隠している、離婚裁判中である、夫が怖くて裁判もできない、など多様な状況がある。そうした「離婚は成立していないが愛情がない関係」のなかで、別の人と親しくなり、子どもができる場合もある。それを非倫理的と非難して、子どもに罰則のように正当な権利を与えないのはおかしい。
 
 そもそも、民法のこの部分の規定は明治民法における家制度の考え方から設計されたものである。それは、ある面からいえば、男を中心に「家」を存続させるために、誰がその家の跡取りかを決めるルールでしかなく、女は家のために子を産む道具であるという感覚とつながっていた。嫡出か否かで家の跡取りとしての序列をつけていたのであり、戦後の新民法においても、嫡出か否かの差別は残された。
 
 また「結婚は、婚姻中に生まれた子について夫が責任を持つ」というが、男女平等・人権重視の見地からは、両親が平等に責任を持つべきものであると同時に、子どもの権利を大事に考え、また多様な状況の人の差別なき公平な処遇を求める。したがってそもそも親の状況によって子どもに「嫡出/非嫡出」などという差別的な区別をつけることが不要である。多様な人のありかたを公平にするという意味で、事実婚や同性婚の容認も必要であろうし、結婚している/していないに関わらず平等な権利が保障されなくてはならない。離婚したいのにできないというのは人権侵害であり、破綻主義を導入すべきであるし、離婚したら暮らせない(男性・結婚に扶養され従属せざるを得ない)というような、女性が自立出来ない状況こそ変えるべきなのである。母親が父親を記載したくない場合もあるので、そのような届け出も認められるべきだろう。
 
 結局、現状の家族単位かつ戸籍筆頭者中心の戸籍制度を廃止し、個人単位の「戸籍に代わる記録制度」にし、税制度や社会保障、苗字選択、労働関係諸制度なども個人単位に設計すればいいのである。
 以上の総合的な体系を私は、シングル単位のシステムと呼んでいるのである。(私個人は、そもそも、財産などを「法的家族・家・血縁」によって子ども等に有利に相続することが不平等だと考えており、遺言重視かつ明示がない場合は社会の公共財にすること、だれにであろうと、資産の譲渡には同じ税率をかけること、贈与税に一本化、つまり相続税の事実上の強化などが必要と思っている)
 
 貞操義務を持ち出し、「法改正は、不倫を助長し、一夫一婦制が否定され、結婚制度が崩壊する」とし、古いルールだけが子どもの利益、家庭の平和を守るというのは間違っている。嫡出概念を廃棄して、事実婚の子どもなども皆、対等平等にすればよい。事実、北欧・西欧などの一部ではそのような個人単位的なルールに変更してうまくいっている。無責任な人が増えているという事実はない。
 
 大事なことは、各人が「法律に書いてあるから」、「罰則があるから」、「血縁があるから」「法的な家族だから」などというレベルで、「貞操を守る」とか「パートナーや子どもを大事にする」「財産をもらう、奪い合う」というのではなく、自らの倫理に沿って、パートナーと誠実な関係を持ち、子どもにまともに接し、財産などで争わないレベルの人間になっていくことである。
 
  もちろんそんなことは理想ですぐには達成できない。だから一定の法的ルールは必要である。だが、家制度に替わって、そうした理想的な関係性へ向けて近づく努力として、現実的な落としどころとしての法改正がありうる。民法改正はそのプロセスの一つである。
 
 改正反対派の主張は、離婚したくてもできない人、事実婚や同性愛者など性的なマイノリティへの差別(不利益)を維持し、結婚している男性の権利だけを重視する古い家制度時代の発想とつながっている。愛情という実態より、法律という形式を持って、財産や「子どもの所有権」などを争うという情けないレベルの関係を維持しようとしている。
 
  民法改正派は、何もあらゆる親子をDNA鑑定しろなどとは言っていない。ある特定事情の場合、DNA鑑定によって子どもや母親の人権が尊重され、社会生活を平和に営むことができるから求めているのである。
 
 離婚の自由は非常に大事である。いったん結婚したらそこから離脱させないというような制度はおかしい。強制ではなく、ひとりひとりの民主的な対応力を高めることこそが求められている。722条民法改正の意味は、他の問題とつながっている。
 
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 紹介資料
 
 杉浦ひとみ氏による「離婚前の妊娠の救済について」の意見。
 
 離婚前に妊娠しない方がいい、という考え方に対して
 仕事上の経験から
 ・離婚はしたいと思ったらすぐできるわけではないこと
 ・女性は妊娠可能な時期的限界があるということ
 について知っておいてほしいと思いました。 
 
 
 離婚は、双方が同意して離婚する「協議離婚」が、女性が望むときにできれば問題ありません。
 しかしながら、婚姻をしてしまうと、相手方が離婚を望まないときには、なかなか簡単には離婚できません。
 たとえば、配偶者が入院したり、骨折したりするほどのDVがあったり、相手方の不倫の証拠がしっかりとあるときには、離婚の裁判をしても裁判所は離婚を認めてくれます。
 ただし、この場合でも、相手が離婚を望まず、裁判の結論について控訴(第二審)、上告(最高裁判所への申立)をして争うようなことがあれば、離婚のための法的争いは、1年や2年を要することになります。
 
 上記のような明白な証拠がない場合には、裁判所も離婚を認めにくく、さりとて元の鞘に戻すのが難しいと判断すれば、双方の合意で離婚をするように和解を勧めてきたりします。そうなると、さらに時間が必要になることもあります。
 
 これらの争いが、事実上夫婦関係を破綻させて別居の状態で続けられるような場合には、その間に親しくできる人と巡り会うこともあります。
 
 他方、女性はいつまでも妊娠できるわけではありません。
 一定の期間内に妊娠・出産をすることが必要になります。
 
 以上のような状況の中で、離婚前でも新しいパートナーとの間に子どもをもうけることは十分考えられ、またそれは必ずしも非倫理的と非難される必要はないと思います。
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 第772条(嫡出の推定) 
妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。
 2 婚姻の成立の日から二百日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三百日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する。
 
 「模範六法 2006」(C)2006(株)三省堂

 

 




 
 
 

シングル単位論、

スピシン主義

 

 「シングル単位社会」とはどんな社会か

  伊田広行 2005年

 私とシングル単位論

 私は、中学2年生のとき岩波新書の『社会主義入門』(レオ・ヒューバーマン著)を読んで、これはとても合理的なことを述べており説得的だと思った。現実の社会主義国にはいろいろな問題があるということがわかった後でも、社会主義が目指そうとした原理的な方向性、物事に対する根源的な思考というスタイルにはまともなものを感じ続けていたし、資本主義社会もひどいものだったので、理想がなくなって絶望するということはなかった。

 そのような私が、70年代後半以降、環境運動や新しい社会運動としての人権運動のなかに、そうした「社会主義の発想」がもっていたラジカルな思考の匂いを感じ、そちらの魅力にひきつけられていったのは必然であった。それは古臭い固定的な思考を常に見直すことでもあり、とくにフェミニズムからは、「男性性」ということを、自分の中の権力性、左翼や人権派の中の権威主義などとして理解することで、学ぶ点がたくさんあった。

 80年代に上野千鶴子などのフェミニズム文献を読む中で、影響を受けると同時に、おかしいな、足りないなと思うところもたくさん出てきて、恩師、竹中恵美子先生たちと研究会を重ねる中で、ほぼ自分の中で、自分が目指すべき方向性が固まっていき、それを1990年ごろから「シングル単位論」として発表していった。それは私がウーマンリブやフェミニズム、女性解放論、女性労働論の主張を受けて、それらを自分なりに消化した上で再構築したものであった。現実的に今の世界で、もっともまともな社会変革として、北欧を中心とする「新しい社会民主主義」が考えられ、そのエッセンスが「シングル単位」だといえると考えた。本稿ではその概略を紹介してみたいと思う。
 

 家族単位社会を問い直す

 シングル単位社会は、個人の自立に基づいた選択の保障、生き方に中立的な制度設計を行う。そのために、社会の基礎単位をこれまでの家族(世帯)から、個人に変えるという根本的な発想の転換を行う。マルクス主義も含め、近代社会に対応した理論は、ことごとくジェンダーについて限界を持っており、それゆえ男性中心性を自覚しておらず、家族を単位とする諸問題に気づいていなかったので、この点を意識して社会変革を考えることは、まさに言葉の正当な意味で、根源的であると思う。
 家族単位か個人単位かという分け方をすると、驚くほど多くのことがみえてくる。シングル単位視点とは、単に「男尊女卑か男女平等か」というレベルで争うことではなく、「単位」という発想自体の前提を問うものである。

 家族単位の原理的問題としては、①家族の中の個人は家族の部分でしかなく、独自の自己決定をできる個人とみなされない。標準家族を形成していない者は半人前(逸脱者、例外)とみなされる。つまり標準外の生き方の人への差別がもたらされる。②男女は別ものというジェンダー・二分法発想と性役割分業が維持(再生強化)される。③結婚(子どもをもつ)して当然、結婚する(子どもをもつ)のが幸福の必要条件、結婚しない(子どもをもたない)のは不幸となる。④1単位の中には他者はいないので、差別・抑圧がないことになり、問題が問題とならない(問題が見えない)。⑤愛の名のもとに抑圧や干渉が行われてしまう、などがある(詳しくは拙著『シングル単位の社会論』世界思想社)。

 そこで、自分の今までの前提自体を問い直して、ジェンダーに関係ない、一人の人間を基本単位とすべきと考えた。それは、働き続ける女性や離婚者や独身者や同性愛者も含めた「多様性」を前提とするなら、共通の単位は「個人」とならざるを得ないという論理的帰結であった。その個人とは、ジェンダー・血縁・家族・民族などという近代主義的幻想を乗り越えて「深く他者とつながっていける出発点としての個人」である。ここで私は、近代的な役割や秩序に囚われている限界を超える「個」のあり方を実践する人間を「シングル」と呼んでいる。
 

 シングル単位

 シングル単位の制度としては、労働面では、一人暮らしのイメージで、短く働いて、早く家に帰ってきて自分で家事や育児をするということに対応するスタイルとなる。すなわち、家族を養う年功賃金制度をやめて、男女関係なく、「同一価値労働=同一賃金・時間給」という個人単位賃金雇用制度になる。パートだから低賃金というのはやめて、雇用形態差別を禁止する(均等待遇)。むしろみなが短時間働く正社員というイメージになる。
 妻や夫とセットで、「二人のうち片方が・・をして、他方が・・する」と考えないので、一人一人は、収入を得る活動と家事(育児・介護)活動のほかに、近所づきあいや余暇や社会的活動(市民活動・ボランティア・NPO活動)の時間も自分でするようになる。

 福祉も当事者主体で、子どもや高齢者や障害者も「弱者」(保護や扶養される、単位のなかの一部)とみるのでなく、自己決定する主体(その人自身が1単位)として尊重するような関わり方をしようということで、具体的には、社会的に保育所や育児休業制度(賃金8割保障)や児童手当(全員に18歳まで保障)、介護サービスシステムを充実させることになる。年金・社会保障全般の制度的法的仕組みも、すべて個人単位の設計に根本的に制度変革する。それは現行の片働きカップル優遇、異性愛法律結婚優遇の諸制度(税の控除や保険料負担免除など)をなくし、夫婦別姓も選べるようにしたり、世帯主概念をなくし、住民票や戸籍の家族単位も個人単位に変えるということである。つまり、特定の家族形態(特定の生き方)を擁護しない中立の制度とすることで、同性愛も離婚も事実婚も差別されないようにしていくということである。
 

 発想の転換がもたらすもの

 このような男女関係なしの「シングル(個人)」を単位と考えることで、子育て期の30-40歳代男性の就業時間が長い問題も、働きたくても働けていなかった女性の問題も、女性を非正規労働として低賃金で使う問題も、年功制度による高コスト体質の問題も、すべて解決する(新たに起こる問題もあるが、省略)。時間を単位として柔軟で多様な働き方ができるようになるので、女性だけでなく若年層や高齢層へ雇用機会を与えることになり、若年層の高失業問題やフリーター指向問題にも対処できるし、男女が共に子育てにかかわるということも保障でき、専業主婦層の子育て負担感や不安問題にも解決策を与えられる。
 経済・財政問題についても、現在の日本は招来不安や低賃金化から、モノを消費したり、金を借りて経済活動しようという需要がなくなっているのであるが、シングル単位的な社民主義になれば、大きな政府路線で政府が積極的に社会保障などで金を使うことで経済が動いていき景気が回復するし、低賃金層の賃金が上昇し社会保障が充実するために将来不安がなくなり貯金が減って消費が活発化する。
 また現在の新自由主義路線では小さな政府指向のために増税(国民負担率アップ)に躊躇し財政赤字増加を止められないが、新社民主義であるならば、積極的に増税(国民負担率アップ)するので財政構造は改善される。短期的には増税は国民消費を冷やすが、上記したように自分が拠出した税などが教育費や福祉などで自分に帰ってくるということがわかると、将来生活への安心感から消費は適切なレベルで上向く。景気が回復すれば企業収益も上がり所得も増えて、税収が伸びて国債返却の展望も出てくる。
 政府による国債発行を通じた景気刺激という点では、守旧派(高度成長時代の発想のままのケインズ主義固執主義者)と新社民路線は一部類似しているが、決定的に違うのは、大きな政府指向、構造改革の質(福祉充実、教育や失業者訓練重視)、金の使い道(社会保障中心)および増税(連帯)の提起である。シングル単位型の社民主義路線の意味を国民が真に理解したとき、守旧派でも新自由主義でもない第3の道による経済再生の展望が開けるのである。
 

 シングル単位社会の労働の具体的イメージ

 シングル単位の社会民主主義路線に日本が転換した場合の労働の具体的イメージを大雑把に示してみよう。
 個人単位で夫婦それぞれが働けば、年間労働時間は例えば一人1500時間程度でいいということになる。年収は(時給3000円で)450万円、(時給2000円で)300万円になる。私のシングル単位論は、それだけあればいいじゃないかというものである。今の年功賃金制の年収800万円以上は、妻の分まで含んでいるから「高すぎる」のだが、この年収300―450万円レベルという話は、現在、年収100万―200万円で働いている人たち(パートや女性たち)にとっては朗報といえる。夫婦共働きなら600-900万円になるのだから悪くない。
 すなわち現在の男性正社員は働きすぎであり、年収は「高すぎ」、他方、パート賃金は安すぎるのだ。地球環境を考えても、ゼロ成長・持続可能型の定常経済が望ましいのだから、皆が短く働き少なく消費するような仕組みこそが21世紀型といえる。「時給3000円、年間労働時間1500時間、年収300―450万円」には未来がある。

 そんなことは可能なのだろうか? 今、労組への組織率は約2割で、リストラ、非社員化が進み、若い人のフリーターに将来の希望が見出せない中で、こうした根本的な改革案への期待とそれへの賛同の可能性は高まりつつあるといえる。男、正社員の働き方をかえるような根本的な提案が求められているのだ。
 結局、シングル単位社会のイメージとしては、男女がみな働き、それを支えるための家事や育児、介護などの社会化が進み、基本的にみなが残業なしの労働者となる。週35時間労働、夏休み1ヶ月、冬と春に1週間ずつの休暇、本人と子どもの病気用の有給休暇ありという、年間労働時間1500時間程度の働き方となる。さらに特別に労働時間が短い短時間正社員(週20-30時間)になることもでき、通常の正規労働と短時間労働との相互乗り入れが可能となり、週労働時間を毎年選べるようになる(週40時間、30時間、20時間労働、週休3日、週休4日などを選ぶことができる)。
 シングル単位では、家庭内の育児や介護や教育をみなで支えあい(共助)、社会保障の充実と財政赤字縮小、保険料不足解消をすすめるために、直接税、間接税、社会保険料とも負担率を大幅にアップすることになる(消費税20%程度、所得・住民税(国・地方合わせて:累進性あり)30%程度、年金保険料も労使で20%程度へ徐々に上げていく)。その代わり、老後は安心であるし、子どもの大学の学費・生活費も、親が負担する必要はなく、学生が個人として「学生ローン(奨学金)」を国から借りるようになる。女性の労働力率が上がる一方で、仕事と子育ての両立が可能な制度が整えられるために、出生率も上がっていく。
 

 ワークシェアリングに向けた具体化の案:短時間正社員制度の導入

 ジェンダー平等、ワークシェアリングに近づく過渡期のステップを4段階にわけて示したいと思う。まず第1段階は、現状制度の中でのできるところから少しでも待遇改善していくことで、たとえば非正規雇用労働者(パート、派遣、有期雇用)にボーナスや退職金を保証すること、時給をせめて最低1500円程度に上げること、女性へ積極的に教育訓練・仕事・責任を割り振っていくことなどである。

 第2段階は、現行の年功制度や能力評価制度を残したままでいいので、「4分の3コース」や「2分の1コース」を作り、各人の選択可能とすることである。「4分の3コース」とは、年間労働時間が従来の正社員の4分の3になるかわりに、賃金も4分の3になるというもので、「身分」は正社員のままで、戻りたいときに戻れるというものである。長時間でくたくたになっている人などは、年収が下がってもこの制度を選びたいと思うだろう。

 第3段階は、時給2000円程度の短時間選択可能の正社員コースをつくることである。新採用の人も、今まで正社員だった人も利用できるようにする。現在の時給の計算は、平均年収を平均年間労働で割ればでるので、中高年以上の人にとっては時給2000円は切り下げになるかもしれないが、女性や若手の人にとっては、時給が2000円とまあまあの水準で、働いた時間だけもらえるというのはクールで受け入れやすい。これで時短を選べるなら、短く働いて、自分の私生活を大事にしたいとか、若い人で定年までこの企業にいつづけるつもりのない人などは、この制度を利用したいと思うようになるだろう。大事な点は、この第2の「4分の3コース」も第3の「時給2000円コース」も、選びたい人だけが選べるようにし、戻りたいときには従来型に戻れるようにしている点である。

 第4段階は、そうした積み重ねのあとに、根本的に賃金と雇用の制度をシングル単位に変革していく段階である。拙著『21世紀労働論』(青木書店)で述べたように、ジェンダー視点を踏まえた科学的な職務分析をベースにして西欧のような職務給(仕事給)制度を作っていくのである。ただしそうした研究を進めて導入を決定したあとも、過渡期は10-20年程度かけて順次移行することが大事である(毎年10分の1ずつ新制度による計算)。そうすれば、既得権を奪われるという人(主に正社員男性)からの抵抗も少なくなる。

 こうした多様な取り組みを積み重ねる中で、正規雇用(正社員)と非正規(パート、派遣)の垣根の無意味さ、不合理性を実感する人が増えていき、企業風土が変わっていくであろう。そしてみながワーク・ライフ・バランスを考えて短時間正社員をあたりまえと思うようになっていく。労働時間は正社員のまま選べるのであって、長時間会社に尽くす正社員か、ひどい扱いの不安定非正規雇用化の二者択一ではないとわかっていく。それが、シングル単位的な労働のあり方である。
 

 事例

 こうした提案は空想的というわけではない。いくつかの企業ではそうした方向での試みを始めている。たとえば、日本IBMが04年から導入する制度は、ほとんど私の提案と重なる。すなわち、正社員のままで、「働く日数や労働時間を減らせる」という「短時間勤務制度」の導入を決めた。社員の基本勤務形態は週5日38時間労働なのだが、「短時間勤務制度」を選んだ社員は、次の4つの中から選べる。
 ①週3日勤務で、賃金半分、②週5日勤務で労働時間6割、賃金半分、③週4日勤務で、賃金7割、④週5日勤務で労働時間8割、賃金7割、の4種類で、昇給・昇格は成果重視ということである。単純な労働時間短縮ではなく、多様な働き方を選べることで、転職や退職をせずに、働きつづけられる環境を整備したとのことである。この制度の適用期間は、2-3年で、1年ごとに更新する。申請理由は不問だが、ただし、育児が理由のときは、子どもの中学校入学まで更新が認められる。制度の導入で同じ部署内の増える仕事は、仕事の外注化や派遣社員の活用、業務内容の見直しで対処する(『朝日新聞』03年12月14日記事より)。大切なことは、こうした大きな将来ビジョンをみなで確立し、それに向かって一歩ずつ改革をすすめていくことであろう。
 

 深く考えていくために

  以上の話は、私の主張体系のほんの一部なので、関心を持っていただいたなら、ぜひ末尾に付した各拙著にあたっていただきたいと思う。女性たちの男女平等の主張、均等待遇の主張は決して「女性ゆえの男性への文句」というようなレベルで理解すべきものではない。男性だけでなく女性も含めて、近代社会の中で埋め込まれていた制限ある人間像を離脱して自由な「新しい人間」になっていこうという広大な理想に向かう論なのである。だからこそ私も魅かれていった。
  考えるべき点は多岐にわたる。セクシャル・マイノリティからの提起を踏まえて「男女二分法は絶対か」というジェンダー論の基礎の基礎を学ぶ必要がある。育つ中で作られる性意識、植えつけられるジェンダーステレオタイプといった、自分の囚われに気づくことが必要である。エンパワメント、多様性、非暴力、スピリチュアリティ、スローといったさまざまな概念を深く連携させて学ぶ必要もある。 

その上で、多様な問題の根っこには家族単位発想と制度があること、それに対する、シングル単位という視点と具体的制度、それに基づく、結婚・非婚・離婚論、親子論、子育て論、老後論、恋愛論、セックスとセクシャリティ論、セックスワーク論などを考えていく必要がある。近年、保守派や右翼から出されている「ジェンダーフリーへの疑問・批判」への反批判もいる。DV、児童虐待、レイプ、セクハラ、痴漢といった、性暴力についても自分の問題として学ぶ必要がある。さらに私は、そうしたすべての問題を深く理解するためには、シングル単位論に加えて、そこにスピリチュアリティの視点を結合させることが必要と考え、「スピリチュアル・シングル主義」を提唱している。 
 ジェンダーの視点は、万能の解決策なのではない。根源的に考え続けていこうとする謙虚な姿勢にその精神の魅力がある。論理や力(政治、暴力)で相手を打ち負かそうとすること自体に、私たちが戦おうとしている「相手の世界」がある。その「世界」と戦うために、同じ手段を用いていては、私たちに勝ち目はない。なぜ自分は頑なであるのか。そのことを問うところに、ジェンダーへの扉がある。
 

 伊田広行 主要著作

 『はじめて学ぶジェンダー論』大月書店、2004年
 『シングル化する日本』洋泉社新書、2003年
 『スピリチュアル・シングル宣言』明石書店。2003年
 『21世紀労働論――規制緩和へのジェンダ-的対抗』青木書店、98年
 『シングル単位の社会論-ジェンダー・フリーな社会へ』世界思想社、98年
 『シングル単位の恋愛・家族論-ジェンダー・フリーな関係へ』世界思想社、98年 
『性差別と資本制-シングル単位社会の提唱』啓文社、95年 

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家族単位か個人単位かが対立点だ:バックラッシャー長谷川三千子氏が、個人単位のワーク・ライフ・バランスを批判 

2007年5月26 日

アベ少子化会議の「働き方の改革分科会」(主査;樋口美雄慶大教授)の議事要旨(4月27日)において、長谷川三千子委員(昔から男女平等に反対してきた確信犯バックラッシャー)は次のようなことを言っています。私が彼女の主張を翻訳しますと、
 
 ワーク・ライフ・バランスというが、これを個人単位で、男性個人、女性個人で考えるべきではない。男女夫婦2人で、バランスが取れていれば、性分業があってもいい。いやむしろ、女性は育児に専念し、子どもが大きくなると少し短めに働き、男性は育休など取らず一貫してフルタイムで働くのが一番よい、と。だから少子化対策としては、男女共同参画ではなく、男性の正社員化こそが大事だ、と。

なんという、わかりやすい、復古主義的な反ジェンダー平等論でしょう。こんな人を委員に選ぶところに、安倍内閣の政治性がでています。時代錯誤の意見ですが、バックラッシュ派は結局、個人単位を批判し家族単位を押し出してくるという典型です。だからこそ、私は昔から個人(シングル)単位論を提唱してきました。

大沢真理さんの主張――男性稼ぎ主型世帯から共働きカップルを基本とする「両立支援型」(男女ともに仕事と家庭)にすべきだ――は、私の従来の主張(シングル単位論)とかなり近いですが、結婚しない人もいる、異性愛でない人もいる、離婚もあるなどという点から、男女共働きカップルを標準にするのではなく、多様な個人を基本単位にすべきという私の主張に比べて、まだ妥協的過ぎる(異性愛カップル中心的すぎる)と思っています。はっきり個人単位といわないのは、それだとラジカルすぎて、反対が多いという戦略的判断かもしれません。
 
しかし長谷川氏がこのように、明確に家族単位というように、対立点は、家族単位か個人単位かとなっているのです。
長谷川氏は家族単位の視点を持ってきて、「男女共同参画=ジェンダー平等」自体を骨抜きにしようとしているのです。 
 
以下、長谷川氏の驚くべきバックラッシュ発言
 
・・・それをワーク・ライフ・バランスという考え方でとらえるときに、これまでの御発表を拝見していますと、どちらかというと個人単位で考えていらっしゃる。ところが、子どもというのは家庭に生まれてくるものです。ですから子育てに関する少子化対策の問題を考えるときには、ワーク・ライフ・バランスは家庭単位で見ていくことも必要になっていくのではあるまいかと考えております。
(略)
 
ここでいろいろ資料に書いてございますが、大事なワンポイントとしましては、次のことを申し上げたい。例えば先ほどから男性の子育ての時間が少ないということが問題とされております。女性に子育てを丸投げしているという、あたかもそれでバランスが崩れているようなお話なのですが、家族単位でワーク・ライフ・バランスを考えるなら、家族全体の中でそのバランスがお金と手間、どちらもしっかりと調達されているという形であれば、その家庭はかなり安心して子どもを産み育てられる家庭だというふうに評価することができると思います。ついでながら、単身の家庭の場合にはそれが非常に難しいことになるという、そういうことも家族単位で考えると見えてまいります。
 
  もう一つ、家庭単位でワーク・ライフ・バランスを考える場合に大事なことは、そのメンバーに余り大きな負担のアンバランスがないようにということなんです。ですから極端な話、男性が完全に家事をして、女性がお金を専ら調達するという形も十分にあり得るのですが、こと子育てになりますと、今申し上げたように、1年間はどうしても男性に肩代わりしてもらえない大きな負担が女性にかかってきます。その1年間、女性1人に家族を支えるだけのお金を稼ぐべくバリバリ働けといっても、これはものすごく不公平なことになります。
 
  そういう意味では、時々批判されます男女性別役割分担というものも実はかなり合理的な家庭内のワーク・ライフ・バランスだということも言えるのではないかという気がします。もちろん今の経済状況では、一人の収入で完全に家族を賄うのは難しくなっていますから、共働きが増えてくる。これは阿部委員がおっしゃったとおりだと思います。しかし、その場合も必ずしも1対1のバランスで働く必要はない。1対0.5というバランスもあり得る。
 
  一番大事なのは、家族全体として、金と手間の両方がしっかり安定して確保されているか。そして各家族構成員のメンバーの間で著しいアンバランスがないかということなのです。
 
  その観点から、最後の2分で、宿題の方に戻りますと、男性が正社員でない場合に結婚意欲が非常に低くなっている。これは今見たところからのごく当然の現象で、若い男性の大多数はとっても常識にかなった考 え方をしている、といえると思います。つまり女性が子どもを産むとなると、最低でも1年あるいは2年バリバリ働けない時期を迎える。その ときに安定した収入をもう片方のパートナーが持っていないと、これは到底安心して子どもを産める状況にない。
 
  同じ若者の雇用不安の解決といっても、男性の正社員化を目指すのか、両方均等に目指すのか、これは雇用均等法との絡みで大変難しいと思いますが、少子化対策という点から考えると、男性の方に重点を置いた施策をすべきだという結論が出てくるという気がいたします。
 
略 
なお、注目していただきたいのは、3枚目の図4です。「女性の希望する就職形態」、これも先ほどお話がありましたが、子どもが1歳になるまでの間、子どもが3歳になるまでの間、これは育児休業か、あるいは非就業か、少なくとも殊に1歳になるまでの間はほとんど9割近い人が、自分は仕事をしたくないというふうにおっしゃっていらっしゃる。これも今述べたところからごく常識的な希望だと思います。決してわがままでもなまけ心でもなくて、女性は片方で産児、育児という大事な仕事に体を張って参加するのだから、この期間はちょっと働くのを休ませてくださいと。たしかに、企業の側からいうと、こういうブランクのある人間をトップにつけるのは難しいという話にあるいはなるかもしれない。しかし、これをいろんな小手先の施策で解決しようと思っても難しいような気がします。
私はむしろ女性が安心して、また職場に復帰できるときに、また、きっちり働ける。最初に阿部委員が御提案になったような、そういう復帰のシステム というものを確保することが大事なのではあるまいかと思います。
 
  したがって、宿題に対する私の答えとしては、差し当たっての雇用不安という点では、まず男性の方に重点を置いて施策をするべきである。もう一つは、女性の再就職のシステム化、これも本気で取り組むべきことではなかろうか、そんなふうに御提案したいと思います。
 
長谷川氏のレジメの最後
「このように考えてくると、ある時点で、いわゆる『男女共同参画』の発想と、純然たる少子化対策の観点とが、衝突しあうことを覚悟しなければなるまい。このことは、他の分科会にも、問題提起として投げかけたいところである。」 

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政治 実践・ 運動

 

政治的実践を広くとらえるのが〈スピ・シン主義〉 

070504 
政治的実践を広くとらえていこう:〈スピリチュアル・シングル主義〉の発想から
 
 今の政治状況の中で思うこと。春の選挙や次の参議院選、都知事選の総括やその他、政治についての意見を見ていて思うことを少しメモしておきます。
 基本的には、いまの安部政権に対抗する勢力が大きくなることが絶対必要で、そのためにはしたたかにあらゆる妥協(統一戦線)も戦略も必要ということに賛意を示した上での話です。
 (詳しくは、『スピリチュアル・シングル宣言』およびHPに掲載している生き方・〈スピ・シン主義〉に関する小文などを参照のこと。)
 
 従来の闘い方(社会変革の方法)の中心は、政党・労働組合・市民運動による、啓蒙主義的教育、署名・デモ・選挙(政治的代表制の中での権力奪取を目指す)という近代主義的なものであった。
 「敵」が明確な中での反体制的抵抗には一定の意義があったのは事実である。運動や共同体の中で「我らの世界」的な感覚を学び、巨大メディアに対抗する価値観をもてたという側面はある。
 だが、動員型、代行主義、「おかみ」頼み、エリートお任せというパターナリズム型運動(温情的父権主義)、分配をめぐる闘争でしかなかったという限界性/欠点を持っていたといえる。どのように生きるかの質というよりも、物質主義の上での大衆的なモノ獲得の運動であった。それは簡単であった。
 
 だがモノ獲得でない運動は難しい。「貧困問題」から「社会的排除」に対応した運動の転換が必要だが、それは簡単ではない。それがいまの時代の困難性を示している。
 
 さてそれを前提にしての話。
 
 一部のナイーブな議論を見ていて、政治を語るときのあぶなさを感じる。素人が参加し、勝手連的な運動をする、市民派、無党派、手作り選挙。組織に頼らない選挙。・・・
 
 その中で、表出だけではだめだ、結果が大事だ、選挙に勝つ、石原に勝つなどという話をすると、妥協妥協、毒を食え、という話になる。政治とはそういうものである。毒を少し食っても回復し、意識がはっきりするならいいが、多くは、毒に慣れ、毒とも思わなくなり、毒に汚れ、毒の中毒になり病気になる。ひどいときは毒を撒き散らす側にまわる。自己満足はしているが、結局、ガス抜きになり今の政治状況を微塵も変えないようなことにもなる。その政治家がいても何も変わらない、一応反対のポーズをとっているが、政治で食っているだけ。そんなだめな政治家になる。その結果行うことは、他のやつがすることと同じようなひどいことに手を貸し、改善は少しだけになり、そんなことは他のやつでもできる。そんな一生でいいのかという話になる。(今までの政治の総括をどうもつのかという話)
 
 また、歴史を見れば、「大衆」は動かされるものである。いわゆる右であろうと左であろうと、大衆操作を権力(およびある集団や運動における、パターナリズム的な運動のスタイルを行うプチ権力)は行う。時には失敗するが、大方において、権力による大衆操作は成功する。
 だが、いまの時代における、私たちが求める社会変革としての民主主義的な運動においては、それではだめだろう。つまり受動化した操作される「選挙のときだけ動員される市民」ではだめなのである。
 
 また残念ながら、暴力は非暴力に基本的には勝つ。(少なくとも短期的には)
 多くの既成宗教は保守的である。民族主義、ナショナリズム、強いリーダー(あるいは方向を指し示してくれる何か、例えば宗教)を求める依存主義などは、単純な頭でも理解可能で、情動によって大衆はその方向に操作されやすいものである。
 
 廣瀬純『闘争の最小回路』(人文書院2006)が指摘するように、選挙なり、国民投票ナリが、最初から、その枠組み設定において誘導的であるという現実があり、大衆はその中で操作され、選択しているつもりの非選択、「偽りの選択」をとらされている。
 例えば、「法案の中身はよくわからないけれど、郵政民営化には賛成です。」と多くの人がいって小泉自民党が大勝したように。つまり、権力エリートたちは、選択を提示するがそれは、知か無知かの選択、高度な専門的知識かイデオロギーかの選択、ポスト政治的な行政か“旧態依然の左派と右派との政治的対立”かの選択として、前者をえらばない者はバカだというメッセージつきで選択を迫るのである。
 それは支配/権力を合理化正当化(権力維持手段)するための「偽りの選択」でしかない。教師がバカな生徒を教え導くようなものでしかない。多くのインテリ(及びメディアに登場する多くの評論家モドキ)の議論はその程度のことに加担している。「私は見えている。みえていない古い左翼はダメだねぇ」といってメディアに乗ったり、学会で語って自己満足している。
 (なお、デモ・署名・集会などの表出行為は無効で、エリートによる、ロビー活動だけが大事とする見方もあるが、それも現実的に敗北している。もちろんロビー活動も大事だが。)
 
 では政治には関わらないのか。まったくNO!である。今の社会と次の世代への責任として、無関心、あきらめ(その結果、自分の好きなことだけをして非政治化し、自分は今の社会でそれなりの地位や収入で暮らすこと)、は、エゴイズムの名に値する(多くの学者や市民の実情)。特に、小泉、安倍ときて、ミリタリズム化、ナショナリズム化、ネオリベ化は加速している。なんとしても抵抗せねばならない。(社民党や共産党の国会でのがんばりは尊敬に値する)
 
 
 ではどうするか。日ごろから、あらゆるレベル、あらゆる問題を対象に、できる範囲で自分なりに政治化することである。(政治という言葉の深い理解。『あらゆる個人的なことは政治的であるということ』のユニークな理解)
 現状は、左派系の政治家に一票を投ずる人や組合運動をする人も、多くは、脱政治の中で、情報に踊らされ、小金で企業等に従属し、子どもを塾にやり競争・消費生活で享楽に浸っている。それではだめだろう。
 
 それに対し、必要なことは、自分の生き方からの変革である。この拝金主義の社会にあって、どのように生きるか、という哲学構築が各人に求められている。主流秩序、勝ち組、エリート、資本家と、いかに異なる価値観をもつかという課題があるのだ。
 
 政治的なスタンスを学び考え、それを表明し、周りに語り、自分の生き方にそれを反映させることである。非暴力的、ピース、スピリチュアル、スローに生きていくことである。その意味での自分なりの政治的実践を行う。ラディカルに生きるという実践である。
 
 例えば、何を食べるか、食べるときに何を思うかというスピリチュアルな生き方、パーソナルなセックスにおける政治というような理解、携帯電話やパソコンがあるというプラグ化された便利な生活(カタログ、マニュアルがあるスタイル、商業主義)への依存の度合いをへらして自足的な生活をすすめることなど。
 その“政治”のレベルを日常生活レベルからみることで、自分なりの政治的実践はできる。絶望からも脱出できる。次の各レベルでの政治的実践を考えれば、自分が変革可能な政治的な実践という希望はある。
 
 1:自分の生き方における政治的実践(自分の考え方の確立、世界観確立のための学習[映画鑑賞や読書や情報摂取など]、消費生活・消費水準のあり方の変革、内省的な時間をもつスローな生活「プラグを抜く」様な生活。今の主流価値観とかいかに対抗的に自分の理想とする価値観に沿って実際に生きるか、自分の仕事自体を通じての社会貢献。つまらない仕事を辞めるという選択や少ない消費で楽しくちゃんと生きる「半農半X」的生き方。その中で、ゲリラ的に主流でない文化、スローな流れを作り出す実践。
 
2:周りの人との関係(家族、親戚、友人)における政治的実践 (身近な人との会話、働きかけ)
 
 3:地域、職場での活動における政治的実践 (組合活動、集団的な仕事における社会貢献、自治会や自分が属している地域密着ネットワークなど地域での活動における社会をよくする活動)「働く=雇われる」とは別の働きかたの実践は、現代において非常に重要。例えば、コミュニティ・ビジネス 社会起業家(ソーシャルベンチャー)、NPO(共助)、ワーカーズコープ(ワーカーズコレクティブ、労働者協同組合)、非正規雇用労働者と正規雇用労働者の連帯の重要性。
 最近のプレカリアート系運動は希望である。
 
 4:メディア/インターネットへの意見表明、対抗的なオールタナティブメディア発信という政治的実践
 
 5:地域・コミュニティにおける意識的活動という政治的実践(NPO、ボランティア、市民運動参加など社会変革活動)
 
 6:日ごろからのまともな政治家支援、政治への意見表明、という政治的実践
 
 7:選挙における政治的運動という実践(立候補、あるいはまともな政治家擁立、選挙運動、ひどい政治家を落とす活動、投票)
 
 したがって、急に(7)だけ行って、勝てなかったと絶望的になり、エゴイズム(自分の生き方の非政治化)に引きこもるのはまったく愚かな行為である。
 また(7)だけしている人もいるが、それもまったく不十分である。
 従来の左翼運動、労働組合運動、戦後共産党等の議会主義の現在までの「非勝利(=敗北)」を素直に認めること。一人一人の覚醒と闘争を押しとどめるような「大きな物語回収=古い選挙中心の運動」はダメ。しかし、いまの政府・主流への対抗の役割は認めてダサくても効果限定的でも支持することも必要(選挙も、いまや 別の価値観の提示の戦いであり、“勝たねば意味がない”のではない)。
 
 なんといっても先ずは(1)である。自分の足元をどうにかできないようなものの「運動」ではダメである。フェミ的、スピリチュアル・シングル単位的な生き方。そして(2)-(6)なら、できる範囲でできることはたくさんある(例えばパートナーとの非暴力的(非DV)的な生き方)。
 その結果としての、(7)選挙時における選挙運動であるのであって、選挙運動だけでは、自分の理想とする社会に近づくような選挙的勝利はありえない。いろいろな事情から勝利しても、それは部分に終わる。なんといっても、多くの人々の(1)がないからである。
 
 (1)を増やして(2)-(7)を活発化することが必要である。ただし、人が変化・成長するのは、独りだけでの場合は少なく、ある集団・共同体・運動の中であることが多い。その意味で、その人が属するような組織・ネットワーク・運動自体が活発化することが必要である。個人から見れば、そのような場所・ネットワークに参加していくことが必要である。面白い人や運動(組織、ネットワーク)の近くに行くこと、面白い人や運動と関わること、NPO・労働組合などに参加すること、意識的に学習会や集会に参加することなどが必要である。現実を知り、面白い活動をしている人たちの現場に自分も参加し、生身の現場を見たり当事者の話を聞き、身体レベルで思想を獲得していくことである。
 そうでないと、分断化され、知らぬ間にメディア/インターネットによって中央の画一化した主流世界観に取り込まれ、非政治化されてしまう。
 
  人の得意/不得意を考慮し、自分の得意な場所、したいことを通じて、政治的実践を行っていくこと。しかし、自分にはできなくてもがんばっている人を応援すること。じゃまをしないこと。小さくとも何らかの実際的な成果を出すこと。基本発想は「ゼロか100かではなく、理想をめざしての一歩」を行うということ。未来社会の先取りをいま、ここから、やっていく。一回限りの人生を楽しむ、ただしスピリチュアルな感覚をもって。
 
 そうしたこと(視点)が必要である。
 希望を失わずに、やっていきましょう。今日、ここから。 そして参議院選挙も。 
 
 

 

〈スピ・シン主義〉の思想的位置  

経大論集 54巻3号
A Position of Spiritual Single Principle in Thoughts Map
 
 
要旨
〈スピ・シン主義〉は、ポストモダンおよびホリスティック論の統合の位置、近代合理主義と宗教・新霊性運動の両者の積極面を総合化した位置にある。思想地図上では、シングル単位度とスピリチュアル度の2指標において両方とも高い位置にあるものである。旧型の保守・革新は、この地図上では〈スピ・シン主義〉の対極に近いところに位置する。思想的特長としては、客観主義ではなく、立場を選択したある種のイデオロギーである。新霊性運動やディープエコロジー論が、社会性や現体制変革の具体性をもっていない点を批判して、シングル単位を強調したものである。またアナーキズムに基盤をもっていると同時に、誰かの犠牲の上に多数派の価値を優先するという現実主義を批判するような理想追求的な性質をもっている。政治的には、新自由主義、近代主義的社会民主主義、宗教的保守主義、近代化国家(途上国の資本主義化)、市場依存型(西欧現実)路線、新霊性運動的政治などと異なる、ポストモダン型の社会民主主義の路線である。
 
目次
1 〈スピ・シン主義〉の思想地図
脱・構築(ポストモダン)および再・構築(ホリスティック)の統合としての「シングル単位論」
「シングル単位論」の射程領域の多重性
〈スピ・シン主義〉の簡単な位置関係
保革近代主義思想から「シングル単位論」へ
詳しい思想地図の2つの座標
〈スピ・シン主義〉を理解するための日本思想地図
2 〈スピ・シン主義〉の思想的特徴
ニヒリズム、ポストモダニズム
立場の選択、近代の徹底
宗教的精神性の尊重、イデオロギー、文化多元主義
オドー主義、アナーキズム
〈スピリチュアリティ〉という幻想
思想潮流:ポストモダンと宗教と新霊性運動と合理主義
現代思想に客観主義で臨んでいいものか
新霊性運動の本質把握には社会改革との関係が重要
ディープ・エコロジーなどへの批判を踏まえる
3 オメラスから歩みさる〈スピ・シン主義〉
政治的な位置
近代主義的政治
ポストモダニズム的政治
オメラスから歩み去るか否か
社会基盤の変化の反映
システムの変化を目指すもの
〈スピリチュアリティ〉を大事にする運動へ
論理偏重がいけないのか
なぜ人を殺してはいけないのか
 
キーワード 思想地図、アナーキズム、文化多元主義、4つの思想潮流、ディープ・エコロジー、 オメラス
 
 
はじめに
〈スピ・シン主義〉がどういうものかをわかりやすく伝える一つの方法が、日本の思想地図の中で、「シングル単位論」および〈スピ・シン主義〉がどの位置にあるかをみることである。こういうものは、理屈っぽいので不要な人もいるだろうが、これによって、他の思想・政治潮流との距離感や近さがわかって、自分の感覚との距離を調整できる人も多いと思われるので、整理しておきたい。
 
1 〈スピ・シン主義〉の思想地図
脱・構築(ポストモダン)および再・構築(ホリスティック)の統合としての「シングル単位論」
まず、私たちがポストモダン水準で議論をすすめるべきは当然である。そのとき、私たちが簡単に現存パラダイム(発想の枠組み)の外にたつことができないなかで、旧パラダイムから脱して、新しいパラダイムをどのように構想できるのか、という問題がある。ホリスティック派(拙著[2003]p83)である吉田敦彦氏は、これに関して次のように答える。
 
「自分の発想を規定している支配的なパラダイムを反省し、それを相対化して距離をとれるように徹底して批判的に分析する脱・構築の営みが必要になる。これが不徹底なまま新たなパラダイムを再・構築しようとすると、結局は旧パラダイムに囲い込まれ、吸収されてしまう。」「新たなパラダイムへの転換が、現に支配的なパラダイムから脱しようとするこのような困難な格闘(「文化闘争」)を経ずして生起するかのような言説への警鐘」(吉田[1999]p222)が重要なのである、と。
 
これを例えばジェンダー平等の議論に適用するならば、すなわち私たちに必要なのは、現在の家族単位的性別秩序を徹底的に相対化し、批判する脱・構築の文化闘争的営みである。それが「シングル単位論」である。
しかも、脱・構築だけでは不十分である。拒みつづけ、破壊しつづけるだけでは、方向性も、エネルギーも失い、しばしば単なる「無為主義的な価値相対化論」に堕する(日本の1980年代の「ニューアカ」を想起しよう)。現在のパラダイムとの格闘は、何のために格闘するのか、何に痛みや怒りを感じ、何をどうしたいのかという直感・意欲、〈たましい〉と不可分であり、それに関したビジョンや創造的理念があるときに、より有効となるのであり、その意味で「再・構築」と補完しあうことが望ましい。そうであるからこそ、「シングル単位論」は、家族共同体主義の対極にあるものとして「シングル」概念をうちたてた。それは脱・構築概念であると同時に、再・構築の概念でもある。旧関係とは違うどのような関係を作りたいのかの直感的方向性を示す未来の平等社会の「雛形」であり「主体」概念なのである。
ここに吉田氏の議論を援用したように、実は「シングル単位論」はホリスティックな世界観と親和的である。しばしば「シングル単位論」は、その語感から、ただ家族を否定しばらばらでエゴイズムな「個人」に分解する論と誤解されるのであるが、各拙著をみていただければわかるように、自由、自立、自己決定、多様性を各人に保証するために、異質者たちの共存のための明示的ルール・制度作りを強調する、社会民主主義システム志向の論なのである。
 私が、単位としての「シングル」をいうとき、それはもちろん「他者の抑圧の上に自分の利益を得るエゴイスティックな個人」ではなく、ジェンダー・血縁・家族・民族などという近代主義的幻想を乗り越えて「深く他者とつながっていける出発点としての個人」を意味してきた。その上で、保守派の「魂」重視や新自由主義的・能力主義的な個人重視の論と対抗するためにも、その「つながり」(共生のルール)をどのレベルでみるかに注目して、本稿では狭い近代合理主義的な主客分離・客観主義を乗り越えて、自分の無意識部分まで含めた、直感的総合的認識、〈たましい〉のつながりに光を当てて、「シングル単位論」を〈スピリチュアル・シングル主義〉として拡張している。
もちろん、安易な神秘主義や主観主義や宗教依存は問題外であるが、家族を批判するからといって、エゴな個人を絶対化するのも、市場原理をナイーブに信奉して後は自由競争に任すなどという楽観主義も愚かである。つまり、近代的価値至上主義も、その反動としての単純な反近代的非合理主義も排除しなければならない。その両方の一面性を自覚して、その二項対立の発想水準自体を超える第3の地平での「解決策」を求めてきた。そのとき、あまりに家族的価値への信奉が「運動側」も含めて強いために、原理的対極としての「個(シングル)」を強調したが、その意図するところは、そうした意味での家族・ジェンダーを超える“つながり”の単位としての「第3水準での個人」であった。そこまでみていくホリスティックな個を、私は「シングル」と呼んで希求してきたのである。
 
「シングル単位論」の射程領域の多重性
 日本では、男女平等が議論される過程において、真のシングル単位改革に繋がるジャンダー論や福祉国家論が戦略的位置付けを得られてこなかった。この問題は、「日本の思想地図上の自覚されていない問題」にその根っこをもっている。そこ まず、「シングル単位論」の射程領域の多重性を確認しておこう。さまざまな水準・位相にわたる議論をすべて「シングル単位」というわかりやすい典型的一語でまとめたものであるが、それを分解すると以下のような各次元にわかれる。
 
① 短期的制度次元:短期的に、どのような具体的制度改革をするかの議論の次元、つまり社会保障や税制度や民法や労働・賃金システムなどの、世帯単位・夫婦単位・親子単位の制度(及び慣行)を、個人単位にするという制度的次元
② 中期政治次元:政治・経済・社会システム全体を北欧型の「社会民主主義的福祉国家」にしていくという中期的な政治戦略レベルの次元
③ 短期家庭内役割次元:家族内性分業・役割意識・血縁意識などをなくすという家庭領域における言動の次元
④ 長期生き方次元:夫婦・恋人間、親子間、友人間、その他あらゆる人間関係においての権力関係をなくすという生き方および社会全体の規範・道徳などを変えていく議論の次元、すなわち、近代家族幻想から解放された各人の生き方・考え方としてのポスト・モダン的生き方、近代の男女二分法超越的生き方の議論、人間ひとりひとりの質・水準の領域において、どのようなところに至ろうとするのかの議論の次元
⑤ 中期思想次元:理論・思想上において、近代主義を乗り越えるポスト・モダン論の具体化の次元
⑥ 中期思想次元:人間の無意識の領域を重視して人権を論ずる、スピリチュアルな議論の次元
⑦ 中期運動論次元:社会変革運動の質をジェンダー平等を中心にした水準に変え、ジェンダー・フリー概念を一歩進めるという運動論の次元
 
 これらは相互に絡み合っているが、領域としても、時間的射程としても異なる。社会を本当に変革していくには、一部分の改革でなく、こうした多重領域全体の総合的変革が必要であると捉えて、私は「シングル単位」概念にこれらを詰め込み、蝶番(ちょうつがい)的・接着剤的役割を与えた。したがって、「シングル単位論」を上記の①や②の一部に限定する議論と同一視するのは、誤読・無理解である。とくに、「シングル単位論」で、家族や恋愛といった領域の具体論を重視するのも、「いま・ここ」での私たちの生き方・関係自体に、未来の平等社会に通じる原型がなくてはならないと考えるからである。従来の「運動・政治」においては、表層的「意識」か「制度」水準の議論に終始し、私たちを根底でとらえる「倫理や規範」を無意識のまま前提にして、そこを闘争・改革領域として重視せず放置していたと思う。
この「シングル単位」概念は、たしかに一種の「理念型」でしかない。そんなものが現実にあるというのでなく、希求する理念の寄せ集め概念だ。だが、それを打ち立てることによって、複雑で様々な現実を分析する物差しとなる。「家族単位 VS シングル単位」ということで、どれだけものが見えやすくなり、対案の方向性を指し示すことができることか。そのための概念なのである。
私がリブやフェミニズムや性的少数者の運動から学んだことは、フェミニズムを単なる旧型婦人解放論や女性の地位向上論のレベルからいかに引き上げるかであり、それが狭義の「女の問題」でなく、社会システムの根本変革の要としてのジェンダー・センシティブな戦略構想ということであった。それを私なりに翻訳・展開した概念が、社会民主主義的福祉国家への展開を端緒(基軸)に、意識・規範レベルまでのポストモダン的変革を求める戦略としての「シングル単位論」であった。
そこに、〈スピリチュアリティ〉を加えたものが、〈スピ・シン主義〉である。恋愛やセクシュアリティや家族まで含めた「シングル単位論」にするとき、「実は混沌の闇世界のエロさもせつなさも含めるような〈スピリチュアリティ〉が希望だ」と明確に言うことによって、一部の「シングル単位論批判」(愛がない、バラバラ、寂しい)に答えることができると思う。
 
〈スピ・シン主義〉の簡単な位置関係
この〈スピ・シン主義〉を従来の思想との関係でまず簡単に捉えるなら、図―1に示されるように、「近代合理主義と宗教的なもの、新霊性運動的なもの」との統合に位置するものといえる。そのどちらでもなく、両者の積極面を総合化したものである。〈たましい〉は、たんなる「精神的なもの」でもなければ、「神秘的、オカルト的」なものでもない。「精神的なもの」とは、身体と精神の二分法・分裂的把握の片方にすぎず、「神秘的、オカルト的」なものは、非科学的非合理的で金儲けに利用したり人権侵害に至るようなものにすぎない。
〈たましい〉の観点は、それとはまったく異なり、身体と精神の二分法自体を乗り越えるものである。能力主義的な合理主義に批判的になり、既存宗教やそれに類似したもののインチキ・現世利益主義を批判するレベルの心身統一の上での生き方・世界観である。〈たましい〉の観点は、近代社会と既成宗教の棲み分けを乗り越え、近代社会の限界を宗教の積極性を取り入れて突破しようとする試みといえる。[1] 沈黙を尊び、長い時間軸空間軸で思考し、自然を大事にし、ゆったりした時間を大切にし、死を意識し、自分の才能の偶然を自覚し、自分と地球全体との社会的つながりを意識するものである。

図-1 〈スピリチュアリティ〉と他の思想との関係


スピリチュアリティ
↑ 新霊性運動
乗 ↑ 乗 ↙
近代合理主義→り⇒ 統合 ←り ← 宗教
越 ↑ 越 ↖
え ↑ え 神秘主義的オカルト的
乗り越え カルト的インチキ
↗ ↖
身体 精神
二分法・分裂的把握



保革近代主義思想から「シングル単位論」へ
日本における「右派・左派」(日本的保守と革新)は、共同体主義、近代主義の点で現在においては思想地図上で非常に近接して存在している。それは理論的にも実践的にも、ポストモダン水準で対処していこうとするものたちにとっては、有効性もなく、魅力もないということである。ひとつの切り口から言えば、資本主義社会を、人間が主人公になっていないと批判し、民主的人間的良心的社会(あるいは正義)にむけて根本的改革がいるといっていれば「革新」であり、「自分は正しい、悪いのは敵だ」とおもいこめるような呑気さがあったことに対する、真剣な反省がいると思う。
それは、自分(たち革新側)の位置や内面を深く掘り下げない鈍感さであり、それが運動の停滞や若い世代に魅力的にうつらない原因のひとつでもあることへの無自覚である。「右」が、国や家族や天皇などの伝統的な精神的共同体との一体化が好きなのに対して、「左」は労組や仲間や組織や家族といった、温かい連帯共同体・利害共同体が好きなのである。両者には、共同体への根拠なき信頼があり、そこへの依存、共同体内での権力関係と個性の無視、個の自己決定と責任からの逃避、多様性とエンパワメント概念の無理解といった共通性がある。たとえば「弱者」というような表現への鈍感さ、結婚・家族制度へ自分が荷担していることへの鈍感さ、セクシュアリティに対する旧態依然の感覚、組織やリーダーといったものに従属することへの鈍感さ、それらには、自己決定する自由な主体という意味での「個」への希求が決定的に欠けている。「会社に従属する人間」との相違を見つけるのは難しい。その保守性には目を覆うばかりではないのか。

詳しい思想地図の2つの座標
したがって、思想地図上の有効な座標軸のひとつは、家族単位に象徴される共同体主義を批判できるか否か、言い換えれば、「シングル単位度」の強弱である。これは、拙著[2003a]でも述べたように社会性の程度を含むし、上記①~⑦の各側面も入れた総合的指標である。
もう一つの座標軸は、近代主義の限界をどこまで意識するかというポストモダンの程度である。そこには、機械論的・要素分断的な把握を超えるホリスティックな視点ということも入るし、意識されない「深層意識」「混沌の闇世界」を射程に入れている程度が含まれる。またポストモダンを、単なる価値相対主義、したがって現実に対する追従に堕落させないために、環境問題を含めて「いのちのつながり」に覚醒している程度を含む。そうした近代主義を乗り越える程度、すなわち「スピリチュアル度」を、もうひとつの座標軸として描いた思想地図が、図表―2である。

挿入 図表-2 シングル単位論、〈スピ・シン主義〉を理解するための日本思想地図
              出所:拙稿[2001]p74


〈スピ・シン主義〉を理解するための日本思想地図
この2つの指標によって、保守・革新といった既存政治はもとより、レベルの低い宗教、適応による主観的満足だけを問題として社会改革から目をそらせる体制補完物になりさがった各種精神世界(ニューエイジ)・心理アプローチなどに共通する、「志の低さ、センスのなさ、近代主義的限界」を浮き彫りにしたいと思う。前述①から⑦の各領域にわたって総合的に捉える程度を含み、きれいな心、繊細さ、平等意識、品位ある生き方、そして、つながりを意識した社会性ある行動等を総合して、〈スピ・シン主義〉は考えられている。

図-2が示すように、広義シングル単位論、すなわち〈スピ・シン主義〉は、シングル単位度に加えて、スピリチュアル度の高さを求める主張であると補足することで、その思想地図上の位置から、男女二分法・近代主義内での単なる「個人の権利」を重視するレベルのものでなく、ラジカルに「社会全体と人間と運動の質」そのものの変革を構想するところの、ポストモダン論を発展させようとするひとつの挑戦概念であることが伝えられると思う。
「制度を制度たらしめているのは、法や規制や政治機構の形式そのものより、その基礎にある、人々が共通に抱いている観念や慣習や期待や信念、共同幻想にある」ということは社会科学的な最低の素養であるが、〈スピ・シン主義〉は、シングル単位論をより拡張して、その観念や共同幻想自体と格闘しようとする意思なのである。また、上記した「分析の物差しとなるための“理念”」であると同時に、諸議論に対して、〈スピリチュアリティ〉やシングル単位の角度から問題提起して、ある種強引にその土俵で議論を展開しようという戦略的な枠組みの論なのである。

図の中の他の思想について少しだけ言及しておくと、「日本的な保守・右派」は大方、共同体主義かつ近代主義内なので左下に位置するが、新自由主義的な動きは、旧組織を破壊して一部で脱共同体、個人の能力中心の仕組みにしていくので、保守の中では上方に位置している。
合理主義が、目に見える具体的に把握可能な社会的関係(制度、権力関係)の維持や変革を論じるという意味で、伝統的な社会運動は、左側に位置している。そうしたものの「日本的革新・左派」のうち、主流労働運動は年功制度や正社員中心主義を維持しようとする保守性をもっているので左下に近くなるが、障害者、女性などの人権擁護運動派は多様性を認めていこうとする動きをもっているので左上に近い。マルクス主義的な部分は、アナーキズム的な側面を嫌い、個人よりも集団の力と前衛党的な指導性を重視し、近代主義的合理性への過度の閉じこもりがあるので、左真中あたりに位置する。

環境運動派には、伝統的左翼体質のものから、ホリスティックな視点重視のものまでいろいろなものがあるが、具体的に脱共同体の方向で制度改革を指向する側面は弱いと思われる。しかし社会性あるものも多いので、領域としては真中あたりを中心に広く分布している。
学者の世界で影響力をもっている「いわゆるポストモダン的な議論」も多様な亜種をもつが、具体的な社会改革の姿勢が弱いものの、近代主義批判、共同体信奉への相対化視点などは最低もっているので、真中あたりだろう。ただし、対象領域を拡大し、社会変革まで射程に入れるような、私が使う意味での、真にラジカルで積極的なポストモダンの意味では、右側にある。
伝統宗教(救済宗教)もありとあらゆる側面をもつが、家族や伝統組織を重んじ、性的保守性も強いこと、および「解放の神学」など現実政治へのかかわりをもつ社会性あるものは少数なので、全体としては下方に重点がある分布と考えられる。現世利益に即物的に応えようとしたり、政治的保守層と結託しているというもの(図の左下)も多いが、近代主義的機械論的合理性は重視せず、理性的概念ではつかみきれない何らかの「精神的かつ神秘的なもの」を重視することを「霊性」というかたちですすめようとするので、図の右側に重点をもっている。

新霊性運動(ニューエージ、精神世界系)は、伝統宗教と重なる領域が多いと考えられるが、教団への従属から離れていたり、政治的保守主義との結びつきが弱く、自己決定を重視し、社会変革の意図をもつものも少しあるといった点で、私のいうスピリチュアル度が少し高いと思うので、伝統宗教よりも少し右・上にずれた位置に書いておいた。しかし全体として社会改革から目をそらして、主観的自己変容を重視するものが多いので、真中よりも下に重心がある。

ホーリズムは、ポストモダンかつ新霊性運動的なものの一つであるが、重要な視点を総合的に提供しているので、今回はとくに独立したものとしてあげておいた。「自民党的政治、エゴ的生き方、オカルト、迷信」といったものはとてもレベルが低いので、左下に位置する。
最後に、「芸術的活動」に言及しておくと、それは「混沌の闇世界」のエネルギーをそのままの形で表出するものなので、基本的には右側の領域に位置すると思うが、社会性についてはまったくバラバラなので、図に書き込むことができなかった。私の希求する「皆がもてばいいとおもう自己の創造性、社会性を表すアート」は、右上に位置するだろう。

2〈スピ・シン主義〉の思想的特徴
ニヒリズム、ポストモダニズム
以上が基本的な〈スピ・シン主義〉の思想上の位置であるが、各要素を対比的にまとめたものが図表―3である。以下、それをベースに、いままでのまとめも含めて補足しておこう。
〈スピ・シン主義〉は、哲学的・思想的には、ニヒリズム(虚無主義)とポストモダニズム(近代主義の限界を意識するという意味での広義ポストモダニズム)を基礎のひとつにもっている。近代社会では社会全体に通用するような道徳体系は存在しない、絶対的普遍的根拠(絶対的善悪)などない、「大きな物語」の正当性などないという近代批判(近代合理主義批判)、つまりニヒリズムかつポストモダンを一度通過している考え方である。
ここでいう「ポストモダン」とは、繰り返すように、知的遊戯にほうける相対主義・無為主義的な「狭義の、いわゆるポストモダン」ではなく、経済成長依存に基づく近代合理主義の時代限界性を意識化する営み、すなわち、成熟段階に対応した「脱成長主義、脱近代主義」を模索する営みとしての、「広義のポストモダン」の意味である。
近代主義・啓蒙主義への懐疑としての〈スピリチュアリティ〉概念であるが、それはまた、既存の宗教や道徳・規範、権威や制度もいったんニヒルに否定し、個人を従来の束縛から解放すると同時に、無根拠の恐怖、孤独の覚悟をもまた出発点に据えなくてはならないと自覚するものである。言い換えれば、近代社会を相対化して捉え、そこでの価値の歴史的特殊性を自覚する。誰にも自明的な普遍的共同体などないということを確認する(この段階に、異質な者たちの共生のルールとしての「狭義のシングル単位論」が対応する)。「科学」のたつ基盤の脆(もろ)さ、相対性を自覚する。立証不能なことは多く、不確実性が私たちの人生を覆っている。論理的にみて「AだからB」とみえていても、実はそこに無数の飛躍が隠されていることを自覚する。私たちは思いのほか、共通の思い込みや飛躍をベースにコミュニケーションしているのだ(拙稿[2003b]参照)。そこには大きな深淵がある。


挿入 図表―3 〈スピリチュアル・シングル主義〉の価値体系

旧秩序 ⇒ 解体 ⇒ 新しい秩序の模索
家族単位システム 〈スピ・シン主義〉的
システム
社会環境の変化
モダン ポストモダン
高度成長 ゼロ成長 低成長・成熟社会化
近代国家枠内の発想と実態 グローバル化
貧しい社会 成熟社会 豊かな社会
冷戦時代 左右対立 冷戦終結、社会主義崩壊
標準家族が多数 「標準」の減少

価値観 物質主義 ポストマテリアリズム(脱物質主義化)
民族主義、ナショナリズム 文化多元主義、異質なものの共存
同質性 多様性
一国主義視点 世界は一つ、グローバル視点
地球環境問題の浮上
狭義の経済重視主義 文化、環境、人権、教育、医療、福祉、住居など非物質的価値が重要と認識され、思考枠組みに組み込まれる。コストとベネフィットの計算に組み込まれる。
モダニズム的価値体系 ポストモダニズム、アナーキズム
(エゴイズム、自己犠牲
禁欲主義、道徳主義)

政治 旧左翼と右翼の対抗 自立した市民中心の新しい政治
国家と企業と抵抗勢力による妥協 NPO/NGOの重要化
としての政治 国家間の連携強化、地方分権化
近代主義枠内改革
既得権擁護で新しい変化に反対
経済成長を背景とした福祉国家化 新しい社会民主主義型福祉国家
小さな福祉国家
新自由主義、市場万能主義
差別主義(少数派排除)と マイノリティ/被抑圧者の視点からみた
機械的平等主義 多様性の重視
多数決による決定(多数派) 少数派の権利重視
標準重視 標準廃止 多様性平等


社会の基礎単位
家族単位 ⇒ 個人単位

人間関係・組織の発想とルール(つながりの論理)
役割 脱役割
共同体 脱共同体
ジェンダー維持 ジェンダー・フリー
性差別 ジェンダー平等
性的少数派の権利
同質者の道徳・異質排除 異質者たちの共存
<男女二分法> 非<男女二分法> ⇒多様性・個人差
男女異質、同性は同質 同性内の差異承認、
両性間の接近・類似・重複の承認
同性愛、トランスジェンダー、インターセクシャルなどの多様性の中に異性愛を位置付ける
ステレオタイプ 非ステレオタイプ
暗黙のルール 明示的ルール
片働き異性愛結婚が当然 多様な関係の承認と権利保障
それ以外を逸脱視
結婚・出産が幸せ 幸せの多様化
家庭内の調和を前提 家庭内に問題があることを承認

愛重視 〈スピリチュアリティ〉重視
(家族愛、愛社精神、愛国) 友情・友愛(家族や国家を超えた繋がり)
保護/支配 反コントロール、反保護
組織やルールや法や共同体 自己決定、個人間の柔軟な対応
を尊重した運営 ネットワーク:連帯
恋愛的愛という激情の美化 反激情
マニュアルあり・答えあり マニュアルなし・答えなし
まず共同体 その下に個人 まず個人、それを基礎に新しい
つながり、ネットワーク
和、人並み、調和、服従 自由、自立、自己決定、多様性!
一体の役割家族 距離感あるスピリチュアルな「家族」
個人の生活力上昇
必要・利用としての関係 必要・利用でない関係
ノン・エンパワメント エンパワメント
自己否定 自己肯定
優越・劣等・競争 比較・競争しない
過保護・甘やかし 自立 適度の突き放し・厳しさ・見守り
過干渉 自己決定 自由重視 干渉拒否
多様性尊重
冷静 適切な距離感
責任付与 頼まれれば協力・援助
力、権力、暴力 非権力・非暴力
権威主義 権威解体、自己決定
支配・主張のしあい 理性的・対等な話し合い
(闘争と服従) 対等に聴きあう関係
所有の感覚 〈所有する者〉 非所有 〈所有せざる者〉
収奪、〈レイプ〉 他人への寛容
他者への不信・エゴ 世界・他者への基本的信頼 協力
共感 他者への正当な関心
他者との切断 つながりの自覚
義務的責任 押し付け合い 積極的責任感 貢献感(役に立ちたい)
あわれみ 同情 尊敬 共感 協力
保守的・因襲的 創造的破壊、ユニーク、革新的
世間体を重視 世間体を気にしない 自己の視点重視


立場の選択、近代の徹底
しかし、私の考えは、そうした「無根拠さの確認」「混沌の闇世界の確認」にとどまるものではない。シュールだ、不条理だとカオスをそのままカオスとしてつかまえ、あるいは「無意識」を自分勝手に解釈して、人々の真剣な生き方を横からあざけるように批評し、わかった気になるようなおろかな無為主義者ではない。つまり簡単なことを難しくいうだけの非実践的なインテリの限界を批判的に意識した論である。通常いわれる「ポストモダニズム」の価値相対主義に基づく政治的無為主義、事実上の現状肯定(価値間に優劣なし、「輝きなき日常でよい」論)に対しては、近代合理主義の積極面を擁護すると同時に、積極的に現在のシステムの中で自分の占める位置を確認し、自分にできることを秩序との関係を考えながら選ぶという「立場」、「イデオロギー」の観点を入れるものである。「客観的なただ一つの真実」ではなく、自分の立場や視角から再構成された「私にとっての現実」をベースに考え、ぐちゃぐちゃ言うだけではなくて行動する(本稿で繰り返し用いる〝リアル〟〝リアリティ〟はこの〝現実〟概念にもとづくもの)[2]
「エゴイズムな個、閉塞の個」という問題に対しても、ポストモダンな個人がどこに向かっていくべきかという問いに、安易に「憧憬としての宗教、近代家族あるいは前近代的共同体への回帰」を対置するのでなく、スピリチュアルな力に基づく新しく作り出すネットワークと具体的なシングル単位の社会システム(広義)を提起する。「シングル単位論」は、各拙著で示したように、近代を徹底する現実的積極性を明確に意識つつ、近代の徹底の先に近代秩序自体の解体をめざすというポストモダンを基本的な基盤とするものである(二段階戦略)。制度や政策が人々の意識を規定していく点を重視するという観点から、社会民主主義的福祉国家をひとつの実際的目標とする(過渡的目標であり、さらには近代的枠組みを超えるシングル単位システムの構築を目標とする)ものであり、その意味で唯物論的発想(広義)を維持している。
立場の選択の問題、利害・階層と価値観の問題、「物語」の選択の問題、「小さな関係」を作る自由の問題である。「大きな物語」はなくとも、自分にとっての選ぶ価値のある「物語」はあるとみるのである。イデオロギー的飛躍を論理体系に入れ、「前向きの幻想」「選択の自由」へと話を展開させる、ひとつの「主義(イズム)」――それが普遍性を持たないことを自覚する「主義」――である[3]

宗教的精神性の尊重、イデオロギー、文化多元主義
〈スピリチュアリティ〉概念は、まず直接的には、救済宗教や新霊性運動の中にあって私が積極的と思える部分であり、その意味で思想的には宗教・新霊性運動の一部という側面をもっている。また〈スピリチュアリティ〉概念は、人間社会を、各要素が相互作用しており、互いに相手の可能性の条件となっているような有機的な複合体(システム)とみる見方を反映した概念でもある。それを「丸ごと」「全体性において」ホリスティックに捉えると表現している。
ただし、そうしたシステム論的な把握からは、〈スピ・シン主義〉的な「価値を積極的に押し出す見解」への批判があることには注意を払わなければならない。たしかに、従来の社会批判や積極的な社会理論が、ともすれば自分の視座を神のように絶対的真理の視座として、それを基準に展開するものであった場合がある(しかもそのことに自覚的でない)こと、言い換えれば規範的な理想を定式化してそれを尺度として現実社会を評価してしまったことがあったことは忘れてはならない。
しかし、先述したように、私はだからといって価値相対主義による無為主義を選ばない。そこに自分の立場、意欲に基づくイデオロギーをいれて、限定された認識間の闘争の一翼を担うことを選ぶのである。自分一人がすべてを示すことはできないが、自分の立場から見える「隠れた構造」を「暴露」することはできるし、今とは異なる社会発展の可能性を示すことも、自分の立場から見える社会の病理およびその問題の解決方向を指摘することなどもできるのである。つまり、システム的に相互関係において自分のイデオロギーや実践、その責任や影響を組み込むのである。
この視点に立って、国際的な人間関係においても、〈国境〉を超える、文化多元主義・多様性尊重の立場をとる。単なる価値相対主義は、ファシズムやナショナリズムへの道も開く(なんでもあり、絶対的真理というデマゴギーを伴って)が、私は絶対的な価値がなく、私の認識が歴史的制限、文化、民族、国家、諸制度、階層、個性を通じてのみたち現れることを自覚するがゆえに、他者(他文化)の認識をも、私の認識と同じレベルで「認める」。相互尊重、相互承認の上に、歴史的、文化的、社会的立場の限定を自覚して、私は私の「意欲」を語るのである。
言い換えれば、以上のことは、私の立場や実践が他者にとっても正しいということを意味しない。自分が特権的な立場に立っていない、自分にも「みえない点」があることに自覚的であるべきは当然であるということである(文化多元主義の意味)。その相対性は死ぬまで持ち続けなくてはならない制約である。

オドー主義、アナーキズム
こうした思想的立場は、ル=グウィンがいう「オドー主義」に近い。「オドー主義」は利他性を尊重するが、それは自己否定、自己犠牲、禁欲主義ではない。自己の喜び・利益としての利他性である。オドー主義は利他主義ではない。「人のためにしなくてはならない」「自己の利益よりも他者の利益を優先しなくてはならない」という強制が一切ないからだ。オドー主義には強制はなく、そうしたいからするのである[4]
また「オドー主義」はアナーキズム(無政府主義)である。ここでいう「アナーキズム」とは、単なるテロリズムや無責任な口先だけの批判をするもののことではなく、また極右の人々が掲げる社会進化論に基づく「経済自由主義」のことでもない。初期の道教思想のなかに予示され、のちのシェリーやクロポトキンやゴールドマンやグッドマンによって解明されたところのものである[5]
私の〈スピ・シン主義〉もこのアナーキズムの精神を基礎にもっている。すなわち、権力主義国家を批判し、権威主義的なあらゆるものと闘うというプロセスにこそ希望をもつものである。自分たちをいつのまにかがんじがらめに縛りつける「善」「道徳」に警戒的になり、「協力」「自発的」という名で自己抑制し従属することに意識的に対抗するような、そんなアナーキズムである。自分の自由を押え込む目に見えない壁を壊すような意識的な「反逆者」である[6]。アナーキストは、自ら選んで選択の責任を受容するもののことである[7]
とするなら、上からの「大きな物語」にもとづく秩序に規定された調和的善状態に潜む強圧的抑圧を嫌悪し、むしろあらゆる場所、あらゆる時点からの不断の抵抗こそが全体における「善」に最も近くなるであろうとみる立場である。ニヒリズムから単なる無気力(無為)になるのでなく、論理的かつ批判的であるような、健全な懐疑主義としての、アナーキズムである。したがって実践上は、個人の自由意志をベースにした、身近なところでの具体的抑圧に対抗する小さなレベルの具体的連帯と具体的相互扶助を提起する。

〈スピリチュアリティ〉という幻想
これはいいかえれば「自分にとっての物語を楽しむ力」を尊重するという視点でもある。物語(幻想)こそ、人間の特性、人間の文化の特性かつ個人の自由の基礎とみるのであり、それを非合理だといって切り捨てる傲慢さ、単純さ、および非現実性をやめようというのである。ここに〈スピリチュアリティ〉概念が重要となってくる。
〈スピリチュアリティ〉〈たましい〉とは幻想の側面をもつものである。しかし、私たちの生き方を左右する力をもち、複雑性と多様性と総合性を近似的に捉え、美しくよくできた概念である。しかも身体/肉体と不可分なものという意味では実在しているものである。人間の愚かさを示し、同時にこの世の不思議さや偶然の中で、個々の人間が生きていく上で、類として「善なること」をなしうる可能性をもたらすような、可能性ある概念である。それは、近代的人間の認識や理性の限界を超え、人間のいいかげんさを含めて人間の連帯の可能性を広げる。世界の存在の実情と実存に近づくときになかなか使い勝手のよい概念である。しかしもちろん、完全無欠に人間や世界を正しく反映しているわけではない。小さな頭脳しかもっていない人間という種には複雑な世界をそのままつかむことができない。
ただ、人間が作り出した二分法、理性と非理性を、再び統一するような作業において、「双方の尊重」というように示せる、人間観、生命観、社会観、世界観を変革するときの鍵となるような概念である[8]。本当のところはわからないが、人間の分かったような傲慢さを反省して、過去の良質な人々の経験や知恵に学びながら、寛容と沈黙を基礎に、トータルにつかもうとする概念である。従来も主体/客体、理性/非理性を統一するような志向をもった〈スピリチュアリティ〉と似たいくつかの概念はあったが、神秘主義に流れたり、西田幾太郎『善の研究』のような、難解な言葉でごまかすような傾向があった。〈スピ・シン主義〉はそうしたものではありたくないと意識するものである[9]。思考以前の未分化の世界という発想はわかるが、それを小難しい言葉に置き換えても何かが新しく付け加わるわけではないし、矛盾したものを言葉の上で結合させたからといって、その矛盾がなくなるわけではない(宗教の愚かな神学問答の二の舞に陥ってはならない)。平易な言葉で説明できるか否か、現実的に変革する力があるか否かが大事である[10]

 

思想潮流:ポストモダンと宗教と新霊性運動と合理主義 

ここでは、他の人が世界的な思想状況をどのようにみているかを紹介することを通じて、〈スピ・シン主義〉の位置を探ることとしたい。 

宗教や新霊性運動には、限界もあるが、共通した「良い点」――物質第一主義を批判し、愛や友情や寛容や慈悲や精神的成長を重視するような総合的観点――もある。また、歴史的事実として、宗教的思想は、資本主義の展開・発展の中で消滅していく前近代的迷信ではなく、精神・文化面を中心に息長く存続する力をもっているものであった。その意味で、現代世界思想において、救済宗教は重要な位置を占めている[1]。 

現代における重要な思想的潮流としては、救済宗教、新霊性運動のほかに、もちろん近代合理主義もあるが、それに加えてポストモダニズムも、独自なものとしてあげることができると思う。ポストモダニズムは、周知のように啓蒙的合理主義が近代的枠組み(特に先進工業国)の中での思考体系であったことを暴き、そこでの真理・価値・規範・道徳は、宗教や諸民族の伝統的価値と同価値でしかないというように、認識論においても倫理においても、近代合理主義および宗教の「優位性/普遍性の自覚」に対してそれらの相対性を指摘するものである。これは、まだまだ近代主義が根強い中で「一部専門家の理屈」として軽視されている面もあるが、その内容や議論の質の完成度からいって、まぎれもなく、ひとつの思想潮流に数えることができる。 

 

 こうした現代の思想潮流の並列状態に対して、アーネスト・ゲルナー氏(社会人類学者)は次のようにみている(『ポストモダニズム――理性と宗教』、1992年)。彼は、現代世界を導いていく主要な思想的アクターは、①宗教的ファンダメンタリズム、②ポストモダニズム、③合理主義ファンダメンタリズム(啓蒙的合理主義)の3者であるとする。①と③は「普遍的な真理」「普遍的な知」を打ち立てようとする点で類似しているが、①は、近代化の中で非合理なものを信じる基盤が狭くなるので多くの人が従うのは困難である一方、③も実存的危機に応答できず大衆的基盤が十分にもてないと、両者の限界を指摘する。このゆきづまりのなかで、相対主義の②が台頭しているとみる。ただし、これも専門的すぎて大衆的支持を得られないし、内容的にも態度決定から逃避して曖昧な自閉的言辞に閉じこもるという欠点を持っており、決定的勝利を得られないので、結局、現代は3つの思想が3すくみの状態にあるという(ゲルナー氏自身は③の立場)[2]。 

 私は、現代の思想的潮流を把握するためには、このゲルナー氏の3者見取り図をベースに、「宗教」にその亜流として「新霊性運動」を入れるか、あるいは上記3者に新霊性運動を付け加えて「宗教、新霊性運動、合理主義、ポストモダニズム」の4すくみ状態とみるのが適切であると思っている。その上で、そのどれかではなく、それらのいいところを総合して新しいバランスを作り上げる〈スピ・シン主義〉ができないかと模索するのである。 

 

また、ポール・ヒーラス氏は、新霊性運動を、「大いなる自己」「超越的実在と自己」というように自己を中心化するもの(自己宗教self-religiosity)と捉え、ポストモダンは自己を非中心化するものであるので、両者は異なるものであるとする。新霊性運動が重視する「聖なるもの」は前近代的なものであり、伝統への回帰を否定するポストモダニズムとは別物とみる。 

 それから哲学者スティーブン・トゥールミン氏(『ポストモダン科学と宇宙論』82年)は、科学哲学の知見をもとに、ポストモダン的な知、科学と宗教の複合的知への「知の構造の変容」を示す。もともと結びついていた自然宗教と自然科学が19世紀後半に切断されたことは必然ではなく、近代科学が生態学や心理学等人間・生物を対象とする科学を含めて総合的に発展せずに、二元論的問題、専門化による限定厳密主義、客観主義、テオーリア(観想)の態度といった欠点をもったためであるとする。しかし、いまや客観主義、傍観者的、専門分化的な科学の限界が露呈し、専門分野の枠内では解けない問題も多くなっている。観察する科学者は被観察者と実践的に関わっているのであり、傍観者としての科学は成り立たない。したがって、今後は、客観的な態度と倫理的実践的態度との結合、自己から切り離された部分の研究でなく、自然全体の秩序とそこでの人間の地位を問う営みが必要とする。宗教が、ポストモダン科学、心理療法(心理学)と生態学、ニューサイエンス的なものをとりこみ、新たなコスモロジー(全体的世界像)をつくることが必要であるとする。 

 哲学者チャールズ・テイラー氏の論考(『「ほんものの自己」の倫理』91年)は次のようである。テイラー氏は、「ほんものの自己」の倫理概念[3]を用いて、それを近代的個人主義の核心とみなし、評価する。現代文化批判を近代の個人中心主義に帰して宗教復興を唱える論(ダニエル・ベル等)や、ポストモダン的なアイデンティティの解体を批判し、「ほんものの自己」の理想こそ、今後も大事にしていくべき道徳的理想の力を持っているとみる。それは、「ほんものの自己の倫理・文化」のなかにある「誰にもかけがえのない人権がある」という観念、日常生活を大切にしそのなかで他者を承認することで各人がアイデンティティを保持できるという観念を含むので、それによって道徳的倫理的力があるということになる。ただし、この積極性を見失わないためには、自己実現や独自性の発揮において、自己を超えたもの(歴史、自然、社会、他者との連帯、神)とのつながりが不可欠であるということを忘れないことが重要であるとする。それを無視して、主観主義が強くなると「ほんものの自己」は社会の断片化、エゴイズム、柔らかい専制政治になってしまうと警告する。 


 これらの論考は、すべて、宗教、新霊性運動、ポストモダニズム、合理主義などの区別と存在価値を認めつつ、各人なりのニュアンスの違いで、強調点や支持する潮流の相違があるとみることができる。現代世界の思想潮流として、救済宗教と近代的合理主義以外に、新霊性運動やポストモダニズムといった重大な潮流があること(宗教対科学、伝統対近代の2項対立でなく3者あるいは4者の対抗状況)を認めている点で共通性があることは確認しておくべきであろう。 

新霊性運動は、新しい「霊性」に基づく文明が実現すべきものと考えており、自己概念に基づく精神的高次への志向も、普遍的価値や善悪概念もあるところの価値志向的なものである。一方、通常いわれるところのポストモダニズムは、どう考えてもその中核には、普遍的価値の解体――近代的価値の相対化、自己中心性の否定――がある[4]。この点を除いては、社会科学で用いられる「ポストモダン」概念はありえない(「近代の後」という程度の一般名詞の意味で、なんでもかんでも「ポストモダン」に放り込むというなら話は別であるが)。つまり、思想としてのポストモダニズムは、間違いなく新霊性運動ほど「価値志向的」ではない(この点で、新霊性運動は、ポストモダニズムよりも既成宗教に近いといえる)。したがって、ポストモダニズムを新霊性運動と同一視することには無理がある[5]。 

 こうした認識をベースに、私は、現代世界における重大な思想的課題が、宗教と近代合理主義および新霊性運動やポストモダンのそれぞれの欠点を排除したうえで、それぞれの長所を掴みだし、それを統合し新しいバランスを作り上げる点にあると考える。 


現代思想に客観主義で臨んでいいものか 

 島薗[1996]は、本稿でも利用しているように、検討するに値する好著であることは疑いえない。しかし、全体を通読して、私は氏の記述方法やスタンスに不満をもった。というのは、当事者や賛同者の声と批判的観察者の声、洗練された学問的レベルと大衆運動レベルがともにあるような複眼的・多重的記述を目指すということで、賛成論と批判論を随所に挿入するのであるが、その結果が単なる並列になっており、主張の矛盾も放置され、しかも、傍観者的態度を避ける、各論との対話的姿勢ももつとしつつ、同時に「学問的な手続き」にもそって記述しようとするので[6]、きわめて最終的結論の明確性が欠けているのである。それは同書の結論部分とでもいうべき最終15章の論理展開と結論の不明確さに顕著である。 

 なぜここでこの問題を提起したかというと、新霊性運動にしろ宗教にしろ、現代の重要な思想問題を論じるとき、私は自分の立場や分析視角や価値判断は、自分で明確にすべきと考えているからである。島薗氏も自覚しておられるように(だからこそ記述方法にも上記のような複雑性を導入したはずである)、傍観者ゆえに科学的客観的視点をもてるということではないのであるから、氏はもっと明確に新霊性運動や宗教について、自分の見解を出すべきであった。だが、一方で「何を素材としてどのような判断を下しているのか、できるだけ透明になることを目指している」という理由で「学問的研究」の伝統に従うために、結局「主観を排した、並列的記述が科学的である」と信じて書かれた本のような構成になっているのである。つまり、総体として客観主義的で自分の主張(価値判断)がないのである。 

 現代の思想的課題の困難さを十分に自覚するなら、AやBやCの提示(紹介)だけでなく、その上で自分としてはどのようにそれら先人の思想や行動と格闘し、今のところの最終的判断はどこなのかを示すことこそ求められているのではないのだろうか。そうした自分の知的格闘の結果の自分の視点こそが、AやBやCを本当に紹介したり論じることにもなるのではないのか。もちろん、単純化は避けなければならない。批判をするとしても内在的でなくてはならない。AやBやCにはそれぞれいいところも悪いところもあるだろう。だが繰り返すように、その両面/功罪/長所短所をみた上での自分の総合的判断が、実はAやBやCの本当の積極性/欠点を記述するときに必要な基準となるのである。 

 

新霊性運動の本質把握には社会改革との関係が重要 

 この不満をもう少し具体化しよう。島薗[1996]は400ページ゙弱とかなり分厚い著作であるが、本文最終ページにようやく「新霊性運動がエコロジーや人権や社会正義など、現代的な社会倫理に対する意識を強めていく可能性がないわけではない(例えば欧米の緑の党はそうした可能性をはらんでいる)。その場合には、新霊性運動のある種の勢力が、ある種の救済宗教勢力と連合しつつ、政治経済的により公正で非抑圧的なグローバル社会に向けて、治癒的な影響力をもつことも、考えられないことではない」という記述が出てくるのである。だが、その評価に関わる本質的に重要な点が、最後に付け足しのように「可能性がないわけではない」、「考えられないことではない」と曖昧に記述されるとはどういうことであろうか。これは島薗氏の分析視点において、この点(人権やエコロジーなどの社会性)が重要でなかったことの現われといえないであろうか。 

 私が自分の立場を示して分析すべきというのは、ここを指しているのである。「可能性がないわけではない」などと曖昧な、いかにも「学者的傍観者的客観主義」の表現をして終わるのでなく、どういう要素/要因があれば、「その社会正義の可能性が実現するのか」、「それは本当に現実化するのか」を具体的に言うべきであると思われる。それこそ、新霊性運動の本質/性質をつかむ作業なのではないか。口先だけなら、ドイツ・ファシズムも日本軍国主義も、既成宗教(新宗教)も、オウム真理教も、近代主義も、各政党も、美辞麗句を繰り返してきたではないか。一般論でなく、新霊性運動の実際の影響や実態を見るべきである(そこと結びつけた深い理論的分析をすべきである)。一般的な言葉を言うだけでは、まさに新霊性運動の弱さを引き継ぐだけである。 

 私の評価は、「公正で非抑圧的な社会に向けて影響力をもてる」には、なにがいるのかを考えないまま、自閉的に修行や瞑想に逃げているところに、新霊性運動の本質的特徴/欠点があるというものである。フェミニズム一つに対してもほとんどの新霊性運動はまったく無理解であり、これらが新霊性運動の本質的欠陥である。したがって私は総体としての新霊性運動に基本的に期待をもてない。「緑の党」を希望のように言う記述はその本ではここで初めて出てきたし、ここまで新霊性運動が反原発運動とどう関わっているかひとつ述べていない。理論上でさえ、環境保護運動と新霊性運動の主張がどのようにかみ合い、どこで齟齬があるのか検討されていない。同書ではそんなことにはほとんど関心が向けられないのである。同じく、「人権」というなら実際のフェミニズム等との関係を分析すべきであるが、それはまったく重視されていない。 

 私には、「人間の解放」「自然との共生」とは、何より、職場の性差別をどうするのか、離婚後の養育費や親権をどうするのか、原発をどうするのか、環境政策をどうするのかといった大事な点で評価されるものである[7]。身近なレベルにおいても、具体的に力を奪われた人、傷つけられた人が支えられるような実践に結びつかねばならない。過労死するような長時間労働実態を放置しておいて、自然との共生でもあるまい。 

一般論はオヤジ的学者だけで十分だ。新霊性運動が、現代に危機感を持つなら、それは、終末とか、苦悩一般、環境破壊一般、「進化」や「公正な明るい社会」「苦しみからの解放」一般でなく、具体的な人権や環境の問題への身体性を伴った反発、それに基づく深く具体的な提起と実践でなくてはならない。それに鈍感なものが、「政治なんて」と言って「修行や瞑想」に励むとすれば、そんな新霊性運動は、本質的にかなりつまらないものだというべきであろう。 

 

ディープ・エコロジーなどへの批判を踏まえる 

 自然の摂理に畏敬・尊敬の念をもつこと、生かされていることそれ自体に感謝すること、などは世界(各宗教、歴史)に共通した「いい発想」だと思う。自然との調和をめざすことを野蛮、未開、幼稚、非合理とみなすのが間違いであることは今や明らかだ。自然の「霊性」にふれるというようなことを感性と知性の基礎としている人々がいることは、希望である。石牟礼道子さんが「石にも木にも心がある、命のないものはない」といい、そのまなざしで世界を見ることには、学ぶべきものしかない[8]。 

 こうした世界の良心の積み重ねを、エコロジーにそくして哲学的理念的にまとめ上げる動きが、「ディープ・エコロジー」、「エコフィロソフィ」である。「浅いエコロジー」が、資源効率、人口抑制など、技術レベル、狭義の「科学」レベルに限定された議論であるのに対し、「深いエコロジー」は、哲学的、宗教的側面まで含む。提唱内容のポイントは、「自己感覚の拡張、自己同化(環境は私の舞台ではなく、私そのもの)、自己と他者の連続面の強調、すべての存在は価値(本来的価値)があると知ること、多様性自体が価値とすること、人間は生存にどうしても必要な場合以外、この豊かさと多様性を傷つける権利はないとすること、人間の繁栄と人口削減は両立可能であること、人間の環境破壊は行き過ぎていること、生活の量的発展でなく質の見直しをみること、できる範囲での行動をすること」などにある。 

 

 このディープ・エコロジーに似たような動きや言説は、上述したような新霊性運動関連として、今ちまたに溢れている。その言葉・指向には賛成できるところも多いが、よくみるとそこには、玉(すばらしいもの)も石(つまらないもの)もあることはまちがいない。森岡正博氏は、『生命観を問いなおす』(森岡[1994])で、今までのこの種の議論の底の浅さを批判している。特に、ディープ・エコロジーや生命主義などの多くの言説にある、ロマン主義(自然や生命賛歌、リサイクル主義、エコナショナリズム、森の文化論、癒しの商品消費などの安易な希望論)を批判している[9]。それは、きれいな言葉を唱えるだけで、今のシステムのうえでは、消費されるだけの、共犯関係のものであり、資本主義という今の社会経済システムを何も変えないものだというのである。同時に、「技術テクノロジー、近代社会が悪い」という「外部に敵があるというスタイル」がまちがいだという。もっともな指摘だ。 

 その上で、生命や自然自体に、人間という生命自体に、生に執着するエゴがあるとして、そこをみなくてはならないとする。当事者が同意すれば(あるいは善意の行為という主観があれば)何でもしてもいい、何でも利用すればいいというものではない。そういう意味で人間の部品視を批判する。敵は、自分たち自身のなかに、快楽追求の生命自体にあるという提起である。 

外部にあるものを貪欲に何でも利用しようとする運動がシステム化された資本主義システム自体(科学技術文明と社会システムが、人間の本性と共犯関係)を批判しつつ、人間の欲望自体に自然破壊的なところがあることを認めて、人間を部品視、物質視する事を前提としてなり立つ、欲望従属の大量消費社会システムを補強しないという方向、人間の執着を拡大するものに反対する方向をめざすというのは、〈スピ・シン主義〉として僕が追求したいバランスにとても近く、正しい指摘とおもう。 

宮崎駿氏も同じようなところに至っている(宮崎駿[1995]『風の谷のナウシカ』)。また、花崎氏も、少し違う角度からであるが、ディープ・エコロジーなどにしばしば見られる、体験を恣意的に意味付けする独断論、予言や神秘めかしたイデオロギーの傾向を批判する(花崎[1994])。いずれももっともな批判視点である。 

 また、「貴重な動植物や美しい森林」を守ることばかりに専念してきた従来の環境保護運動主流に対し、「環境とは私たちが暮らし、働く場所そのものだ。人間も母なる地球の一部であり、守られるべき環境だ」というように「環境」を再定義し、貧困や経済格差を環境問題として取り上げるべきとする見方[10]も、米国でひろがりつつある。有害廃棄物処理施設が非白人地域に集中しているという「環境差別(環境レイシズム)」問題が、米国でも取り上げられつつあり、人種・階層間の「不均衡な健康被害」を解消することを目指す「環境的公正政策」がクリントン政権下である程度進められた[11]。マイノリティの人々による、従来の白人中産階級中心の運動への批判の文脈で、エコロジー運動の射程の拡大が進んでいるのである。自然との調和問題についても、〈スピ・シン主義〉は、こうした流れの中でこそ考えられなくてはならないと考えるものである。 

 

3 オメラスから歩みさる〈スピ・シン主義〉 

政治的な位置 

 〈スピ・シン主義〉は、政治的側面を考慮するとどのような位置にあるのだろうか。先に4分類(近代合理主義、宗教、ポストモダニズム、新霊性運動)を提示したが、私はそれをふまえて、自説の〈スピ・シン主義〉の政治的位置を明らかにしたいとおもう。 

 福祉国家の類型論における代表格である、「権力資源」に注目した分類では、社会民主主義(北欧等)、自由主義(米国、カナダ等)、保守主義(ドイツ、オランダ等)、急進主義(英国、オーストラリア等)の4類型があるが、これは労働運動のパワーや社会政策の特徴を重視した上での近代主義国家の分類であった(先進資本主義国以外では、社会主義型や途上国型、宗教重視型もある)。この分類では〈スピ・シン主義〉は社会民主主義国家路線に近いといえる。 

 だが、国家や政治路線の分類は、何を分類基準とするかで多様な線引きが可能である。本稿では、私が21世紀を展望する上で大切とおもわれる点をふまえて、上記の哲学的・思想的な位置を反映した私なりの分類を提示したいとおもう。すなわち、近代主義の枠内か、枠外のポストモダニズムかという基準と、人権重視か市場エゴイズム(個人競争)重視かという基準でわけたい。そこに宗教的路線も付け加えたい(図表-4)。 

 

挿入 

図表-4 21世紀の政治的路線の類型 

近代主義か否か 主要な価値 代表的国家(路線) 

近代主義 市場エゴイズム ①新自由主義、ナショナリズム(米国) 

 (共同体重視) 人権重視 ②社会民主主義(狭義シングル単位論)(北欧) 

 宗教重視 ③宗教的保守主義、(イスラム国家) 

 資本主義化 ④近代化国家(途上国の資本主義化) 

 (高度成長) 高度成長対応・家族単位型(日本) 

 

広義ポストモダン 市場エゴイズム ⑤市場依存型(西欧現実)路線 

 (個人重視) (制度と市場の折衷、 

 狭義のポストモダン路線、宮台路線) 

 人権重視 ⑥シングル単位の社会民主主義、 

 〈スピ・シン主義〉 

 宗教重視 ⑦新霊性運動的政治 

 

 

近代主義的政治 

 まず、モダニズム(近代主義)は、伝統組織=共同体重視の政治といえよう。近代主義が作り上げた、何らかの「共同体」の神話性への根源的批判(相対性の自覚)がない段階なので、共同体という物語の力を利用する政治となる。その中には、エゴ重視/個人競争重視の市場中心主義、新自由主義型の政治路線(小さな政府路線)(①)がある。ここでの共同体重視とは、国家や伝統的家族や民族の強調につながるので、ナショナリズム的志向、マイノリティの人権否定志向となる[12]。新保守主義は、広義の福祉国家における、この先祖帰り/単純路線/右翼路線の強い自覚に他ならない。 

それに対して、近代主義の枠内での人権重視の路線、すなわち社会民主主義路線(②)がある。ここでの共同体重視とは、少数派を含む社会的連帯や労働組合組織の重視の意味であるので、労働者を中心とした福祉国家の拡大路線(大きな政府路線)となる。基本的にこの福祉重視路線は、高度成長期の経済成長を基盤にしているので、低成長期には、何らかの修正が迫られる。それがこの枠内のもの(②)か、脱近代化にまでいたるかによって、後述する⑥との違いとなる。 

 その他、近代主義の枠内でありながら、宗教性を重視する路線(③)もみておく必要がある。典型はイスラム国家であるが、その他の宗教も近代主義国家の枠組みと共存の道を選んできた。上記の自由主義ナショナリズムと、宗教的保守主義は親和的である点も忘れてはならない。ここでの共同体とは、宗教的枠組みが前提とする家族や宗教的地域共同体(宗教団体、教区など)である。世界的な社会経済状況が混乱を極め暗黒暴力社会化が進む中で、先進国的成功を得られない後発国において精神性重視の気分を反映して、この宗教的路線も力を持ちつづけるであろう。 

 また、世界システムは搾取し続けるために第3世界を構造的に存続させるので、そこにおける成り上がり指向=近代化国家路線(④)も当然存続することになろう。これの亜流が、大量生産・大量消費型、高度成長対応で、性差別(家族単位)を組み込んだ型の資本主義システムで、日本がその例である。 

 以上の近代主義の4路線に対して、私は基本的に「反対」である。それは、社会経済構造の変化に対して、鈍感(近代という特殊性の無自覚)か、あるいは先祖帰りしようとする「無理」があるからである。展望も希望も感じられない。しかし、政治は現実的な力であるので、なんらかの〈共同体〉という幻想にすがる熱狂の力を基礎とした力技の結果として、21世紀でも当面、この近代主義の枠内の路線が存続しつづけるであろう。 

 

ポストモダニズム的政治 

 それに対して、私が、社会経済構造の変化を反映した政治路線と考えるものが、広義のポストモダニズム的政治である。これは、近代主義的共同体(共同幻想)の崩壊――限界の自覚――をふまえて、近代の枠組みから離れるような自由な〈個人〉を重視する政治といえる。この路線はいまだ、政治的な国家スタイルとして明確には出現していない(ポストモダンという意味で、一国主義の枠を超える志向あり)。その方向での動きがあるだけである。しかし、明らかに、近代主義の枠内にとどまらない政治が求められているし、その方向への試行がすすんでいる。 

 まず、人権を軽視してエゴイズム的風潮を許容する市場依存型路線(無秩序的路線)(⑤)があるとおもう。社会全体が相互無関心になり、制度的な人権重視を減らし、弱肉強食的風潮が蔓延するが、何らかの近代的共同体を志向するような〈熱狂的〉なものにたいして冷徹なスタイルの政治体制であると思う。西欧先進国では、福祉の後退のなかで、しかし一定の福祉を制度的に保障し、近代主義的な極右・新保守主義・ナショナリズム的路線を拒否しながらの、個人主義の道――西欧現実路線(制度と市場の折衷路線)――がありうると思う。狭義のポストモダン思想に対応したシステムとも言える。そして、宮台真司氏の路線も、政治的には、ここの亜流として分類できると思う。 

 次に、個人を重視するが、それがエゴイズム的でなく、人権(社会的連帯)を重視しながらのものである路線(⑥)がある。社会民主主義的な枠組みをベースとしたシングル単位型の政治体制志向の路線であり、北欧とくにスウェーデンがこれに最も近い。スウェーデンは、いまは近代主義国家の枠内にあるが、個人単位制度を整え続けているので、その方向に進みつつあるといえる[13]。そして、〈スピ・シン主義〉は、このポストモダンにおける社会民主主義・福祉追求・人権重視路線の、ひとつであると位置づけることができる。ポストモダニズムかつシングル単位という意味で、個人重視ではあるが、〈スピリチュアリティ〉の視座をもって新しい連帯(新しい人権論の水準)を追求するので、その意味では、社会民主主義的相互支援の高度なポストモダン段階の政治形態なのである。 

 最後に、近代の〈共同体的熱狂〉よりも個人意識に重点が移っているという意味でポストモダニズム的であるが、宗教性を重視しつつ政治的連帯に無関心、既成宗教にも批判的という意味で、上記の2路線と異なる路線、すなわち新霊性運動的政治路線(⑦)もありうるといえよう。これが国家まで含む政治的な完成形をもつとは今のところ想像し難いが、新宗教(新新宗教)が一定の地域で信者を中心に共同体的営為を行いうるように、近代主義内の宗教路線と近似的かつ、既成宗教とは異なるときに、ひとつの政治勢力となりうると考えられる。21世紀型のファシズムがあるとすれは、そうした新霊性運動的洗脳と絡めて出てくるであろう。 

 

 結論は、私は、以上の7路線のうち、⑥の路線、つまり個人を重視するポストモダンかつ〈スピリチュアリティ〉も含めて人間の連帯を重視する政治路線を支持したいと思っている。〈スピ・シン主義〉とは、近代主義でも、エゴイズムでも、新霊性運動でもない、そうした独特の位置にある。逆に言えば、〈スピ・シン主義〉以外の6つの路線も含めて、21世紀はこの7つの路線の共存と闘争の時代であるといえると思う。 

 

オメラスから歩み去るか否か 

 完璧に幸福で平和で自由で喜びに満ちた街、オメラスがある。信じられないというかもしれないが実際にあるのである。ただし、それが維持されるためには厳格な契約があった。一人の子どもが絶対的に不幸で惨めで悲惨でなくてはならないのである。子どもは地下室に閉じ込められていた。最初それを知った人々は悲しみ苦しむが、絶対多数の幸福がもたらされていること、その子をもはや助けてもそれほどその子は幸せにはならないだろうということを考え、やがて現実を受け入れていき涙も乾いていく。それは必要なのだと。だが、ほんの少数だが、オメラスの街をひとりひっそりと出ていく者たちがいるという。街の外がどうなっているのかも、その後の彼らの消息も分からない。オメラスから歩み去る人々がいることだけがわかっている。 

 『オメラスから歩み去る人々』[14]はそんな物語である。これは、ル=グウィンがウィリアム・ジェームズの『道徳哲学者と道徳哲学』の次の部分から立ちあげた物語である。 

 

「それとも、もし、フーリエやベラミーやモリスのユートピアをはるかに凌ぐような世界、幾百万もの人々が永久の幸福を保ちうる世界が、ただ一つの前提、この世界の遠いはずれにいる一人の迷える魂が、孤独な苦しみの生涯を送らなくてはならないという、ただそれだけの条件で我々の前に差し出されたとしよう。そこで我々が直ちに味わう、この特殊で自主的な感情は、いったいなんだろうか? さしだされた幸福を掴み取りたい衝動が心の中に湧き起こりはするが、なおかつ、そうした契約の結果であるのを承知の上で幸福を受け取り、それを楽しむのが、いかにおぞましいことかと我々にさとらせるこの感情は?」 

 

 〈スピリチュアル・シングル主義〉の概念は、ここに関わる概念である。人によると、たった一人の犠牲、しかももはや改善不可能な、現に存在している犠牲とすれば、現実的・政治的判断としてこの契約を受け入れればいいと考えるだろう。無邪気な理想論でなく、現実的な「実」をとることこそ「大人」なのだと。実際の現実社会は実はこれに近い。 

しかし、ジェームズやル=グウィンが「おぞましい」とおもう感覚が私にもある。私は、「オメラスから歩み去る人」になるしかないと考えるタイプである。あなたはどうなのか? 「オメラスから歩み去るか否か」という選択(行動)を一人一人に突きつけ、そのなかで孤独を抱えてでも歩み去る人々がいることに希望を託すのが、〈スピ・シン主義〉である。これは「唯一の正解」ではない。生き方の原則、最も根っこに何を置くかという「自分にとっての原則」の問題である。 

 

社会基盤の変化の反映 

 〈スピ・シン主義〉は、社会基盤の変化を反映している。豊かな社会になり、物質的には恵まれるが、消費が過剰拡大し、旧来型「福祉国家」が行き詰まり、もはや近代化(高度成長)という共通目標を共有できない時代であるからこそ、成長前提のシステムに歪みが生じ、人間関係がギスギスし、物質主義の悪い面が浮き彫りになってくるのである。そうした時、世界システムや経済・社会の仕組みを含めて、広く現実を捉えるならば、〈スピリチュアリティ〉の問題にも行き当たらざるを得ない。世界的には一向になくならない紛争や戦争、南北間経済格差[15]、先進国の社会的行き詰まり、特に日本のように経済ばっかりで文化的精神的豊かさを置き去りにしてきた国での行き詰まり(危機感のなさ)が、矛盾を拡大させ、こうした「次」を求める意識・うねりを拡大させるのである[16]。 

日本はずっと高度経済成長時代の精神――近代化によって大量生産大量消費主義的先進国になろうというメンタリティ――でやってきた。経済も政治も教育もみな、その時代のままだ。だからそれと対峙してきた「反体制側、人権擁護側の運動」も、その多くは近代化志向のままで、今では時代遅れのものになっている。左翼も、労働運動も、その他の民主主義指向の運動も、多くは能力主義、効率主義、権威主義や近代的価値(古い水準での人権や平和提唱)に捕らわれてきた。つまり、今までは日本中で、〈スピリチュアリティ〉が軽視されてきたのだ。もちろん、無意識のうちにそれが指向されていたということはある。家庭で、運動内で、宗教内で、政治で、学問で…。しかし、それは決して主流として目にみえるものとはならなかったし、重視されてこなかった。 

 

システムの変化を目指すもの 

 これからは、〈スピ・シン主義〉のようなことを志向する人が、今よりは増えていく時代だと予測できる(すぐに多数派になると予測しているわけではない)。願望ではなく、それが時代の変化(社会基盤の変化・矛盾)を反映しているからだ。だから、〈スピ・シン主義〉は、単なる「意識の上だけの変化を訴える観念論」ではない。社会の土台を作り替えようという制度と意識の全体を変えていく動きであり、その基盤にはこれまでのシステムの行き詰まりと、それにたいして反発・発生してきた「新しい芽」(国家や市場の限界を意識した利他的・公益的志向)がある。単なる意識上の変化ではなく、世界に対する認識の変化、イデオロギー上の枠組みの変化であり、社会の変化の写し鏡なのだ。 

観念論は、社会のシステムを不問にしたままで、意識上だけの変化を扱うが、〈スピ・シン主義〉はそうではない。「観念論ではない」というのは、社会システムの矛盾に基づく変化であり、社会システムを変えようとする考えであり、変革するときの物質的な力になるという意味である。合理的な姿勢とは、精神の問題をシステムの問題と結び付けるものである。優しい気持ちやスピリチュアルな視点というときも、私は、労働時間を短くすること、不当な扱いに対しては労働組合やオンブズ制度などを通じてちゃんとチェックをできることといった北欧諸国のような社会民主主義的システム作りが絶対必要とおもっている。その意味で、制度論=シングル単位論を手放せないからこそ、〈スピ・シン主義〉なのである。 

 

〈スピリチュアリティ〉を大事にする運動へ 

 しかし「北欧諸国のような仕組みを作れば完璧か」というと、もちろんそんなことはない。完璧な社会はない。北欧にもまた問題がある。そしてその将来は、世界の暗さそのものである。その問題に対処するためには、シングル単位論概念の強調とともに、〈スピリチュアリティ〉概念が重要だと思う。そしてそもそも、日本を北欧社会のようにするというときには、スピリチュアルな視点と結びついたシングル単位的運動が必要なのだ。〈スピ・シン主義〉は、社会運動の仕方に影響を与えるものである。運動のなかで何を大事にするかを示すものである。今の運動のマイナス点を批判するものであり、今の社会にも存在している「かなりいい動き」の本質を顕在化するものである。これまでの人権擁護運動、民主派の運動の底には、〈スピリチュアリティ〉というようなものが多かれ少なかれ流れていた。そこを意識化し、今後の重要な対立点であると整理して、闘い方(目指すべき基本方向)を整えなおす時期であると思う。 

 今の日本では、人権や連帯といってもあまり説得力がない。古いイメージにまとわりつかれてインパクトがなく、概念がくすんでしまっているからである。しかし、人権や連帯などは大事な概念である。そこを伝えるためには、「〈スピリチュアリティ〉を大事にする」というまとめ方が適切な段階になったと思う。若い人に、いや日本中の人に、知性万能合理主義の「乾いた冷たい」感じとは違う次元で、「暖かいハートが大事ちゃうんか」、「スピリチュアル度の低い生き方をしたくないやんか」ということを真正面から提起していくことが重要なのではないか。 

政治家や官僚や会社人間のような、あんなかっこ悪い、汚い、つまらなさそうな生き方をしたくないという気分に、適切な概念――「私は〈たましい〉を大事にしたいんだ」――を与えることが必要と思う。そういう運動でなくては、自分にとっても魅力的でないじゃないかと思う。自分にとって、「これがとても大事で、面白くて、美しい」と思えるからこそ、それを人にも薦められるもの、そういうものとして、〈スピリチュアリティ〉というのはなかなかいい点をまとめている概念だとおもう。そしてそれは、自分の生活スタイルも、運動自体の性質も変えるような力(左派も含めた権威主義や自己陶酔的愚かさを減らす力など)をもっているのだ。 

 

論理偏重がいけないのか 

 藤原新也氏は、次のようなことを言う。「人」にはそれぞれの人生があり、簡単には殺せないが、頭で理解した「ヒト」――テレビゲーム、CG画面の抽象化されたもの――には自分の身体に影響を及ぼさないから、殺人を抑制できないのだという。したがって、論理偏重をやめ、声、身体に近い言葉にしなければならないと。そして藤原氏と似たようなことをいう人は多い[17]。 

 言いたい気持ちは分かるが、しかし、それは一面的で足りない指摘だ。私はニュースで今日も軍隊や民兵が人を殴り、時には殺すシーンを見ている。相手は生きた人間である。いわゆる「途上国」では抽象化されたゲームなどまだ拡大していない。しかし人を殺す。相手を自分たちと同じ「民族」と思わなければ、相手を敵だと思えれば、人はなんでも出来るのだ(ルワンダ、ボスニア、東チモールを思い出そう)。「論理/理性偏重がいけない」というのは、ロマン主義的結論すぎる。 

人をなぜ殺してはいけないのかという子どもに、論理的に説明しようとする試みが十分に為されただろうか。その努力が大人にあったか。その努力をしてきたか。考えているか。近代オヤジの道徳論ではないかたちで、そうした根源的疑問に答えようと真剣に考えてきたか。教育において、生活に直結する諸問題対処能力をのばすような情報を与えたり、徹底的に論理的に考えさせたか。そこが大事なのではないのか。 

論理の徹底などなされてこなかったのだ。これまでは、上記の通説とは逆に、論理偏重なのではなかった。今までは、高度成長等そのときそのときの政治経済状況を前提とした上で思考停止して、暗記と小手先技術偏重の教育をしてきただけなのだ。それを自覚し、信じてきたことの無根拠性に立ち向かい、相対化の能力を伸ばして、「答え」ではなく新しい問題に「答えなく関わる」という取り組みをすすめなければならないのではないか。 

そのようにポストモダン的に押さえた上でこそ、心身を統一的に捉えるということ、心をうつような言葉、小さな声、無言、自然の小さなささやきというものが、積極的に位置づくはずである。論理的思考の深さをともなっていない直感的感情的なものなど、容易に左右に揺れ動き、いいかげんなイデオロギーに洗脳されやすく、カルトに騙され、ときには暴力的ナショナリズム、ファシズム的行動にさえつながるということを忘れるべきでない(テレビゲームがなかった戦前の軍国主義を思い出せばいい)。〈スピ・シン主義〉は、このように、偏ることなく論理と直感(感情・感性)のバランスの大事さを追求する思想なのである。 

 

なぜ人を殺してはいけないのか 

 なぜ人を殺してはいけないのか。それは、「当たり前だ」、「人間の道(道徳)に反しているからだ」というのでは、「現在の答え」になっていない。まず「その問いもアリだ」というところから出発するしかない。その上で、「殺してはいけない」のは、他者はあなたの所有物ではないから、あなたが自由にできるものではないという出発点をめぐって議論することが必要だろう。あなたも殺されるとすると、痛くて苦しくて、悔いが残り、もっと生きて楽しみたいと思うだろうと想像させる。殺人はもっと生きたいというおもいが他者によって断ち切られることだと改めて一から展開するしかない。他者がどうして人の生き死にを決める権利があるというのか。逆に相手にその理由を挙げるように促してみればいい。そうすれば、戦争しているとか、死刑があるとか、他の動植物のいのちを人は奪っているという答えがかえってくるだろう。では、そこから、戦争や死刑や食べることについて議論をしていけばいい。そこをちゃんと話せなくて、一体何がいえるというのか。 

実際に自分が殺されることは、つらい。つらいことを自分にして欲しくないなら、相手にもしてはならない。だから拷問も、差別も、いじめもいけない(だから差別やいじめに鈍感な者、エゴイズムな生き方をしている者が、「人を殺してはいけない」ということには説得力がない)。 

 まずはこのあたりの原理から出発して、それを拡大する議論のなかで、本人が何かをつかむしかない、と思う。人を殺してはいけないのかという問いをあなたはなぜ発するのかと聞くことが必要である。「拡大」とは、「いけない」という禁止だけでなく、自分が何をしたいのかというプラスの方向を深めることである。そのとき、自分がどうしてもしたいと思うような楽しいこと(創造的、芸術的なこと)、人を喜ばせるというようなこと(他者、世界とのつながりの喜び)がでてくる。そうした<自分の生きる意欲の自覚>、すなわち〈スピリチュアリティ〉を基準としたとき、「人を殺すこと」がその<逆>であることに気づく。自分がなされてうれしいこと、自分が他者にできてうれしいことが見えてきてこそ、その<逆>がわかる。自己を肯定するエンパワメントの感覚があってこそ、その<逆>がわかる。 

ここにいたってこそ、「人を殺す」ことが「自分のしたいこと」でなくなるのである。そして「殺すのがしたいことでなくな」ってこそ、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを発する必要がなくなる。「問い」は従来のままの問い方を終える。この「問い」をもっていた過去の自分が見えてこそ、「答え」に自分でたどり着けるだろう。この「問い」への「答え」はここに至ってこそ、立ち現れる。 

 あちらとこちらのどちらがニンゲンにとって「良い」ことかというのが判断し難い矛盾についても、以上のポストモダン的=〈スピ・シン主義〉的な思考をベースに考えを積み重ねていくしかない。そのときに、身体性ある考え方という視点も重要になってくるのであって、逆ではない。 

 

 

 

(本稿は2003年度大阪経済大学特別研究費の成果の一部である。) 

 

追記:本稿の脱稿後、遠山日出也氏から、私の〈スピリチュアル・シングル主義〉に対する詳細なご意見や批判点などをいただいた。十分に検討する価値のあるものであり、それを通じて〈スピ・シン主義〉もより洗練あるいは修正されるものと思われるが、今回は間に合わなかった。 

 指摘していただいた点の一部を紹介しておくと、「スピリチュアリティ」概念を、新霊性運動とは逆に、各自の権利保障の全地球的・歴史的相互関連性を認識することや、科学・近代合理主義の積極面を発展させ、近代二分法自体を真に克服することという方向で質的に展開することが重要なのではないかという指摘、〈スピ・シン主義〉をいうなら、エコロジカル・フェミニズムの積極的評価がいるのではないかという指摘、〈スピ・シン主義〉は実践が重要といいつつ抽象論ないしは「心がけ」が多いのではという指摘、思想地図において、「個の権利保障」と「自己責任」を区別し、市場原理主義・新自由主義とシングル単位の区別を明確にすべきではないかという指摘、市場原理主義や新霊性運動といった新しい保守系の思想の危険性を示しえていないのではないかという指摘、同じく思想地図において新霊性運動をスピリチュアル度の高いものとみなすのは、新霊性運動が社会変革性が弱いので問題ではないかという指摘、スピリチュアル度とシングル単位度は統一的にとらえられるのではないかという指摘、狭義シングル単位と〈スピ・シン主義〉を思想地図上ではもっと近くにとらえるべきという指摘、ポストモダンは、スピリチュアル度だけでなく、シングル単位度にも関わるはずであるという指摘、高度成長期を頂点とする「近代」と、性別分業=近代全体とを区別したらいいのではないかという指摘、
思想地図上で〈スピ・シン主義〉を最も優れた思想とするのは問題なので、〈スピ・シン主義〉が目指す地点とすべきではないかという指摘、脱近代だけでなく、民主という軸でもみることで、不要な対立が解けて運動の連帯が進むのではないかという指摘、
家内領域と公共領域のより高い段階での再統一が必要との指摘、拙著『スピ・シン主義宣言』での〈たましい〉概念の説明で、無意識領域とか外の〈たましい〉とのつながりなどをいうのは神秘主義的で問題ではないかという指摘、それよりも「これまで無意識領域として放置されてきた部分も含めて、自分の内面(自分というもの、心の奥底)を認識することが大切だ」としたほうがよいという指摘、〈たましい〉というよりも「誰もが、無意識の心の奥底では、大きなつながりを求めている部分がある」としたほうがいいのではという指摘、つながりを求める社会的根拠を明らかにしていく必要性の指摘、つながりを自覚するためにマルクス主義フェミニズムやエコロジカルフェミニズムの成果を取り入れるべきであるとの指摘、「上層建築」や「正論」の一面批判でなく、二面性をおさえた批判がいるとの指摘、 

、などである。
後日、これらの指摘を踏まえた議論を展開したいと考えている。拙著、拙稿をもっとも深く熟読していただいている遠山氏にはこの場を借りて感謝を申し上げたい。こうした議論を通じて、よりスピリチュアルな方向に共に進んでいけるものと感じている。 

 

文献 

ダライ・ラマ [1998]『ダライ・ラマ、イエスを語る』中沢新一訳、角川書店 

花崎皋平[1996]『個人/個人を超えるもの』岩波書店 

本田雅和、風砂子・デアンジェリス[2000]『環境レイシズム』解放出版社 

伊田広行[1999]「スウェーデンの男女平等――その歴史、制度、課題」『大阪経大論集』 

50巻第1-2号 

――――[2001]「フェミニズム戦略としてのシングル単位論」『女性労働研究』39号(ドメス出版) 

――――[2003a]『スピリチュアル・シングル宣言』明石書店 

――――[2003b] 「〈たましい〉が存在する場所――「混沌の闇世界」という領域への気づき」『大阪経大論集』53巻第6号 

井上ひさし、立花隆[1998]「二十世紀図書館」『文藝春秋』98年7月号 

小杉泰[1994]『イスラームとは何か』講談社現代新書 

ル=グィン、アーシュラ・K(Ursula K. Le Guin) 

――――[1980]『風の十二方位』ハヤカワ文庫([1975]The Wind’s Twelve Quarters) 

 (「オメラスから歩み去る人々」(1973)所収) 

――――[1986]『所有せざる人々』ハヤカワ文庫([1974]The Dispossessed) 

――――[1990]『世界の合言葉は森』ハヤカワ文庫([1972]The Word For World Is Forest) 

――――[1992]『夜の言葉 :ファンタジー・SF論』岩波書店(1985年サンリオ社版の 

 改訂版)(The Language of The Night,1979,1989) 

宮崎駿[1995]『風の谷のナウシカ』徳間書店(ANIMAGE COMICS ワイド版 ①~⑦) 

(原作:月刊『アニメージュ』82-94年連載) 

森岡正博[1994]『生命観を問いなおす』ちくま新書 

西田幾太郎[1911]『善の研究』岩波文庫 

島薗進[1996]『精神世界のゆくえ:現代世界と新霊性運動』東京堂出版 

上野千鶴子[1998]『ナショナリズムとジェンダー』青土社 

鷲田小彌太[1993]『現代思想キイ・ワード辞典』三一新書 

吉田敦彦[1999]『ホリスティック教育論』日本評論社 

 

★   ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 


[1] 近代合理主義は、宗教を「悪役」「はみご」「いじめられっこ」「おにっこ」「ごみ箱」にしつつ、実はそれと共存するシステムである。その場合の既成宗教は、近代主義が与えた「居留地」枠内に収まることで、その生存を許可される「矮小化された」存在となっている。身体(物質)と精神の二分法による棲み分けである。だが、宗教全般にはそれにとどまらない、近代主義の枠組みを超える可能性が秘められている。〈たましい〉の観点は、その可能性を展開しようとするものである。1995年のオウム真理教事件は、そのように宗教を「近代主義的に去勢」されたものにする近代社会という構図そのものを問い、〈たましい〉の観点の重要性に気づく契機となりうるものであった。だが、その後の日本社会は、そのリーダー(教祖)、麻原彰晃に、精神医学的観点から「性格異常者」「人格障害者」というレッテルを貼ることで例外扱いし、自分たちの社会のあり方や、宗教観自体を問う契機をみずから閉ざしてしまった。
[2] いちおうの水準をもっている社会科学においては、この自覚は当然である。歴史とは、「現在における過去の絶えざる再構築」である(上野[1998]11ページ)。したがって、歴史をめぐる闘争は、立場の違いを反映して半永久的に続く。ナショナリストとの闘いもその意味で続く。
[3] モノゴトの法・真理は、それがあるとすれば、それは何らかの権威によって示されるのでなく、そのもの自体のなかにある。それをみつけることによってしめされる。ただし、1)必ず秩序、法理、真理があるときめつけることは、ヘーゲル的間違いである。それは認識を歪める。2)認識は利害、意欲によって歪んでいる、というべき。その歪みの偏差を意識するような記述、歪みを認識しつつそのものの内在的性質に近づくような記述、が必要である。こうした両面の矛盾した全体を統一的に探すのが哲学である。 つまり、(ア)反イデオロギーでなくてはならず、(イ)しかし、自分の意見がイデオロギーであるということを自覚すること、すなわち「意欲」による歪みに無自覚な馬鹿者であってはならないということ。多くの人は、この矛盾を意識していないので、(ア)(イ)どちらかの側から他方へ向かって批判し、また批判されてしまう。その批判は当たっている。しかし、その批判はまた正当に批判されてしまう。大切なことは、この矛盾を意識して引き受ける2面性ある記述である。
[4] 『所有せざる人々』のシュベックはオドー主義の精神で、ウラスの人々に語りかける。差し上げられるのは自由以外に何もない。相互扶助というただ一つの原理がある以外、なんの法律もない。自由な連携という以外に政府もない。国家も国民も、大統領も首相も、将軍も監督も、上司も銀行家も、地主も、賃金も、慈善団体も、警察も兵隊も、戦争もない。私たちは共有者であって、所有者ではないのです。…与えていないものを人からもらうことはできません。だからあなたがたは、あなたがた自身を人に与えなくてはなりません。<革命>を買い取ることは出来ません。<革命>を作ることも出来ません。あなたがたに出来る唯一のことは、あなたがたが<革命>になることです。それはあなたがたの魂の中に存在します。そこ以外のどこにもありません。ル=グウィン[1986]388-9ページ。
[5] 以上の説明は、ル=グウィン[1980]421ページ。彼女はまた、エンゲルスやマルクス、ゴドウィン等からも知恵を借り、格闘し、シュベックが誰であるかにたどり着いたという。『所有せざる人々』において、ル=グウィンはついに、2つの完全な世界とその苦悩によって、彼を説明できたのである。ル=グウィン[1992]252-3ページ。
[6] 揺さぶりをかけ、活を入れ、習慣を破り、人々が疑問をぶつけるように仕向けること、それが目的だ。アナーキストらしく。何が起こるか予測はつかない。自由とはそれほど安全なものではない。ル=グウィン[1986]498ページ。
[7] 「革命前夜」ル=グウィン[1980]438ページ。
[8] これに関連して、ル=グウィンの「魂」のとらえ方を紹介しておこう。「神秘主義者なら魂を肉体から分離させることができるだろう」(「革命前夜」ル=グウィン[80]431ページ)。つまり、二元論者、現実逃避家なら、そんな発想ができる。しかし実際は、魂と身体とはひとつなのだ、というのである。このある種、唯物論的な統一的把握が重要といえよう。ル=グウィンは、「樹上性」を尊重する作家であり、「世界=有機体としての森」を尊重するということは、精神と物質を(反分離的)統一的に捉えるものであり、その意味で近代二分法世界(物質主義)に対して、きわめて精神性重視のスピリチュアルな精神あるものである。だがもちろん「超越者」などを想定する単純な宗教性を否定する。そうした「魂」概念は、彼女独特のものである。
[9] 西田幾太郎『善の研究』岩波文庫(1911年)。思考以前の、区別する思考を越えた、人間本来のリズムが開示される場(純粋経験)、それをつかむ「直感」を大事にすること、直感の上に、「反省」、「認識」を経て「自覚」することが大事と。そして「絶対無の場」つまり死を自覚することで、「有の場」日常生活が意味ある特殊なものになると。平たく言えば、人生の意味を、死の可能性がいつもあるのだから、今日を一生懸命悔いないように生きることにみいだせという。 この本によって小難しくて理解困難な、そして言葉のセンスとしても非常にセンスの悪い、伝統的な哲学用語の体系が作られた。言葉の空転、言葉によるごまかし、わかったような気になる錯覚が生み出された。そうでないかどうかは、それを日常用語で誰にでも分かる言葉に置き換えたときに、はっきりする。言葉の空転体系によって、わかった気になる世界を作り上げたのだ(井上ひさし、立花隆「二十世紀図書館」『文藝春秋』98年7月号)。いんちき論、抽象度高いふりの議論をやめたい。例えば、「無」などといういいかげんな概念を振りまわすだけの議論をやめたい。三木などの「絶対矛盾的自己同一」など、ただうまく論理的には説明できないけど「説明できないものというような矛盾なのだ」と、名前をつけて「説明した気になっている馬鹿な論理」の典型例だと思う。そういうことを論じていて、何かわかったかのような錯覚をするのがインテリの悪いところである。「矛盾」とはそもそも状態のことであって、統一的実体ではないはずだ。抽象的な概念で分けわかんなくなって自分までもごまかしてしまう。説明できていないのに説明している気になるという人は、実は頭が悪いのだ。そういう頭の悪さを人間はもっている。だから簡潔に言えるかどうかが重要である。簡潔にいうと正体がばれるから。自分でも誤り(おかしさ)が分かるから。中学生にわかるように言おうと思うとき、外国語に翻訳するときにも、自分の論理のごまかしがわかる。だから抽象度の高そうな議論は適当に切り上げるのがよい。中学生にもわかるように言えるかってことが大事。そうなると私がここで述べていることも怪しくなる。まだまだ抽象的だ。説明しやすい概念を借用してわかって気になっているが、本当にわかるように言い換えることができていない。自覚しながら徐々にわかるように努力していきたい。「理論的洗練度」が高いといわれるものもたいしたことない。本質は呪術的オカルトをうまく難しくいってるだけ。例えば、島薗[1996]に出てくる学者の意見が「理論的洗練度が高い」と言われるが、それは単に従来の学問的様式・ルールにもとづいて書いているだけのことである。中学生にも分かるように言い換えればたいした内容でないことが一発でばれる。
[10] 「絶対矛盾的自己同一」など従来の哲学概念のばからしさ(非論理性)。それは宗教のだめなところと同じである。そんな言い方して、なにかを説明したり、わかった気になっているのは、次のようなペテンと同じ論理である。「人々が戦争するのは、実は人間には把握できない、認識できないある種の光が、太陽から地球に送られているからである。したがって、絶対に人間社会から戦争はなくならない。」これに反論することはできない。なぜなら、人間には把握できない光だから、その存在がある/ないことなど議論できないし、戦争も実際にあるからである。こうしたペテン論は、近代主義的論理、合理主義の人間の狭い論理で批判されてもいたくもかゆくもないのである。 


[1] ダニエル・ベル(宗教回帰)、ロバート・ヘフナー(歴史宗教への回心)、サミュエル・アイゼンシュタット(近代化は歴史宗教込みの再編)は、いずれも、救済宗教の現代における重要性を指摘しており、今後各文明は歴史宗教の伝統に回帰していく、宗教は永続的な価値をもっているとみる。近代化が展開すると、ミクロコスモスで生きていた農村、部族社会住民が、マクロコスモスに組み込まれ、救済宗教の大衆化、宗教的原理主義が台頭する(イスラームに典型)。また、日本や米国などのようにセクトや新宗教の台頭という形での救済宗教の大衆化にもなる。宗教脱却よりも、宗教に組み込まれ、新霊性運動も含めて宗教が現世的な関心と結びついていくのである。島薗[1996]15章より。 イスラームにおける政治化については独自の理由もある。イスラームの政教一元的性格に加え、イスラーム制度廃止の後、社会的問題を解決する力がイスラーム諸国において未だ整っていないことが問題を複雑にしている。西欧化も失敗、社会主義も急進的民族主義も失敗し、植民地から独立しても、昔の統一国家にならない部分がでている。しかも指導者は西欧的発想に傾き、全体の「世俗化」が進んでいる。植民地後は国境が外側から確定されて分断される。こうした状況が複合して、60年代までの民族主義の衰退後、イスラーム改革運動が各地で力を持つようになったのである。インテリの宗教化や、農村部の発言力強化もあり、イスラームではその改革運動が政治運動として活発化している。現代に適応できるようなイスラーム的制度、イスラーム民主主義を創出することが求められている(小杉[1994])。
[2] 島薗[1996]15章をもとにまとめた。以下、ヒーラス、トゥールミン、テイラー各氏も同じ。
[3] 自己自身に対する徹底した忠誠の論理、社会や他者や伝統よりも「内なる自分の声」(ルソー)に従う自己決定重視の観念、各人の独自性・唯一性(ユニークな自己)の尊重などのことである。
[4] 「ポスト・モダンとは、モダンの一つの顔であり、モダンが自己充足に陥ったり、閉塞状態に甘んじたりする『停滞』を打破する思考と運動である、と大枠つかまえることができる。その上でいえば、近代思考が原理的にもっていた、要素主義、人間中心主義、本質―現象〔表出〕論、進歩史観、権力=暴力論、文明―未開論等、を総体として乗り越える原理を提出することを目論むのが、ポスト・モダン論の特徴である。……ポスト・近代といいながら、近代『以前』の、近代『以下』の議論や行動もあることには、十分に気をつけたい。」鷲田[1993]281―2ページ。
[5] 二つのものが等しいという共通点を見つけようとしたらたいてい見つかるものだ。「羊の体にヤクの頭をつけるな」ダライ・ラマ[1998]167ページ。
[6] 以上の記述方法については、島薗[1996]の「はじめに」と「あとがき」で島園氏が自ら述べている

[7] すなわち、新霊性運動がまともなものになるには、シングル単位論のようなものが不可欠であるという私の主張になっていく。
[8] 花崎氏は、海や山の「霊性」にふれた、それを感性と知性の基礎としている人々として、田中正造、石牟礼道子、宮沢賢治、金芝河、水俣病患者、三里塚反対運動、アイヌ民族の人々を紹介した。花崎[1996]180-184ページ
[9] ここで森岡氏が批判する「ロマン主義」とは、自然や生命賛歌、近代の二元論を克服して自然と一体になろう、リサイクルしよう(その結果の新たな南北主義)、東西の対決(東洋古来の知恵を生かしてという、陳腐な西洋批判、エコナショナリズム)、森の文化を思い出そう(都会に住みながら)、ガイアの声を聞こう、人間非中心主義、生命との共存、調和と安らぎの世界が訪れる、自分たちの考え方さえ変えればいいのだ、命と母と地球は一体、命に目覚めて癒されよう、商品を消費して心の罪悪感を癒そう、等々の考え方のことであり、具体的な制度との闘いや問題の困難さの直視よりも、きれいな一般的文句を唱えれば何とかなると信じるような楽観主義的安易さがあるもののこと。
[10] リチャード・ムーア氏を代表とする「環境と経済的公正のための南西ネットワーク」の考え方。『朝日新聞』1999年2月19日。
[11] クリントン大統領による「環境的公正のための大統領令」(1994年)は、あらゆる政府事業や連邦政府からの助成を受ける事業において、人種・階層間の不均衡な健康被害をもたらさないように求めている。環境レイシズムについては、本田、デアンジェリス[2000]が詳しい。
[12] 日の丸・君が代などにこだわる、昨今の日本の風潮(文部科学省の指導!)は、ポストモダンなどまったく考慮しない「近代主義のオヤジたち」に日本が牛耳られている段階であることの、恥ずかしい一例に過ぎない。
[13] 拙稿[1999]「スウェーデンの男女平等」論文参照。なお、社会民主主義的福祉国家路線には、70年代から繰り返し「破綻する」、「官僚主義」、「勤労意欲低下」等との批判がある。しかし、スウェーデンをみればわかるように、その絶対的水準はいまだ非常に高い。7つの政治路線は、いずれも財政的困難等をかかえつつも、長所と欠点をもっており、21世紀も存続する可能性をもっている。北欧では、ノーマライゼーションの理念は今も生きている。デンマークで生まれ、スウェーデン人ベンクト・ニーリエが整理したノーマライゼーションの概念(8つの原理)とは、1日と1週間と1年の普通のリズムと経験の保障、男女両性の世界での生活の保証、当たり前の収入と当たり前の住環境水準の保障、自己決定と尊厳の保障である。この観点から見て、日本は「北欧の40年前、米国の30年前」(1998年秋に来日したニーリエ氏の言葉:『朝日新聞』98年12月28日)でしかない。この評価への批判ももちろんあるが、私はニーリエ氏の評価を支持する。少なくとも、社会民主主義的福祉国家路線を時代遅れとみなす、根拠なき古色蒼然たる「偏見」を繰り返すのは無知以外のなにものでもない。
[14] ル=グウィン[80]所収。
[15] 1998年ユニセフ(国連児童基金)報告によると、世界では過去10年間に200万人の子どもが紛争で殺され、600万人が重傷を負った。18歳未満の子どもたち30万人が今も戦闘に駆り出されている。しかし日本にはこの現実への危機感がない。
[16] 時代が新しい感覚の段階(〈スピリチュアリティ〉重視、正義の重視)に移行していることは、情報公開の進展、自然環境保護の動き等の他に、ピノチェト元チリ大統領の免責権を認めずに軍事政権の虐殺・拷問を国境を越えて問おうとする動きが拡大したことにもあらわれている。少し前の時代なら(そして当然今の日本の政治でも)「現実の政治」と「国家主権の尊重、法の遵守」の名のもと、国家間の政府の取り引きでことはすんでいたはずである。ピノチェト逮捕が有効と英国上院が決定したニュース(1998年11月25日)は世界に希望の光が輝いた日であった。中国のチベット弾圧問題でも、インドネシア腐敗政権でも、従軍慰安婦問題でも、日本政府・自民党政権は常に「現実の政治」しかみようとしない。〈スピリチュアリティ〉のかけらもない、愚かな人々である。
[17] 例えば『朝日新聞』1999年1月9日社説で、「理性を貴ぶあまり、いつのまにか人類は、感じることを一段下に見下すようになってしまったのではないか」という視点で、近年の子どもたちの事件や学究崩壊の背景に「ゆがみを生む理性偏重」があると分析する。